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塔の医学録 ~悪魔に仕えたメイドの記~
北の塔に棲んでいるのは悪魔なのだという. . .

ある帝国の北方にて.

異邦の血を引く少女は, 領主の城でメイドとして働いていた.

しかしある日, 彼女はいつもと違う仕事で[北の塔]へ行くことを命じられる.

そこで出会った[悪魔]の気紛れで, 以降彼の側仕えをすることとなった.

[悪魔]の名はヨハン=アルブレヒト, その残虐さを咎められ, 城主イェーガー方伯によって幽閉された次男であった.

彼は少女に魔女[ヘカテー]の名を与え, 自らが[悪魔]と呼ばれる真の意味を教える.

世の革新を願う[悪魔]ヨハンと, 彼に感化され手助けを始めるヘカテー.

二人の前に立ち塞がるものは. . .

12世紀ヨーロッパのパラレルワールドを舞台に, 医学と謀略が交錯するゴシック・サスペンス!

耽美にして残酷な, 知の迷宮へようこそ.

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第1章 悪魔とメイド
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏
塔の悪魔

北の塔に棲んでいるのは悪魔なのだという. それが, 私がこのお城にメイドとして奉公に来てから, 最初に聞いた噂話だった. 美しい外観から[夢見るような城]と名づけられたお城には似つかわしくないものだが, この奇妙な噂話が事実であるということを, 今日私はこの身を以て思い知ったのだ.

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私はいつもと違う仕事を言いつけられた. 髪と瞳の黒い色, そしてひと目で異邦の血がわかるこの顔などは, 私を周囲から孤立させている. 故に, 私に仕事を教えた同じメイドの先輩が, 性質の悪い気紛れを起こしたのも決して不思議なことではないのだが, 今思えば運命的なものだったと言えるだろう.

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“ほら黒髪女, 今日はあんたが当番だよ. 部屋は四階, 扉の紋章が目印だから.”

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先輩は確かにそう言った. 黒髪女の触れた料理など, 例え悪魔でも嫌がるのではないかと笑いながら.

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悪魔とは, 領主のイェーガー方伯様のご子息, 次男のヨハン=アルブレヒト様のこと. 幼い頃は非常に優しく聡明なお坊ちゃまだったそうだ. 動植物を愛し, 本を読むのが好きなおとなしい方で, 誰にでも分け隔てなく接する姿は使用人たちにも人気があったようである.

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血に狂うようになってしまったのは十歳の時, 二つ上のお嬢様が亡くなられたころからだそうだ. 仲良しの姉君の死に, 幼い心が耐えきれなかったのだろう. 車裂きなどの処刑を最前列でご覧になるのはまだ良い. 生き物とみれば見境なく切り裂き, はらわたを引きずりだして弄ぶ. 使用人が怪我をしたといえば目を輝かせ, 傷口を捏ね繰り回して無用な折檻を加える. 街で葬式があると聞けば喜んで出かけ, 死体を浄める女たちの間に割って入って絵に写す. 方伯のご子息という立場にありながら, 死やそれに準ずるものに直接触れたがるようになっていったのだ. そうした行動をご領主様に見とがめられた結果が, 今の北の塔. . . つまり幽閉である.

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フェルトロイムト城には南北二つの塔がある. 広いお城の中にあって, この五階建ての細長い塔のうち, 日当たりの悪い北の塔が幽閉先に選ばれているあたり, ご領主様のヨハン様に対するお怒りは計り知れないものだったのだろう.

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ただ, ヨハン様の血狂いは閉じ込めた程度では収まらなかった. むしろ, 閉じ込めてしまったことで残虐性は悪化している.

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北の塔に居を移して数日後, 料理を運びに行ったメイドが帰ってこないので騎士を連れて部屋に乗り込んだところ, 見るも無残な姿で発見された. 皮を剥がれ, 腹を裂かれ, ただ殺すのではなく拷問されたことに疑いはない状況だったそうだ.

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さらに翌週, 今度は侍従が殺された. 優秀な男だったが, 腹を裂かれるどころか頭も手足も切り離されバラバラになっていた. それを聞いた奥方様が卒倒したという.

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さすがにこれ以上死体が増えては困るということで, 元々のお付きの使用人は全員他の持ち場へ異動となり, 一日二回の食事と御用聞きのみを下級の使用人が当番制で行うことになった. それでも尚, 塔の奥から血の臭いがしたり, お言付けの紙が血に濡れているといったことが絶えないのである.

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. . . そして, その”当番.”が今日は私だったのだ. どうにか穏便にこの任務をやり遂げる, 私の頭の中はそのことでいっぱいだった. だからこそ, 言いつけられた仕事の奇妙さにきづけなかったのかもしれない.

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扉を叩いて声を掛け, お食事を持ってきた旨をお伝えすると, 少し間があってから低い声で返事が聞こえ. . . 小さな物音がした. そして, 内側から扉が開くと同時に, 喉元に冷たい何かを感じ. . . それはすぐさま痛みに変じた.

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“お前は何者だ, 一体誰の許可を得てこの部屋までやってきた?”

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そんな声と共に, 見上げた私の目に飛び込んできた光景は, まっすぐ喉元へ突き付けられた剣, 怒りと警戒を露わにした射貫くような眼差し. それが, 私の人生を変えるお方との, 最低最悪としか言いようのない出会いだったのである.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐
ヘカテー

“申し訳ございません. 何か失礼がありましたでしょうか.”

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早くも逆鱗に触れてしまったらしいことに驚きつつ, 慌ててお詫び言う私の目を, ヨハン様はじっくりと覗き込んだ.

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“怯えているな. 自分の意志ではないということか. 誰の差し金だ? 正直に吐けば城の外へ逃がしてやろう. 父上や兄上ではないな. ありえそうなのは, 叔父上か, 考えたくはないが母上か.”

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何の話か分からずただ慌てふためいていると, ヨハン様の方も私の反応に困惑の表情を浮かべ始めた.

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“いつも食事は二階の入口に置くはずだ. それをせず, わざわざここまで来て声を掛けてくるとは, 意図があってのことだと思ったが?”

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それを聞いてようやく思い至った. あの先輩が, 私室の場所だけ教えておいて, 規則を教えなかったということに. よく考えればわかることであった. 下級の使用人が, ご子息のお部屋に直接赴いて, 声を掛けて良いはずもない. きっと, その無礼を理由に私が厳しい折檻に遭うことを企んだのだ.

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必死で謝り, 知らなかったと弁解すると, ヨハン様は私を訝しげに見ながら剣を下げ, 運んだ食事を食べるよう命じた. 先の発言から察するに, 私がどなたかの命令で毒入りの食事を運んできたと疑っていらっしゃるのだろう. とはいえ, 私が普段食べるものより数段良い食事を前にしたおかげで, 私は少しだけ落ち着きを取り戻すことができた.

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しかし, 食前酒を一口舐めた後, パンをちぎって熱々のスープに浸し, さぁ口に運ぼう. . . とした瞬間, 急に手首をつかんで制止された. ヨハン様は部屋の奥から数枚の銀貨を持ってくると, 各料理の上にそれを置いた. しばらく待ってからひっくり返すが, 銀貨には何の変化もない.

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“ほら, 見ての通り毒は入っておりません. 安心してお召し上がりくださいませ.”

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ああ, ここでもまた私の運命は分かたれた. この不用意な言葉を吐かなければ, いつも通りの日常に戻っていたかもしれないのに.

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“おい待て! 今何と言った⁉.”

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“ですから, 見ての通り毒は入っておりませんので. . .”

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“そう, それだ! お前, なぜ見ただけで毒がないと分かった⁉.”

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私は, 銀は毒に触れると黒くなるため, 色に変化がないということは毒が入っている可能性は低いと思ったことをお伝えした.

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“なぜお前がその方法を知っているんだ. ここに料理を運びに来るということは, せいぜい下っ端の皿洗いか洗濯女だろう? 俺も三年前に見つけたばかりだというのに.”

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正直に答えた. 私自身は生まれも育ちもこの国だが, 家はもともと東方の異国から来たものだということ. 銀の話は父より聞いていたこと. それを普通の人が知らない知識だとは思っていなかったこと.

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“なるほど. たしかにお前は異国の風貌をしているな. 名はなんという?”

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“. . . ヴィオラ, と申します.”

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“なぜ詰まる, 自分の名だぞ? まさか偽名を申したか?”

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淡いオリーブの瞳が再び疑念に揺れる. 緊張していて, と答えようとしたが, 心の深淵まで覗き込まれるようなその瞳を見ていると, この方の前に少しの誤魔化しも通用しないと直感が訴えていた.

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ヴィオラという名は通称だ. 物心ついた時から, 父もこの名で私を呼んでいたが, 本名は別にある. しかし私の家では古くからの風習で, 女は家族以外に名は明かさず, 家系図にもかかないのだ. また, 異邦の名を名乗ることで異教徒と間違えられ, 迫害に遭う可能性もあった.

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そのことを説明して見逃していただくよう冀うと, ヨハン様は声を上げて笑った.

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“信条ゆえに, 仕える相手に対してさえ偽名を騙るか! 面白い奴だ, 気に入ったぞ. 決めた. 今日からお前を俺専属のメイドにしよう. 呼び名もヴィオラじゃつまらん. 黒髪に黒い目, 蒼白な肌. . . そうだ, [ヘカテー]なんてどうだ?”

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“ヘカテー, ですか.”

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“ああ. ギリシア神話にある, 死と魔術の女神の名だ. 近頃は魔女だとも言われて, 異端者どもがご執心でな. [塔の悪魔]のそばにいる女にはぴったりの呼び名だろう?”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑
引っ越し

私がうなずいたのを確認すると, ヨハン様は手近な羊皮紙とペンを手に取ると, さらさらと伝言を書き始められた. 曰く,

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・本日食事を届けに来たヴィオラという者を, 自分専属のメイドとしたい.

・名前も自分が新たに[ヘカテー]と名付けた.

・3階の部屋が空いているから, 準備ができ次第そこに住み込みにしてほしい. 食事もそこで取らせる.

・毎日の食事運びと御用聞きも彼女にやらせるので, 今日から当番は必要ない

・大きな音のするベルと, 3種類以上の針と糸, ダガーを1本を持ってきてほしい

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ということだった. 書かれた文字は上品で迷いがなく, 美しく整っている. 噂に聞く残虐さ, 初めて見た時の恐ろしさ, 若干の神経質さ, さっき笑った時のあどけなさのどれともそぐわない. さらに, 結局持ってきた料理も私が食べて構わないという. なんだかちぐはぐな印象の方だと思った.

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さて, この伝言を持ち帰ると, 当然ながら居館は大騒ぎである. 下級の使用人たちには”あんたまさか色目でも使ったの?!””あのヨハン様相手に? 度胸あるねぇ.”などと散々な言われようだった. もう少し上の人たちは, これで当面は犠牲者が出なさそうだと安心した様子. 執事や侍女といった高位の方々は困惑しているようだ.

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しばらくすると, 家令のヴォルフ様から人払いされた部屋に呼ばれた.

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“ヘカテー, まずはご子息付きへの昇進, 本当におめでとう. そして, ずいぶんと珍しい名前だが. . . 新しい名前もつけていただけて良かったね.”

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“はい, ありがとうございます.”

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“ヨハン様が女性を側に置きたいと言ったのは初めてだ. おそらく君の個性的な容姿に惹かれたのだろう. 少し意地の悪い言い方になるが, 身の振り方はよく考えて行動しなさい. 早く飽きられる可能性もあれば, 愛妾になれる可能性もあるのだから.”

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これは予想外だった. しかし経緯を知らないヴォルフ様からすると, ただのメイドが目に留まる理由としては一番妥当なのだろう.

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そして, ヴォルフ様は目を伏せると, 深刻な面持ちで話を続けた.

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“閨に招かれることもあると思うが, 決して無理はするんじゃないぞ. あの方は非常に難しいお方だ. お前の身に何かあれば, 皆が悲しむだけでなく, この家の将来にも悪いこととなる. その辺りも肝に銘じて, しっかりとお仕えしなさい.”

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そういえば一人目の犠牲者は女性だった. さすがに失礼千万ゆえに明確に言葉にこそしないものの, ヨハン様が悪い癖のために私を呼んだかもしれないと思われているのは明白だ. 件の噂を考えると, ご所望の”針と糸, ダガーを一本.”も若干不穏な響きがないではない.

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しかし私は, ヨハン様が私をそういった遊びのために呼んだとは, なんとなく思えなかった. 私の容姿はよく好奇の目に晒されるため, 10代に入ってからは特に, 男性の嫌な視線にはすぐ気づく. たった四半刻ほどお話ししただけだったが, 独特の薄暗さと粘っこさを持ったあの視線を, あの方は一度も投げかけてこなかったのだ.

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“かしこまりました. ご忠告, ありがとうございます.”

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ヴォルフ様は難しい顔をしたまま, 頭を下げた私の肩をぽんぽんと優しくたたいておっしゃった.

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“引っ越し完了のご報告には私も一緒に伺おう. これからは一人きりで不安かもしれないが, 業務で気になることはこちらにいるうちに聞いておくように.”

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私の引っ越しは, 翌日の夕食をお持ちするときになった.

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荷造り自体は簡単だった. もともと私物なんてほとんどなかったし, 北の塔まで運ぶのにもこのお城へ来た時の袋一つで十分足りる.

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しかし, 自分の荷造りが終わった後の方が, 意外と時間がかかってしまった.

まず, 大急ぎでお部屋の管理に関する仕事を教わらなければならない. とはいえ, 先輩たちは自分の仕事だけで余裕はなく, 急に指導の時間をとることなどできないので, そばについて必死で控えを取り, わからないところだけ口頭で説明してもらった.

居館よりは遥かに仕事量が少ないという点では, 狭い塔にこもり切りという異色の役回りはありがたかったといえる.

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それから, 服がいくらか支給された. 流行遅れでくたっともしていたが, 侍女の皆様のお古なので, 元は奥様がお持ちだったもの. 当然ながら私が普段目にすることのないような上等品だ.

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さらに, 風呂にも入れてもらえ, 髪や肌もしっかりと整えた. それだけで自分の印象がおおきく様変わりしたことに驚いたが, 家政婦長曰く初回の身なりは結構重要らしい. とはいえ, すでに1度お会いしているから関係ないような気がするが.

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矢のように時間が過ぎていき, いよいよ塔へ向かう. 私はお食事のかごで両手がいっぱいになってしまうため, 荷物は明日以降徐々に運び込むことにした.

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今回はヴォルフ様も一緒に来てくださっている. 家令という使用人で最高位のお立場にある方が, 一介のメイドの引っ越しに同行するなど, はっきり言って異常事態である. しかし, それだけ私の身を案じてくださっているのかもしれない. 昨日お話をしたときも思ったが, とてもお優しいお方だ.

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塔を上がり, ヨハン様の私室の前に来ると, ヴォルフ様も背筋をただされた. 若干緊張した面持ちでいらっしゃるのが見て取れる.

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“ヴォルフです. ヘカテーをお連れいたしました. それからご夕食と, ご所望のものも.”

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“ああ, 入ってくれ.”

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私達が入室すると, ヨハン様は少し驚いたように目を瞬かせた.

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“荷物は数日かけて運ばせますが, ヘカテーは本日から下の部屋に住まわせます.”

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“本日からお部屋のお世話をさせていただきます. よろしくお願いいたします.”

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“わかった. ヴォルフも, わざわざ送り届けに来てくれるとは, ご苦労だったな.”

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そういってお二人は少し話をし始めた. 私はこれ以上発言の許される立場ではないので, 話を耳に入れないように注意しながら食事の支度ををする.

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とはいえ, 会話は事務的かつ簡潔なもので, 私が配膳を終えるころには完了しているようだった.

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“ヴォルフ, 此度は迅速な対応感謝する. 他の者たちにもよろしく伝えてくれ. 下がってよいぞ. ただし, ヘカテーはそのままそこで待機せよ.”

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ヴォルフ様が一礼して出ていったのを見届けると, ヨハン様は食卓につき, 少し姿勢を崩される.

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“きちんと並べられた食事を見るのは久しぶりだ. やはり良いものだな.”

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しかし, 並べた食事には手を付けず, 私の方を見やると目を細められた.

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“俺の言葉足らずで, ヴォルフ達には少々誤解をさせてしまったようだ. さすがにお前のような子供に食指は動かんから安心しろ. でもまぁ, なんだ, なかなかいいじゃないか. 服で雰囲気は変わるものだな. 随分とらしくなったぞ.”

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“勿体なきお言葉にございます. 本日より私はヨハン様専属のメイドです. 不束者ではございますが, ご厚情に感謝し, 誠意をもってお仕えいたしますので, もし何かお役に立てることがあればどんな些細なことでもお気軽におっしゃってください.”

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“ああ, では早速頼もうか.”

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ヨハン様はスープを手に取りながら, その艶良い唇に, 悪辣さを感じさせる恐い笑みを浮かべられた.

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“昨日最初にした質問に返事がなかったな. 答えろ. お前は何者だ?”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒
塔でのお仕事

“大変失礼いたしました. 私はトリストラントという商人の娘です. ひと月ほど前, メイドとして雇っていただきました.”

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“なるほどな. まぁ, 本当にそうなのかどうかはこれからゆっくり観察するとしよう.”

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“申し訳ございません, 昨日から何か疑いをかけられているようですが, 私にはそれがなぜなのか皆目見当がつきません. 見当がつきませんが, 気がつかずお気に障ることをしてしまったこと, 心よりお詫び申し上げます.”

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慌てて深々と頭を下げる私に, くくく, とかすかな笑い声が降ってきた.

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“顔を上げろ. 別にお前が何かしたわけではない. お前という存在が異質すぎるから言っているのだ. わからないか?”

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恐る恐る顔を上げると, 相変わらず意地悪そうな笑みを湛えたままのヨハン様.

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“まず, その言葉遣いだ. 下級の使用人で, しかも入ってきたばかりの小娘が, そんなに整った言葉遣いはしない. 主人に対する敬語は教えられた定型文が精いっぱいだろう. 自分の言葉で流暢に喋ることはない. べらべら喋って墓穴を掘ったな.”

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あまり意識したことはなかったが, どうやら失礼がないように気を付けていたことが裏目に出てしまったようだ.

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“それから, お前は読み書きもできるようだな. 俺が託した伝言を眺めるのではなく読んでいる様子だったし, 居館で文字を書いている所を見た者もいる.”

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これも反論のしようがなかった. 仕事内容の控えは不可抗力としても, 伝言を勝手に読んでしまったのは少しまずいかもしれない. 単に字の美しさに見とれてしまってのことだったが, 本来私が読んでよいものではないのだから.

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“つまりお前は相当な教養があり, それが商人の娘というのも信じがたい. もしそうならただの商人ではなく, 有力な商家ということだ. 娘を使用人として出す必要がない. しかしお前は異国の血が濃そうな顔をしている. 俺もこのあたりの有力な商家は把握しているが, その中に異邦人を娶った者はいないはずだ. どうだ, 矛盾だらけではないか.”

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“なるほど. . .”

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そういわれると思わずうなってしまった. 言われてみると, 私の境遇はかなり特殊なのかもしれない. 父は普通に読み書きができるし, 礼儀作法も整っている. 話し方や身のこなしも上品で, 正直周囲から浮いている存在だ. 私の言葉遣いはそんな父から教わったものなので, やはり浮いてしまうところがある. ここの先輩からははっきりと[気持ち悪い喋り方]と言われた.

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しかし, 別に有力でも裕福でもないただの一般商人だ. 母は私が生まれてすぐ死んでしまい, 祖父母にも会ったことはなく, 父は男手一つで私を育ててくれた. 当然, 後ろ盾も何もない.

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ここに使用人としてやってきたのも, 安定した生活の保障と, 将来的に良いところへお嫁に行けるようにという理由でしかない.

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“納得してどうする.”

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少し自分の人生について思いを巡らせていると, 呆れたような声で現実に引き戻された.

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“いえ, 言われてみるとそう思われるのも無理はないと思いまして. ただ, 私の家は特別力のある商家ではございません. このレーレハウゼンの地に定住したのは父の代からで, それまでは各地を遍歴していたと聞いております.”

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“そうか, まぁよい. お前のことはこの塔で俺の監視下に置く. 妙な動きがあれば命はないと思え.”

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悲しいことに, 今のところ私の信頼度は地の底のようだ. 何を言っても聞いていただけそうにない. おそらく, 昨日ひと悶着あったせいで, 私が危険な存在でないか確認し, 領主様たちから離しておくためにご自分の専属にしたということなのだろう. 濡れ衣もいいところだが, この方は単に自分の享楽のために生きているのではなく, 意外と貴族としての自覚は強い方なのかもしれないと思った.

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🛑

“もちろんでございます. ヨハン様への献身を仕事で証明し, その疑念を晴らすことができますよう, 精進いたします.”

🛑

“安心しろ, 黒だと判断していれば既に昨日殺している. お前には危うさ以上に価値もありそうだと踏んだから側に置くのだ. ちょうど, もう少し優秀な手駒が欲しいと思っていた. お前がこの家を利用するように, 俺もお前のことを利用させてもらおう.”

🛑

“このお家を利用するなど, 滅相もありません. 雇っていただけるだけで光栄の極みにございます. しかし, この身はどうぞ使い倒してくださいませ.”

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“良い心がけだ. ではついでに, 仕事についても少し話しておこうか.”

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🛑

ヨハン様は食事を中断し, 先ほどお持ちしたベルを手に取った. カラン, と大きな音がする.

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“まず, 用があればこのベルを鳴らす. 聞こえたらすぐ来い.”

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“かしこまりました.”

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“その代わり, メイドとしての仕事は食事運びと伝言程度で大丈夫だ. この部屋の掃除も任せるが, 俺がいるときにしろ. 毎日せずとも, 散らかったら整える程度でよい.”

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“はい.”

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“ほかの部屋は勝手に入るな. 基本的には自分の部屋で待機していろ.”

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“承知いたしました.”

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🛑

この塔には他に使用人がいないので身構えていたが, 言いつけられた内容が自分にできそうな範囲内で少しほっとした. なにしろ, 私は仕事は完璧にこなしたい. この方に疑われながらお側に仕える緊張感は半端なものではないのだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓
不意打ち

塔に住むようになってから2週間, ヨハン様からのお呼び出しは意外なほど少ない. 6年もお一人で暮らされてきただけあって, たいていのことは頼まずともできてしまうのだろう.

料理人がいないため, 1階に出入り口のないこの塔からはしごを伝って毎日居館と往復するのは結構な重労働ではあったが, 拘束時間そのものは以前よりも少なくなっている. 私は自室で繕い物をするばかりの日々を過ごしていた.

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ここにいることで, ヨハン様についていくらか分かってきたこともある.

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例えば, 私室に閉じこもりきりというわけではなく, 塔の中では意外と自由に過ごされているようだ. ヨハン様のお部屋は4階で, 5階は調理場, 2階にもお部屋があるのだが, 特に2階の方は頻繁に出入りされていた. 扉の向こうからは仄かに清々しい香りが漂ってくるので, 祈りの場所とされているのかもしれない. 監視の目があるわけでもないので, 塔から出さえしなければ何をしていようがご領主様に伝わることもないのだろう.

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また, お好きなものといえば, エールや林檎酒よりもワインを好まれるようである. 私室に常備されているほか, お届け物のご要望にもよくワインが入っていた. 色はいつも濃い赤. ただでさえ高級な赤ワインの, 特に色の濃いものを常飲されるとは, 地位の高い方はさすがだ.

🛑

とはいえ, 残念ながらこれらの情報を仕事に生かすことはできそうになかった. 下手に気を利かせようとしても, かえってまた変な疑いをかけられてはいけないし, 言われたことだけを淡々とこなして, 無害であることを徐々に理解していただくしかないだろう.

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そんなことを考えつつも, さすがに手持ち無沙汰になってきたので, 階段を少し掃除しようと一番上まで昇って行った.

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🛑

. . . するとそこで, 鉢合わせしてしまったのだ.

楽しそうな雰囲気で調理場から出てきた, 血塗れのヨハン様に.

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“なんだ, 掃除か? さして汚れてもないのに殊勝なことだな. まぁ, 今俺がちょうど汚してしまったが. . .”

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目線を下げると, 軽く腕まくりした袖からぽたりぽたりと雫が落ち, 血だまりをつくっていた. 石造りの床が見る見るうちに赤黒く染まっていく.

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ヨハン様は固まっている私を見ると, にいっと笑みを浮かべられた.

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その口元も, 頬も, 首回りも, 剥がれかけの赤い魚鱗のような汚れが付着している. 白かっただろう上質な上衣はほとんどの部分が赤茶けた色に変色し, 濡れて肌に張り付いており, いつもはさらさらと額に流れているはずの灰色がかった前髪は, 蝋で固めたかのように束になっていた.

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小さな窓からはまだ日の差し込む時間帯. やたらにくっきりと見えるその姿の異様さは, 悪役の劇役者の舞台裏を覗き見てしまったような非現実感があり, まるで悪い冗談だ.

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“なぁヘカテー, まるで今から汚れるのがわかっていたようではないか. え?”

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そう声を掛けられると, 背筋に寒いものが走り, 我に返った.

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“だ, 大丈夫ですか?! お怪我をされたのでしょうか? すぐに布を持ってまいります!”

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とりあえずヨハン様の怪我である可能性に賭けてみる. 調理場で軽食でも作ろうとして, 手を滑らせたのかもしれない. ちょっと血の量が多すぎる気はするがきっとそうだ, そうに違いない. . . そう自分に言い聞かせて.

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“いや, 怪我などしておらん. これは俺の血ではない. 少しばかり刃の入れ方を失敗してしまってな. 血を浴びすぎただけだ.”

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“さ, 左様でございますか. . .”

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現実は非情だった. この場合, どう返答したら良いのだろう. じゃあ誰の血なのですか, と伺う勇気はさすがにない.

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“そんなに怯えるな. 俺は部屋に入るな, とまでしか命じていなかった. 聞き耳を立てるのは言いつけに反していないから気にすることはない.”

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“あ, ありがとうございます. . .”

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笑顔のままにじり寄ってくる姿に気圧されて声が震えてしまう. 生臭いにおいはヨハン様からだけではなく, 半開きになった調理場の扉からも強く漂ってくるようだ.

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“俺が調理場で何をしていたか, 気になるか?”

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“い, いえいえそんなことは. . .”

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しまった, 聞き耳を立てていたわけではないと言いそびれてしまった. ああ, なんで私はこんなに運が悪いのだろうか. 初めてここへ来たときもそうだった. ただ料理を運びに来ただけなのに, 物騒な疑いをかけられて.

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🛑

“もう少し様子を見てからと思っていたが, これを機にお前に教えておいても良いかもしれんな. どうせお前は俺に逆らえん.”

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“いえ, その, 私は別に. . .”

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“だがその前にいくつか確認しておきたいこともある. ついてこい.”

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🛑

やはり私の話は聞いていただけないようだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔
不運な共犯者

ヨハン様は階段に血を点々と垂らしながら, 2階のお部屋に私を案内してくださった. どうやらこの部屋は書庫として使われているようだ.

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そして, 本棚から4冊の本を選ぶと机の上に置き, そのうちの1冊を私に見せおっしゃつた.

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“ヘカテー, これは何と書いてあるかわかるか?”

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“申し訳ありません, わかりません.”

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“では聞き方を変えよう. これが何語かはわかるか?”

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“ラテン語だと思います.”

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“何故そう思った?”

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“我が国の言葉と同じ文字で書かれており, ところどころ似た単語があります. 教会で見るものもそうですし, こういった文字の書かれた本を修道士様が持っていらっしゃるのを見たことがありますので.”

🛑

🛑

ヨハン様は, ふん, と鼻を鳴らすと, 別の本を手にとられた. 釘で粘土に掘ったような文字が並んでいる.

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🛑

“ではこちらはどうだ?”

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“こちらも読めませんが, 文字の形が独特ですね. 金貸したちの一部が似たような文字を使っていたような気がいたします. ユダヤ人の言葉でしょうか.”

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🛑

これは何かを試されているのだろうか. ヨハン様は私に問うたびに, かなり近い距離で私の顔を覗き込んで来られる. オリーブの瞳は瞳孔が開き, 一瞬の表情の変化も逃さない真剣な眼差しだ. 返り血を浴びたままの姿でそれをやられると正直恐ろしいどころの騒ぎではない.

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“なるほど, わかった. 次はこれだ.”

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文字というより模様のような流麗な書体が踊る本を掲げ, またじっと私を見るその眼. 心なしか鋭さを増しているように感じられた.

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“申し訳ありません, こちらは初めて見る文字です. 読めないだけでなく, 何語なのかの見当もつきません.”

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“. . . 嘘ではなさそうだな. ではこれが最後だ.”

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ヨハン様が手にした本. . . その本の文字を私は知っていた.

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“その本はヒポクラテスの[箴言]です. 同じものを父が持っておりました. ギリシア語自体は, 私はほとんど読めませんが.”

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私の答えを聞いて, ヨハン様は一瞬眼を瞠ると, 嬉しそうに微笑まれた.

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“お前のことがだいたいわかった. どうやらお前をここに越させたのは大正解だったようだな.”

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どうやら私はヨハン様のご期待に沿うことができたようである. 見せられた本の文字のほとんどが読めなかったので不安だったが, 満足していただける回答ができたならば良かった. これで少しは私の評価も上がるかもしれない.

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“さぁ, ヘカテー. お前には今後俺の共犯になってもらおう. 邪魔だてすれば命はないこと, ゆめ忘れるなよ.”

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. . . 前言撤回, 状況はむしろ悪化したようだ. 何をやらされるかはわからないが, 嫌な予感のする言葉でしかない. 私は貧血でよろけないようにするのが精一杯だった. やはり私はとことん運が悪い.

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“決してお邪魔立てするようなことは致しません. ただ, 共犯とは何かわかりませんが, 秘密のお話を伺いするようなことは, 一介のメイドにすぎぬ私の身に余ります.”

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“そんなことはない. お前のほうから突っ込んでくるならともかく, 俺がお前を引き込もうというのだ. 何も問題なかろう.”

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“どうかそのまま私にもお隠しになっていてくださいませ. 今日見聞きしたことは口外せず, すべて忘れるようにいたしますので.”

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“たしかに最初はお前のことを刺客の類だと思っていた. しかし, さすがに今はそうではないと判断している. 何故ここへ来たどんな人間かはまだつかめていないが, 少なくとも今は無害な俺のメイドだろう?”

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“ですが. . .”

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“だから断るな. 一人で成しえることには限度があるのだ. 俺はお前に頼んでいるのではない, 命じているのだぞ.”

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ヨハン様がそう言いながら頬をかくと, 乾いた血がかさぶたが剥がれるようにパラパラと机に落ちた. そのうちいくつかは本の上にかかってしまう.

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“とりあえず, 湯で濡らした布と着替えを持ってきてくれないか. このままではさすがに気持ちが悪い.”

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“かしこまりました. すぐにお持ちいたしま. . .”

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言いかけて思わず口を噤んでしまった. というのも, 布をお湯で濡らすにはまずお湯を沸かさなくてはいない. そのためには調理場に入る必要がある.

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“おう, 気づいたか. 思ったより頭が回るな. やはりお前は使えそうだ.”

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共犯とやらになるしか, 私に道は残されていないようだった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕
調理場の真実

どんな光景が広がっているかもわからない場所へ一人で行く恐怖に体を震わせつつ, 意を決して部屋を出ると, 当たり前のようにヨハン様もついてきてくださった.

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“俺は悪魔と呼ばれているらしいな.”

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だが, ついて来てくださったからといって恐怖が軽減されるわけでは全くない. 道すがら振られた話題は最悪だ. 悪魔という言葉に背筋を凍らせながら, 私は何とか受け答えをする.

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“はい. . . 恐れながら私もその話は少し聞いたことがあります. 失礼な人たちがいるものですね. . .”

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“別に侮辱されたとは思わん. 恐れられていたほうが便利なことも, 時にはあるものだ. そのおかげでこの塔を丸ごと一人で使えているわけだしな.”

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そう言われてみれば, ヨハン様のご境遇は不思議である. 他者との接見は許されておらず, 私が来るまで従者一人連れていらっしゃらなかったが, 塔の中ではかなり自由が許されているご様子. お食事の内容の良さといい, 私を所望してそれが通るところといい, ヨハン様は幽閉中の身にありながらも随分と周囲に気を使われている. . . もっと言えば優遇されている気がする. よく考えれば, 裁判によって断罪されたわけではないので, 貴族としての地位を失っているわけでもない. 幽閉というには緩く, 軟禁というには厳しいような, ただ隔離されて閉じ込められているだけの環境で, 6年もの歳月を過ごされているのだ.

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“俺は名誉よりも実益を求める主義だ. ここで一人で生活することが, 今までは一番合理的だった. だがそろそろ状況が変わってきている. 読み書きができ, ある程度使える頭をもった, 公にここに居ておかしくない者が欲しい. お前が来たのは正に僥倖だったわけだ.”

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何をおっしゃりたいのかは不明だが, どことなく引っかかる言葉だった. まるで政治か何かのお話をされているようで. . . 血まみれで出てきたこと, 本について私に尋ねていらしたことと, 話の流れに一貫性がない.

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ともあれ, すぐに調理場の前についた. 半開きのままだった扉から, 生臭さと酸っぱさが混じったような悪臭が漂い, 鼻を衝く. 正直, 調理場からしてきて良い類の臭いではないと思う.

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“ヘカテー, お前は肉の下処理はしたことはあるか?”

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“一度だけ, 鳥の羽根毟りならしたことがあります. あまり得意ではありませんでしたが. . .”

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“そうか. では, 吐くなよ?”

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そういってヨハン様は扉を開け放たれた.

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同時に目に飛び込んできた光景は凄惨なものだった.

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赤黒い血に濡れた調理台の上には, やはり血まみれの大小さまざまな刃物が並べられている. その横には切り刻まれた臓物らしきものが, 小分けにされて散らばっていた.

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そして何より, 大の字で床に横たえられている影の輪郭は非常に小さく. . .

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“うぶっ.”

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両手で口を押さえ, 吐きそうになるのを必死で飲み込む.

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背格好からして5~6歳だろうか. 塔の中に連れて来られたことにも気づかなかった. 罪を犯すような年でもないだろうに, どうしてあんな小さな子が切り刻まれなくてはいけないのだろう.

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できるだけ天井を見るようにして気をそらしても, 今度は吐き気の代わりに涙がにじみ出てきてしまう. せめて最初の一撃で気絶してくれていたことを願う.

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“やはりダメだったか. まぁそのうち慣れろ.”

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ヨハン様はそういって私の背中を軽く叩かれるが, 慣れるわけがないし, 慣れてはいけないと思う.

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“ちょうどよい機会だと思ったのだが, よく考えればこれは人に似ている分, 刺激が強かったかもしれないな.”

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“え?”

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人に似ている. . . 要するに人ではないということだろうか.

疑問が顔に出ていたのか, ヨハン様はすぐに説明してくださった.

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“あれは他国から届けられた猿という生き物だ. 非常に珍しい. ここに届けられた時点ですでに死んでいたから, 少し臭いがきついな.”

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恐る恐る近づいてみると, 子供と思った床の死骸は全身に黄金の毛が生え, 長い尾がついていた.

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“あの, 失礼ながら. . . ここでは一体何をされていたのでしょうか.”

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食べるためなら料理人に届ければよい. 人間ではなくて少しほっとしたが, やはり切り裂くのがお好きなのだろうか.

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“解剖だ.”

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“カイボウ. . . ですか.”

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“そうだ. 腹を切り開き, 身体の中身を直接見て, どこにどんな器官が備わっているかを調べていた. 調理場は換気もできるし, ごみもすぐに捨てられる. 解剖を行うのにはぴったりの場所だ.”

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改めて調理台の上を見ると, 精緻な素描が描かれた紙が数枚置いてあった. どれも臓物の配置や形を写したもので, 絵の横に細かく書き込みがされている.

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“解剖自体は今後も俺がやるつもりだ. ヘカテー, お前は資料を作ったり, 文献を集めるのを手伝え.”

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“どこまでお役に立てるかわかりませんが. . .”

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“ああ, すぐに役に立つとは俺も思っていない. 必要なことは俺が教えてやるから, 少しずつ慣れろ. まずは, そうだな.”

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ヨハン様は思い出したように付け加えられた.

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“湯で濡らした布を頼む. それができたらここの掃除だ.”

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私は腑抜けた顔で頷くしかできなかった. 今日は本当に, 運が悪い.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖
ここで生きていくために

お湯と布を用意する間, 驚くべきことに, ヨハン様は私と一緒に掃除を始めようとされた.

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“ヨハン様のような方が掃除などされる必要はありません! 私にお任せくださいませ!”

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“お前はまだどれが捨てるべきものかもわからないだろう.”

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当然止めるが, 例によって聞く耳は持ってくださらない. こともなげに調理台を拭き, 刃物類を片付けながら指示を始められる.

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“まず, 羊皮紙は左から順に束ねて分けろ. これは重要な資料だからな. 紙と臓器は対にして並べているから, 紙の横に置いてある臓器は捨てて構わん. 最後にまとめておいてあるものはまだ描き終えていないから, 捨てずに除けておけ.”

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“かしこまりました. 床の死骸はどういたしますか?”

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“それはあとで皮剥ぎ人に届ける. 小さいが, 縁飾りに仕立てれば兄上が買うだろう. 派手好きだからな.”

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お湯と布の準備ができると, ヨハン様は身なりを整えられ, いつもの姿に戻った. それだけで非常にほっとする. 人間のものではないと分かっていたうえでも, 体中を血に染めた姿でそばにいられるとどうしても緊張しそわそわとしてしまうのだ. ただでさえ私は初対面で剣を向けられているので, きちんと顔をむけてお話しするのも難しいというのに. . .

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ほっとしたついでに改めてヨハン様を見てみると, 思いのほか整ったお顔立ちをされていることに気づいた. 茶というより灰色に近い髪の色にオリーブ色の瞳, 白い肌. 全体的に淡く彩度の低い色合いは儚げで触れ難い印象を醸し出しているが, 涼しげな目元に宿る知性の輝きがそれを凌駕する力強さを持っている. もしきちんと宮廷に出ていれば黄色い声を上げるご婦人方も多いのではないだろうか.

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. . . だからこそ, あまり変なことをしてほしくないとも思ったりする.

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“待たせたな. おお, ちゃんと片付いたではないか. では最後の仕上げだ.”

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そういって, おもむろにワインを持ってくると, 調理台の上にぶちまけられた. せっかくきれいにしたばかりの調理台が再び赤く染まる.

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“な, 何をなさるんですか. . .”

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“毒消しだ. あの猿は老齢ではなさそうだったが, 矢傷も見当たらなかった. おそらく運ばれる最中, 病で死んだのだろう. 病人の死体には毒があるからな.”

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“そうなのですね. . .”

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“そろそろ日が傾いてきたな. 俺は残りを写していく. お前は下がってよいぞ. 夕食はここに持って来い.”

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“かしこまりました.”

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見ると, 窓から差し込む光はほんのりと赤みがさしてきていた. 完全に翳ってしまう前に食事を持ってこないといけない.

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一礼して退室しようとすると, ふいに呼び止められた.

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“そうだ, 汚してしまった服だが, 洗濯はしなくて良いから, 窓から見えるように干しておいてくれ.”

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“それは構いませんが. . . まだ着られるのですか?新しいものをお持ちいたしますのに.”

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“いや, さすがにもう着ないが, 別の使い道があるんだ. それについては明日話す.”

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そこまで言うと, ヨハン様は私から興味を失ったように, 真剣な眼差しで残りの臓物を写しはじめられたので, 私は今度こそ調理場から出ていった.

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外に出て一旦深呼吸する. 長くいたせいで鼻が慣れてきていたが, やはりあの場所は臭いがきつかった. 換気に優れた調理場とはいえ, 空気がよくなるには数日かかりそうだ.

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それにしても, ヨハン様はなんとも不思議な方だと思う.

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まず, 第一印象に反して, お話ししてみると非常に博学で頭の良いお方だ. 切り裂き魔としての噂は聞いていたから, 人や生き物を面白半分に弄ぶ残虐な方なのかと思っていたが, ただ切り刻むのではなく”調べる.”とおっしゃっていた.

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もちろんヨハン様に対する恐ろしさは未だ消えてはいない. 有無を言わさぬ威圧感もそうだし, ヨハン様にとって命がとても軽いものであることに間違いはなさそうだからだ. 私は今のところ, なぜか有用だと思われているから生かされているが, 害悪だと思われれば躊躇なく殺されるだろう.

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しかし逆に言えば, 気まぐれで暇つぶしに殺されるようなことは, とりあえずなさそうな気がする. あの方の行動には常に理由がある. その理由が私に理解できるものかどうかは置いておいて, 何をするにも無駄なことはしない方なのではないかと思えるようになってきた.

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だからこそ私は, ヨハン様が何を目的にして, 何を望まれているのか, できるだけわかるようになっていきたいと思う. 怯えながら嵐が過ぎるのを待っているだけではだめなのだ. 自分の有用性は, 自力でヨハン様に示していかなくてはならない. きっとそれが, 私が年季が明けるまで, ここで生き抜いていくために最も必要なことだと思った.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗
種明かし

料理を持って塔へ戻ると, 先ほどの悪臭が全く漂ってこないことに気が付いた.

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“失礼いたします. お食事をお持ちいたしました.”

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“入れ. そろそろ描き終えるところだ. 料理は調理台の隅に頼む.”

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扉を開け中にはいると, やはり臭いはしない. むしろ扉の外より清々しい空気になっているくらいだった. 不思議に思いながら調理台を見やると, 8割ほど灰になった白っぽい木の葉が置かれている. 少し顔を近づけてみると, 鼻がぴりりとするような独特の香りがした.

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“ああ, それはセージという薬草だ. 普通は煎じ薬にしたり料理に使ったりするが, こうして焚けば臭い消しにもなる.”

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“そういえば, 教会でも似たようなことをしていた気がします.”

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“それはセージではなくフランキンセンスだな. 臭い消しというより場を清める意味合いが強いだろうが. というかお前は教会へ行くのか.”

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“ええ, 父も信徒でしたし, 出自は信仰に関係ありません. 同郷の者たちは, 例え改宗していようと, 異邦人としての名が知られるだけでひどい目に合うことも多いそうですが, 私は会ったことがなく. . .”

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“そうか. しかし, お前についての謎は深まるばかりだな.”

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ヨハン様は絵を描き終え, 紙をまとめると, そう言いながら席を移された. 言葉の響きに非難めいたものは感じない.

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“今日の昼に, 俺が本について尋ねたのはなぜかわかるか?”

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“本当に文字が読めるかと, 外国語もわかるかを確認するためでしょうか.”

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“それもあるが, もう2つ理由がある. ひとつは, お前がどの言葉にどんな反応を見せるかによって, どんな出自の者なのかを調べようとした.”

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“読める言葉によってそれが分かるのですか?”

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“ああ. 例えば, もし女であるお前がラテン語を解するなら, 元々修道院学校にいたか, わざわざ父親が教えたかのどちらかだろう. 前者であれば貴族の娘だが, 修道院を出た後この家に奉公に出るのは二度手間だし年齢が合わん. 後者であれば, なぜわざわざ教える必要があったかを考える必要がある. どちらにしろ, 商人の娘という話は怪しい.”

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ヨハン様は指を折りながら話を続ける.

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“次に見せた2つはともに異教徒の言葉だ. 一つはヘブライ語, これは知っている学者や聖職者もいるにはいるが少数だ. お前が指摘した通り, ほぼユダヤ人の言葉といってよいだろう. もうひとつはアラビア語で, イスラームという異教を信じる者たちの言葉だ. どちらも改宗している可能性もあるが, それらを解するなら外に出すときのお前の扱いを注意する必要がある. 俺は何を信じていようが気にしないが, そうではない者たちの方が多いからな.”

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“あの, 読めても, 読めないと嘘をつくとは思われなかったのですか?. . あ, .”

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思わず疑問が口をついて出て, ニヤッとしたヨハン様の顔を見てからそのことに気づく. まずい, 純然たる興味だったが, またいらぬ疑いをかけられるようなことを言ってしまった.

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“つくづくお前は面白いことばかりを言うものだな! だから嘘を見逃さないよう, 表情の動きを見ていたのだ. ほとんどの場合, 人は嘘を吐くとき独特の癖が出る. 表情も声も目や手の動きも一切変えずに嘘を吐けるのは, そのことを理解して矯正する訓練を積んだ者だけだ. だが, お前はそのように育てられたにしては言動が軽率すぎる. お前が嘘をつけば俺はいつでも見破れる自信があるぞ.”

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言われてみればそうだ. 普段から割とおっちょこちょいな自覚はあったが, まさか自分のおっちょこちょい加減に助けられる日が来るとは思わなかった. 能力が低いのも悪いことばかりではないらしい.

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“結局, お前は最初の3つは読めず, 嘘をついた様子はなかった. 最後に, 普通ギリシア語を読める者は修道士か大学生だが, お前の言う[商人]が東方貿易のギリシア商人なら母国語として理解して当然だ. それに, あの者たちは肌の色こそ暗いが, 髪と瞳は漆黒で, ヘカテーと名付けたお前の容姿と共通する. 名付けたときは本当にギリシアの血だとは思わなかったがな.”

🛑

“すごいですね. 本を見せるだけでそれだけのことがお分かりになるなんて.”

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“いや, たいしたことではない. こういった推理は決定打ではなく, 調査する材料になるだけだからな. 実際, お前の血についても俺はまだ疑っている. もし単にギリシア出身というだけなら別に名を隠すほどのことでもないはずだ.”

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どこまで疑って見られていたのかと悲しくなる部分はありつつも, 鮮やかな説明を聞けば, 素直にすごいと思う. 一体どれだけの言葉がわかり, どれだけの知識がおありなのだろうか.

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私の中のヨハン様に対する気持ちに尊敬が混じり始めたところで, 思いもよらない言葉が投げかけられた.

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“さて, 一旦食事を挟むか. ヘカテー, お前もここで食べろ.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎
やはり変わっている

“え?! . . . 申し訳ございません, 少々聞き違えをしてしまったようです. 何をお申し付けいただきましたでしょうか?”

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“お前もここで食べろといったのだ. 居館からここへ直接来たなら自分の分も持っているだろう?”

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“恐れながら, ただのメイドである私が主と同じ食卓につくなど. . .”

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“口答えするな, とっとと座れ. 別に他に見ているものもいないのだから気にする必要はない.”

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そこまで言われて, 私はしぶしぶ席につき, 自分の分の食事を簡単に並べた. 後で不敬だと怒られたりしないだろうか. 職務中, 主にものを食べるところを見せたりして本当に良いのだろうか. いつ食べ始めればいいのかもわからないし, そもそも緊張で食べ物が喉を通りそうにない.

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どぎまぎしながらヨハン様の方をそっと見ると, 一切気にした様子はなく普通に召し上がっていた. 束ねた臓物の絵を手元に置いて, 時折左手でパラパラとめくったりしながらも, 右手は指3本で器用に食事を口に運んでいる. 上品な所作なのかお行儀が悪いことなのか, 私にはよくわからない風景だった.

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“話の続きだが, 本を見せることで調べようとしたことはもう一つある. それは, お前がどこまで役立つ人間かということだ.”

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“それは. . . 恐れながら, 私はお役に立てそうでしょうか.”

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“結論から言うとそう判断した.”

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“光栄です. ただ, その. . .”

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無用な質問をしてよいのか悩み, 言い淀む私を見て, ヨハン様は察してくれた.

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“ああ, 言い忘れていた. 今日より先, この塔の中では自由な質問を許可する. それに俺が答えるかどうかは別だが, 今聞きたかったのは, なぜそう判断するのか, だろう?”

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“はい, ありがとうございます.”

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“アラビア語以外の3つは, 貴族や商人がある程度この町で暮らしていれば目にする機会はある文字だ. 無論, 積極的に関わる機会はないから, 普段から身の回りを観察し, 覚えていればの話だがな.”

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ヨハン様はワインを一口飲むと, 目を私に向けてつづけた.

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“だから, 見せた文字が読めなかったとしても, どのように答えるかでお前の能力を推し量ることができる. 全くぴんと来ていない様子なら見込みなし. 文字の特徴をつかんでいるなら観察力があり, 実際に見た場所を答えるなら記憶力もあるということだ.”

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“答えられない私を見て質問を変えられたのは, そういうことだったのですね.”

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“そうだ. そしてお前はさらにその先で, どこでどんな時に見たから何語だと思う, と推測して見せた. お前が思いの他使える人間だと分かって俺は嬉しかったぞ. 今までの言動からして, そこそこの教育を受けられる環境にいただけの阿呆ではないか, とも思っていたからな.”

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“ありがとう. . . ございます. . . ?”

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なんだか褒められているのかけなされているのかわからない感じだったが, とりあえず一定の評価は得られたようだったので少し安心する.

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お話が途切れたところで, 勇気を出してスープに手を付けてみた. ここは簡素な調理場の机だが, お仕えする方と席を並べて見守られながら食べるというのは, なんとも奇妙な感覚である. 使用人が部屋に入ってくるのを主が嫌がるならまだわかるが, 使用人のほうが近づいてくる主に居心地の悪さを感じるとはどういうことなのだろうか.

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気持ちの整理がつかない私を置いてけぼりにしながら, ヨハン様は尚も話を続けられた. 今夜は珍しく, ずいぶんと饒舌でいらっしゃる. 決して口に入れながらは話されないのにもかかわらず, 私よりはるかに話す量は多く, お食事を召し上がる速さも私より速い.

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“さて, これはさっき写した猿の腹の中だ. 見て, 考えたことを聞かせてみろ.”

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そんなことを考えていると, 目の前に紙の束が差し出された.

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どう考えても食事中に見るものではない, 奇妙な生き物の臓物. 私は使用人用に作られた肉を使わない簡素な夕食に心から感謝した. 調理場で獣を切り刻み, それを弄んだ手で食事をし, 臓物を眺めながら肉を食らうような肝っ玉を私は持ち合わせていない. 私の主は, やはり相当変わっている方のようだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏
主の求めるもの

羊皮紙に1色のペンのみで描かれたそれらは, どれも非常に写実的かつ立体的に描かれていた. その分余計に質感が伝わってくるような不気味さがあり, グロテスクさは受け入れがたいものはあるが, ヨハン様がとても器用でいらっしゃるのは間違いないだろう.

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“ヨハン様はとても絵がお上手なのですね.”

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“感想は訊いておらん. 考えたことを聞かせろと言ったのだが.”

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本当にお上手だと思ったから褒めただけなのだが, 返事は冷たかった.

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絵から目を外して見てみると, 余白にはぎっしりと文字が書かれている. たいていのものはラテン語で書かれているようだが, 時折ギリシア語が混ざっているようだ. とはいえ文章ではなく単語が散らばっているようで, 私のわかる範囲では”黒い.””五分葉の.””2巻.”などが目につく.

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“主にラテン語でメモをされていますが, ギリシア語の単語が混ざっています. たびたび出てくる[ガレノス]は人名でしょうか? 全般的に私が読める言葉は少ないですが, ラテン語では表現できない言葉があるのではないかと思いました.”

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“いい線をついてくるではないか. そうだ, ギリシア語部分はガレノスの著作から引用している. すべてがラテン語に置き換えられないわけではないが, 元のままのほうがわかりやすいからな. しかしお前は, ヒポクラテスを知っている癖にガレノスは知らないのか.”

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“ヒポクラテスは, 父が読んでいたのを見ていただけでしたので. . . 申し訳ございません.”

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“いや, 責めているわけではない. その割に銀による毒の調べ方は知っていたりするから, 知識の偏りが気になってな. では絵のほうはどうだ?”

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“よくわかりません. 最初のが全体図で, 2枚目以降はそれぞれの詳細が描かれているように思います.”

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“わからないと断ずるには返事が早すぎるぞ. やはり正視できんか.”

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“うっ. . .”

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しぶしぶ絵のほうに目線を落としてみると, どうやら描かれる順番に法則性がありそうだった.

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“全体図と比較すると, 1つの部位ごとに正面・裏・左・右の面が描かれているように思います. また, だいたい上のほうにある部位から順に描かれているようですが, こことここで順番が逆戻りしているようなので, あまり自信はございません.”

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私がそういうと, ヨハン様は満足そうにうなずいて手をたたき, 紙の束を回収して言った.

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“概ね正解だ. 実はただ上から順に並べたのではなく, 臓器の種類で分けていた. お前が[逆戻りしている]と言ったこことここだが, まずこちらは心臓.”

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“心臓. . . 言われてみれば, 教会でイエス様の胸元に似たような形が描かれているのを見たことがあります.”

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“そう, それだ. 皆これを心を宿す器官だと言うな. 俺はどうにもそう思えんが. . . それからこちらは空気が通る管だ. 我々は呼吸によって空気中の[プネウマ]というものを力として取り込んで生きているそうだが, この猿や他の動物にもそのための器官が備わっていた. それ以外のものは食べ物の通り道にある臓器だな. それからもう一つ, ここも独立した器官なので分けて描いている. この猿は雄だったが, 雌ならばまた別の器官があるだろう.”

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ヨハン様は図を指し示しながら, ひとつひとつの臓器について説明してくださった. その声はいつになく熱がこもっていて, 瞳は何か美術品についてでも語っているかのように恍惚と輝いている. 臓器について語ることが, 本当に楽しいのだろうと思われた.

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“あの. . . ヨハン様は, 何故そんなにも動物について調べようとなさっているのでしょうか.”

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私は, ヨハン様が幼い頃, 動植物を愛するお子様だったというお話を思い出していた. そして, 本を読むことが好きな聡明な方だと言うことも.

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単に血や臓物を弄んで喜んでいるとだけ聞けば理解し難いものがあるが, もし動植物を愛する延長でその構造を調べようとされているのであれば, それ自体はそんなにおかしいことではないかもしれない.

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だが, 調べたところで先が見えないのだ. 牛や羊ならまだしも, 猿の体の中身がどうなっているかわかったところで, 家畜の増やし方がわかるわけでもないだろう. さらに言えば, 動物についてのどんな知識が手に入ったとしても, それが方伯様のご子息に必要な知識とは思えない.

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単に塔の中で過ごす時間を好きなことに充てていらっしゃるだけなのかもしれないが, 私にはこの方が, ただ中途半端な身分で飼い殺されるような方には思えなかった.

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“ん? 俺が動物を解剖しているのは只の代用であって, 本当に調べたいのは人間だ.”

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だからこそ, こんな返答が返ってきても, 特に驚きは感じなかった. ちぐはぐだったヨハン様の人物像が, ようやく私の中でまとまりつつあったのである.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐
為したいこと, 成せぬこと

“人間. . . ということは, まさか床屋を目指されているのですか?”

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医師ならまだわかる. 彼らは大学で学んだ教養ある存在であり, 高貴な人たちだ. しかし, ヨハン様が調べているのは病気の概念ではなく, 身体の構造そのもの. それは病理を考える医師ではなく, もっと実践的な知識. . . 医師に指示されるままに, 現場で直接身体を触って切ったり血を抜いたりする床屋のための知識に思えた. 床屋は不自由民の職業であり, ヨハン様のようなお方が目指されるものではない.

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“それは無理だろうな. 俺はこれでも方伯の息子だ. この城にやってきて俺に指図できる医師が何人いると思う?”

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返ってきた当然の答えに戸惑う私をしばらく眺めると, ヨハン様はふっと顔を緩め, 頬杖をつかれた.

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“とはいえ, 解剖を行う目的としてはほぼ正解だ.”

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“目的, ですか.”

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“俺はな, 自分自身が何者になるかは特にこだわらん. この塔で誰にも知られず一生を終えるならそれでも良いし, 外面を考えて聖職者になれと言うなら, 司祭になって説教くらいはしてやるつもりだ.”

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まぁ, 悪魔と呼ばれた男に説教される側はたまったものではないだろうが, とヨハン様は笑いながら続けられる.

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“だが, この国の医学は遅れている. それまでの間の時間を自由にできるのなら, その遅れを取り戻すために使いたいのだ. 手を動かすのは, 別に俺である必要はない. 市井から無能な医師が消え, まともな医師が増えればそれで良いのさ.”

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“無能な医師. . . この国の医学は, それほど遅れているのですか.”

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“ああ. 呆れるほどに.”

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オリーブの瞳は先ほどまでの輝きをひそめ, 薄曇りの様相でどこか遠くを見つめている.

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“なにしろ姉上は, 医師の無知によって殺されたぐらいだ.”

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“え. . .”

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“元々は, 俺よりも元気なぐらいの人だったんだ. 何かにつけていつもはしゃいでいて, 何が面白いのかわからないくらいのことでよく笑って. それが, ある時から, よくめまいを起こすようになってな.”

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お姉様とは, 亡くなられたゾフィー様のことだろう. 大変仲良しでいらしたが, ヨハン様が10歳の時に亡くなられたと聞いている. 重いご病気で, 医師が手を尽くしても治らなかったと.

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“医師が来るたびに, 姉上の容体は悪くなっていった. 最初はめまいだけだったはずなのに, 手が震え, いつも呼吸が荒く, 立っていることもままならなず. . . それでも医師は, 体に毒がたまっているとか言って, 血を抜くことしかしなかったのだ.”

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“他の医師にも来てもらうことは. . .”

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“この城で姉上の治療を任されるのだぞ. そいつより上がどこにいる.”

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“申し訳ございません. 出過ぎたことを申しました.”

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“いや, 気にするな. おそらく皆が思っていたことだ.”

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ヨハン様は尚も話を続けられる. テーブルの上の食事はすっかり冷めきっていた.

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“3月ほど経った頃には, 姉上は別人のようなありさまだった. がりがりに痩せて, 眼だけがぎょろぎょろと異様に光っていて. . . それでも, 心配するなと俺を気遣うんだ. 治ったらまた遊びに行こうとか, お祝いの宴を開いてほしいとか, 無理に明るい話題ばかり振ってきた.”

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🛑

コンコンという音に手元を見やると, 細長い指先が苛立ち紛れにテーブル叩いている.

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🛑

“最後にあった時には, 熱が高く, 咳き込んで上手くしゃべれない状態だったな. 白かった肌はところどころ赤黒く変色し, 瀉血の傷口を巻く布が緑色の液体で濡れていた. たまらず, 何かできることはないのかと問うたら, きれいじゃなくなっちゃって恥ずかしいから, 治るまで会いに来ないで欲しいと言われてしまったよ.”

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“そんな. . .”

🛑

“姉上が死んだ後だ, 俺が偶然東方から来た学者に会ったのは. 彼が言うには, 最初の症状は姉上の持病だが, 最後に会った時の症状は治療の失敗によるものだということだった. そもそも, 人間の身体を碌に知らないで診断や治療ができるのがおかしい. 例えばこれが料理だったら, 材料や料理名を知らずに調理方法がわかるか? 本来なら, 患者の症状を詳しく観察することで判断材料を得, 正常な人間の姿を知っていてこそ治療法がわかる. 当時の俺に細かい説明は理解できなかったが, 彼の国とこの国の医学が雲泥の差であることは理解できた.”

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“. . . 心中, お察しいたします.”

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🛑

苦し紛れにでたありきたりすぎる私の言葉を耳にすると, ヨハン様はわざとらしく伸びをして, 話を切り上げた.

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“少し喋りすぎたな, 俺も存外に人恋しかったのかもしれん. もう下がってよいぞ. 残りのことは明日やろう.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟑
余話:針と糸

“やっとついたか. . . すまねぇ, 血の跡は大丈夫か?”

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“ああ, 足跡を辿れるほどじゃない.”

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真夜中, 息も絶え絶えに俺たちは北の塔へとたどり着く. ぬかった. 俺は深手を負いすぎた. 主へのご報告が, 俺の最後の仕事になりそうだ.

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俺よりも少し後からこの仕事を始めた片割れの肩を借りながら, 石造りの階段を上がっていく. 部屋に着くと, 主は蝋燭の明かりで小難しそうな本を読みながら, 眠りもせず俺たちの報告を待っていた.

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“それにしてもお前がそこまでやられるとはな. やはり一人で行かせずに正解だった.”

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“申し訳ございません. このような失態, 情けない限りです. どのような処分でもお受けいたします.”

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“構わん, 想定内だ. そこまでのことができていれば作戦に影響はない. 少し方針を変えて, 次は今日あった事についての情報を攪乱しよう.”

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🛑

眉一つ動かさずに報告を聞き, 主は即座に判断を下す. 所詮暴力しか能がない俺には, この方が何を考えているかはわからないが, 作戦に影響はないという言葉に安堵した. 汚れ仕事であってもそれなりの誇りをもって働いてきた. それが失敗で幕を閉じるのでは悔しすぎる.

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“ところで, 何ヵ所やられた?”

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ふいに, 主の声が一段明るくなる. 思わず見上げると, 端正な顔に優しそうな. . . というよりも不気味なほど嬉しそうな笑顔を貼り付けて俺を見ている. それを見て, 背筋を冷や汗が伝うのを感じた. 少し嫌な予感がする.

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[塔の悪魔], [血狂いのヨハン]. なにしろこの方は, そんな渾名がつくほどに血を好まれるのだ.

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“. . . 深手が3つと, 小傷も何ヵ所か. 恥ずかしながら, 今回のお仕事が最後になるかと思います.”

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“なるほど, 予想が当たったようだ.”

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主は部屋の奥からいくつかの物品を持ってくると, 跪く俺の横で膝を折った. 大量の布切れ, ワイン, 蝋燭, ダガー, 針, 糸. . . 無関係そうなものを次々に床に並べられていく.

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“ヨハン様, 一体何を. . . ?!”

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“ふん, 仕置きだ. さっき[どんな処分でも受ける]と言っていただろうが.”

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そういうと, 俺の上衣を脱がせ, 傷が開かないように固く巻いていた布を取り外す. あっという間に止められていた血が溢れ出し, 肌を朱く染めた. 主はそれを気に留めた様子もなく, 血止めにつけていた砂を払い, ワインを浸した布で拭く.

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“. . . っ!”

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思わず呻きが漏れた.

はたから見れば, まるで風呂の世話でもするような優しげな仕草に映るかもしれないが, ワインが傷に沁みる痛みと布で擦られる痛みが何度も繰り返し襲ってくる. それは長く単調なだけに気が遠くなるものだった.

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粗方砂がなくなると, 小さな木材が目の前に差し出される.

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“これでも噛んでいろ. ここから先は, さすがのお前でもちと厳しいぞ.”

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🛑

大人しくその木材を噛むと, 主は傷口に直接ワインをかけ, その細い指を差し入れて, 残っている砂を掻き出しはじめた.

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“んがあああああっ!”

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開いた傷をぐちゃぐちゃとこねくり回され, 俺は我慢できずに声を上げた.

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さらに主は針に糸を通し, あろうことか俺の傷口を縫い始めた. 横で見ている片割れも青ざめた顔をしている. 拷問ぐらいは見慣れているはずだが, 仲間内での訳がわからない行動というのは恐怖だ.

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主は3つの深手のうち一番小さな傷を縫い終えると, 糸を変えて次の傷に移った. ひと針ごとにきつく引っ張り上げ, ワインに浸した布で拭くので, いちいち激痛に襲われる. しかもさっきの糸より更に痛い気がする. 涙が滲んできた.

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最後に一番大きな傷が縫われる. 幾分慣れてきたのか, 若干痛みが和らいできた. それでも激痛には違いないが. . .

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すべて縫い終えると, 主は満足げな顔をして再びワインに浸した布で縫い終えた傷を拭き, 上から乾いた布を巻いた. 噛みしめていた木材が取り外されると, だらしなくよだれが垂れる.

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“どうだったか?”

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“深く反省しております! このような失敗は許されないこと, 仲間にも. . .”

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“違う. 縫った時の痛みはどうだった? 傷ごとに痛み方の違いはあったか?”

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すぐさま言おうとしたお詫びの言葉は遮られた. この方はいつも少し言葉が足りない.

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“2番目の傷を縫われていた時が最も痛みが強く, 最後の傷は慣れのせいかそこまでではありませんでした.”

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“そうか, やはり絹糸がよさそうだな. 1週間後, また傷を見せに来い. 今度は様子を見るだけだから安心しろ.”

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“かしこまりました.”

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“さて, まだ小傷が沢山あるな.”

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“え.”

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これで終わったと思い安心しかけたところで, 主はダガーを蝋燭の火で炙ると, 次々に小傷へ当てていった.

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“あがっ!”

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“お, まだ木材は必要だったか. 悪かった.”

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とても悪いとは思っていそうにない顔で淡々と小傷を焼き, すべて焼き終えるとわざわざ上衣を着せてくださった.

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そこでふと, 出血がすべて止まっていることに気づく. 塔に戻ってきたときにはいずれ死ぬか, 生き残っても仕事はできなくなるだろうと思っていたほどの出血が.

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“あの, もしかして治療をしてくださったのでしょうか?”

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“は? 他に何がある?”

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俺の質問に, 主は小首を傾げ, 不思議そうな顔で答えた. さっきは仕置きといったはずなのに.

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“では終いだ. 二人とも下がってよいぞ. しばらく休め.”

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だが, この方のこういった捻くれた優しさが, 俺たちのようなはみ出し者にも忠誠を誓わせるのだろう. 俺たちは深く感謝して部屋を出た.

第2章 狙う者
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟒
汚れた少年

翌朝, 私はいつもより早めに支度を整えた. 昨夜は夕食を置きっぱなしで調理場を出てしまったので, 許可が取れ次第, 片付けたいと思ったからだ.

しかし, 居館へ昼食を取りに行く時間より前に, 私を呼ぶベルの音が聞こえた.

“ヘカテー, 服はもう干してあるか?”

“ええ, もちろんです.”

“ではもう一度調理場に行こう.”

再び5階に戻り, 調理場に入ると, 窓際に大きなかごが置いてあった. かごには布がかけられており, 持ち手の部分には縄が括り付けられている.

“昨日の猿だ.”

ヨハン様が布をめくって見せると, 確かにふわふわとした黄金の毛が隙間から覗いていた.

“毛皮に加工するのですよね? それなら, 居館へ向かう際, 誰かにお渡ししておきますが. . .”

“そうだが, 使用人から渡せるのは毛皮商人だろう? 商人から屠殺人, 屠殺人から皮剥ぎ人, 皮剥ぎ人から仕立て屋. . . と間に入る者が多くて面倒だ. それに, 猿のような珍しい動物が稀に出るだけなら言い訳もたつが, この城から頻繁に死骸が出るという話が回るのも良くないからな.”

“では, どのように処理するのでしょうか.”

“解剖の翌日には, いつも使った死骸をこれで窓から下ろしておく. 俺の共犯者はお前だけではないということだ.”

“共犯者. . . 誰かが取りに来るのですね?”

“ああ. 気になるなら下で見ていても良いぞ. 時間が合うかはわからんがな.”

猿が入ったかごは, するすると地上へ降りて行った. 次回からは私が解剖が終わるごとにやっておくようにしよう.

その後, ヨハン様の昼食をお持ちし, 片付けも終えた私は, 特に用事もなかったので, かごの付近で誰が来るのか待ってみることにした. ベルの音は大きいので, 気を付けていれば地上でも聞こえる. 受取人にそこまで興味があるわけではないが, 自室で手を持て余すよりも良いように思えた.

半刻ほどたったころだろうか. 一人の少年が近づいてきた. 年は11~12歳だろうか. 傷だらけの汚れまみれで, 妙にくたびれた服が気になる. よく見れば靴すら履いていなかった.

私に気が付くと, 少しびっくりした顔をして後ずさろうとするので, こちらから話しかけてみた.

“こんにちは. あなたがこれを受け取る人?”

“. . . メイドのねーちゃん, そのこと知ってるのか. なに, 渡すのは今日で最後とかそういう話?”

“いいえ, 私はただどんな人が取りに来るのかと思って待ってただけ.”

はい, とかごを渡すと, 仏頂面だった少年は布をめくって中身を取り出し, 途端に嬉しそうな声をあげた.

“すっげー, なんだこれ! 初めて見た! これは高くつくだろうな.”

“外国から来たサルという生き物だそうよ.”

“へー, 名前だけは聞いたことあるや. 前に父ちゃんが言ってた. っていうか, ねーちゃん, あのおっちゃんの仲間なの?”

“おっちゃん, というのが誰かわからないから何とも言えないけど, どんな人? 君はどこで会ったの?”

“頭巾グーゲルで顔はよく見えなかったし, 名前も聞いてないからどんな人って言われても困るなぁ. 会ったのは2年くらい前だよ, 町に買い付けに行った帰り. 塔の一番上の窓に服がかかってる日は, 塔の下に来ると質の良い原皮が無料タダで手に入るよって教えてくれたんだ.”

“そんな怪しい話, 良く信じたわね. . .”

“だってあのおっちゃん, おれが屠殺場から出てきたとこ見てたのに, 自分から話しかけてきて, 一度もおれのこと殴らなかったんだぜ? 嘘だったとしても確認する価値はあると思ったんだよ. 実際, それから必ず無料タダで手に入ってるしさ.”

殴られなかったことを特別視するなど, 到底普通の感覚ではない. ここまで聞いて, 私はようやくこの子が皮剥ぎ人なのだということに気が付いた.

皮剥ぎ人は賤民の職業だ. ギルドにも入ることができず, 町の外れに住んでいて, 一般市民とは関りを持たない. 助けを得られる機会が少ないために, 早くして自立を余儀なくされるのかもしれない.

それにしてもおっちゃん, とは? 頭巾グーゲルで顔はよく見えなかったということは, ヨハン様が塔を抜け出されたのだろうか. しかし, 常時監視されているわけではないとはいえ, ご領主様の許可もなく外に出るなんてことが?

“ねーちゃんは, もしかして外国人?”

“一応物心ついたころからずっとここの領民よ. 血は外国だけどね.”

“やっぱり外国の血か, 道理でおれのこと嫌がらないと思った. ねぇ, もし頭巾グーゲルのおっちゃんに心当たりがあるなら, お礼言っておいてよ. おれはヤープ. 皮なめしとか, 何か必要なことがあったら無料タダでやるからさ.”

“わかった. 私はヘカテー. 何かあればよろしくね.”

ヤープは自分が共犯者とされていることを知らないのだろうな, と思った. だが, ヨハン様がわざと教えずにいるならきっとそれでよいのだろう.

“あ, 忘れてた! ねーちゃん, おれと話すとこあんまり見られないようにね. 知ってるやつは知ってるけど, 父ちゃんは刑吏なんだ.”

“え. . .”

付け加えられた言葉に思わずどきりとし, 言葉に詰まった. 刑吏, 要するに処刑人. それは罪人が時として死刑になるか刑吏になるかを選べるほどに忌み嫌われる不可触民だ. 下手にかかわるとこちらまで賤民に落とされる.

“外国人はあんまりそういうの気にしないのかもしれないけど, いざこざがあると大体こっちが悪者にされんだよ. 面倒ごとに巻き込まれるの嫌だからさ, よろしく!”

ああ, そうか. ここの領民だと答えても, この子には私があくまで[外国人]に見えているのか. 無邪気に走り去っていく姿を見送りながら, 私の心には言い表しようのないざわめきが生まれていた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟓
学ぶべきこと

振り返ると, サルを入れていたかごはするすると上がっていった. どうやらヨハン様が今の光景を見ていらしたようだ. 私は急いで塔に戻った.

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はしごを上がると, ヨハン様が廊下に佇んでいた.

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“お待たせしてしまって申し訳ございません.”

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“いや, 別に呼んではいない. ちょうど上から見えたんでな. 会えたようで良かった.”

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“はい, 子供が来るとは思っていなかったので驚きましたが.”

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“子供って, お前も同じ年くらいだろう?”

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“見た感じ, 彼はもっと年下かと思います. 私は今年で15になりますが. . .”

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“. . . は?”

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“え?”

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空気が固まった. ヨハン様は目も見開いて, 視線を私の頭からつま先まで往復させる.

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“そうだったのか. 実年齢よりずいぶん下に見えるな.”

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“確かに, 私は比較的小柄ですので, そう見えるのかもしれません.”

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“いや, 背丈もそうだが, 顔の感じがな. . . 12歳くらいだと思っていたぞ.”

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“そんなに幼く見えておりましたか. . .”

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私の顔立ちは結構特徴的だ. 今までそれは単に[外国人の顔]と形容されることが多かったが, 骨の主張が少なく丸みを帯びた輪郭など, 子供っぽいと言われればそうかもしれない. しかし, そんなに小さく見られていたのは, 私にとっても結構衝撃的だった.

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“あ, いや, すまない. 単に年を勘違いしていたから驚いただけで, お前の顔についてどうこう言うつもりはなかったんだ.”

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“もちろん承知しております. どうか謝らないでくださいませ.”

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“さて, 書庫に行こうか. いくらか読んでおいてほしい本がある.”

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書庫に移動すると, ヨハン様は数冊の本を差し出してきた. 連作物のようで, すべてギリシア語で書かれている.

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“これは[体部の有用性]という本だ. といっても, ガレノスの著作の簡略版だがな. 読んでおけ.”

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“申し訳ございません, 私はギリシア語は断片的にしかわからないのですが.”

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“ああ, 勉強しろという意味だ. 少しでも知っている言語のほうが習得しやすいと思ったが, アラビア語の方が良かったか?”

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ずいぶんと無茶ぶりをされたものだ. 簡略版と言われても, 1冊1冊はかなり分厚い. これがドイツ語だったとしても, 読むのには結構時間がかかるだろう. 考えるだけでくらくらとしてきた.

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“. . . ギリシア語でお願いいたします.”

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“基礎的な文法は俺が教えてやる. 単語は自力で覚えろ. 何, どうせ時間はたっぷりあるんだ. 無料で大学に通えたとでも思っておけばいい.”

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“ありがとうございます. . . 尽力いたします. . .”

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無料で大学に通える. . . そう言われてみればお得なことなのかもしれないが, 今までで一番難易度の高い仕事に思えた.

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そもそも私は花嫁修業としてご奉公に来たはずなのに, この塔に来てからメイドらしい仕事は掃除と配膳くらいしかしていない. まさか, ギリシア語を勉強して本を読めと言われるとは思っていなかった.

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“商人の娘にそこまでの教養はいらない. そう思ったか?”

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“え, いえ, そんな. . .”

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この方は, 時々心を読んでいるかのような発言をされる.

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“今のところ, お前がいつまでここで働くのかはわからない. 侍女のように一生の仕事とするか, そのうち街に戻るのかはな. だが, 街に戻るとしても, 人は[領主の城で働いていた]という事実しか見ないだろう. 皆, お前がここにいる間何をしていたかまでは興味を持つまい.”

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“はい. . .”

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“それに, 女に教養があって悪いことなど何もない. 俺がこの国で最大の賢者だと思った人物の一人は修道女だ. 著作のラテン語は多少稚拙なところがあるが, 薬草と鉱物についての研究は類を見ないものだった. つまり, 環境さえ整えてやれば, 素養を持つものは花開くということだ. だから俺に仕える以上は頭を使え. 自分の価値を証明して見せろ.”

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🛑

過大な期待につぶされるような思いもありつつ, 私は自分の中に意欲が沸き立ってくるのを感じていた.

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それはきっと, 紡がれた言葉が, 厳しくもどこか暖かいものだったからだろう.

私にギリシア語を学ばせて何をさせたいのかまではわからない. しかし, 自ら教える時間と手間をかけてでも学ばせる価値が私にあると, ヨハン様が判断しているという事実は, なぜか私にはどうしようもなく嬉しいことだったのだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟔
笑顔の底にある

それから私は, 仕事以外の時間は全てギリシア語の勉強に充てるようになった. 慣れない言語を読み進めていくのは難しいものだが, もともと居館にいた頃より手持ち無沙汰気味だった分, 学ぶ時間は余裕があるし, 断片的には知っている言葉なのでゼロから学ぶよりは遥かに上達が早いと思う.

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ヨハン様からのお呼び出しはそこそこ増えた. 大抵はヨハン様の書かれた書類の整理や, 解剖時のメモといった雑用だが, 目にする機会が増えたことで血に対する耐性もついてきた気がする.

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そういえば, 解剖に使う動物はどこから手に入れているのだろうか. 私が食事と一緒に居館からお持ちするものに動物が含まれていたことはなく, 誰かが塔を訪ねてきたことも今のところない. 終わった後の死骸はヤープに渡しているが, たまにヤープと話してみても[ここで原皮となる死骸がもらえる]という以上のことは知らなさそうだった.

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ヤープの言っていた[頭巾のおっちゃん]というのがヨハン様の変装だとすると, もしかして結構頻繁に塔を抜け出したりなさっているのだろうか. 外に出掛けるヨハン様を見かけたことはないけれど. . .

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そんな考え事をしながら夕食を取りに居館へ向かうと, 執事のクラウス様に声をかけられた.

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“ヘカテー, 塔での暮らしはどうですか?”

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“おかげさまで, 恙なく過ごしております.”

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“そうですか, それは良かった. あの方の傍にいるのは簡単ではないでしょうから.”

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“そ, そんなことは. . . いつも優しく扱ってくださいますし. . .”

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“いえ, もちろんあの性格ですから, 傍にいて気苦労は絶えないと思いますが, ヨハン様に直接迷惑をかけられているという話ではありません. あの方は敵も少なくない. 巻き込まれないように注意してほしいのですよ.”

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クラウス様は少し声をひそめると, そういって微笑んだ.

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執事という高い役職上, ほとんどお話したことはないものの, 正直私はこの方が少し苦手だ.

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もちろんこの方を苦手に思っているものは少数派だろう. 目下の者にも丁寧な言葉づかいで話してくださるし, 貴族らしい優雅さと若々しさを併せ持ち, 侍女の間で人気を博しているのも知っている.

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ただ, いつも笑顔を貼り付けていらしゃる口元が, 私には逆に瞳と頬の無表情さを際立たせているようにしか思えないのだ. 単に下級の使用人のことは言葉で気遣うほどには気にかけていらっしゃらないというだけかもしれないが.

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“そうそう, 塔に戻るときにこちらをヨハン様に.”

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そういわれて手を差し出すと, 受け取ったものは巻かれた羊皮紙だった.

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“大切なものです. 汚したり曲げたりすることのないように.”

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“かしこまりました.”

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“くれぐれもよろしくお願いしますね. もし何か困ったことがあれば, いつでも相談しなさい. 私はいつでも味方になります.”

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クラウス様は羊皮紙を受け取った私の手を, 念を押すように両手で包み込むと, 静かに去っていった.

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クラウス様から[大切なもの]として受け取った, ヨハン様宛のもの. 小さなお届け物であっても緊張はひとしおだ. 私は塔に戻ると, 配膳よりまず先にこの紙を渡してしまうことにした.

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“失礼いたします. お食事をお持ちいたしました. それから, お届け物をお預かりしております.”

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“入れ.”

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お部屋に入ると, ヨハン様は胡乱な目をこちらに向けていたが, お預かりした羊皮紙を取り出すと納得したようだった.

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“クラウス様からです.”

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“いや, これはクラウスというか, 父上だな.”

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“失礼いたしました, ご領主様からでしたか.”

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“ああ. 俺がこの塔で自由にしていられる理由がこれだ.”

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ヨハン様は紙を開きながらぴらぴらと振る.

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“父上はこうして時々俺に仕事を持ってくる. それを片付けている限り, 父上は俺を手放せないのさ. まぁ, 塔から出られないのもこのせいと言えるがな.”

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“さ, 左様でございますか. . .”

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お手紙というよりも, 指令書のようなものなのだろうか.

確かに座り仕事であれば塔の中でも可能だ. ヨハン様はよく何かを書きつけていらっしゃるが, 私には見せないようにしている書類も多い. こうしてお仕事を受けられる代わりに, 本や解剖用の動物を融通してもらったりしていらっしゃるのかもしれない.

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“つくづく父上は非凡なお方だ. 次男以下を家の権勢のために使うなら, 修道院に入れて大司教の地位を狙うのが定石だが, 時間がかかる上に確証がない. その点, 幽閉してしまえば手元におけるだけでなく政敵の油断も誘える. どんな行いも事実上廃嫡していると言えば覆せるし, 効力が必要になれば幽閉を解くだけだ. それに情報戦において, 父親と敵対している嫡男という立場は使い勝手もいい.”

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具体的なお仕事の内容はよくわからなかったものの, 私はようやく, 幽閉中にも拘わらずかなりの自由と贅沢が許されているヨハン様の不思議なご境遇の理由を理解した. しかし, 表向きだけならいざ知らず, 血の繋がった子供を本当に閉じ込め続けるご領主のお気持ちは, 納得できないものがある.

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“そんな顔をするな. 俺はこの生活を気に入っている. 修道院にいたら外科医学なんてできないだろう. 父上には父上の, 俺には俺の得があるのさ.”

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ヨハン様は話を切り上げるように音を立てて紙を置かれた.

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“ところで, クラウスは何か言っていたか?”

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“いえ, 特には. . . 大切なものだから, 汚したり曲げたりするなとしか.”

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一瞬[あの方の傍にいるのは簡単ではない]という言葉がよぎるが, 失礼なので口には出さなかった. しかし, ヨハン様はそんな私の表情を見て, 何かを感じたらしい.

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“いいかヘカテー, 今後クラウスから何か言われた時には, どんな些細なことでもすべて俺に伝えろ.”

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“はい. . .”

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“覚えておけ. 父上とクラウスは俺の敵ではないが, 味方でもないからな. それはお前にとっても同じことだ. 俺のそばにいれば接触は増えるだろうが, 気を許すなよ.”

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言い放った時の眼に宿る光は恐ろしく冷たく鋭利で, 久しぶりにぞっとするものを感じた. ここ最近は朗らかなお顔でいらっしゃることが多かったので忘れていたが, ヨハン様の笑顔は2種類ある. その半分は刺々しく威圧感に満ちたものだ.

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眼と口元で表情が違う点ではクラウス様と似ているが, お二人にはどことなく相反するものがあるような気がする.

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“承知いたしました.”

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一礼して配膳に戻ると, 纏っていた冷たい空気がふわりと緩むのを感じて, ヨハン様は私に警告するためにあえて威圧していらしたのだろうと理解した. しかし, そこに何があるのかは, 今の私にはわからない.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟕
甘やかな悪夢

それからほどなくして, 私はヨハン様の私室に入ることを原則禁止された. お食事やお届け物は, 無言で扉の前に置く形. ベルが鳴らされた時以外はヨハン様にお会いすることもなく, 解剖も行われないままひと月近くが過ぎた.

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かといって居館に戻されるわけではなく, 私は依然として塔にいる. 何故なのかはわからないが, 何かお考えあって私に会いたくないのだろうと思い, 私はお食事を運ぶ以外は部屋から出ることも控えることにした. 結果的にただギリシア語を勉強するだけの日々が続いている.

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ヨハン様に習ったやり方では, 参考書のようなものがあるわけではない. ギリシア語でギリシア語を勉強するのだ. わからない単語の意味をわかる単語で引いて覚える. 自国の言語で習得するよりもわからないことが多い分, 最初はもたつくが, 習熟度は加速していく.

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ギリシア語の勉強は不思議だった. 父の影響で断片的に知ってはいたものの, 普段はこの土地の言葉で会話していたため, 私にとっては完全に外国語である. にもかかわらず, 勉強を進めれば進めるほどに, この言葉に懐かしさと親しみがわいてくる.

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これは私に流れる血の影響なのだろうか. 黒髪に黒い目. 肌の色は明るいが, この国の多くの人に見られる赤っぽい白ではなく, 蒼白という言葉がふさわしいような色をしている. これは父もそうだったから, 自分が異邦の血を引いていることは今までも自覚してきた.

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だが私は, この血がどこから来ているのかを今まで知らなかった. 仮にこの見た目がギリシアの血だとしても, 記憶は最初からここレーレハウゼンで始まっている. 父は自分のことをあまり語らず, どこの出身なのかも明確には聞いていない. もしかしたら父も私と同様, 異邦の血を引くだけで帝国で育ってきたのかもしれない.

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ヤープと会った時もそうだったが, 私を見て領民と認識する人は少ない. 同じ言葉を話し, 同じ領地で育っても, 見た目だけで異邦人として認識される私. もしいつかギリシアに行けば, 同胞として認められるのだろうか. 主からの命令で習った, 現代語ですらないギリシア語と, ほんの1割程度混ざっているだけだろうギリシアの文化でも.

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そんなことに悩んでいるせいか, 最近はよく夢を見る. 会ったことのないはずの母や祖父母が出てくる夢だ.

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―― なんてかわいらしいんでしょう.

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―― 髪と瞳の色は父親だが, 顔だちは母親の面影があるね.

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―― 大きくなったらきっと美人になるな.

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祖父母と父がギリシア語で話している. 皆, 顔はよく見えない. 清々しい香りが立ち込める見知らぬ空間で, かわるがわる私をのぞき込み, なでたりあやしたりしている.

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―― 私にも抱かせてちょうだい.

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―― さぁ, 笑って

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場面が切り替わり, 今度はどこかのお城の中だ. 母の優しく美しい声は, 聞きなれたこの国の言葉で私の本当の名を呼ぶ.

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. . . しかしそれは必ず, 誰かの怒号で唐突に幕を下ろすのだ.

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“その子を連れてさっさと出ていけ. 今日をもってお前は死んだ.”

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いつもそこで目が覚めるせいで寝覚めが悪いし, 後味が悪いのでなかなか眠る気にもならない. こんなに何度も見る夢なら, 見知らぬ家族への甘やかな憧憬だけで終わらせてくれたら良いのに.

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. . . そんなとりとめもない考えを頭から振り払い, 観念してそろそろ眠ろうと思ったとき, カタン, と音がした. 音のほうを見やると, 窓辺に小さな羊皮紙の切れ端が置いてある.

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不審に思いながらもそれを手にすると, そこにあったのはギリシア語で書かれた一言. それでも私を打ちのめすのに十分な一言だった.

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“嘘. . . 嘘, でしょ.”

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見たものを否定したいという願望がそのまま唇から零れる. 私は最近同じ夢ばかり見ていた理由がわかった気がした. あの夢はきっと, 私の本能が見せた警告だ.

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しかし私は夢というメッセージの受け取り方を間違えていた. 羊皮紙にかかれた文字を何度も読み返し, 言いようのない後悔に震える.

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[τριστάνος είναι νεκρός(トリストラントは死んだ)]

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記憶もあいまいな夢の中の家族より, 現実の家族のことを気にかけるべきだったのだ.

14年間, 男手ひとつで自分を育ててくれた, たったひとりの父親のことを.

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“いったい誰がこれを. . .”

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今は夜, ここは北の塔の3階だ. 当然外に人の気配はない. 出所不明のこんな紙切れが, 事実を告げているという保障などない. . . それでも紙を持つ手の震えは止まらなかった.

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早くこれが嘘だと確かめたい. 家に帰って父に会いたい. なんとかしてヨハン様に, 塔を出る許可をもらわなければ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟖
話したい人

今までであれば, お食事をお持ちする際に大体ヨハン様が話しかけてくださるので, 話を切り出す機会は毎日あった. しかし, 今は間の悪いことに, お部屋にも入れず, ヨハン様との接触も難しい状況が続いている. もちろん, さすがに私からヨハン様を訪ねていくことはできない. 明朝居館に行ったとき, 家政婦長のズザンナ様に相談するしかないだろう.

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ズザンナ様からヨハン様へと用件が伝わり, 実際に外出の許可をいただくまでに, どれくらいの時間がかかるだろうか. 不安が募るばかりで, 眠れないまま夜が更けていく.

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日没後のこの時間帯は, 本当に静かだ. この城に来てからは特にそう思う.

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それはきっと父のせいだ.

私はもとから眠るのがさほど得意ではないので, 夜中によく目を覚ましていたが, 以前は目を覚ますと必ず父が気付いて話しかけてくれていた.

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父も眠りが浅い人で, 私より早く寝るのも, 私より遅く起きるのも見たことがない. 夜中に目を覚ました時も, 3回に1回は月明りで何か作業をしていたように思う.

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思えば父は不思議な人だ. 実の親子であることは風貌から言って間違いないと思うが, いったいどこの出身で, どうしてレーレハウゼンにやってきたのか, 高い教養と美しい所作はどこで身に着けたものなのかなど, 私は父の素性を良く知らない.

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それは母も同じで, 私は母の名前すら知らない. 幼いころに母がどんな人だったのか尋ねた時, 父は[聡明で, 高潔で, 誰よりも美しい人だったよ]とだけ答えた.

そのまま話を進めれば詳しく知ることもできたのかもしれないが, 答える父の表情があまりに悲痛で, 私はそれ以上訊くことができなくなってしまったのだ.

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そして, 別に知らなくても特に問題はなかった. すでにこの世の人ではない母のことを知ったところで会えるわけでもないし, 父は母の分まで私を慈しんでくれた. 細々と店を営み, 商いのための知識を時折私に授け, 豊かではなくとも困ることはない生活を私に提供してくれていた. 昔の父がどうであろうと, 目の前の父が私をまっすぐに愛してくれているという事実だけで私には十分だった.

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しかし, 最近ギリシア語を勉強して, 自分の出自が気になってきていたさなかの, この思いがけない紙である. 与えられる愛だけを当たり前に享受して, その愛をくれる存在のことをほとんど知らないという事実に, 私はある種の恥ずかしさも感じていた.

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この紙が何かの間違いで, 父が生きていることを願う. 生きていたら, 今度はもっと父のことを知りたい. どんな人生を歩んできたのか, 本人に直接尋ねてみたい.

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ああ, もう空が白んできた. 今は考えても事態は何も動かないのに, 考え事がやまないまま朝を迎えてしまったようだ.

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この時間帯から眠るとかえって寝坊をしてしまいそうなので, 私はあきらめて寝床から出ることにした.

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朝の支度を整えると, 私はすぐにでも家に帰れるようにしておいた. 書いてあった言葉が本当であった場合に備えての準備と, 間違いであることを信じて父へのお土産.

あとは半ば強迫観念のようにギリシア語の勉強をして, 昼食を受け取りに行くまでの時間をつぶす.

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しかし, やはり私は相当に混乱していたようだ. 一番肝心の準備を忘れていたことに気づいたのは, ズザンナ様にお会いしてからだった.

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“いきなり何を言い出すの? 勝手な真似は許さないよ.”

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“ですから, 父が亡くなったとの連絡が入ったので, 確認のためにお休みをいただきたいのです.”

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“見え透いた嘘を言うんじゃない. 塔の中に閉じこもっていて, いったい誰がどうやってお前に直接連絡を寄こすというのさ.”

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そう, ズザンナ様をどう説得するかを, 全く考えていなかったのだ. さすがに親の葬儀とあれば取り次いでくれるものと疑っていなかった.

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“その. . . 窓から手紙が入りまして.”

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“いい加減におし. 直接手渡すならまだしも, はしごもない3階の窓から投げ入れる馬鹿がいるわけがない.”

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“いえ, 本当です. たった一言ではありますが, こちらが窓から入りました.”

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“これはお前の国の言葉? わたしが読めないからって適当なものを見せて.”

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“適当ではございません. 私はただ. . .”

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“ちょっと顔を気に入られたからって調子に乗っているんだろう. お前は肩書は専属メイドでも, 実態はただの娼婦だ. ヨハン様の後ろ盾があるからと, 私が甘く見てやるとでも思ったのかい?”

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ズザンナ様には読めないのだから仕方がないが, 紙を見せても証拠とは思っていただけなかった. こうなると, どのように交渉してよいものかわからない. 何しろ, 窓から入ってきたこの不審な紙以外に, 父の安否を示すものは一切ないのだ.

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そんな時, 思いがけないところから援軍がやってきた.

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“何を話しているのですか?”

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部屋に入ってきたのは, 執事のクラウス様だ. 優しく穏やかな声で私たちに話しかけると, にこやかにこちらに歩みを進めてきた.

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“ズザンナさん, 少し聞こえてきましたが, ヘカテーの様子を見るにただのわがままとは思えません. 私に話を代わっていただけますか?”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟗
見えない謀略

“そんな, クラウス様のお手を煩わせるほどのことではありませんわ. この子が急に休みを取りたいと言い出しましてね. もちろん正当な理由であれば私も許可するのですが, 言い訳に無理があるのです.”

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“ええ, お話の流れは大体聞こえておりました. ズザンナさん, 私は話を把握した上で相手を代わってほしいとお願いしているのですよ.”

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“それは. . .”

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家政婦長は女性の使用人の中で最高位の役職だが, 対外的な地位としては執事の方が高い. クラウス様にそこまで言われては, さすがのズザンナ様も言い返せないようだった.

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“わかりました. よろしくお願いいたします.”

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ズザンナ様が戸惑いながらも退室されると, クラウス様は私に向き直り, 優しく話しかけられた.

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“さて, ヘカテー. 詳しく話を聞かせてもらえますか?”

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思わず少し身構えるが, そのお顔はいつもの口元だけの笑顔とは違い, 温かみに満ちたものだった. 顔を向けるだけではなく, きちんと私の目を見て, 安心させるように笑いかけていらっしゃる. 目尻に浮かんだ鴉の足跡に, 重く詰まるようだった胸の内がすっと軽くなるのを感じた.

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“そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ. 責めようとして割って入ったわけではないのです, 私はあなたが嘘をついているとは思っていませんから. その紙が窓から入ってきたのですね?”

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“はい. . .”

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差し伸べられる手に, 思わず紙を手渡すと, クラウス様はわざわざ礼を述べて, 受け取ったメモを覗き込まれる.

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“これはギリシア語ですか? なんと書いてあるのでしょうか.”

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“はい, ギリシア語です. [トリストラントは死んだ]と書いてあります. トリストラントとは私の父の名前でして. . .”

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“なるほど, それは大変ですね. 確かに窓から入ってきたことは不思議ですが, 内容が親族の生死にかかわることです. 確認のためにも, 一度お休みを取って家に帰ったほうがいいと私も思います.”

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クラウス様は真剣な面持ちでそう言い, 私の手を取られた.

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“紙の出所が不確かな以上, まだお悔みは言わずにおきます. 不安でいっぱいだと思いますが, 気を確かに. あなたのお父様が生きていることをお祈りしていますよ.”

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冷たく震える私の両手を包むように握るクラウス様の手は暖かく, 緊張が徐々にほぐれていくのを感じた.

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“ズザンナさんに理解が得られず災難でしたね. 手続きに関しては私のほうから指令を出しておきましょう. お休みは3日ほどでよろしいですか?”

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“はい, ありがとうございます.”

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この紙が本当に訃報であるのか不確かな状況にあって, 3日のお休みは破格の対応といって良い. 執事という役職にありながら, 単なるメイドに対してこんなにも親身になってくださることに驚いた.

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そんな疑問が顔に出ていたのか, クラウス様は諭すように語りかけてきた.

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“ヘカテー, 私は使用人は皆この家の大切な財産だと思っております. ただ, その中でもあなたは特別な存在です. 跡継ぎはご長男であるベルンハルト様ですが, この家をしっかりと守っていくには聡明なヨハン様のご助力が欠かせないでしょう. そんなヨハン様にとって大切な人は, 我々にとっても大切な人なのです. 貴女は自分の価値をしっかり理解しないといけませんよ.”

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ヨハン様にとって大切な人. . . その言葉は少し胸にちくりと刺さった.

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先ほどのズザンナ様の反応もそうだったが, おそらく私はこの家の使用人たちに, いまだにヨハン様の愛人だと思われている.

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ヨハン様は最初私を監視するといい, 解剖の件を話してからは私を共犯と呼んだ. ヨハン様との間にロマンティックな雰囲気を感じたことは一度もない.

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しかし, [塔の悪魔]とまで呼ばれたヨハン様のもとにいながら, 傷を負うこともなく安全に, かつこき使われることもなく平穏に日々を過ごしていることで, 周囲は私が愛人であるとの確信を勝手に深めているのだろう. つまり, 私の価値は過大評価されている.

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思わずうつむいている私を見て, クラウス様は話題を変えてきた.

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“そういえば, あなたは文字が読めるのですね.”

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“はい, 父に教わりました.”

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“この国の言葉をとても流暢に話しているので, ここで生まれ育ったかと思っていました. 普段はギリシア語を?”

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“いえ, クラウス様のおっしゃる通り, 私は生まれた時からここの領民でして. . .”

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ここまで話した時, 急に疑問が浮かんだ. なぜ, クラウス様はここまで手をまわした上に, わざわざ雑談までしてくださるのだろう? 確かに丁寧な方だが, いつもは事務的なお話のみで早々に切り上げるはずだ.

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―― クラウスから何か言われた時には, 些細なことでもすべて俺に伝えろ

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ヨハン様もそう警告していた. なのになぜ私はいつの間にか, クラウス様の優しさにほだされている? ついこの間まで, 苦手に思っていたはずなのに.

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いや, あの口元だけの笑顔を苦手に思っていたからこそ, 目の前のクラウス様の表情を心からの笑顔と思い込んでしまったのではないか?

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もしそれをわざとやっているとしたら. . . クラウス様は信頼してよい相手ではない.

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“. . . 普段は喋るのも読み書きもドイツ語を使っているのですが, 父はギリシア語ができましたので, 少し教えてもらっていたのです.”

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私は急に生まれた警戒を悟られないように気を付けながら, 言葉を継いだ. 私がお仕えする方はあくまでヨハン様だ. ギリシア語をヨハン様から教えていただいたという事実は, “敵ではないが味方でもない.”方へ告げるべきものではないと, 私は判断した.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐𝟎
優しい罠

嘘ではないが事実を覆い隠した言葉を返す. クラウス様の表情に変化はない. 暖かい笑顔の穏やかな声色のままで雑談が続けられる.

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“そうでしたか. 2か国語を操るとは, 好奇心旺盛なヨハン様に気に入られるわけですね.”

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“2か国語を操れるというほど, ギリシア語はできません. ヨハン様に気に入っていただくなど, 身に余るお言葉です.”

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“いえいえ, 本当にそうだと思いますよ. 実際, 今までヨハン様が誰かを傍に置きたいとおっしゃったのは初めてでしたし, それがこんなに長く続くとは驚きです. ヨハン様にお仕えしていて, 辛い目にあったことはありませんか?”

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“辛い目など, とんでもないことです.”

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“そうでしょう? それだけ大切にされているということです. ヨハン様は少し不器用なところがおありですから.”

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“不器用, ですか. . .”

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“はい. 色々と無礼かつ物騒な噂が流れていますが, 私はあれはほとんどが嘘だと思っています. 苛烈な性格というより, 単に人付き合いが不器用な方なのですよ, あの方は. あなたがそばにいて嫌な思いをしていないということは, それこそがヨハン様に愛されている証拠だと, 私は思いますよ.”

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🛑

どきん, と心臓が跳ねる思いがした.

私が愛人だというのはクラウス様の勘違いだし, 別に私もそうなることを望んでいるわけではない. だが, 親子愛以外の愛を知らない私には, 頭でわかっていてなお”愛されている.”という単語にはそれだけの衝撃があった.

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驚きが顔に出ていたのか, クラウス様はふふ, と声に出して少し笑うと, そっと私の耳に顔を近づけ, 囁くようにこう付け加えた.

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“もっと自分の魅力に自信を持ってください. あなたは自分が思っているよりも, ヨハン様に愛されている. ですが, もしヨハン様のことで困ることがあれば, 怖がらず私に相談しなさい. 私はあなたの味方ですからね.”

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クラウス様はそう言うとそのまま去ろうとする.

しかし私は勇気を出して引き留めた.

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“あ, あの! 先ほどの紙を返していただいてよろしいでしょうか. 誰が書いたのか気になるので, 家族に確かめたくて. . .”

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クラウス様の笑顔に一瞬翳りが見えた気がしたが, 気のせいだろうか.

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“すみません, お借りしたままでしたね. さ, どうぞ.”

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“ありがとうございます. . .”

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“では, お休みの件はきちんと処理しておきますから, すぐにでも帰れるように準備しておきなさい.”

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今度こそ遠ざかるクラウス様を見届けると, 私は浮かんでくる色々な思いを振り払うように, 速足で食事を受け取りに行った.

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まずはヨハン様に事の次第を伝える必要がある.

疑心暗鬼になりすぎではないかと自分でも思うが, 先ほど会話したクラウス様はあまりにも優しすぎた. 暖かい布団の中に罠が張り巡らされていたような不安を感じるのだ. こんなに気をまわしてくださった理由が単なる優しさではなかった場合, クラウス様経由ではどこまで詳細な話が伝わるか信用できない.

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ヨハン様に直接伝える方法を必死で考えた結果, 無礼を承知で食事のかごに手紙を入れることにした.

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―― 苛烈な性格というより, 単に人付き合いが不器用な方なのですよ, あの方は.

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🛑

クラウス様の言葉のうち, これだけは信じても良いような気がしたからだ.

本来なら私の立場で私からヨハン様に接触を図るなど言語道断だが, 幸いにも私は, クラウス様から言われたことはヨハン様に伝えるよう命じられている. ヨハン様は一時の怒りで理不尽な行動をとるような方ではない.

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詳しいことは直接話したほうが良いと思い, 手紙には添付の手紙についてクラウス様とお話をしたことをご報告したいため, お手すきの際にお呼びくださいとだけ書き, 祈るような気持ちでかごの中に忍ばせる.

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🛑

. . . そして, 私を呼ぶベルの音がひと月以上ぶりに鳴り響いたのは, かごを置いて自室に帰ってくるのとほとんど同時だった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐𝟏
犬とダガー

“まさかお前から俺に手紙が来るとはな. これは何事だ?”

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お部屋に入ると, ヨハン様はテーブルの上に私の手紙と例の紙を置き, 片肘をついて私を待っていた. 久しぶりにお見かけしたヨハン様は, 目の隈が濃く, 少し痩せられているような気がする.

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“お忙しい中, お手を煩わせてしまい申し訳ありません. お時間を割いてくださったこと, 心より感謝申し上げます.”

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“良い. 仔細を述べろ.”

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“はい. 実はそちらの紙は昨夜, 私の部屋の窓から入ったものでございます.”

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“トリストラントとは, たしかお前の父親の名だったな.”

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“さようでございます. それがどのくらい信じるに値するものなのかはわかりませんが, 確認の時間をいただきたく, 今朝がた居館に伺ったのですが. . .”

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ズザンナ様にお願いをしに行ってから, クラウス様とのお話しまで詳細をお伝えする. 特にクラウス様とのお話に関しては. . . さすがにヨハン様から愛されている云々は言う勇気がなかったので, 自信を持てと言われた程度にとどめたが. . . 記憶の限り, やり取りを再現してお話した.

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報告の最中, ヨハン様は口をはさむこともなく, 険しい顔でうなずきながら聞いてくださり, 私が話を切り上げると一言こうおっしゃった.

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“ヘカテー, よくやった.”

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“え. . .”

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“事前に警告しておいたのもあるが, 実際にクラウスを前にして, 自分の思う通りに話ができる者はそうはいない. 特にこの紙を取り返したのは快挙といって良いぞ.”

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“過分なお言葉, ありがとうございます.”

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“さて, だ. この紙の出所については心当たりがある.”

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ヨハン様は小さな声で, 少し苛立ったように”駄犬が.”と呟いた.

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“駄犬. . . ですか?”

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“ああ. これはおそらく俺の隠密がお前に渡したもの. 敵側の人間なら紙を投げ入れるよりお前を殺すか誘拐した方が早いし, わざわざ梯子のない3階の窓から投げ入れるなんて芸当はかなりの手練にしかできまい. 候補は数人いるが, 投げ入れられた時間的に言ってケーターという奴だ.”

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“隠密, ということは, ケーターとは人名なのですか?”

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駄犬とは, ずいぶんとひどい名をつけられたものである.

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“暗号名のようなものだな. だが, 問題はまだ二つ残っている. 一つ目は, 何故ギリシア語で書かれたかということだ. 奴にギリシア語ができたとしても, お前にあてたものならわざわざギリシア語で書く必要がない. 誰かギリシア語を解する第三者がいる可能性もある. そして二つ目だが. . .”

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ヨハン様は突然, ドン, と拳で机を叩いた.

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“俺はこれを命じていない!”

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私は思わずびくりと肩を震わせる. こんなにも怒気を露わにされたのは, 初めてお会いした時以来だ. 眉は吊り上がり, 眼は見開いて, かみしめた唇に血がにじんでいる. ヨハン様が発する気迫に, 部屋中の空気がピリピリとしているようだ.

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しかしその気迫はすぐに収められた. ヨハン様は, ふぅ, と気を落ち着かせるように深呼吸をすると, 冷静なお顔に戻る.

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“だが裏切りにしては稚拙すぎる. わざわざ俺に気づかせようとしているとしか思えない. 俺も随分と舐められたものだ.”

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“そのケーターという人は, この城にいるのですか? ヨハン様の管理下にあるなら, 詳細を本人にお聞きになれば. . .”

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“そうだな. この城に住まわせてはいないが, すぐにでも呼びつけて話を聞くつもりだ. あとお前もお前だ. 何か俺に隠している話があるんじゃないか?”

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そう言われて途端に顔がかあっと熱を帯びる. 嘘を見抜くのがお得意なのは知っているが, こんなことに使わなくていいのに.

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“そ, それは特に言う必要もないと思ったというか, その, クラウス様が. . .”

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“はは, なんだその反応は! そうか, まぁなんとなくわかった. 年を食っているとはいえ, あいつはなかなかかっこいいからな. 別に言わなくていいが, あの上辺の優しさに騙されないようにだけ注意しろよ. ヘカテー, これを.”

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ヨハン様は奥の引き出しから1本のダガーを取り出すと, 私に渡した.

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“護身用だ. 休みの件は了承するが, お前が一人で実家に行くのは少し危険かもしれない. 念のため持っておけ.”

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“ありがとうございます.”

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“何かあれば, 休み中でもすぐに帰ってこい. お前の父親が生きていれば, 一緒に城へ連れてくることも許可しよう.”

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渡されたダガーの重みを両手に, 私は何か大きなことに巻き込まれつつあることを感じていた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐𝟐
街へ

翌日から早速お休みをいただき, 私は4か月ぶりに街へ出た.

イエーガー方伯領は帝国の北方一帯. その中でも国境が近いレーレハウゼンは, 隣国との貿易の拠点であることもあり, 商業が盛んな都市だ.

私の生まれ育った家も, 農業地帯とは少し離れた, 多くの店が立ち並ぶ街の中にある.

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城内はいつも静かで厳格な雰囲気があり, とりわけ塔の中ではヨハン様以外と話すこともない生活だったため, 道行く人々の声でにぎわう街はどこか新鮮に思えた. これから家に確かめにいく内容は不安に満ちたものであるにもかかわらず, 街の明るい雰囲気につられて少し緊張がほぐれていく.

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立ち並ぶ店が扱う品は様々だ. パンや酒, 鋳物, 金物, 服, 靴. . . 皮革製品を扱う店もある. 今まで意識して見たことがなかったが, ヨハン様は毛皮は商人にわたるまでに間に入る者が多いとおっしゃっていた. それは皮革も同様だろう. ヤープのあまりにも貧しい身なりに反して, 皮革店の店主はある程度余裕のありそうな身なりをしている. こうして製品として店頭に並ぶ品々は, ヤープが皮を売った時からどのくらい値段が変わっているものなのだろうか.

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しばらく歩くと, 人々の興奮した声が聞こえてきた.

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“おーい, あっちで歯抜きらしいぞ!”

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“ハンスのとこの倅が抜くんだってよ!”

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歯抜き, つまり抜歯を行う大道芸だ. 庶民の数少ない娯楽である大道芸の中でも, 派手な芸である歯抜きは人気が高い.

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“歯抜きだ! 歯抜きだ!”

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大人たちの掛け声を聞いてか, 裏道から浮浪児たちも飛び出してきた. 普段は多くの商人と一部の農民しか目に入らない大通りだが, 大道芸という大きなイベントがあると, 私が普段通らない街の裏側で生活する人々の存在が見えてくる.

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道すがら人だかりにぶつかったので, 隙間から少し覗いてみると, 貴族のような派手な装束に身を包み, 化粧を施した, 異様な風体の男が見えた.

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“お集まりのみなみなさまぁー! 本日は帝国一, いや世界一の歯抜き師, このオイレの歯抜きをとくとご覧あれぇー!”

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その小太りの男は体形に似合わぬ軽快な足取りで踊り, 始まりの口上を述べている. 今回抜かれるのは隣の椅子に座っている青年らしい.

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梟と名乗った歯抜き師は, 伴った楽士によって打ち鳴らされる太鼓と息を合わせて, 半分歌うように場を盛り上げている.

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“さぁさぁオイレが始めるよ♪ 私は梟, 昼間のフクロウ♪ 抜かれる人がヒィヒィ鳴けば, 抜いてる梟はホゥと鳴く♪ ホゥホゥ鳴けば見に来るアホゥ, あなたも私もみんなが阿呆♪.”

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どんどんどん, と拍子をとる太鼓に, 観衆の手拍子と笑い声が加わっていく.

歯抜き師は満面の笑みで, 縞模様の頭巾から鉗子のようなものを取り出すと, 右手の指にひっかけてくるくると回し, 左手は袖口から派手な水玉柄の布を取り出して器用に若者の首に巻いた.

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“阿呆になれば怖くない♪ 阿呆になれば痛くない♪.”

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布を巻かれた青年は自分から頼んだだけに何も言えないだろうが, これから歯を抜かれる恐怖と衆目に晒される恥ずかしさで涙を浮かべているようだった. その様子に気づいた浮浪児たちが, 馬鹿にするように指さしてけらけらと笑う.

歯抜きとはこういうものだと知ってはいるが, 改めて間近で見るとなかなか趣味の悪い見世物だ.

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“おやまぁおやまぁお兄さん♪ あんたまだまだ賢いままかい♪ あんたが阿呆になれないならば, 勇者になるのはどうだろぉ♪ 歯を抜くときのあんたの声が, 太鼓の音より大きけりゃ, 泣き虫弱虫葉っぱ虫ぃ♪.”

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歯抜き師の口上に合わせ, 楽士がどんどんと青年を煽るように顔の周りで太鼓を打ち鳴らすと, 青年はさすがに覚悟を決めたようだった.

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“さぁさぁオイレが始めるよ♪ 準備はいいかいお兄さん♪ それ, ホーゥホーゥホーゥ!”

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梟の鳴きまねとともに鉗子を口の中に入れると, 観衆はお約束とばかりに一緒にホゥホゥと鳴く. どうやらこの辺では有名な歯抜き師のようだ. この時ばかりはさすがに真剣な目で, 口の中の鉗子を操っている.

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ただ, 太鼓の音でかき消されてはいるが, やはり青年はかなりの声で泣き叫んでいるようだった.

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歯抜きが終わると, 歯抜き師は青年の口に脂の塊のようなものを塗りこみ, 首に巻いていた布で小さな冠を作って頭の上に乗せた.

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“歯抜きの悲鳴は聞こえなかった! さすが勇敢なお兄さん♪ いやいやそれとももしかして, オイレの歯抜きが上手すぎたぁー♪ .”

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あたりが歓声に包まれると, 彼は大仰なしぐさでお辞儀をし, 歯抜きの芸は終了したようだ. 思わずしばらく見入ってしまっていたが, 早く家に戻って父の生死を確かめないといけない.

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私が人だかりを離れようとしたとき, ふと, 壇上の歯抜き師と目が合った.

私を見てにっこりと笑った彼は, 小さく唇を動かす. それを見た時, 私は周囲の音が遠くなったように感じた.

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――声は聞こえなかったが, 彼は確かにこう言っていたのだ.”気をつけて.”と.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐𝟑
わたしの家

活気ある街の中で歩みを進め, 徐々に私の住む家に近くなると, 見知った顔も多くなってきた.

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“ヴィオラじゃないか! お城のメイドさんになったんだって?”

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“ヴィオラおねーちゃん, また遊んでー.”

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すれ違う人々が, 口々に私の今までの名前を呼ぶ.”ヘカテー.”と呼ばれることが普通になってきていたので, ヴィオラという響きや庶民独特の距離感に, 懐かしいようなこそばゆいような思いがした.

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大通りを離れても, 街は活気にあふれていた. 商人は基本的に接客業だ. 話しかけるときはいつも笑顔. 道行く見知らぬ人にも親しみをもって声をかけ, 何度も買ってくれた人は友人として接する. つまり, 商人でにぎわう路地は, それだけ笑顔に満ちることになる.

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これが, 私が今まで育ってきた空間. 明るくて鮮やかな, 少しばかり喧しい街.

離れていた期間は半年にも満たないのに, いざ訪れてみると自分がいかにこの空間を恋しく思っていたかを感じさせられた.

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しかし, いよいよ自分の家の前まで来て, 愕然とした. 空き家になっているのだ.”貸家.”という札までかけられて.

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“あらヴィオラちゃん, 帰ってきてたの? 何か忘れ物?”

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声をかけられて振り向くと, ちゃきちゃきとした雰囲気の中年の女性が立っていた. 近所に住むマルタさんだ.

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“マルタさん! その, お休みを頂いたので帰ってきたんですけど. . . 家が貸家になってるみたいで. . .”

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“貸家って, もう空き家なんだから当然じゃない? トリストラントさんは引っ越ししたわよね?”

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“え! 引っ越しですか?!”

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“先週だったかしらねぇ. 私も人づてに聞いて驚いたんだけど, まさかヴィオラちゃんも聞いてなかったのかい?”

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私が絶句していると, マルタさんは心配そうに頭をなでてくれた.

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“きっと, 連絡が行き違いになっちゃったんだねぇ. 大丈夫, あの娘べったりなトリストラントさんがヴィオラちゃんに何も言わないわけがないよ. お城の方に連絡が行ってるかもしれないから, 確認してごらん. ね?”

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“そうですね. . . そうしてみます. . .”

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“あたしはまだ仕事中だからもう行くけど, 行くあてに困ったらうちに来たっていいんだからね.”

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“ありがとうございます!”

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マルタさんは去っていったが, 私はそのままぽつんと家の前に佇んでいた.

家の中に人の気配はない. 貸家の札がかかった扉は鍵が掛かっている. 父が出迎えてくれることはなさそうだった. 慣れ親しんだ我が家がこんなにも簡単になくなってしまうことに少なからず動揺してしまう.

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ただ一方で, 安心したところもある. マルタさんは”引っ越した.”と言っていた. 葬儀となれば近隣の人が知らないはずもないので, 父の生存にはまだ希望が持てる.

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それにしても, どこに行ってしまったのだろう. そしてあまりにも急過ぎる. 本当に連絡が行き違っただけかもしれないが, 私からの返答も待たずにどこかへ行くなんて, そんなに急いでいたのだろうか. 父が急ぐような事とは一体. . . ?

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🛑

“あれ, トリストラントさんとこのお嬢ちゃんかな?”

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🛑

また別の人に声を掛けられた. いつの間にか人通りが少なく静かになっていたせいか, ついまた思索にふけってしまい, 気配に気づかなかった.

声の主を見やるが, 今度の人は見覚えがない. 中肉中背の若い男の人だ.

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🛑

“あ, ごめん! 急に話しかけたからびっくりしちゃったかな. トリストラントさんとギルドで知り合ったカールです. 見た目が似てるからもしかしてと思って.”

🛑

“こちらこそ失礼しました! はい, トリストラントの娘のヴィオラです.”

🛑

“ちょうど良かった! 僕, 引っ越しのときの荷運びを少し手伝ったんだけど, 運ぶ時に荷物がうちの商品に紛れちゃってたみたいなんだ. これって君のお父さんのかい?”

🛑

🛑

カールさんは1冊の本を取り出し, パラパラと広げて見せる. 私はその本に見覚えがあった.

🛑

羊皮紙ではない不思議な紙でできた本. 私の知らない言語で書かれており, たくさんの植物の挿絵が入っている. 余白にはギリシア語がびっしりと書きこまれていた. 父がお守り代わりだといっていつも持ち歩いてていた, 祖父の遺品だ.

🛑

🛑

“ありがとうございます! そうです, 父のものです. 祖父の形見だったので, 届けていただけて助かりました!”

🛑

“そっか! 引っ越ししてから結構時間たってから気づいてさ, うちでは本なんか扱わないからうちのものじゃないことは確かなんだけど, トリストラントさんのもので合ってるかどうかの自信もなかったんだ. わかって本当に良かったよ! じゃあ, お父さんに渡しておいて.”

🛑

🛑

私がカールさんから本を受け取ろうと手を伸ばすと, 彼はこう付け加えた.

🛑

🛑

“あの世でね.”

🛑

🛑

目の前に銀色の線が閃き, 私は思わず目を瞑った.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐𝟒
狙われているのは

死というものは, こんなにも突然やってくるものなのか.

🛑

動物的な本能で感覚が鋭敏になっているのか, 時が流れるのが遅い. しかし, 私はその場を動くことはできなかった. ヨハン様にいただいたダガーを取り出そうとする手は, 意思に反してひどく重い.

🛑

その理由は恐怖と, 諦めだ. 目の前にいたカールという男に, 殺気は一切感じられなかった. つまり, 殺そう, という覚悟も必要ないほどに殺し慣れている賊の類ということだ. そんな輩にこれだけの至近距離で狙われて, 武術の訓練もしたことのない商人の娘に逃れられるはずもない. 迫りくる刃物の気配に肌が泡立つのを感じながらも, 私は妙に冷静だった.

🛑

ああ, 何も成せない人生だった.

もっと本を読んでみたかった. おしゃれだってしてみたかった.

🛑

ヤープとももっと話してみたかった. あの世間ずれしすぎた少年は, もう少し話せば友達になれたような気がする.

🛑

ヨハン様のこともそうだ. あの方には何かと振り回されてばかりだったが, こんな状況になると朗らかな笑顔ばかりが思い出される. せっかく勉強の機会まで与えてくださったのに, これといったお役には立てた記憶がない.

🛑

何より, 父の行方は結局わからないままだ. 最後に一目会いたかった.

🛑

ほんの数秒の間に, やりたかったことがいくつも浮かんできたが, やがてそれも終わりを迎える.

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🛑

ドサ, と音がした.

🛑

🛑

これからやってくるであろう痛みに耐える覚悟を決め. . . 音がしたのに衝撃が来ていないことに気づく.

🛑

🛑

“. . . へ?”

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🛑

間の抜けた声が聞こえて, 恐る恐る目を開けると, そこには両腕のないカールが呆然と立っていた.

🛑

続けて, ヒュッという音がしたと思うと, 無くなった自分の腕を不思議そうに眺める彼の頭に細長い何かが突き刺さり, 目を見開いたまま膝から崩れ落ちた. ピクリとも動かない足元の彼を見やると, 本を持った左手とダガーを握った右手が, その身体の下敷きになっている.

🛑

あまりに予想外の展開に頭が追い付かず, 私はただ, 徐々に血がしみこんでいく自分の靴を眺めていた.

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🛑

“だから気を付けてって言ったのにぃ.”

🛑

🛑

ふいに声が聞こえてあたりを見回すが, 誰もいない. 路地の反響のせいか, どの方向から聞こえたのかもわからなかった.

🛑

🛑

“本を拾ったらお城に帰りな. 誰かに見つかると面倒だよぉ?”

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🛑

やはり声の主は見つからないが, 彼が助けてくれたのだろうか.

🛑

🛑

“ど, どなたかわかりませんが, 助けてくださってありがとうございました!”

🛑

“はぁい, どういたしまして.”

🛑

🛑

返事が返ってきたので, 私は急いで本を拾うと, 一目散に駆け出した.

🛑

🛑

“狙われているのはどっちなんだろうねぇ.”

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🛑

そんな私を追いかけるように呟く声が聞こえたが, もう反応する余裕はない. 膝が震えていて, 立ち止まったらそのまま動けなくなってしまいそうだった.

🛑

とにかく走る, 走る. 走ったあとの地面には赤く足跡がついた. はじめは濃く, 距離を延ばすうちに薄くなっていく. まるで悪夢から現実に戻っていくかのようだ. まさか大好きなわが家が, 悪夢の舞台になるとは思わなかった.

🛑

なぜ父は家を引き払って失踪したのか. あのカールという男は誰だったのか. あの世で渡せと言っていたということは, もう父も殺されてしまったということなのか.

🛑

まとまらない考えを振り払ってただ走る. 大通りへ出て人が多くなってくると, 皆驚いたように私を見たが, 構わなかった. 別に返り血を浴びたわけでもないので, 怪しまれるほどではないだろう. さすがに体力の限界で, 速度はどんどん落ちていくが, 歩く速度になっても進むことだけはやめなかった. 帰る家がなくなった今, 行くべき場所はフェルトロイムト城しかないのだ.

🛑

気が付くと, 北の塔の前まで来ていた. どんな道を通ってここまで来たかも覚えていない. 空はすっかり赤くなっている. 夕闇を背に聳え立つ塔を見ると急に疲れが襲ってきて, その場にへたり込んでしまった.

🛑

ほとんど地面に寝転ぶ姿勢で, 上がりきった呼吸を整えようとする. 思わず塔に来てしまったが, 今の私は休暇中だ. 本当なら先に居館へ行くべきだった. 立ち上がろうとするが, 身体が悲鳴をあげて言うことを聞かない.

🛑

すると, がたん, と音がした. 音のほうを見ると, 梯子がおりてきている. ヨハン様が下ろしてくださったなら, すぐにでも伺わなければ.

🛑

這うように梯子のほうに近づいていくと, 声が振ってきた.

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🛑

“随分走ったみたいだねぇ. ゆっくりで大丈夫だよぉ.”

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🛑

妙に間延びした呑気な声は, 先ほどカールと名乗った男から助けてくれた人のもの. しかし, 2階からひょっこり顔を出し, ばちんと片目をつぶって見せる彼に, 私は全く見覚えがなかった.

🛑

戸惑う私を見て, 彼は小声で, 一段高く, 歌うようにこういった.

🛑

🛑

“私は梟, 夜のフクロウ♪ 主の命をうけたなら, いつでもどこでも飛んでいく♪ 今日は空き家にホーゥホーゥ♪.”

🛑

“あ! あなたは. . .”

🛑

🛑

その声は忘れようもない. 先ほど街で見た, 歯抜きのオイレの声だった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐𝟓
梟の顔

なんとか梯子を上ると, オイレさんは手をつかんで引き上げてくれた.

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🛑

“あの, 先ほどは危ないところを助けてくださり, ありがとうございました!”

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“いいのいいの, それが仕事だったからねぇ. でも, 知らない人を簡単に信用しちゃダメだよぉ. 今もそうだけどさ.”

🛑

“それはその, さっき助けていただいたので. . . 味方だと. . .”

🛑

“うんうん, まぁ僕のことは信用してくれて大丈夫だよぉ. 君と同じで, ヨハン様の配下だからね.”

🛑

🛑

職業病なのか, 一貫しておちゃらけた雰囲気で話す彼を見ながら, どうしても気になっていたことを訊いてみた.

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🛑

“あの. . . お昼に大通りで歯抜きをされていたオイレさん, ですよね? お化粧をされてないのもそうですけど, なんかほっそりしているというか. . .”

🛑

🛑

そう, 大道芸を見せていたオイレは肥満体だったが, 目の前の彼はずいぶんと引き締まった体型をしている. そのせいで余計に同一人物に思えないのだ.

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🛑

“はっはっは, 大道芸人の食事と運動量で, あんな体型になれるわけないでしょぉ? 太ってたほうが面白いから化けてるだけ. 化け方は企業秘密だけどねぇ.”

🛑

“そうだったんですか. . .”

🛑

“それより, 早くヨハン様のとこに行かなくちゃ! 報告報告~♪.”

🛑

🛑

オイレさんは足取り軽く, 階段を上がっていった. 上る速度が異様に速く, それに追いつこうとするとせっかく整えた息がまた上がってしまう.

🛑

そして, ヨハン様の私室の扉の前につくと, 首と肩をほぐすようにぶんぶんと回し, 大げさに深呼吸をしてから, 扉に向かって声をかけた.

🛑

🛑

“ヨハン様, オイレでございます. ヘカテーをお連れし, 本日のご報告に馳せ参じました.”

🛑

🛑

話す声は一段低く, 先ほどまでの陽気な声が作り声だったのだと気づかされた. 雰囲気も打って変わって, 凛とした緊張感に満ちている. こちらの方が素なのだろうか. あるいはどちらも演技なのか. いずれにしても役者が過ぎる.

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🛑

“入れ.”

🛑

🛑

入室を許可する聞きなれた冷たい声. 5日もお休みを頂けたのに, まさか翌日に聞くとは思わなかった.

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部屋に入ると, オイレさんはヨハン様の前に跪いた. 発言はしない. 私はいつも通り, 部屋の隅で礼をして控える.

🛑

🛑

“思いのほか早かったな. 仔細を述べろ.”

🛑

“は. ヘカテー宅はすでに引き払われて貸家となっており, 近隣住民よりトリストラントは引っ越したとの情報を得ました. ヘカテーは家の前で賊に狙われましたが, 私の方で処理いたしました. 賊は身分を示すものを所持しておらず, どこからの刺客かは不明です.”

🛑

“トリストラントは逃げたと考えてよさそうか.”

🛑

“単なる脅しかもしれませんが, 賊はヘカテーにあの世で父親に会えという旨のことを言っておりました. 生存の望みは薄いかと思われます. ただし, ヘカテーに私物を残しておりました故, 何らかのヒントになるやもしれません.”

🛑

“承知した. ヘカテー, 渡されたものを見てもよいか?”

🛑

🛑

お二人のやり取りを聞いていると, 不意に話を振られたので, 前に進み出てヨハン様に本をお渡した.

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🛑

“はい, こちらでございます. 異国の文字で書かれた本ですが, 祖父の遺品で, 私も何度も目にしたことのあるものです. 父のものに相違ありません.”

🛑

“ふん. . . なんだこの字は, 見たことがないな. 紙もインクも, こちらのものとは違うようだ.”

🛑

🛑

ヨハン様は受け取った本を開き, 1頁ずつ素材を確かめるようにしながら呟いた.

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🛑

“東方の更に東には, 植物から紙を作る技術があると聞いたことがある. もしかするとこの本は相当遠方から来たものなのかもしれんな. ギリシア語の書き込みを見る限り, 薬学に関する本のようだが. . . ヘカテー, 大切なものなのに申し訳ないが, しばらく借りてもよいか? 必ず無傷で返す.”

🛑

“もちろんです. どうぞお持ちくださいませ.”

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“助かる.”

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🛑

ヨハン様は本をテーブルに置くと, オイレさんに向き直った.

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🛑

“さてオイレ. 此度の働き見事だった. ヘカテーを無事に返してくれたこと, 感謝する. お前に頼んでよかった. 褒美は上乗せしておこう. 引き続き頼むぞ.”

🛑

“もったいなきお言葉にございます.”

🛑

🛑

どうやら, オイレさんは最初から私の護衛としてヨハン様がつけてくださっていたようだ. 鎧兜を着けているわけでもない, 普通の服の普通の青年. 騎士でも傭兵でもなさそうだ. 返り血一つ浴びた様子もなく, 平然とした彼の顔を見ながら, 私は, 結局自分では抜くことすらできなかったダガーのことを思った.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐𝟔
隠密

“ヘカテー, どうやら父親のみならずお前も狙われているようだな.”

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🛑

鋭い視線が私に突き刺さる.

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🛑

“改めて問うが, 何か隠していることは?”

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“いえ何も. . . 私もなにがなんだかわかりません. . .”

🛑

🛑

ヨハン様は席を立ち, 私に詰め寄ってくる. 以前, 文字について聞かれた時と同じ目だ.

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🛑

“この本は祖父の遺品といったな? 父方の祖父で間違いないか?”

🛑

“はい.”

🛑

“祖父が死んだのはいつだ?”

🛑

“私が生まれる前と聞いております. 具体的にはわかりません.”

🛑

“祖父と父はどこの出身だ?”

🛑

“それは私にもよくわからないのです. . . 容貌からして外国の出身であろうことは認識しておりましたが, 父は過去をあまり語りたがらず. . . 申し訳ありません.”

🛑

“ふん, そうか.”

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🛑

ヨハン様はやっと視線を外してくださった.

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🛑

“そこにいるオイレという男は, 俺の配下, つまり隠密のひとりだ. しばらくお前の周囲を探らせる. お前はまだ休暇中だが, 仕事はしなくても構わないから, このまま塔にいろ.”

🛑

“いえ, そんな. . . ここに置いていただけるのでしたら, 引き続き業務にあたります.”

🛑

“そうか. では休暇は取り消しておく. それにしても面倒ごとは続くものだな. さすがに少し堪えた.”

🛑

🛑

ヨハン様は深くため息をつくと, 珍しくテーブルに突っ伏すように姿勢を崩された. おっしゃる意味はよくわからないが, 最近は随分とお忙しいのだろう. 相変わらず目の隈が濃く, 顔色もかなりお悪い. 頬も少しこけているような気がする.

🛑

ちらりととなりのオイレさんの様子を伺うが, 表情に変化はない.

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🛑

“あの, 差し出がましいこととは存じますが, ご体調がすぐれないようにお見受けいたします. よろしければ温かい蜂蜜酒でもお持ちいたしましょうか.”

🛑

“いらん. 今それを飲んだら寝てしまいそうだ.”

🛑

“少しお眠りになられたほうが良いのではないでしょうか.”

🛑

“いや, まだやらなければいけないことがある. 何, たかが3日程度どうということはない.”

🛑

“. . . 申し訳ございません.”

🛑

🛑

これ以上進言するわけにもいかないので引き下がったが, 3日寝ていないということだろうか. ご領主様からのお手紙以来, 相当忙しくされていることは承知していたが, 塔にこもりきりのヨハン様にそこまで体力があるはずもない. さすがに心配だ.

🛑

何かできることはないかと考えていると, くく, と笑い声が聞こえた.

🛑

🛑

“全くお前は能天気なものだな, さっき殺されかけたばかりだというのに. 俺のことはいいから自分の心配をしていろ. またいつ窓から変なものが飛び込んでくるかわかったものではないんだからな.”

🛑

“ありがとうございます. 過ぎたことばかり申し上げ, 大変失礼いたしました.”

🛑

“別に叱ってはいない. その謝り癖もどうにかしておけ. 二人とも下がってよいぞ.”

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🛑

こんなにも心を砕いていただいたのに, 私の危機感のなさで失望させてしまっただろうか. 少ししゅんとしてしまったが, オイレさんがさりげなく退室を促したので, 大人しく部屋を出ることにした.

🛑

部屋を出ると, オイレさんはうーん, と伸びをして表情を和らげる. 部屋に入る前と同じ雰囲気だ. やはりこちらが素なのだろうか.

🛑

🛑

“いやぁ, 何度お話しても緊張するよねぇ. 優しい方なんだけどねぇ.”

🛑

“ヨハン様とはよくお話されるんですか?”

🛑

“うん. ほんと, あの方は頭脳も精神力も普通じゃないよぉ. こんな狭い塔の中で, ちょっとした情報から全部お見通しでさ. 僕より10歳ぐらい下のはずなのに, 風格ありすぎだもん.”

🛑

“. . . オイレさん, そんなに年上だったんですね.”

🛑

“えぇ? 僕って結構若く見える? もしかして僕ってかっこいい?”

🛑

“そういう意味ではないです.”

🛑

🛑

若く見えているのはこのおちゃらけ具合が原因で, 部屋でヨハン様とお話されていた時にはしっかりとした大人の雰囲気があった. 正直に言うと, 振り幅が大きすぎて, かっこいい・悪いというより胡散臭く見えている. 命の恩人なだけに, 口が裂けてもそんなことは言えないが. . .

🛑

🛑

“オイレさんって, ヨハン様の隠密なんですよね?”

🛑

“そうだよぉ, もちろん内緒だけどねぇ.”

🛑

“ケーターさんってご存じですか?”

🛑

🛑

少し気になっていたことを訊いてみた.

ヨハン様は前回, 窓からメモを投げ入れたのはケーターという人だといったが, 今回その人の話は出てこなかったからだ.

🛑

しかし, その名を聞くとオイレさんの肩がびくりと震えた.

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🛑

“ケーターなら, 今, 地階にいるよ.”

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🛑

返事をする声は北風が吹き込んだかと思うほど冷たく, 私はぞわりと鳥肌が立った.

🛑

地階, つまり, 塔の1階. そこは平時は倉庫であり, 戦時には牢獄となる場所だ.

🛑

普段私たちが2階から梯子で出入りしていることからわかるように, 地階には窓も扉もなく, あるのは板でふさがれた天井の小さな穴だけ. 一切の光が差し込まず, 蛇や毒虫が這いずり回る空間だ. そこに投獄されたものは心身ともに無事ではなく, ある城で塔の地階に1年幽閉されたものは, 出てきたときには白髪の老人になり果てていたという話も聞く.

🛑

🛑

“まだ昨日の今日だけどね. あの駄犬, 自分から捕まりに来ておいて, 何一つ喋ろうとしない. 今日もこの後で話を聞きに行くけど, うんざりするよ.”

🛑

“話を聞く. . . って, まさか!”

🛑

“ねぇ, ヘカテーちゃん. 君の立場は少し不思議なところはあるけれど, 君はあくまでメイドのお嬢さん, 表の仕事の人だ. 僕らとは違う.”

🛑

🛑

静かに, そして淡々と語るオイレさんは, 先ほどまでとも, ご報告の時とも違う顔をしていた.

🛑

🛑

“知らないほうが安全でいられることも, たくさんあるんだよ. 今日だってそうだ. たった一人の家族のことだから, ヨハン様やクラウスさんは, 君の心情を慮って実家を見に行くことを許してくださったけど, 本来なら僕が一人で確認したほうが10倍速かった.”

🛑

“そんな, 私は. . .”

🛑

“何も知らなかったし, 考えていなかったんだよね? うん, それでいい. 自分で動こうとしすぎれば, そのうち足元を掬われる. ヨハン様が君を守ると決めたなら, 君は余計なことは考えずに守られていたほうがいいんだ.”

🛑

🛑

そこまで話すと, オイレさんは急に一段とびで階段を駆け下りて勝手に私の部屋の扉を開けた.

🛑

🛑

“それでは, お部屋はこちらになりまぁす♪.”

🛑

🛑

おどけた調子で大仰なお辞儀をする役者ぶりに, 私は彼が隠密たる理由をなんとなく感じていた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐𝟕
余話:犬と梟

“おはよぉ, 生きてる?”

🛑

“物騒な挨拶をするな, さっさと上げろ.”

🛑

🛑

天井から差し込む僅かな明かりとともに聞こえてくる, 仕事仲間の呑気な声にため息を漏らしながら, 俺はふてくされたように応える.

🛑

上の階に引き上げられて, 明るいところで自分の肌を見てみると, たった一日で惨憺たるありさまだった. 何に噛まれたのか, 真っ赤に腫れあがっている部分や, 大量のできものができている部分. さらに, 縛られた手首は縄に擦れて血と漿液が滲んでいる.

🛑

🛑

“地階がこんな有様だと知ってみると, 塔全体の衛生状況も疑わしいもんだな.”

🛑

“君, この状況でよくそういう発想になるよねぇ. 大丈夫, 上のほうは掃除も行き届いてるよ.”

🛑

“そりゃよかった. で, 今日はどうする気だ? 歯でも抜くか?”

🛑

“変なこと言わないでくれる? 歯抜きはあくまで治療なんだからね. 僕は医療従事者だ, 健康な歯は抜きたくないよぉ.”

🛑

🛑

梟と名のつけられたこの隠密は, あからさまに嫌そうな顔をした. それもそのはずで, 本来彼は諜報と陽動が主であり, 尋問を担当することはほとんどない. 歯抜き師という表の職業故に, 人体をよく知る者として抜擢されたのだろうが, 余計な仕事に抜擢された側はたまったものではないだろう. また, 軽業を得意とするため, 俺が普段担当している荒事系も一部は彼に回されていると思われる. ある意味, 今回の俺の行動の一番の被害者と言えるかもしれない.

🛑

🛑

“こっちにはこっちの事情があんだよ. とっとと今日の分の無駄な仕事をしやがれ.”

🛑

“はぁ. . . さっさと色々説明して任務に戻って欲しいなぁ.”

🛑

“説明したところで仕事に戻れるかも怪しいもんだ.”

🛑

🛑

すでに俺の指は赤黒く変色し, 爪は1本もない. 爪は1年もすれば生えてくるだろうが, 今までのような俊敏な動きができるようになるにはだいぶ時間がかかるだろう.

🛑

🛑

“まぁいいや. 今日は僕も疲れてるから雑談でもつきあって.”

🛑

“はぁ?”

🛑

“ほら, 尋問ってさぁ, 喋る奴は爪1本で喋るじゃん. 昨日そんな状態になった時点で, 君が喋んない人だってのは明白だからねぇ.”

🛑

🛑

オイレは床に転がった俺を見下ろして遠い目をする.

🛑

🛑

“俺はありがたいが, 仕事サボって報告はどうするんだ?”

🛑

“ヨハン様がいちいち君の状態を確認するわけないでしょ? そもそも喋るような人間だったら雇われてないだろうから, 昨日のこれは尋問というより, ただの制裁だねぇ. ヨハン様が必要なのはあくまで情報だし, こっから先は特に痛いことしなくても, たぶん僕は怒られないよぉ.”

🛑

🛑

やる気のなさそうなオイレの返答に, 俺は少し納得した. 情報を引き出して使い捨てにするのであれば, もっと残酷な方法はいくらでもある. 当初, 痛めつける対象が手足に集中していたのは, 日ごとに場所を変えるためだと思っていたが, どうやら本当に任務への復帰を視野に入れているようだった.

🛑

🛑

“たいしたもんだな, あの方は.”

🛑

🛑

おもわず独り言つと, オイレは空笑いをしてふいに話題を変えた.

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🛑

“そうそう, ヘカテーちゃんに会ったよぉ.”

🛑

“そうか. 紙の件で相談でもされたのか?”

🛑

“いいや, 彼女, お父さんのこと調べようとして街に行ったんだ. 今日一日僕が護衛してた. で, 見事襲われたよぉ.”

🛑

“なっ. . .”

🛑

“あ, やっぱり気になるんだぁ. その反応だと, 彼女が殺されちゃ困る側の人なんだねぇ?”

🛑

🛑

途端にオイレの眼がギラリと光り, 俺ははっとした.

オイレの本職は諜報. 妙に間延びした話し方に油断しがちだが, ただ肉体的な拷問に耐えるよりも梟との雑談の方がよっぽど危険だった.

🛑

🛑

“安心して, 無事だよ. 傷一つついてない. ヨハン様に報告する頃にはもう普通にしてた. あの子, 強いねぇ.”

🛑

“. . .”

🛑

“襲ってきたやつはカールって名乗ってたけど, 偽名かなぁ. 二十歳くらいで, 茶髪に茶目の平凡な顔で, 中肉中背の目立たない感じの奴. ちょっと鼻声だったなぁ. 服や持ち物も一通り漁ったけど何の手掛かりもなかったんだ. あんまり腕のいい隠密じゃなさそうだったねぇ?”

🛑

“. . .”

🛑

🛑

カールという男の特徴には心当たりがあった. 服や持ち物を漁ったということは殺したのだろうが, 暗殺を得意とする彼に勝ったとすると, オイレは荒事方面も相当な手練なのだろう. そのまま自分の後釜に転身しても良いのではないかと余計なことを考えた.

🛑

しかし, 話のどこに罠が潜んでいるかわからないとなると, もう会話を続けることはできない. 俺はできるだけ表情を硬くして, だんまりを決め込むことにした.

🛑

それでもこの梟にとってはかなり収穫があったらしい.

🛑

🛑

“そっかそっか, やっぱりあの子優秀だったんだ. それに, 手がかりが見つからなくて安心しているんだね. じゃあ, あの本は結構重要なものだったのかなぁ? ヨハン様も知らない文字の変な本.”

🛑

🛑

予想に反してそう言われると, 気をつけていたにもかかわらず思わず息を呑んでしまった. 梟は憎たらしいほど満足げな表情を浮かべている.

🛑

🛑

“僕ねぇ, これでもヨハン様のやりたいことに共感して, 自分の意志でここにいるんだ. 君もきっとそうなんでしょ? 誰の犬なのかはわからないけど, 駄犬と呼ぶにはもったいないと思うんだよねぇ. さっさと全部喋っちゃって, 復帰したらまた仲良くしようよ. ね?”

第3章 解剖学の夜明け
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐𝟖
敵か味方か

それにしても昨日はひどい一日だった. せっかくいただいた休暇も1日で終わってしまったし, 父のことは結局わからずじまい. 地階に囚われているというケーターさんは何か知っているのかもしれないが, オイレさんは彼がわざと捕まったようなことを言っていたので, あまり期待できない気がする.

🛑

塔にいても仕事の量は相変わらずなので, 気を紛らわせるように時間をつぶすとなると, 私は性懲りもなく”体部の有用性.”に手が伸びるようになっていた.

🛑

正直に言うと, ギリシア語の勉強は楽しいのが半分, 怖いのが半分だ. 父が使っていた言語を通して, 今まで感じる必要のなかった, 自分が何者なのかという疑問とどうしても目を合わせることになってしまうから.

🛑

元は祖父のものだったというあの不思議な本のことも気になる. 今まで”父がお守りみたいに持っている変な本.”という認識でしかなかったものだが, 薬学の本だったとは. 今なら余白に書き込まれたギリシア語も読めるようになっているだろう. ヨハン様から本を返していただいたら, 書かれていることからまた自分のルーツに触れることになるのかもしれない.

🛑

とはいえ, 本を返していただく頃には, きっとヨハン様たちが今起きていることについて突き止め, あらゆる事態が終息した後なのだろう. オイレさんは”余計なことは考えずに守られていたほうがいい.”と言った. あれはきっと警告だと思う. 私のうかがい知れないところで, 何か大きなことが動いている. 首を突っ込む余地などない.

🛑

右も左もわからぬままに, 自分勝手な心配で動いてしまってもきっと邪魔なだけだ. たとえそれが自分の父親の生死にかかわることであろうとも. そう, 頭では理解している. だからこそ, 今の私にできることは, メイドとして任せられた仕事と, 空いた時間を勉強で埋めることの2つしかない.

🛑

それでも, 一介の商人の娘が高度な勉強の機会をいただき, しかも女の身でありながら医学に触れられることを, 少し誇りに思ってしまう程度には, 私の感覚は少し世間とずれているようだ.

🛑

すると, ふいに扉が叩かれた.

🛑

🛑

“はい.”

🛑

“もぉ! 君はどんだけ危機感がないの? 不用意に開けちゃ駄目でしょ?”

🛑

🛑

扉を開けると, オイレさんが腕組みして立っていた. 自分が戸を叩いておきながらひどい言いようだ.

🛑

🛑

“この塔で私の部屋の扉を叩くなんてヨハン様くらいだと思いましたから. . . もしそうならお待たせするわけにいきませんし. . .”

🛑

“ヨハン様がわざわざメイドさんの部屋に来るわけないじゃない. 変な奴だったらどうするの?”

🛑

🛑

わざとらしく怒って見せるオイレさんは, 自分が十分”変な奴.”に見えていることに気づいているのだろうか.

🛑

🛑

“今度から, 相手が誰かわかるまで扉は開けないこと! いいね?”

🛑

“わかりました. . .”

🛑

“とりあえず, ヨハン様がお部屋で待ってるから行くよぉ.”

🛑

🛑

そこで私ははたと気が付いた.

🛑

🛑

“そういえば, ヨハン様のお部屋っていつも鍵かかってないですよね. 不用心なのでは?”

🛑

“あぁ, うん. もしあの方が誰かに狙われるとなったら, 鍵とかあんまり意味ないからねぇ.”

🛑

“あ. . . 私ったら縁起でもないこと. . .”

🛑

“大丈夫大丈夫! そんな不届き者は僕たちが返り討ちにするからぁ!”

🛑

🛑

普段塔の中に人の気配は感じないが, 隠密たちはいつもそばに控えているのだろうか. それに, 僕たちというからには, オイレさんとケーターさん以外にもいるのかもしれない. あえて訊こうとは思わないが, ヨハン様と隠密にはやはり謎は多い.

🛑

お部屋の前まで来ると, 珍しく声をかける前に扉が開かれた.

🛑

🛑

“二人ともちょうどよかった. やっと仕事が片付いたところだ.”

🛑

🛑

招き入れられた私たちは一礼して入室し, お側に控える.

🛑

🛑

“まずは今回のことだが, ヘカテーを呼んだのは他でもない. お前の父親の件が今回の仕事に少しかかわっているようだったからだ. 仔細の説明はオイレから頼む.”

🛑

“承知いたしました. まずはご領主様の指令についてからご報告申し上げます. 今回のヨハン様への依頼は, 教会派としてまとまっていたリッチュル辺境伯とティッセン宮中伯の癒着を引きはがすこと. 両者を対立関係に持っていくため, 溝鼠, 蜘蛛, そして駄犬の3名が派遣されました. しかし, 途中でケーターが自己判断で一時離脱. 作戦の進行に問題はなかったものの, 離脱中にティッセン宮中伯陣営との任務にない接触があった模様です. その後作戦に復帰しましたが, 単独行動が目立ち, ヨハン様より離脱命令が下されたのが3日前. そして, 例の紙の投げ入れを行ったことを帰還時に本人が認めております.”

🛑

“だそうだ. さて, ヘカテー. 今度はお前に訊こう.”

🛑

🛑

話についていけない私に構わず, ヨハン様は一旦部屋の奥に向かうと, 何かを引きずってきて, どさり, と私の前に投げ出された.

🛑

🛑

“この男を知っているか?”

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🛑

大きな荷物だと思ったそれは, 傷だらけで縄に縛られた男性だった. ヨハン様は手ずから彼の口に噛ませていた縄を外し, 髪の毛を引っ張り上げて私に顔をお見せになる. 痛々しい姿に思わず息をのむが, その顔はいくら眺めても一切見覚えはない.

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“申し訳ございません, 存じ上げません.”

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何度もじろじろ眺めてから答える私を見て, ヨハン様は彼から手を離された. 少し安心したような顔をしていらっしゃる.

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“どうやらこいつもお前を見るのは初めてのようだな. 改めて紹介するが, この男が先日話したケーターだ.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟐𝟗
久しぶりに

“この人が. . .”

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紹介された人物を思わず二度見すると, 彼は怒ったように目をそらしてしまった. しかし, こんな姿で床に転がっていても尚, 全身から発せられる獰猛な空気. それは明らかに商人や農民ではなく, 貴族の冷ややかな空気とも違う. よく言えば歴戦の戦士か, 悪く言えば盗賊がもつような空気で, やはり私の身近にこんな空気をまとった人はいない.

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“オイレ, こいつはその後何か喋ったか?”

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“本人からの説明はありませんが, 話をする中でわかったことはいくつかあります. ただし, ヘカテーを襲った男に心当たりがありそうであるにもかかわらず, ヘカテーの殺害を企てた側ではないようで, まだ一連の行動の動機については確信が持てない状況でございます.”

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“いや, 3日でここまでよく調べた.”

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“ありがとうございます. 恐れながら, 推測による私見を加えてもよろしいでしょうか.”

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“申せ.”

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“この男, どうやらヨハン様の意識をわざと自分に向けさせようとしていると思われます. 自分が尋問されること自体に意味があるようです. 我々はすでにこの男の掌の中にいる状況かと.”

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オイレさんの放った言葉に, ケーターさんはわずかに目を見開いて反応した. 私が人の表情の変化に敏感というのもあるが, どうやらあまり心の内を隠すのが得意な人ではないらしい. 諜報活動には向かなさそうだ. 隠密にも色々な役割があるのだろう.

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その様子を見ていたヨハン様はしばらく思案すると, ケーターさんの顔を持ち上げて詰め寄り, 問いかけられた.

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“ケーター, お前は誰の犬だ? ティッセン宮中伯か?”

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“違う.”

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“では俺か?”

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“さぁな. 俺は犬じゃない.”

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挑発するようなその答えを聞くと, ヨハン様はふっと満足げな笑みを漏らし, 投げ捨てるようにケーターさんの顔から手を離される. そして, おもむろに剣が抜かれた.

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“ヨハン様, そんな!!!”

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礼儀を忘れて叫んでしまった私を無視して, ヨハン様は迷うことなく剣を振り下ろされた.

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. . . ばさばさ, と音がして, ほどけた縄が地面に散らばる.

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“立て.”

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ヨハン様が声をかけられるが, ケーターさんは地面に寝転んだまま呆けた顔をしている.

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“ケーター, 立てといったのだが.”

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“あ, はい!”

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ふらふらと立ち上がった彼を見て, ヨハン様は言葉を紡がれる.

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“お前の行動は誰の命令でもないと受け取った. 故に殺しはしないが, 解放もしない. どうせその足ではしばらくまともに動けないだろうがな.”

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そして今度は, 私たちの方に向き直られた. 相変わらずやつれ切ったお顔だが, その表情は随分と楽しそうだ.

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“ヘカテー, 借りていた本だが, なかなかおもしろかったぞ. どこの国の知恵かは一向にわからんが, 少し見ただけでも見たことのない薬草や薬がたくさん載っていた.”

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“さようでございますか. 何かお役に立てたなら何よりです.”

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“いずれ余白の書き付けを頼りに再現してみよう. 試すのにちょうどいい人間の身体も手に入ったことだしな.”

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ちょうどいい人間の身体, とはどう考えても目の前のケーターさんだ. 私は薬を作った経験はないが, 家が代々商品の一部として扱っていたことから, 量や用法を間違えれば毒にも転じるものであることは知っている. 絶対に配合に失敗しないようにしようと心に誓った.

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“それからオイレ, 今日は久しぶりに解剖ができるぞ. 付き合え.”

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“承知いたしました, ありがとうございます!”

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解剖と聞いて, オイレさんの眼が少年のように輝く. そういえばこの人は歯抜き師, 医療に携わる人だ. 職業的にも興味があるのだろう.

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“あの, 解剖は私もお手伝いいたしますか?”

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“いや, お前はさすがに. . . 今日やるのは人間だからな. . .”

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“えっ.”

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思わずケーターさんの方を振り向くと, 彼も顔を真っ青にしていた.

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“ヘカテーちゃん, 随分と物騒な考え方するねぇ. 解剖するのはあくまで死体だよ, 君を襲った自称カール君だよぉ.”

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オイレさんが笑いながら囁いてきた. 私はとんでもない勘違いをしたことに気づいて恥ずかしくなったが, ケーターさんは露骨にほっとしている.

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“そうだな. 生きた人間を切り裂くくらいの胆力があるなら, お前にもついてきてもらおうか.”

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ヨハン様まで笑いながら私を見ている. 粗暴な女だと思われただろうか. 顔から火が出そうだ.

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“よし, どうせいずれは巻き込もうと思っていた. 今日は3人でやるか. ヘカテーも, 自分を殺そうとした相手なら罪悪感も薄いだろう. まっとうに復讐できる機会だとでも思っておけ. ケーターは調理場の隅においておけばいい.”

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結局, 私の参加も決まってしまった. 本当に, 余計なことはしないに限る. 今度から軽率な言動は控えようと改めて思った.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑𝟎
人体の禁忌

いつも通り調理場で解剖が始まる. 切るのは主にオイレさん, ヨハン様は内臓を絵に写し取り, 私は道具の準備をしたり, 言われたことの控えをとる係だ.

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調理台の上に乗っかった遺体は全身を清められたうえで布がかけられており, ヨハン様の指示に従ってその肌に刃が入れられていく.

やはりあまり気持ちの良い光景ではない. 動物の解剖で慣れてきていたとはいえ, 私はどうしても目をそらしてしまいがちだった.

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ケーターさんはというと, 部屋の隅で, 参加するでもなく, かといって何か別のことをするでもなくただ椅子に座っている.

しかし, ヨハン様の私室で会話していた時よりも, 何かに怒っているような気配は強くなっていた.

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それにしてもオイレさんは刃物の扱いが非常に上手い. 単に切れ味がよいのかもしれないが, 刃が突っかかることもなく均一に, 血もさほど出さずに身体が分解されていく.

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“オイレさんは, 解剖をしたことがあるのですか?”

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“うん, 何回もね. それに, 仕事で身体をよく使うから, 筋肉の流れとかはなんとなくわかってるんだぁ.”

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“今まで解剖用の動物を届けていたのもオイレだからな. 時間がある時は助手を頼んでいた. さすがに人間を解剖できる機会はほとんどないが.”

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そんな会話をする間に, 遺体の胸部から腹部にかけてはきれいに切り開かれ, 体の中に入っているものが全て晒される状態となった.

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“しかし, やはり人間を解剖する機会に恵まれなかったのはガレノスも同じだったようだ.”

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いつも通り, その全体の配置を絵に収めながら, ヨハン様は呟かれた.

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“ガレノス, 体部の有用性の. . . どうしてそう思われるのでしょうか.”

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“お前に渡したあれは簡略版で, 元の著作は[人体の諸部分の有用性]といって17巻からなる大著だ. だが, それだけの大著を読んでみても, 現物を確かめるとところどころ違うところがある. ガレノスの著作に載っているがどうしても見つからない器官があったり, その逆もまた然りだ.”

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“ヨハン様も普段は別の動物を解剖していらっしゃいますが, ガレノスもそうだったということでしょうか.”

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“ああ, 彼は複数の動物に共通することから類推している. 解剖の対象は主に豚が多かった. 俺はこの国の医療にガレノスやヒポクラテスの智慧を輸入したいと思っているが, 全てを真に受けてそのまま流布するわけにはいかないな.”

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“私だったら, 本を読んで書かれていることをそのまま信じてしまうと思います. 実際にご自分で見て誤りを正されるなんてさすがヨハン様です.”

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“俺は別に秀でている訳ではない. 医学に限らず, 俺はそもそも研究というもの自体, 観察・仮説・実証の3段階で行われるべきものだと考えているだけのことだ.”

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“観察はわかりますが. . . かせつ, と, じっしょう, でございますか?”

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“ああ. 何故そのようになっているかを考え, 実際にそうであることを確かめる. そんなことすら考えつかない程度の医師や学者が世に多いのは問題だが.”

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そこまで言って一旦言葉を切ると, ヨハン様は少し困ったような顔をされた.

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“しかし, 怠惰であるということはある意味, 身を守る術でもある. 調べれば調べるほど禁忌に触れてしまうな, これは.”

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“禁忌, でございますか. . . ?”

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“俺は前にも人間を解剖したことがある. 男と女の両方だ. 当時, 技術は足りなかったが, 憶測は排して目の前の事実のみを丹念に調べたつもりだった.”

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オイレさんも神妙な顔でうなずいている. 調理場に気まずい沈黙が流れているが, 私には何が起こっているのかよくわからない.

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“申し訳ございません, 私の理解が及ばないお話のようですが, 差し支えなければ何がどう禁忌なのか教えていただいてもよろしいでしょうか.”

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“そうだな. . . 人体とは一種の宇宙だ. そこには御自らの似姿として創られた, 神の意志が反映されている. そして, 神は男の肋骨から女を創りたもうたという.”

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“ということは, 男性の肋骨は女性よりも少ないか小さいのですね.”

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“聖書を信ずるならばな. だが, 何度数えても数は同じなのだ. 大きさに至っては, 男のほうが大柄な分肋骨も大きい. 腹を切り開いて確認した事実が, 信ずるべき聖書の過ちを主張している. この事実を世に放ったなら, 間違いなく異端として扱われるだろう. そして, 異端の言うことに人が耳を貸すことはない.”

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予想外の話の流れに言葉を失う. しかし, ヨハン様のおっしゃることはもっともだった.

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目の前に横たわっているのは私を騙して殺そうとした人. きっと生前なら平然と嘘をついただろうが, 今は物言わぬ遺体だ. 自分の体の中身にまで嘘をつくことはできないだろう. 特に, その両腕のように減らすことはできても, 増やすというのは無理な話だ.

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しかしそんな中, ケーターさんから横槍が入った.

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“楽しそうに人を切り裂く悪魔どもが, 今更異端とか気にしてんじゃねぇよ.”

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もはや自分をヨハン様の配下だと思っていないのか, ぼそっと呟いたケーターさんは口が悪い. しかし口の悪さ以上に, 私は発言の内容に怒りを覚えた.

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“ケーターさん, いくらなんでも無礼が過ぎます! 人を治療するためにはまず人体について知る必要があります. 解剖は医療が多くの人を救うために必要なことです. 切り裂くことを楽しんでいるなど. . . !”

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“動機が何であれ, 喜んで切り裂いていることに変わりはないだろうが. ヘカテーと言ったか, 俺はやっぱりお前が嫌いだ. 何も知らずに安全な場所でのうのうと生きて, 死者に敬意を払うことすらできない. そこに横たわっているのは単なるモノじゃない. 戦って生き抜いた一人の人間だぞ.”

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“死者への敬意を忘れてなどいません. すでに亡くなってしまった方の身体を保つより, この先生きられる方を増やすほうが重要というだけです! あなたは治療法がわかれば助けられるかもしれない生者を, 死者のために見捨てたいのですか?”

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“医者でも戦士でもないお前が一丁前に御託を述べるな. そいつに殺されかかった怒りを正当化するつもりか? それとも一緒にいる悪魔どもの思想の影響か? どっちにしろ女は感情に流されやすいもんだな. 話すほどに失望する.”

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口論をしていると, はははは, と冷たく大きな笑い声が聞こえてきた. 私もケーターさんも, ぎょっとしてそちらを見ると, ヨハン様が口を押さえながらさもおかしそうに笑っている.

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“最近貴族ったらしいことばかりしていて忘れていたが, そういえば俺はそもそも[悪魔]だったな. 礼を言うぞケーター, 貴様のおかげで覚悟が決まった. 異端だろうと構わん, 何人でも切り裂いて真実を手にしてやろう.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑𝟏
目覚め

ヨハン様の言動にはいつも驚かされる. 悪魔だなんて最大級の侮辱を受けたにもかかわらず, 怒るどころか愉快そうにしていらっしゃる. しかも, その侮辱を口にしたのは, 裏切りの疑いが濃厚でありながらついさっき命を助けてやった, ご自分の配下だというのに.

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出会い方が出会い方だったので当然だが, もとは私もこの方を怖いと思っていた. しかし, 塔に来てから, 私は突拍子もないことにつきあわされこそすれ, 何か嫌なことを言われたりされたりしたことはない. 街へ父の安否を確認に行った時も, こっそりオイレさんを護衛につけて守ってくださっていた.

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クラウス様は”単に人付き合いが不器用な方.”とおっしゃっていたが, 私には, 優しすぎるくらいに優しい方が無理に悪役を演じているように思えてならない.

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それがなぜなのかなど私には知る由もないが, ケーターさんは自分に対するヨハン様の寛大さを理解しているのだろうか. だとしたら,

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“私だってケーターさんが嫌いです.”

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つい口に出してしまうと, みんなの視線が私に集まった.

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“だって, ヨハン様のお優しさに甘えて無礼なことばかり. . .”

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“は? そこかよ, 馬鹿女. しかもそこの生っ白い蛇男が[お優しい]とか頭がわいてるのか?”

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ケーターさんはにやにやと厭味ったらしい笑みを向けて口汚く罵り, オイレさんは唖然とした顔で私を眺めている.

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しかし, 更に応戦しようと息を吸ったところで, 不意に私の頭の上にぽすんと手が乗せられた.

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“ヘカテー, その辺にしておけ.”

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乗せられた手はヨハン様のものだった. 慌てて頭を下げる.

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“お見苦しいものをお見せしてしまい, 大変失礼いたしました.”

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“俺は別に怒っていない. このアホ犬はさっさと俺の不興を買って殺されたいだけだ. わざわざお前が入ってくる問題ではないからつまらんことに使われるな.”

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“え, 殺され. . . ?”

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予想外の言葉に驚いていると, ヨハン様は付け加えた.

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“こいつは本来, 荒事専門の駒だからな. 情報を盗んだり隠したりすることにはさほど長けていない. すると, 普段から諜報を担当するオイレと, 事件に関係しているらしいお前の両方がいる空間は, こいつにとって非常に都合が悪いのさ. それで尚秘密を守り切るには, できるだけ早く墓場に持っていくのが一番手っ取り早いということだ.”

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ケーターさんは居心地悪そうに舌打ちをしてそっぽを向いている. どうやら図星らしい. わかりやすい人だ.

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もやもやは残るが, ヨハン様に窘められて言い募るわけにもいかないので, 引き下がるかわりに睨み返しておいた.

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“ケーターのことは放っておけ. 作業を続けるぞ.”

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引き続き内臓が取り分けられ, ヨハン様はそれを絵に写していく. 私は言われるままにメモを取り, 必要に応じて書庫から本や書類を持ってきて整合性を確かめる. そんな作業が続いた.

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喉から繋がる道は2種類ある. 食べ物の通る道と, 空気の通る道だ. 食べ物の方は途中多くの器官を介し, その道のりは非常に長い. 空気の方は肺という厚みのある翼のような器官に繋がるのみだ.

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“食べ物と空気では, どのような効用の違いがあるのでしょうか. 空気から力を得ているとのことですが, 呼吸をするだけではお腹が空きますよね?”

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質問は許可されているので, 話題変えついでに気になっていたことを口にしてみる. すると, 意外にも答えてくれたのはヨハン様ではなくオイレさんだった.

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“呼吸によって得られる力は瞬発的で, 食事によって得られる力は持続的なんじゃないかなぁ? 僕ら大道芸人は, 大技を繰り出すときなんかにわざと大きな呼吸をしてより大きな力を出すときがあるんだ. その代わり, 呼吸は常にし続けなくちゃいけなくて, 普通の人なら100, 僕らでも300数える間くらいしか止められない. 逆に, ご飯は食べたからといってすぐ力が沸くわけではないけど, 数日食べなくても死ぬことはないよねぇ.”

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“確かにそうですね. あまり重労働には就きませんが, 私も気合を入れるときには深呼吸をします.”

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“. . . と, 思うのですが, いかがでしょうか? 医学書には通じておらず, 私見に過ぎませんので, 間違いがございましたらご指摘ください.”

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私にはいつもの砕けた口調で答えてくれていたオイレさんは, ヨハン様に向き直ると先ほどまでの丁寧な口調に戻った. オイレさんも自由な質問を許されているようだ.

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“いや, オイレの言う通りだろう. ヒポクラテスによれば, 食べ物が体内で更に調理された結果が血液になり, これが生命の維持にかかわるのだという. また, ガレノスによれば肝臓で血液に作り替えられ, 栄養として消費されるというな. つまり, 一度血液への変換という過程を経る分, 力を取り入れるのに時間がかかるのかもしれない.”

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“調理, でございますか. それでは取り入れるのに必要な過程が多いのも頷けますね.”

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“ただ, 肺で取り入れられたプネウマが心臓で生命精気に, 脳で精神精気に変じると言うが. . . 食事で得られる精気については, あまり詳しく記された文献はないのだ. 相変わらずわからないことだらけだな.”

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ヨハン様は手が血で汚れているのも構わず, 髪をかき上げてため息を漏らした. その姿を眺めながら, 私は以前ヨハン様が語ってくださった幼少期からの夢を思った.

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東方の発展した医療を我が国に取り入れるという夢. それを実現するためには, まずヨハン様ご自身が何よりその知識に通じなくてはならない. 改めてその夢を思うと, なんと膨大な時間のかかる道のりだろうか.

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“. . . まぁ, いつだって本に書けることなど限りがあるものだ. ヒポクラテスやガレノスといった偉人でさえも, その知識のすべてを残すことなどできてはいまい. そもそも彼らの時代から千年以上の時がたっている. レヴァントやサラセンの者たちが発展させた知恵も知らなくてはならないし, それでもわからぬ部分は俺たちが調べて補完していくしかないだろうよ.”

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その膨大な時間のかかる作業を, この方はこともなげに”やるしかない.”とおっしゃる. 塔の中で行動も時間も拘束されながら, どうしてこの方はこんなにも壮大な夢を見続けることができるのだろう.

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今まで解剖の手伝いについて, 使用人として与えられた仕事を全うすることとしか考えていなかったはずの私は, この時, ひとつの夢を抱いてしまった. ヨハン様が見ていらっしゃる世界を, ほんの少しだけでも見ることができたら良いのにという, 自分には随分似つかわしくないような夢を.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑𝟐
それぞれの悼み方

そうこうするうちにかなり日も暮れてきた. 蝋燭の明かりで作業をしてもよく見えないので, 中断するほかない.

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“内臓は一通り調べられたかと思いますが, 明日は骨格や筋肉を見てもよろしいでしょうか. 個人的には, 頭部の皮下, 特に口腔周辺を調べてみたいと思っております.”

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オイレさんが明日も解剖を続けたい旨をお願いすると, ヨハン様はそれを許した.

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“もちろん, 俺からも頼みたい. ただ, 内臓も配置や形状は一通り調べられたが, まだ各器官の内側は調べられていないんだ. 明日は分担して切り分けることとしよう. 保存についても試したい方法があるんだが, まだ必要な器具がそろっていないから次の機会にして, 今回は塩漬けにするほかないな. ヘカテー, 頼んでも大丈夫か?”

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“かしこまりました.”

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もちろん, 人間の内臓を塩漬けにすることには抵抗がある. しかし, これから私たちの手でこの国の医療を発展させ, ヨハン様の望む未来を築いていくためには, こういったことにも慣れていかなくてはいけない. [人の身体を知らずして, 人の身体を治せるわけなどない]のだから.

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そんな決意をこめてした返事だったが, 聞く人すべてにその真意が伝わるものではない.

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“腹の中身くりぬいて塩漬けにして, 亡骸は放置していくのか. しかも明日には腹を切るだけで飽き足らず皮を剥ぐと. . . 羊か豚でも扱うように. . .”

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静かにしていたケーターさんの口から, 再び呪詛のような言葉が漏れる. その声はひどく小さく震えていて, 先ほどのようにわざとヨハン様を激昂させようとしているのではなく, 正直な言葉のように思えた.

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ヨハン様は声が聞こえているのかいないのか, 淡々と作業を続けている. オイレさんは発言に気づいたようだが, 少し困ったような顔をするだけだった.

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私も, 彼に反論しようとは思わなかった.

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ケーターさんは, 解剖の目的も, ヨハン様が何を目指されているのかも知らないのだろう. 彼が解剖に関わることを都度責めるのは, ヨハン様に悪魔とあだ名をつけて塔に閉じ込め, あらぬ噂を流して楽しむ者たちと同じだ.

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しかしそれは仕方のないことでもある. 皆, 自分の知る情報の範囲で人の性質を測ろうとするものだし, その点においては私だって他の人のことを言える立場にない.

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そこで私は, 少し思いついたことを言ってみることにした.

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“あの, 明日の解剖が終わったら, カールさんの皮膚を縫い合わさせていただけないでしょうか.”

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偽名とは思うが, あえて”遺体.”ではなく, 生前告げられた名前で解剖の対象を呼ぶ.

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ヨハン様に話しかける形をとりつつ, その実ケーターさんに聞かせるための発言. はっきり言って不敬だと思う. 今日の私はなぜこんなにも大胆になれるのだろう.

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自分でも驚いてしまうが, 初めての人間の解剖を前にして, ここで自分の心をはっきりさせておかないと後悔するように思われたのだ.

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“私, 床屋の技術こそございませんが, 繕い物は得意なのです. この方は今回の解剖に自らの身体を提供することで, 我が国の医療の発展に少なくない貢献をしてくださったと思います. 糸をたくさん消費してしまいますし, 肌にも縫い跡も残ってはしまいますが. . . もしお許しいただけるなら, きちんときれいにしてから弔って差し上げたいです.”

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“ああ, 頼む. 糸は絹糸がいいだろう. 足りなければ居館からとってくるといい.”

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“ありがとうございます.”

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ヨハン様は快く, 当然のように申し出を受け入れてくださった. 私たちのやり取りをケーターさんは目を瞠って聞き, 瞳は動揺に揺れている.

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その様子を見て, 私は申し出てよかったと思った. この一連の流れで, ここにいる4人に誰一人として命を軽んじるものがいないことを証明しているとも言えたからだ.

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ケーターさんは, ヨハン様のことを裏切っているのかもしれない. また, 手足には痛々しい拷問の痕があり, そのことでヨハン様やご領主様に恨みを持っていてもおかしくはない. それに父のことも何か知っていそうで, 立場的に信用してよいかどうかはわからない. . . というか, おそらく信用できない側の人だ.

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それでも私は, 彼が私たちを罵るときに[死者を軽んじる]という点にばかり言及するのを見ていると, この人のことを理解しえない敵だとは思いたくなかった. ただ攻撃したいだけなら, 無意味な罵詈雑言を浴びせ, 人格を否定すればいい. 死者への敬意にこだわるのは信念ゆえだろう.

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片づけを終えると, 私たちはそれぞれ場所に戻る. ヨハン様と私は自分の部屋へ, オイレさんは街へ. そしてケーターさんは再びあの地階へ.

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祖父の本にある薬を試すという話こそ出たが, 彼の傷を治療することは許されていない. 縄こそ解かれたたものの, 真っ暗で不潔な牢獄に傷だらけの身体で戻っていくことを思うと心が痛む.

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“そんな目で見るんじゃねぇよ.”

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私の視線に気づいて, ケーターさんは機嫌が悪そうに言い放った.

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“俺は自分の意志でここへ戻ってきた. こうなることは承知の上. まだ生きているのが予想外なくらいだ. 何も知らないバカ女から上から目線で可哀想がられてたまるか.”

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たしかに, 無意識に憐憫の眼差しを向けてしまったのは失礼だったかもしれない.

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“すみません. 覚悟をもって来られた方に余計な心配をしてしまい, 失礼いたしました.”

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私がそうお詫びを言うと, ふいに彼の表情が和らいだ気がした.

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“. . . これが血か.”

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“え?”

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“いや, なんでもない.”

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もう少しで微笑みといってもよさそうだった表情は, 一瞬でさっきまでの仏頂面に戻り, ケーターさんは地階に姿を消した.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑𝟑
人のかたち

翌日. 私たちは再び塔の調理場に集まっていた.

虫よけを兼ねてセージを焚いているので臭いはつらくなるほどではないが, やはり亡骸と同じ空間にいるのだということを意識させられる空間だ.

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ちなみに, 昨日に引き続きケーターさんも参加させられている. 居てもらったところですることはないし, むしろ邪魔なのだが, ヨハン様の命だ. ちょっとした反応から情報を引き出す手段なのかもしれない.

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内臓は昨日のうちに全て取り除き, 塩漬けにしてある. とはいえ, きちんと水が抜けるのには1週間ほどかかるのは人間も同様のようで, 現時点ではまだ生肉に近い状態だ. そんな内臓の器官の一つ一つを, ヨハン様は手に取ってナイフを入れ, 構造を細かく調べている. この作業は, ひとつの器官だけで一日仕事になりそうなので, 生肉に近い状態で調べるものと, 完全に塩漬けになった状態で調べるものに分かれてくるだろう. 単純に上の方から順に調べているわけではなさそうなので, ヨハン様はどちらの状態のほうが調べやすいかによって, 切り分ける順番を選定しているようだ.

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臓器には様々な形がある. 一対の翼のような形, 管のような形, 岩のような形など. 中にはグズグズに崩れたような形をしているものもあり, 私にはそれがもとからその形なのか, 早くもそこから腐ってしまっているのかは判別がつかない.

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ヨハン様は最初の一つとして, 柘榴のような形の臓器を手に取り, 慎重に細かく切れ目を入れては何かを調べ, 懸命に書き留めていた.

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オイレさんの方はというと, やはり心が咎めるのだろうか, しばらく黙祷を捧げていた.

そののち, 顔の側面を一周, そして中央へ縦にナイフを走らせると, ゆっくりとその肌をそいでいく.

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私は思わず顔をそむけてしまった. 現実感のあまりない内臓の解剖よりも, 人の顔のはがされていく様は生理的に受け入れがたいものがあったからだ.

オイレさんは私に命令する権限はないので, 私はヨハン様のお手伝いのみしていればそちらは見なくても問題ない.

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しかし一方で. . . これらの光景に神秘的な高揚感を感じもした.

お二人がナイフを走らせるほどに露わにされる人のかたちは, 人はどこまでが同じなのだろうという疑問を想起させるのだ.

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あの奇妙な形をした臓器が, すべての人間に備わっているのだろうか. ヨハン様は, ガレノスは人間の代わりに羊や豚などの動物を解剖し参考にしていたとおっしゃっていた. 種が違っても参考になるなら, 同じ人間ならば全てが共通するのだろうか.

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肌だってそうだ. 白かろうが褐色だろうが, 剥いでしまえばそこには赤い肉があるだけ. 更に, 最終的に骨になってしまえば, 一切見分けなどつかないことだろう.

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神は御自分にかたどって人を創造された.

神にかたどって創造された.

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聖書は淡々とそう語っている. もしそうならば, 人のかたちは一種類しかないということになる. なら, なぜ私たちはそれぞれ違う姿を持っている? ヨハン様やオイレさんの髪の明るさに比べて, 私の髪はなぜこんなにも黒く暗い?

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聖書はさらに”男と女に創造された.”と続く.

ご自分にかたどったにもかかわらず男女の違いがあるということは. . . 神はその姿が1つではないとでもいうのだろうか.

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ヨハン様の指示に従って作業を進めつつも, 私はこの神秘的な疑問に酔いしれることで, 恐怖と背徳感を退けていた.

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きっとこの疑問は毒だ. 人間の死体というのはそう簡単に手に入るものではないが, この体験を何度も繰り返すうちに, わたしはどんどんズレていき, 今まで見てきた世界は崩れていくだろう. 私には, ヨハン様のような頭脳と強靭な精神もなければ, オイレさんのように飄々とはみ出し者として生きていく決意もない. この先私が今までの私. . . 普通の商人の娘の精神でいられるという自信は到底持てなかった. 楽しそうに人を切り裂く悪魔, というケーターさんの声が脳裏をよぎる.

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だが, だからといって手放す気になれないほどに, この毒は甘い.

そして, 毒を飲み干した先でこそ, ヨハン様の見る世界が見られるのではないかという, 確信めいた何かが私を突き動かしていた.

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“ヨハン様, 頭部の筋組織, 口腔内の構造の確認が終了いたしました.”

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オイレさんの声でふと我に返る. 気づけばまた, 窓から差し込む日は赤くなっていた.

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“こちらが詳細を写したものとなります. あまり絵が得意ではなく恐縮ですが, 説明を付しておりますのでご容赦ください. 他, 頭部では何かご覧になりたいものはありますでしょうか.”

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“そうだな, 脳を見てみたいところだが, それは後頭部から取り出したほうが早そうだから顔はもういいだろう. ひとりでよくやってくれた.”

🛑

“もったいなきお言葉にございます. もとより歯抜き師として, これ以上なく魅力的な機会でした. ありがとうございました.”

🛑

“今日はもう終わりにしよう. ヘカテー, 傷を縫いたいといっていたな. ここまでに切り開いた部分は, すべて閉じて大丈夫だ.”

🛑

“かしこまりました. では, お食事の準備と片づけが終わりましたら作業に入ります.”

🛑

“いや, 何も夜に針仕事をすることはない. 明日にしろ.”

🛑

“お気遣いいただき, ありがとうございます. そうさせていただきます.”

🛑

🛑

ヨハン様は, やはりお優しい. 他の方にお仕えしたことはないが, 方伯のご子息という地位にありながら, こんなにも当たり前のように使用人を気遣ってくださる方は稀だろう.

🛑

片づけが完了し, ヨハン様が退室されると, ケーターさんがふいに話しかけてきた.

🛑

🛑

“お前, 本当に傷を全部縫うつもりか?”

🛑

“はい, もちろんです. できるだけ生前の姿に復元して差し上げたいと思っています.”

🛑

“この城から身元不明の他殺死体を大っぴらに出すわけにはいかない. 隠密の誰かが自殺者として刑吏に届けるだろう. きっと, 自殺者に見せかけるために, 高所から落として顔を潰す. 根詰めて作業したところで, 無駄になると思うぞ?”

🛑

“仮にそうだとしても関係ありません. これは私がこの人に敬意を払いたくてやっていることです.”

🛑

🛑

私がはっきりとそういうと彼はしばらく押し黙り, 躊躇するようにオイレさんをちらちらと見ている.

オイレさんはその様子を見て察したように立ち上がった.

🛑

🛑

“二人で話してていいよ. 僕は外で待ってるから, 終わったら声かけてねぇ. ヘカテーちゃん, 念のためこうしとくけど, 何かされそうになったら大声出すんだよ?”

🛑

🛑

オイレさんはさっとケーターさんを後ろ手に縛ると, 私に護身用のダガーを渡して部屋を出ていく.

扉が閉まるのを見届けると, ケーターさんはおもむろに口を開いた.

🛑

🛑

“お前はやはり. . . 父親にそっくりなんだな.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑𝟒
登場人物紹介・設定など

【登場人物紹介】

■主要人物

〇ヘカテー(ヴィオラ)

本作の主人公.

領主の居城であるフェルトロイムト城へ下級のメイドとして奉公に出ていたが, 城の塔に幽閉中だった次男ヨハンに食事を届ける際, ひと悶着あってヨハン付きのメイドとなる.

商人の娘だが, 高い教養がある, 容姿もこの国の一般的なものとは違うなど, その出自は謎が多く, 本人もよくわかっていない.

父親から本名は家族以外に話してはいけないといわれており, もとはヴィオラという通名で過ごしていたが, ヨハンから新たに[ヘカテー]という名をもらった.

基本的にはおっとりとした性格. 少々ぼーっとしたところがあり, 気づくと思索にふけってしまうタイプ. しかし, かなり地頭は良く, ここぞというときに意外な行動力を見せることもある.

長い黒髪に黒い目, 蒼白な肌が特徴的な童顔の美少女. 物語スタート時点で14歳.

🛑

〇ヨハン=アルブレヒト・フォン・イェーガー

帝国選帝侯のひとつである, イェーガー方伯の次男だが, 人や動物を切り裂きたがる癖により, 父によって北の塔に幽閉されている. それを知る者たちからは[塔の悪魔]と呼ばれ恐れられている.

実は, 切り裂くこと自体を楽しんでいたわけではなく, 医療の知識を得るために解剖を繰り返していた.

また, 明晰な頭脳を認められ, イェーガー方伯が前に出られないような工作活動, 及びそれを実行する隠密の管理を請け負っている.

極端に冷徹で合理的というだけで, 積極的な残虐性があるわけではない.

グレーがかった髪とオリーブ色の瞳が特徴の華奢な青年. 物語スタート時点で18歳.

🛑

〇ヤープ

刑吏(=処刑人であり, 皮革加工を行う皮剥人を兼ねる)の息子であり, 本人も皮剥人として仕事をしている. 名誉を持たない賤民の子.

[頭巾のおっちゃん]によって無料で原革が手に入るという合図を知らされ, それ以来解剖後の動物の死体を引き取っている.

貧しい身なりの小生意気な少年. 明るめの茶髪に同じ色の瞳, 10~12歳くらい.

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〇オイレ

ヨハン配下の隠密の一人で, オイレとは梟の意.

諜報や陽動などの情報戦を得意とし, 表の職業では[歯抜き師]という, 歯科治療を行う大道芸人をしている.

医療従事者であることから, ヘカテーがやってくる前からヨハンの解剖に協力していた.

本当は引き締まった体格だが, 大道芸を行う際には太った体型を装い, 派手な衣装で化粧を施している. 赤毛に琥珀色の瞳, 30手前くらい.

いつも飄々として, 妙に間延びした独特の話し方をするが, ヨハンの前ではしっかりと落ち着いた受け答えをしている.

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〇ケーター

ヨハン配下の隠密の一人で, ケーターとは駄犬の意. 荒事を専門とする武闘派.

工作活動中に敵陣営と接触したり, ヘカテーの部屋に[トリストラントは死んだ]というメモを投げ込んだりと不審な動きがあったことから裏切りが疑われており, 塔の地階に拘束されている.

トリストラントについて何か知っている様子. 挑発的な言動が目立つが, 元からそういう性格なのか, わざとそうしているのかは不明.

暗めの茶髪にこげ茶色の瞳, 柄が悪く攻撃的な雰囲気. 30代半ばくらい.

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■フェルトロイムト城の人々

〇イェーガー方伯アルブレヒト

ヨハンの父. 帝国諸侯で選帝侯のひとつである方伯の地位を持つ現当主.

ヨハンを塔に幽閉した張本人だが, 自分が表に出られないような裏の仕事をヨハンに頼むかわりに, 塔内では自由な行動を黙認している.

ヘカテーを含む使用人や庶民からは[ご領主様]と呼ばれている.

※今は名前だけですがそのうち登場します.

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〇ヴォルフ

使用人の最高位であり, 領地運営に関する仕事を請け負う家令の地位にある初老の男性.

厳格だが, 部下のことをよく気遣っており, 素行の良くないヨハンのお付きになったヘカテーのことを心配していた.

白髪混じりの金髪にブルーグレーの瞳, 紳士的な印象. 40代半ばくらい.

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〇クラウス

使用人のまとめ役である執事で, イェーガー方伯とヨハンの橋渡しをしている.

誰に対しても丁寧な接し方と顔の良さでメイドたちに人気があるが, 目が笑っていないため, ヘカテーは苦手に思っている. 油断ならないところのある人物.

栗毛に黄色味の強いベージュの瞳, 柔和で中性的な整った顔立ち. 30代後半くらいだがもっと若く見える.

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〇ズザンナ

家政婦長. 厳格を通り越して高圧的なところのある初老の女性. 本人としては悪気があるわけではない.

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〇ベルンハルト・フォン・イェーガー

ヨハンの兄.

※今は名前だけですがそのうち登場します.

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〇ゾフィー・フォン・イェーガー

ヨハンの姉. 物語開始時点ですでに病没, 享年12歳. 仲の良かった彼女の死が, ヨハンが医学を志すきっかけとなった.

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■ヨハンの隠密

〇ラッテ

ラッテとは溝鼠の意.

※今は名前だけですがそのうち登場します.

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〇シュピネ

シュピネとは蜘蛛の意.

※今は名前だけですがそのうち登場します.

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■街の人々

〇トリストラント

娘を溺愛するヘカテーの父. 商人だが, 高い教養をもち, 所作も美しく, またそれらを娘にも教えた.

ヘカテーが生まれる前の過去は謎に包まれており, ヘカテーに教えた知識の中には帝国の知識ではないものも多い. 本人曰く, 東方から来た遍歴商人の家であり, レーレハウゼンに定住したのは彼の代からだという.

塔で過ごすヘカテーのもとに[トリストラントは死んだ]というメモが届いており, 現在消息不明.

ヘカテーと同じく黒髪・黒目, 非常に上品でミステリアスな印象. 40歳くらい.

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〇マルタ

ヘカテー親子の近隣住民. ちゃきちゃきとした雰囲気の中年の女性で, 面倒見がよい.

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〇カール

トリストラントの知人であることを自称し, 父の死の連絡を受けて実家を見に行ったヘカテーを襲撃. 密かに護衛していたオイレによって返り討ちに会い死亡した. 近隣住民であることやカールという名前も自称にすぎないため, 正体は不明.

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【その他補足】

■舞台設定について

〇帝国

ヘカテーやヨハンが住む国. 別の世界線の神聖ローマ帝国. 現在で言うドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア周辺という広大な国土を誇るが, 各地の領邦化が進んでおり, 統一された国家というより, 地方国家の集合体的な側面が強い.

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〇イェーガー方伯領

イェーガー方伯の治める, 帝国の北方にある広大な領地. 国境が近いため貿易が盛ん.

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〇レーレハウゼン

この物語の主な舞台となる, イェーガー方伯領の中心地. 商業が発展している賑やかな街.

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〇フェルトロイムト城

イェーガー方伯の居城. レーレハウゼンに位置し, その美しさから[フェルトロイムト(夢見るような)城]と名付けられた.

南北2つの塔を持ち, ヨハンは北の塔に幽閉されている. 塔と別に後年作られた居館があり, 方伯や他の家族はこちらで過ごしている. また, 使用人の多くは別棟の使用人棟に寝泊まりしている.

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■登場人物の服装について

舞台のモデルにした時代背景から, 基本的にはいわゆるロマネスク様式を参考にしています.

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〇ヘカテー

服装は踝丈のチュニックワンピース. 塔に来てからは侍女のお古なので, 庶民にしては上質なものを着ている.

髪の毛は長く, 仕事中はおさげにして, 休みの時はそのまま垂らしている.

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〇ヨハン /ヴォルフ / クラウス

毛織物製の上質な長いチュニックと長い脚衣を合わせ, 髪の毛は肩ぐらいまで伸ばしている.

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〇ヤープ / オイレ(平時) / ケーター / ラッテ

服装は同じくチュニックに脚衣だが, チュニックの丈は短くシンプルなデザイン. 身体を動かすときなどはチュニックの裾をベルトに挟み込んでたくし上げる.

ヤープはボロボロで汚れも多い状態.

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〇オイレ(大道芸時)

ブリオーというドレッシーなチュニックにマントルを着用.

※立場を考えれば本来ヨハンもブリオーですが, 合理主義の彼は好まないと思われるため, 執事たちに合わせました.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑𝟓
知らない父

今までの話の流れと全く関係ない発言に, 私は目を瞠った.

彼の言葉は, わざわざ私の父のことを知っていると告白してくれているようなものだ.

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“父と, お知り合いだったんですか.”

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“一緒に仕事をしていたことがあった. 俺が隠密としてこの家に雇われるよりも, ずっと昔の話だが.”

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“父は, 今どこに? 何か知っていることはありませんかっ?!”

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“まぁ待て. 俺がちゃんとあの人のことを知っていたら, 今こんなことになっていない.”

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“そう. . . ですか. . .”

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🛑

私が落ち着いたのを確認すると, ケーターさんはふぅ, と息をついて椅子に腰かけた.

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“結論から言おう. お前の父親, トリストラントさんは死んだんだ. お前を城へ奉公に出し, 店をたたみ, 家を引き払ってからな.”

🛑

“そんな, どうして!”

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“自分が長くないことを察していたからだ. それに, お前を誰よりも愛していたし, 逆にお前が自分に依存して生きているのも知っていた. だからこそ, 自分の最期を娘に看取らせるのも, 葬儀をあげさせるのも, あの人は望まなかった.”

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🛑

淡々と語るケーターさんは, 嘘をついているとは思えなかったが, 本当のことを全て語っているとも思えなかった.

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🛑

“父は, なぜ死んだのですか?”

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“病だ.”

🛑

“そんなわけがありません! 最後に会ったのは, 私がここのメイドになるために家を出るのを見送ってくれた時でした. あの時の父は, とても元気そうだった!”

🛑

“そうか? 病は俺があの人と一緒にいたころ. . . 要はお前が生まれる前からだ. それでも, 人前で苦しそうな顔を見せたことは一度もなかった. 娘の前ならなおさら虚勢も張るだろうよ. お前は, 自分が見てきた姿が父親のすべてだと言えるのか?”

🛑

🛑

そういわれると, 言葉に詰まってしまう. 私は父の過去についてほとんど知らない.

父がなぜレーレハウゼンにやってきたのか, そもそも父は最初から帝国にいたのか, 母はどんな人で, どこでであったのか. . . そういった過去のことは, 全て聞かなくていいことだと思っていた.

🛑

🛑

“俺にとって恩人であり, 目標であり, 誰よりも尊敬する人だったんだ. そのまた父親も傑物だったが, あの人は暴力と盗みしか知らなかったクソガキに, [人]として生きるすべを教えてくれた. そうでなければ俺は10代でその辺に野垂れ死んでいただろう. 今でこそ, またこんな有様になっちまったが, 礼儀作法も読み書きも, あの人から教わった. ギリシア語すらもな.”

🛑

🛑

さらに何も言えなくなってしまう. 父はきっと, 私が学びたいといえば教えてくれただろう. 私が父の読んでいる本に興味を示した時, 戯れに文字と発音を少し教えてくれたが, 私はきちんと学ぼうとしなかったし, それを察した父も無理強いはしなかった.

だから, 私にギリシア語を学ぶ機会をくれたのは, 父ではなくヨハン様になった.

🛑

🛑

“俺だけじゃない, 周囲に困ったやつがいたら一番に見つけるのはいつもあの人だった. ひとりひとりにじっくり笑顔で向き合って. . . そのうえ仕事も完璧だった. あれじゃ, 休む間もなかったはずだ.”

🛑

“そのせいで, 病を抱えて. . .”

🛑

“そのせいかと言われると返答に困るが, ある意味そうかもな. とにかく, お前がどこまで理解してるか知らねぇが, お前の父親はそれだけ立派な人だったってことだ. その人が, 娘に弱った最期を見られたくない, 笑顔の自分だけを遺したい. . . そういう気持ちは尊重すべきと思わないか?”

🛑

“そうかもしれませんね. . .”

🛑

“だから無暗に父親のことを探ろうとするな. お前が一緒に過ごした, 頼りになるかっこいい父親のことだけ覚えておいてやれ. 言いたかったことはそれだけだ.”

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🛑

ケーターさんはそう言うと, 傷だらけの足でよろよろと立ち上がった.

🛑

🛑

“あの, ケーターさん.”

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“なんだ?”

🛑

“ありがとうございました. 私と二人で話すなんて, また怪しまれてしまうでしょうに, わざわざ時間を設けてくださって. 父のことは正直まだ受け入れられませんが, 生死がわからずずっと気がかりだったので. . . どこかでつらい思いをしているのではなくて良かったです.”

🛑

🛑

私の言葉を聞いて, ケーターさんは悲しむような嫌がるような, なんとも微妙な表情をした.

🛑

🛑

“お前が生きていて本当に良かった. 父親の魂をほんの少しでも受け継いでいそうなこともわかって嬉しい. だから, 生き急ぐんじゃねぇぞ. こんな環境だからって周りにつられるな. 雇い主との距離を保って, 安全な場所で幸せに生きてろ.”

🛑

🛑

すぐそっぽを向いてオイレさんを呼んだケーターさんの背中が震えていたのは, きっと怪我のためだけではないだろう.

父が私の知らないところで, こんなにも慕われていたのだと思うと, 私にはその震える背中が嬉しくてたまらなかった.

🛑

🛑

“お疲れ様ぁ. ヘカテーちゃん, 大丈夫だった? 今にも泣きそうな顔してるけど.”

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🛑

空気を読まずに入ってきたオイレさんは, ケーターさんの手をほどきながら訊いてきた.

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🛑

“大丈夫です. . . 解剖のことで, 出過ぎた真似をするなって怒られました. . .”

🛑

🛑

私は自分の主を信じている. ヨハン様とケーターさんのどちらに付くかと問われれば, 迷わずヨハン様を選ぶ.

しかし, ケーターさんが今私にしてくれた話はほとんど命がけといってよいはずだ. 裏でどんな大きなことが動いているかわからない以上, ケーターさんが父と知り合いだということや, 父の死を知っているということをオイレさんに話してしまうと, 彼の身を危うくする危険がある.

🛑

今日ばかりは嘘をついても許されるだろう. それが私が彼にできる唯一のお礼だと思った.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑𝟔
縫い合わせたいもの

翌日から, オイレさんもケーターさんも解剖には来なくなった.

脳の摘出はすでに終わっていたようだ. ヨハン様は塩漬けの臓器の中から見たいものを選んで観察する. もう大がかりな仕事はないので, オイレさんの手助けは不要なのだろう. 私は相変わらず資料運びなどの手伝いしたが, ヨハン様が絵を描かれている間はやることがなくなるので, 切り開かれたカールさんの肌を縫うことにした.

🛑

しかし, いざ始めようとして. . . 自分の甘さに気づかされた.

🛑

カールさんが命を失って3日目. 抜け殻として遺された身体は, まだ蛆こそ沸いていないようだが, 赤紫に変色した肌は硬縮し, 外気よりも冷たいのではないかと思うほどに冷え切っている.

🛑

今まで解剖の手伝いで[見て]こそいたが, 遺体に直接触れたのは初めてのことだった. その捏ねた粘土の表面のような, 弾力のない質感に変わり果てた肌, 生者とあまりに異なる肌の触感は, あまりにも生々しく[死]というもののなんたるかを訴えかけている. 私は一瞬触れただけで, 弾かれたように手を放し, 針を落としてしまった.

🛑

🛑

“し, 失礼いたしました!”

🛑

🛑

落とした針を拾おうとするが, 手が震え, 細く小さな針はなかなかつまむことができない.

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🛑

“おい, ヘカテー.”

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🛑

気づくとしゃがみこんだ私の隣にヨハン様がいらして, 私の手首を掴んで制止していた.

🛑

🛑

“大方, ケーターの罵倒に触発されて言い出したんだろうが. . . お前, 死体に触れたことがなかったのだな.”

🛑

🛑

ヨハン様はうまく拾えない私の代わりに針を拾うと, そのままご自分の手の中に収めてしまった.

🛑

🛑

“嫌ならやめて構わない.”

🛑

“いえ, 大丈夫です. ヨハン様の前にもかかわらず失態を演じてしまい, 申し訳ありませんでした.”

🛑

“この程度, 失態とは呼ばん.”

🛑

🛑

ヨハン様は針を返してくださらない. ただ, 困ったように私を見つめている.

🛑

🛑

“遺体はオイレに処理させるつもりだ. 教会に届けるわけではないから, 縫い合わせなくとも問題ない. お前が予想外によくついてきてくれるものだから, この手のことを頼むことに慣れすぎてしまっていた. よく考えれば年端もいかぬ娘にやらせることではなかったな.”

🛑

🛑

ああ, なんということだろう. いつも鋭く輝いているはずのオリーブの瞳が今, 私を見て明らかな哀しみを湛えている.

🛑

私はこの方を失望させてしまったのだ. 自分で言い出したことすら, きちんとできなかったばかりに.

🛑

🛑

“そんなことはございません. 緊張で針を落としてしまいましたが, 繕い物は得意なのです. もとより遺体を清めるのは女の役割です. どうか私にやらせていただけないでしょうか.”

🛑

“ケーターはわざと喧嘩を吹っかけていた. それに乗ってしまったからと言ってやり遂げる必要はないぞ. 無理をするな.”

🛑

“お気遣いいただきありがとうございます. ですが, ケーターさんのせいで無理をしているわけではございません. これは私の意地なのです.”

🛑

🛑

主がここまで止めようとすることを, 押し通すべきではない. せっかく気遣ってくださっているのに, 反論すべきではない. そんなことは頭ではわかっている. しかし私にとって, ヨハン様に失望されるという恐怖は, 使用人としてあるべき姿を保つことができないほどに耐えがたかった.

🛑

🛑

“ふん, 意地とな?”

🛑

“私は解剖というこの学問が, この国の未来を変えるものだと信じております. 今のこの国の医者たちは, 本を読むばかりで人間の身体を詳しく調べようとしませんが, 人間の身体を知らずして, 人間の治療などできるわけがないと思います. 私には, ヨハン様がこれから切り拓こうとしている異国の知恵によって, 救われる命の増えたこの国の未来を見てみたいという夢ができました. だからこそ, こうしてお手伝いをさせていただけることを何より嬉しく, また誇りに思っております.”

🛑

“それが死体の皮を縫い合わせることと何の関係がある?”

🛑

“私は昨日, 死者への敬意を忘れたくないと申し上げました. それは, 解剖の対象となった遺体が, そんな未来の医療の礎となるからです. この人の場合は, そこに本人の意思が介在していたわけではございませんが, この人の身体から得られた知識によって, 今後多くの人が間接的に助かるはずです.”

🛑

“死者への敬意の表し方は沢山ある. 別に身体を十全に保つことのみではないぞ. 教会は死者の身体を傷つけることを咎めるが, そもそも聖書の中で主はそのようなことを語ってはいない. モス・テウトニクスといって, 遠方の死者はわざわざ骨のみに加工することもある.”

🛑

🛑

ヨハン様の口から, 皮膚を縫うことを許すという言葉は出ない. だが, 明確に否定するわけでもなかった.

この方にきれいごとのみの言葉は通用しない. 私がなぜカールさんの身体を復元することに固執するのか, 正直に本音をお話しすることを待ってくださっているように思えた.

🛑

🛑

“おっしゃる通りです. 無学な身ゆえ, その風習については初めて伺いましたが, 敬意の表し方は一つではないと私は思います. ただ, この新しい医療を切り開くという道を進んでいくためには, 今まで信じてきたことがどんなに揺るがされようとも, 恐れず学び, 事実を受け入れ続けなくてはいけないと思っております. ですが, 私には大それた夢はあっても, それを実現するだけの頭の良さも心の強さもありません. 私が今後, ヨハン様が成されようとしていくことに少しでもお役に立つには, 彼らへの敬意を忘れないことだけでなく, そのために必要なことから逃げなかったという記憶が必要なのです.”

🛑

🛑

ここまで一気に話すと, 少し息が上がってしまった. 我ながら, 主に対して言いたい放題で, 無礼極まりない. 普通の主であれば, このままクビにされてもおかしくないだろう.

🛑

🛑

“最近のお前は, ずいぶんよく喋るんだな.”

🛑

🛑

そう, ヨハン様は普通の主ではない. 笑って針を返してくださった.

🛑

🛑

“確かに, 切れば切るほどに見える世界もバラバラになっていくような道だ. お前がそう思うなら, その都度縫い合わせれば良い.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑𝟕
使命と休息

絹糸で遺体の傷を縫う作業は, 思いのほか重労働だった.

まず, 遺体の皮というものは, これまで扱ったことがないほどに厚く硬い. 布など足元にも及ばない. 針はヨハン様が特別に太いものを用意してくださったので折れこそしないが, 私の力では, 縫い合わせようにもまず皮を貫くことができないのだ.

さらに, 人の身体は重く, 立体的だ. 服や小物を縫うのと違い, 縫う個所のみを手の中に収めて, 回したり裏返したりしながら縫うということができない.

🛑

ヨハン様はヨハン様で, 臓器の構造はかなり緻密であったらしく, 目を凝らすように必死で観察しては絵に起こし, 詳細を記述している.

🛑

私たちは必然的に無言になり, 冷え切った調理場という空間を共有しつつも, それぞれひとりで作業をしている状態だ.

🛑

悪戦苦闘のうち, やり方を変えることを考えてみた.

🛑

例えば, 必ずしも針を貫通させる必要はない. 肉の部分は無視して浅く針を刺し, 表面だけをつなぎ合わせる. これなら私の力でもなんとかなる.

🛑

次の問題は, 皮の縮み. 縮んでしまっている皮では, 傷をふさぐには面積が足りないかと思っていたが, 取り出した内臓によって中身が減っているため, そこまで強く引っ張らなくても大丈夫だ.

🛑

決して楽な作業ではない. それでも, 不可能ということはない. 試行錯誤することで, やり遂げるための光明は見えてきている.

🛑

とはいえ, やはり死者の肌は生者のものとあまりに違う. ヨハン様は生きた人の傷も治療のために縫うことがあると言っていたが, この経験を, 実際に怪我をした人の傷を縫うために生かすことはできないだろうと思った. もっとも, 私は床屋になるわけではないので, そんな機会が訪れることはないだろうが.

🛑

ひと針進めるごとに, 無残な遺体は人としての姿を取り戻していく. 顔の傷も縫い終わるころには, 解剖用の遺体からカールさんと認識できるものになっているだろう. 縫い目は縫い目で痛々しいものだが, 死者の皮膚に触れる感覚にさえ慣れてしまえば, この作業は名もなき身体に個人としての尊厳を回復させることができているように感じられ, 次第に恐怖感よりも責任感と誇りをもって作業に当たることができるようになっていった.

🛑

お腹の傷が縫い終わると, いよいよ頭にとりかかる. 万が一後頭部をふさぐので皮を使いすぎてしまうと, 皮が突っ張って顔が変形してしまうと思い, 先に顔の方を縫うことにした.

顔はその人の個性を最も特徴的に示すパーツだ. もとの顔を思い出そうとすると襲われた時のことが一緒に思い出されてしまうので, 精神的に厳しいものもあったが, できる限り元通りにしてあげたい.

🛑

何より, これは私にとって, この先ヨハン様の進まれる医学の道についていくための通過儀礼だ. 切り裂かれた顔を復元するという作業を完遂できれば, 私にとって何よりも意味のある記憶になる. それだけ丁寧に, そして真摯に向き合うべき作業だった.

🛑

しかし, やはり実際になってみるとその難しさを思い知ることとなった.

皮膚の下に均一についていた脂や肉の層が, 解剖中に変形したり削がれたりしてしまったことで, 縫い合わせるだけでは元の形にならないのだ.

🛑

思わず手を止めてしまっていると, ヨハン様から声がかかった.

🛑

🛑

“どうした, 何か入用か? それともやはり顔を縫うのは辛いか.”

🛑

🛑

視線は相変わらず手の中の臓器. . . たしか心臓と言うものだったはず. . . を熱心に探っているままだが, 私の様子がおかしいことに気づいてくださったようだ.

🛑

🛑

“いえ, 大丈夫です. 解剖の過程で, 皮膚だけでなく脂や肉も減っていたようで, 縫い合わせてもなかなかもとの顔に近づかず, 驚いておりました. 肌がなだらかでなくなるだけで, こんなにも印象が変わってしまうものなのですね.”

🛑

“そうか. 肉はともかく, 脂を足して形を整えることを考えてもよいかもしれん. 俺の指示として, 居館から持ってきても構わないぞ.”

🛑

“ありがとうございます.”

🛑

“顔の造作の変化についてはあまり問題視したことはなかったが. . . 戦場の兵が負う傷などでは, 肉が削げることもよくある. もしかしたらそういった傷の治療に応用できる可能性があるな.”

🛑

“たしかに, もしそれができたら助かる人がたくさんいると思います.”

🛑

“まぁ, 今は死人だからいいが, 生きている人間では思わぬ害が出ないとも限らない. 慎重に調べていこう.”

🛑

🛑

ヨハン様はどんな問題にも, 解決法だけでなく, その先の活用法まで見出されてしまう. 恐ろしい慧眼の持ち主だ. きっと, ご領主様からのお仕事を受けていらっしゃるのも, そういった才能を認められてのことだろう.

🛑

幸いまだ日が高いので, 一旦居館に行って脂肪をもらってくることにした.

🛑

傷. . . そういえば, ケーターさんは大丈夫だろうか. 手足の爪はなかったし, 肌も傷やできものだらけのひどい有様だった. 今も真っ暗な地階で一人閉じ込められている. 血の匂いを嗅ぎつけた蛇や毒虫たちによって, あそこにいればいるほど傷は増える一方だろう.

🛑

ヨハン様は公私混同をする方ではない. ケーターさんが裏切りを疑われて拘束されている以上, 地階から出すことはできないし, 治療も許されない. 彼の傷を癒す方法は”薬の実験台にすること.”だけだ.

🛑

しかし, そんな言い訳を用意しておくあたり, やはりヨハン様は部下に甘いところがあるのだと思う. ケーターさんの行動によって作戦に問題は発生しなかったと, オイレさんは報告していた. 単にケーターさんが全てを告白するまで殺せないだけかもしれないが, 私はどうも, ヨハン様が証拠もなしに部下を切り捨てることができないということのような気がしている.

🛑

居館の料理人からいらなくなった脂肪をいただき, 塔に戻ると, ヨハン様は椅子にもたれて寝息を立てていた.

🛑

知らずに扉を開けてしまったので起こしてしまったのではないかとドキリとしたが, 起き上がる気配はない. どうやら解剖の作業は終わったようで, 心臓は塩の中に戻され, 周囲には沢山の紙が乱雑に置かれている.

🛑

よく考えれば, この方が解剖作業に入ったのは, 徹夜続きの過酷なお仕事の直後からだった. 極限までたまった疲れを無視して, ご自分の志す学問と向き合われていたのだ.

🛑

変な姿勢で眠ると体が痛くなってしまうのではないかとも思ったが, 許可なく触れてお部屋にお運びするわけにもいかない. というか, 触れた時点で起こしてしまうだろうし, 起きなかったとしても私の力で大人の男性を運ぶのは難しいだろう.

🛑

せめて寒くないようにと, 私はできるだけ静かに調理場を出て, 部屋から毛布を取ってくると, その肩にかけさせていただいた. その一瞬だけ, 少し薄目を開けたように見えたが, すぐにまたお眠りになったようだ.

🛑

いつも張りつめているヨハン様の珍しくゆったりとしたお姿は, こちらの緊張も抜けるような安心感があった. 夕食をお持ちするまではまだ時間がある. それまで私は, 私のすべきことと向き合おう.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑𝟖
食事の後で

その日のうちに, なんとか全ての傷を縫い終えることができた. 脂肪を内側に貼り付けて成型した顔は, 少しばかり人形じみた不気味さを呈してはいるが, 初めての作業としては及第点だろう. オイレさんが吹き飛ばした腕を含め五体満足となったことで, 人としての尊厳は回復できたように思う. 何より, 最後まで一人でやり遂げたことで, 私は今後, 命に携わるだけの資格を得ることができたような気がした.

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調理台の片付けも終える頃には, もう日が落ちてきていた. 夕食はすでにお部屋の扉の前に置いてある. ヨハン様は依然お休み中だが, これ以上ここに放置するわけにもいかない.

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“ヨハン様, 失礼いたします. 夜になりました.”

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私がそっと声をかけると, 睫の長い瞼がゆっくりと開いた.

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“ここは冷えますし, 椅子では背中が痛くなってしまいます. お部屋でお休みくださいませ.”

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“そんなに眠ってしまっていたのか. この毛布はお前か? あの後解剖は. . .”

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“はい, 傷はすべて縫い終え, 使った器具の片づけと調理台の毒消しも済んでおります. 観察されていた心臓はすでに塩の中に戻されているようでしたので, 紙だけこちらにまとめておきました.”

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“そうか. 苦労をかけた.”

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“当然のことでございます. 夕食はお部屋にご用意しておりますが, 召し上がりますか?”

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“ああ, 食べよう. もう暗いな, お前も蝋燭を持って部屋に来い.”

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ヨハン様は少し顔を歪め, 身体を延ばすように動かしながら立ち上がった. 声をかけるのを躊躇ってしまったが, もう少し早く起こして差し上げるべきだったかもしれない.

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自室に立ち寄り, 蝋燭をもって出ようとすると, ヨハン様は扉の前でかごを持って待っていらした.

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“やはり言葉不足だったな. 蝋燭だけでなく, お前の食事も持ってこい.”

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“え. . .”

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“それとも, もう食事は終えていたか?”

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“いえ, ありがとうございます. 持ってまいります.”

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そういえば以前もこんなことがあった. ヨハン様はこともなげにおっしゃるが, やはり使用人の身で主とともに食事をとるという発想はなかなかできない.

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お部屋につくと, まずテーブルに蝋燭をセットして明かりをつけ, かごに入っていた食事を並べる. 私の食事も, できるだけ端のほうに除けて並べた.

蝋燭の明かりで食事をとること自体も稀なことなので, 白昼夢を見ているような不思議な気持ちになる.

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“変な時間に眠りすぎてしまった. 少し頭が痛いな.”

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“申し訳ございません. 最近お疲れのご様子でしたので, お起こししてよいものか迷ってしまいましたが, もっと早くに声をおかけすべきでした.”

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“そういうことが言いたかったのではない. 謝り癖は直せと言っただろう.”

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ヨハン様はため息をつきながらワインを口に運ばれる.

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“お前の父が持っていたというあの本だが, 内容については今まで何か教わっていたか?”

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“いえ, 本自体を読んだことはなかったのでなんとも. . . ただ, 以前初めてヨハン様にお会いした時, 銀での毒見は我が国の知識にはないとおっしゃっていましたので, そうとは知らずに聞いていた内容もあるかもしれません.”

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“そうか. ちなみに, 頭が痛いときに何かをするという話はきいているか?”

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“はい, 父は私が頭が痛いというと, まず手足の冷えや熱があるかなどを調べてくれ, のぼせているようならシナモン, そうでなければリコリスを煮出したものを飲ませてくれました.”

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“なるほど, 頭痛以外の症状も見て判断していたのか. ビンゲンのヒルデガルトが似たような薬草の使い方をしていたが, 頭痛にシナモンは初めて聞いた. しかし, お前の父は本当に商人か? 薬草を用いた治療の知識の深さは, まるで優秀な修道士だ.”

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“確かに, 教養の高さや丁寧な言葉遣いなど, 還俗した修道士のような気も致します. ただ, あの本は祖父の形見と言っていたので, 薬草の知識をもたらしたのがあの本なら, 父ではなく祖父がそうだったのかもしれません.”

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“それにしては, ラテン語ではなくギリシア語と不思議な文字のという組み合わせが不思議だが. . . いずれにしろ, あの本は薬草学について, 重要な知識をもたらしてくれそうだ. 読み解いて実践してみよう. . . ところで, いつも解剖後の動物を取りに来ている皮剥ぎ人の子供がいたな. 確かヤープといったか?”

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ヨハン様はふいに話題を切り替えられた.

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“はい, ヤープです. いつも質の良い原皮が無料で手に入ると, ヨハン様に感謝しておりました. 皮なめしでも他の加工でも, 何かお礼にできることがあればやりたいとも.”

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“それは何とも丁度よい申し出だ. さきほどお前が縫った遺体だが, 見違えるほどきれいになっていた. 元々オイレに適当に処理させるつもりだったが, 何やらもったいないような気がしてな.”

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ヨハン様のお顔に, にやりと意地悪そうな笑みが浮かぶ.

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“ヘカテー, あとで窓に服をかけておけ. ヤープに礼とやらをさせてやろうじゃないか.”

第4章 私がここにいるのは
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟑𝟗
服につられて

窓にかけられた服の合図につられてやってくるヤープを待ちながら, 私はほんの少し, ヨハン様にお礼の件を話したことを後悔していた.

ヤープは子供だ. 人間の解剖という綱渡りのようなことに巻き込むのが気が引けるし, そもそも彼があの年で埋葬などの仕事まで行っているのかもわからない. 親や周囲の大人に頼めるかもしれないが, 事情の説明に困るだろうし, いくらお礼になんでもする心づもりといっても荷が重いのではないだろうか.

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それに, せっかく合図を見てやってきたのに, 目当ての動物がなく, 余計な作業が増えるとなったら, やはりかわいそうだ. ヤープが来たら, 仕事を頼みたい旨だけ告げて詳しいことは話さず, ヨハン様のお部屋に案内する手筈になっている.

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“あ, メイドのねーちゃん!”

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いつも通り, 小さな人影が近づいてきた. 私を見て手を振ってくるが, 入れ物らしきものがどこにもないことに気づくと怪訝な顔をしている.

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“おはよう, ヤープ. ごめんね, 今日は動物の引き取りじゃないの. 服の合図しか連絡手段がなかったから.”

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“ちぇ, なんだよ. でも, 合図をくれたってことは何かおれに用があるんだよね?”

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“ええ, ちょっと仕事を頼みたくて. 案内するから, ついてきてくれる?”

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“うん, わかった!”

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ヤープは素直に塔の中までついてきた. 改めてヤープを見ると, 服はボロボロで, 洗濯をした形跡もなく, 靴すら履いていない. 私はヨハン様に合わせる前に着替えさせるべきか少し迷った.

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“どうかした?”

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“いえ, なんていうか. . . これからヤープには, 私の主, つまり貴族の方に会ってもらうの.”

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“え, 貴族?! まじで?! 大丈夫なのかよそれ!!”

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“そう. それで, 貴族の前にその服で出して大丈夫かなと思って. . .”

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“うーん, わかんないけど, おれはこのまま早く行ったほうがいいと思う. その人だって, おれがどんな身分かぐらい知ってるんでしょ? 怒られるときは何着てても怒られるから, 待たせないほうがいいよ.”

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確かに, “礼儀.”ではなく”怒られるかどうか.”という観点で見れば, ヤープの言う通りだった. ヨハン様は使用人である私と同じテーブルで食事をとろうとするようなお方だ. もしご気分を害するとしたら, 服装よりもお待たせすることでの可能性が高い. また, 初めてヤープと会った時のように, 上から様子を見て, 部屋に来るのを待っていらっしゃるかもしれない.

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私たちはそのままヨハン様のお部屋に向かうことにした.

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“失礼いたします, ヘカテーでございます. ヤープをお連れいたしました.”

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“入れ.”

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ヨハン様に促されて私は扉を開けた. しかし, ヤープはその場で跪き, 中へ入ろうとしない.

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“ああ, そうか. ヘカテー, そいつを連れて中へ入れ.”

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その言葉を聞いて, ようやくヤープは立ち上がって私の後について進み, 私が立ち止まると再び跪いた.

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そういえば, ヤープの身分とはそういうものだった. 通常, 賤民は市民とかかわりを持つことはほぼなく, まして貴族の前に立つことなど全くあり得ない.

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更に, ヤープの職業は皮剥ぎ人である. 例えばオイレさんのような歯抜き師・奇術師といった芸人も賤民に分類されるが, 刑吏に類する職である皮剥ぎ人は, 賤民の中でも特に疎まれる最下層の存在だ. ギルドや市民権を持たないというだけではなく, 彼らに何か協力した市民も, そのことが判明すれば賤民に身分を落とされてしまうほどの.

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したがって他人から話しかけられたり, まして何かを与えられることなどまずない. それは, 形ある物品に限らず, 権利や許可といったものもそうだ.

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先ほどの会話は, ヨハン様と私が会話したに過ぎない. 入れという言葉にも目的語がなかったため, ヤープは勝手に入室の許可を得たと解釈するわけにはいかないのだ.

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つまり, ヨハン様がヤープをご自分の部屋に招き入れるなど異常事態に他ならない. それでもこの部屋でヨハン様がヤープに言いたいこと・訊きたいことがある場合, 普通に考えれば私を介して会話することになる. そして, 万一ヤープが塔に出入りしているところを他の者に見られていた場合, 私がヤープに手を貸したり, 得になるようなことは何もしていないということを, ヨハン様が証言してくださる. . . という流れになるはずだ.

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だが, ヨハン様は跪くヤープを見やると, 直接声をかけられた.

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“ヤープといったな. この塔の中はこの世の外と思え. ここで見聞きしたこと, 話したことは, 全て存在しない. わかるか?”

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“は, はい! . . . です?”

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ヤープは冷や汗を浮かべながら, 必死に丁寧な言葉で答えようとする.

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“顔を上げてよい. 今日は呼んだのは他でもない. 自殺者の埋葬を頼もうと思ってな. そこの袋に入っている. 身元は不明だが, この城の近くで見つかったものだ.”

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“わかりやした.”

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“最近は治安があまり良くなくてな, こういったものがまた見つかることもあるかもしれん. その時はまた頼めるか?”

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“はいです.”

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“ちなみに, 俺は皮剥ぎ人に何かを依頼するのは初めてだ. 相場がわからないんだが, お前は1回につきいくらで請け負うか?”

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その言葉を聞いて, 私は少しドキリとした.

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おそらく, これは, ヤープが共犯になるに値する人物かを確かめるための質問だ. 以前申し出たお礼がこの作業であると理解して何も言わず了承するか, 仕事と聞いて普通に金銭を要求してくるか.

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後者であった場合, ただ次がないだけであればよいが, 口封じに処分される可能性もないではない. 賤民とは, それだけ軽く扱われる身分だ. ヨハン様のお優しい面を知る今となっては, 簡単にそんなことはないと信じたいが, 子供にするにはずいぶん危ない質問である.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒𝟎
小さな労働者

どうかきちんと理解した受け答えをしてくれ, と祈るような気持ちでヤープを見ていると, 彼は真っ青な顔でぶるぶると震えつつ. . . しかし, 迷うことなくすぐに返事をした.

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“決まっているお金はあるです. でも, ここで報酬をもらおうなんて考えないです.”

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“それはどうしてだ?”

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“ここはご領主様のお城です. ここで仕事をもらうのは, ご領主様から命令されてるのと同じだって思うからです.”

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たどたどしいながらもはっきりと答えたヤープを見て, ヨハン様は満足そうな笑顔を浮かべている. 私もヤープが賢明な返答をしてくれたことにほっとした. あの返答なら合格のはずだ.

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ヨハン様はふいに後ろに向き直ると, 部屋の奥に向かって声を掛けた.

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“ラッテ, いるか?”

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“は. ここに.”

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いつの間にか, ヨハン様の斜め後ろに, 男の人が跪いていた. 部屋に入ってから全く気配がなかった. いま音もなく入ってきたのか, 最初から潜んでいたのかの見当もつかない. そういえば, 溝鼠という酷い呼び名. . . たしかこの間, ケーターさんと一緒に任務にあたっていた隠密の中に, この名前の人がいた気がする.

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“そこの少年の見極めを頼む.”

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“承知いたしました.”

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ラッテさんは静かな声で返事をし, ヨハン様に一礼すると, ヤープに微笑みかけた.

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“では, この件は以上だ. 皆下がってよいぞ.”

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そう一言いうと, ヨハン様は急に興味をなくしたように視線を下げ, 手元の書類を読み始められる. 普段のやり取りでは, 格式張らない振る舞いが目立つ方だが, やはりこういったある種の公式の場において, ヨハン様の態度は主人たる風格があり, 威厳に満ちていらっしゃる.

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私とラッテさんは通常の礼をし, ゆっくりと退室しようとするが, ヤープはほとんど土下座といった勢いで頭を振り下ろすと, 大急ぎで床の麻袋を抱えて走り去るようにして部屋を出ていった.

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そんな様子を見たラッテさんが, 部屋を出るとヤープを追いかけ, 肩を軽くたたいて声をかける.

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“久しぶりだな, 坊主. 服の合図は役に立ったか?”

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“あ. . . あの時のおっちゃん. . . ?”

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なるほど, ヤープに解剖後の動物を取りに行くように言った”頭巾のおっちゃん.”とは, ヨハン様の変装ではなく, この人だったということか.

思い込みで伝言の相手を間違えた上に, ヤープに大変な思いをさせてしまった. 私は改めて, ヨハン様にお礼の件を話したことを後悔した.

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“ヤープ, 急にこんなことになってごめんね. 緊張したでしょう?”

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“当たり前だろ! 招かれるだけでびっくりなのに, 貴族と直接会うなんてあり得ないよ. せめて二人のどっちかが最初に伝えてくれたらよかったのに.”

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“本当にごめんね. 私も直接お会いになるとおっしゃるとは思ってなかったんだけど, たぶん私のせい. . . ヤープが言ってた[頭巾のおっちゃん]って人のこと, ヨハン様が変装した姿だと思っちゃって. ほら, 以前お礼がしたいって言ってたでしょう? それをラッテさんじゃなくて, ヨハン様に伝えちゃったのよ.”

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“んあ? なんでねーちゃんがそれを謝んの?”

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正直に謝った私に対するヤープの反応は, 予想外のものだった.

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“あの人がねーちゃんとおっちゃんのご主人様で, おっちゃんはあの人の命令でおれに皮を譲ってくれてたんだろ? じゃあ, お礼する相手もあの人で合ってるじゃん.”

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“その通りだ. 坊主, よくわかってんじゃねぇか.”

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ヤープの言葉にラッテさんも賛同している. たしかに, 使用人の行動は主人の意志. 私が謝るのは筋違いだったかもしれない.

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“ありがとう. あ, そういえばラッテさんは初めましてですよね? ヨハン様付きのメイドのヘカテーです.”

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“ああ, 顔を合わせるのは初めてだったな. あんたのことは知ってるよ. 俺は. . . まぁ自己紹介はまた今度にしようか.”

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ラッテさんはヤープを見てニカーッと笑った. 隠密は公式の存在ではない. 部外者であるヤープに知らせるわけにはいかないのだろう.

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“坊主, 多分近いうちに会うことになるから, その時はまたよろしくな. あの方がおっしゃったこと, 覚えてるよな?”

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“うん!”

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“おし, じゃあとりあえず, その死体の処理が終わったら, いつも皮を取りに来ている場所に目印をおいておいてくれ. 石ころでも花でも, わかれば何でもいい. 他は今まで通りだ. これからも, 服がかけてあったら置いてある動物は持ってっていいぞ.”

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“わかった! おっちゃん, いろいろありがとう!”

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“俺はまだ仕事があるからいったん戻るわ. ヤープもヘカテーも, 元気でな!”

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そういって, ひらひらと後ろ向きに手を振りながら去っていったラッテさんは, 絵にかいたような”近所にいる気の良いおっちゃん.”で, 隠密らしさは微塵も感じられない. しかし先ほど, いつから部屋にいたのかわからず, まるで突然出現したかのように思えたということは, かなりの手練れなのだろう. オイレさんやケーターさんもそうだが, 隠密というのは見せかけの普通の顔をもつものなのかもしれない.

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“ねーちゃんも大変だな.”

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そんなことをぼんやり考えながらラッテさんを見送っていると, ヤープがボソッとつぶやいた.

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“え? どういうこと?”

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“だって, 部屋にいた貴族ってただもんじゃないだろ? さっきのおっちゃんも多分傭兵か何かだし. それと一緒に働いてるって, ねーちゃんもすごい人だったんだな.”

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“私はただのメイドだよ. でもなんでわかるの?”

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“そりゃわかるさ. おれは皮剥ぎ人. 父ちゃんは刑吏だし, 大人になったらおれもなる. おれたちみたいなのには, 誰も上っ面なんて見せないからね. 人間を観察するのは慣れてるよ?”

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ほんの子供, と思っていた子が, とんでもないことを言い出した. びっくりして固まっていると, ヤープはちょっと得意げな顔をする.

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“ねーちゃん, おれが子供だからって舐めてただろ? おれは物心ついたころから父ちゃんと一緒に働いてんの. ねーちゃんは外国人だけど, 割といいとこのお嬢様風だよな. いかにも世間知らずって感じだし, 外で働き始めたのなんて結構最近だろ? 社会人としては, おれのが先輩なんだからな!”

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私を見上げてえへんと胸を張る小さな労働者は, ずいぶんと輝いて見えた. 年や身分が下であっても, この子はすでに自分の足で立っているのだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒𝟏
目的があれば

それからしばらく, 私はかなりギリシア語が読めるようになっていたため, 祖父の本の書き込みを翻訳する作業に没頭している.

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ざっと流し読みすると, 内容は最初のほうが人間の体質と病気について, 後は主に薬草と, その効用についてがまとめられているようだった. 細かく読んでいけば違う内容もあるのかもしれないが, 挿絵が非常に多く, 後ろの3/4ほどは植物の絵が入ったものになっているので, そう思っていて間違いないだろう.

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それにしても不思議な本だ. そもそも紙もインクも普段私が目にするものと全く違う. ギリシア語で書きこまれている部分こそ見慣れた文字の色と太さだが, 本文の文字はインクの色は深青や褐色ではなく闇のように深い黒で, 非常に太い. また, ペンではなく羽か何かをインクに浸して書いたかような, 細かい筋があった. 紙には布のような繊維が認められるが, そのような書き方できちんと色がしみこんでいるところを見ると, もしかすると本当に紙ではなく布の一種なのだろうか. それにしては固く, 破れやすそうな雰囲気もあるが.

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さらに, 文字自体も非常に変わっている. いや, そもそもこれが文字なのかどうかも怪しい. 縦に書かれているし, かたちは複雑で規則性が見いだせず, 種類も何十種類もあるようだ. 何か魔術的な模様と考えたほうがしっくりくる気がするが, ヨハン様は一見して”見たことのない文字.”とおっしゃっていた. 以前見せていただいたアラビア語という文字も, 私には模様にしか見えなかったので, 知らない文字というのはそういう印象をもつものなのかもしれない.

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読めない部分を眺めていても仕方がないので, ギリシア語の部分を読み進めていく. ただ, これはどうやら本文を翻訳したものというわけでもないらしい.

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なぜなら最初のページには”愛する息子へ. 私が受け継いだこの本の知恵が, 少しでもお前に役立つように.”と書かれていたからだ.

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このギリシア語のメモを書いたのは私の祖父なのだろう. 父はギリシア語も読めたが, この地の言葉で読み書きをし, 私ともずっと周囲と同じ言葉で話していた. 言葉のことで周囲から浮いていた印象もない.

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私の家がどの世代で移り住んだのかは不明だが, 祖父はドイツ語がわからないか, わかっていたとしても苦手だったのだろう. しかし, この本に注釈を残しているということは, 彼はドイツ語には不自由でも, この不思議な言葉は読めたということとなる.

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この塔に来てから, 私の自己同一性はどんどん崩壊していく. 今までは自分のことを, 周囲と少しばかり容貌の違うレーレハウゼンの領民としか思っていなかった. ヨハン様にギリシア語の件を指摘され, ギリシア語の勉強をするようになってからは, 帝国に移り住んだギリシア人の家系だと思うようになった. そして, 今度は目の前に, ヨハン様すらも知らない謎の言葉が自分の由来に関係するものとして提示されている.

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そういえば, この本の存在自体は知っていたのに, なぜ今まで私はそれを疑問に思わずにいられたのだろう. 父が時々開いているのを見ても, なぜ読ませて, 教えてと言わなかったのだろう.

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. . . きっと私はずっと怖かったのだ. 異邦人としての自分を認めることが.

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この土地の言葉しか話せず, レーレハウゼンでの生活しか知らない私が, それでも周囲からは異邦人として認識されているのはわかっていた. もちろん, 親子ともにキリスト教徒で, ギルドにも正式に属している以上, 私たちを表立って排斥する者はいない.

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それでも, 私には同世代に”友達.”と呼べるほどの存在はいない.

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ある程度親しくなれるのも, 決まって男の子だった. 理由は決まっている. 単に”見た目が個性的でかわいい.”からだ. つまり, 同じ数だけ私の容姿を嫌う子もいたし, 私にその気がないと分かると突然冷たくなったり怒ったりする子もいた. 勝手に寄ってきては勝手に離れていく子たちに疲れて, いつしか私は同世代と話すとき, 親しくなりすぎないように気を付けるようになった.

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同性で親しくしてくれるのは決まって年上の人たちで, 彼らがやたらに可愛がってくれるのは”言葉が流暢.”で”礼儀ができている.”からだ. さらには”小さな女の子が父子家庭なのに頑張っている.”という憐憫が付け加えられることもある.

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そういった事実に向き合うのが怖くて, 目を背けるように”私は立派な領民だ.””家族は父だけで十分幸せだ.”と思い込むようにして生きてきたのだ.

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仮初の誇りと父への依存によって平穏を保っていれば, いつかツケを払わなくてはいけなくなる. それが今なのだろう. 私は自分が何者として生きていくかという選択と覚悟を迫られている.

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しかしそれは悪いことばかりではない. 私は平穏と引き換えに, 知識という武器を手にしつつある. それはギリシア語だけではない. 医学や解剖学, 更には貴族や隠密の持つ考え方や交渉術. 私が得られる量こそほんの僅かな聞きかじりでしかないが, そういったものは普通なら庶民が持つことのできない強力な武器だ. この先どのような生き方を選択するにしても, きちんと生かせば庶民の世界で負けることはないはずである.

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. . . ああ, ベルの音だ. ヨハン様のもとへ伺わなくては.

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“ヘカテー, 面白いものを見せてやろう. 来い.”

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新しくつけられたこの名前でヨハン様に呼ばれることを, 最近とても嬉しく感じる.

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ヘカテー, ギリシアの死の女神であり, 異端者たちが信奉する異教の女神. しかしそれは本来悪いな存在ではないということも, 最近ヨハン様は教えてくださった. 人間にあらゆる分野での成功を与える女神であり, 天も地も海も自由に駆け回るのだと.

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この塔は狭い. しかし私にとってこの塔は, 街よりも, 空よりも, ずっと自由だ. 何者かであるつもりでいながら何者でもなかった私に, それを探すことを教えてくれた場所であり, 探す目的を授けてくれた場所なのだ.

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人間は怠惰だが, 目的があれば努力をすることができる. 私もここでなら, 知識を得るための努力ができるのだ.

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ヨハン様の見ている世界を見てみたい. そんなおこがましい目的のためならば.

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“もちろんでございます.”

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しかし, 閉じ込められているヨハン様はきっとお辛いだろうと思う. この気持ちを表に出すわけにはいかない. 私は一言静かに応え, 平静を装ってヨハン様についていった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒𝟐
見慣れないもの

“本当はこの間の解剖に間に合えば良かったんだがな.”

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そういいながらヨハン様は書庫の扉を開けられる. そこには本と共に, 大量の薬草や石, 私にはよくわからない道具などが収められているのだが, 今日はその中央に, 大きな銅製の壷が二つ繋がったようなものが置いてあった.

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“これは蒸留器というものだ. レヴァントの商人に頼んでいたんだが, やっと届いた.”

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“あらんびっく, ですか. 変わった名前ですね. 何に使うものなのでしょうか?”

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“ああ, こちらに対応する言葉がないから, アラビア語をそのまま使っている. これは物質, 特に液体に入っている成分を分離することができるものだ. 錬金術にも使うが, 主に酒を濃くするために使うことが多いらしい.”

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“お酒でございますか. . . ?”

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用途は分かったが, 解剖との関連が思いつかず, 言葉が詰まってしまう. この奇妙で大きな器を, ヨハン様はどのように利用されるおつもりなのだろうか.

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解剖の工程を思い出しながら考え込んでいると, はたと気が付いた. いつも終了後には, 解剖した動物が毒を持っていた可能性を考慮し, 調理台や器具, 自分たちの手などをワインで浄めている.

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“あ, 毒消し用のワインを濃くするのですね?”

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ヨハン様が口を開きかけたところにかぶせるように言葉を発してしまったが, ヨハン様は嬉しそうに笑って頷いてくださった.

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“正解だ.”

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“そういえば, なぜ毒消しにワインなのだろうと思っておりましたが, ワインは腐りませんものね. 聖餐にも用いられますし, 悪いものを浄める力を持っているのでしょうか. つまり, この道具はワインを濃くすることで浄めの力を強くできると. . . ?”

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“そうだな. ただ, 教会の者たちはワインが悪いものを浄めるのはキリストの血だからだというが, 俺はそうではなく, 酒の成分に一定の種類の毒を消す力があるからだと考えている. ワインは強い酒だから, その成分の量が多いというだけだろう.”

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“確かにワインは強いお酒ですね. しかし, なぜそのようなお考えに至ったのですか?”

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“神聖な力なら全ての毒に効くはずだが, ワインに混ぜられた毒による毒殺が存在する以上, そうは思えんからな. おそらく効果があるのは, ある種の病気をもたらす毒と, ものを腐敗させる毒だけだ.”

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“そういえば, 床屋が傷口にワインをかけるのも, 腐敗に対する毒消しなのでしょうか. 傷口から肉が腐るという話はよく聞きますし.”

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床屋は傷口にワインをかけ, 卵白で覆って治療する. 卵白の用途はいまいちわからないが, ワインで傷口についている毒を消しているのかもしれないと思った. 最近はこういったお話に, 聞くだけでなく参加できるようになってきているのが楽しい.

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“あ, でも, 毒に触れたわけでもない傷が腐ることもよくありますね. 申し訳ありません, 早とちりでした.”

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“いや, 俺もそうだと思うぞ. 死体に毒があることを考えると, 例えば食肉にすでに毒が発生していたが, 腐り始める前だったから気づかず触れてしまった, なんてこともあるだろう. それに, 矢に毒を塗るのと同じで, 毒は移動できるからな. 傷のないものが毒に触れ, 彼が触れた物に触れた別の者に傷があって腐る, という経路も考えられる. 本人がそう思っていないからと言って, 毒に触れていないと断言はできん.”

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まぁ, あくまで仮説だが, とヨハン様は付け加えた.

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“そして, ものを腐らせる毒に効くのであれば, 肉を腐らせずに保存することもできるかもしれない. 塩漬けだと水が抜けて形が変わってしまうが, 液体で満たせるなら臓器をそのままの形で保存できる可能性もある. だから本当は, 先日の解剖の時にこそ欲しかったのだが. . . あの時点ではまさか人間の死体が手に入るとは思っていなかったからな.”

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話の内容が物騒で不謹慎だということは重々承知の上で, 私はこのようにヨハン様とお話をしていると, 心が躍るのを感じる. この方はいつも, 思いもよらない知識と知恵で, 私に新しい世界を見せてくださるのだから.

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“恐れながら, 最初から貴重な人間の臓器に使うより, まずは動物のもので試したほうが安全かと思いますので, 間に合わなくてよかったのではないでしょうか. 万が一うまくいかず, だめになってしまってはもったいないです.”

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“確かにそうだな. さて, 仮説の段階を経たら, 次は実験, 実証だ. とりあえず用途はさておき, ワインを蒸留器にかけてみよう.”

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作業には火を使うということなので, 早速, 蒸留器を調理場へ運ぶ. この塔の調理場を本来の用途で使うのは久しぶりだ.

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“現物に触れるのは初めてだが, 使い方自体は本で読んだ. 作業は俺がやるから, お前は念のため離れていろ.”

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“離れる. . . なぜでしょうか?”

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“ワインではないが, 作業に失敗して蒸留器が弾け飛んだという記録があった. 熱した金属が飛んで来たら危険だ.”

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なかなか衝撃的な回答だった. スープを料理するような気持ちで始めたら, そんな危険があるとは. . . それより, 問題は発言の後半である.

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“でしたら, なぜ離れるのが私なのですか?! 作業は私が行いますので, ヨハン様が離れたところからご指示をくださいませ. 御身を危険に晒すわけにはいきません!”

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“ん? ああ, そうか.”

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驚いて思わず声を荒げてしまったが, ヨハン様は気に留める様子もなくワインを壺型の部分に注がれる.

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“使用人が主を守ろうとするのは自然なことだが, 生憎, 俺の場合は死んでもそこまで困らないからな. 思い至らなかった.”

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“何をおっしゃるのですか! たとえ少しのお怪我であろうと, ご領主様も, ご家族様も, 使用人や隠密たちも, 皆が心配するに決まっております!”

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“残念ながらそうでもないのだ. もしそうだったら俺は今も居館にいる. むしろ, 俺が死んで喜ぶ者の方が多いかもしれんぞ.”

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“冗談でもそんなことおっしゃらないでください. 仮にそんな不届き者がいたとしても, ヨハン様に何かあったら悲しむ人はたくさんおります. 少なくとも私がそうです!”

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🛑

自嘲気味に目を伏せて笑っていたヨハン様は, 私の言葉に心底驚いた顔をした.

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🛑

“ヘカテー, お前はそこまで言ってくれるのか. . . そうだな, 作業はお前に任せよう. 決してしくじるなよ.”

🛑

🛑

やっと提案を受け入れてくださったヨハン様の指示に従い, 私は蒸留器を火にかけた. 見慣れない道具が, 見た目は特段変わらないままで, かすかな音を立て始める.

🛑

そう, 重要な変化はいつも, 外にいる私に姿を見せてくれないのだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒𝟑
酔いの醒めやらぬまま

特段問題はなく作業は終わった. 部屋中にワインの甘く渋い香りが立ち込めている.”酒を濃くする.”というので色もより深い赤になるのかと思っていたが, ワインを入れたのと逆側の壺に出来上がった液体は, 赤ではなく薄い琥珀色に変化していた.

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🛑

“できたようだな. さて, どんなものだか. . .”

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“お待ちくださいませ, 私が先に毒見をいたします!”

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🛑

当たり前のように味見をしようとするヨハン様を制し, 先に出来上がった液体を少し口に含む.

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“ゔっ!”

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“どうした?!”

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🛑

思わずむせ返り, 鈍い声を漏らしてしまった. 舌がピリピリとして, 喉が焼けるようだ. 私の反応に驚いたヨハン様が, 慌てて吐かせようと背中をたたいてくださる.

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🛑

“た, 大変失礼いたしました. あまりに刺激が強いので驚きましたが, 即効性の毒というわけではないと思います. 体に異常が出るというよりも, 液体が触れた部分に刺激を感じただけでしたので.”

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🛑

咳き込んで口元を手で拭いつつも, 思ったことを告げる. 毒の有無は時間がたたないと分からないが, 身体が拒絶するような感覚は特にない. 口内にはかすかにワインのような風味が残っている.

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🛑

“刺激も, 劇薬というほどではないと思います. 喉は焼けるような痛みを感じましたが, 舌はそこまでではなく, 唇は冷えて乾くような感じがするのみでした. 口元を拭った手に至っては, なんの刺激も感じません.”

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“なるほど, 刺激に慣れている箇所に触れる分には大丈夫だが, そうでない箇所には刺激が強い, といったところか.”

🛑

“はい, 毒があるとしてもカエルの毒のような類ではなさそうです. あとは遅効性の毒がないかどうかを, 時間をかけて見てみる必要はありますが. ただ, ほんの一口飲んだだけで, ワインをコップ一杯飲み切ったかのような感覚があります. . .”

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🛑

上半身が火照り, 頭がふわふわとする. 顔も赤くなっているだろう. 毒というより, 普通に酔っ払った状態だ.

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🛑

“そうか. しかし, 痛い思いをさせてすまなかったな. あくまで酒だから, 少し酔いが回る程度だと思っていたのだが.”

🛑

“いえ, 私がお願いしたことですので, お気になさらないでください. むしろ, 毒見をしてよかったと思っておりま. . .”

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🛑

私がそう言い終わらないうちに, ヨハン様はおもむろに琥珀色の液体を口に含んだ.

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🛑

“ああ! それでは毒見の意味が!”

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🛑

思わず叫んでしまった. 先ほど, 時間をみて本当に毒がないか確かめる必要があると, ご進言したばかりだというのに, 聞いてくださらなかったのだろうか.

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🛑

“ふん, 確かに刺激は感じるが, 俺は何ともない. 安心しろ, 東方では普通に飲まれている酒で, 理論上毒はないのだ. おそらくお前には強すぎたのだろう. 酔いの度合いは人によるからな.”

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🛑

確かに, ヨハン様は全く顔色が変わっていない. 確かめるように二口目を口に運ぼうとされている.

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🛑

“酒としてはかなり人を選ぶが, 毒消しで使うのに味は関係ないから問題ないだろう. とりあえずこうしてものはできたことだし, 次は通常のワインと効能を比べるにはどうすべきか考えないとな.”

🛑

“さようでございますね. ただ, これだけ刺激があるということは, 傷口に掛けたらかなり痛いのではないでしょうか. 調理台や器具専用にしたほうが良いかもしれません.”

🛑

“いや, 俺たちが目指すのはあくまで医療の向上だ. 床屋のワインが傷口を腐らせないためのものなら, その用途にこそ使いたい. そもそも出血は焼いて止める技術もある. 実際に焼ける痛みも焼けるような痛みも大差あるまい.”

🛑

“失礼いたしました, おっしゃる通りです.”

🛑

“とはいえ, いきなり人間で実験するのは良くないのは確かだ. まずは, そうだな. 生肉を二つ用意して, 片方をワインに, もう片方をこれに漬からせてから取り出し, 放置してみようか. この酒のほうが毒消しの効能が強いなら, 腐るのも遅いはずだ. それで差がない場合は. . .”

🛑

🛑

つらつらとそんな話をしながら, ヨハン様はコップに入った液体をついに飲み干されてしまった. 飲むお酒としても気に入られたのだろうか. さすがに少し頬に赤みがさしているものの, ヨハン様はお酒に相当にお強かったようだ.

🛑

私はというと, 完全にへべれけだ. さっきの一口でまだふわふわとしていて, お話があまり頭に入ってこない. 段々ほてりを通り越して貧血のようになってきている. 少し気持ちが悪い.

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🛑

“あとは, これで臓器の保管ができるかどうかを試してみようと思っているんだが. . . おいヘカテー, 大丈夫か?”

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“あ. . . 大変申し訳ございません. . . このお酒は私には強すぎたようで, 意識を集中しづらく. . . きちんとお聞きしようとしているのですが. . . 本当に申し訳. . .”

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“詳しい話はまた明日にしよう. 部屋で休んで来い.”

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🛑

主人の前でここまでべろべろに酔っぱらうなど, 本当はあってはならないことだろう. しかも, 結局ヨハン様はお酒を飲み干されてもなんともなく, 私の毒見にはなんの意味もなかった.

🛑

それでも, 毒見を買って出たことを後悔はしていない. ご自分が死んで喜ぶ者が多いといって寂しげに笑うお顔は, 思い出すだけで胸が痛む. ヨハン様はご自分の大切さをすぐお忘れになるが, そのたびにこうして私が思い出させて差し上げられればと思うのだ.

🛑

自分の命を差し出しても, ヨハン様の命を守りたいと思う者が側にいるとお伝えし続けること. 行動の結果自体に意味がなかったとしても, その積み重ねはきっといつか意味を成すことだと私は信じる.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒𝟒

はっと目が覚めた. 自分の部屋の藁袋の中だ. 窓から見える空は暗く, もう日が落ちていることを示している.

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跳ねるように布団から起き上がる. まずい, 完全にやってしまった. ワインを加工して作ったお酒で酔っ払い, こんな時間まで寝ていたのだ. 当然, ヨハン様のお食事もお運びできていない. 状況を把握するにつれ, 心臓がバクバクと鳴り, 全身に冷や汗が出てくる. これは人生最大規模の失態だ.

🛑

とりあえず早くヨハン様に謝りにいかなければと思い, 慌てて身なりを整えるが, 窓辺に羊皮紙の切れ端があることに気が付いた.

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また何か嫌な知らせだろうか. ケーターさんは地階にいるはずだが. . . 震える手で拾い上げると, そこにはこう書かれていた.

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よく眠れた? 仕事のことは気にしなくって大丈夫!

起きたら調理場に来てね.

🛑

僕だってコレできるんだよ, ホーホー!

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🛑

読んで一気に力が抜けた. このふざけた文面, どう考えてもオイレさんだ. しかし, 仕事を気にしなくて大丈夫ということは, お食事運びなどもオイレさんが代わりにやってくれたのだろうか.

🛑

先にヨハン様のお部屋へ謝りに行くべきか迷ったが, オイレさんは基本的にヨハン様の指示で行動しているはずだ. 調理場に来いということは, まだヨハン様も作業中なのかもしれない.

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髪と服の皺だけ整えて, 走って調理場に向かう.

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“申し訳ございません, 大変お待たせいたしました!”

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扉を開けると同時に勢いよく礼をすると, おはよぉ, とのんびりした声が返ってきた. どうやらオイレさん一人のようだ.

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“いやぁ, 大変だったね! 僕も飲ませてもらったけど, あんな強いお酒飲んだことないよ! びっくりびっくり.”

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“あの. . . ヨハン様は. . .”

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“お部屋にいらっしゃるよ. でも, 先に僕と話す時間をもらったんだ. だからあとで一緒に行こうねぇ.”

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“そうでしたか. あの, お食事はオイレさんが代わりに運んでくださったんですよね? ありがとうございました. とんだ失態でご迷惑をおかけしてすみません.”

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“僕っていうか, 顔見知りの侍従が運んでくれたよ. 今回のは完全に事故だったから気にしないで大丈夫だよぉ.”

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🛑

確かに, 使用人たちはみなオイレさんのことを知らない. 食事をとりに行ったら料理人達がびっくりするだろう.

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🛑

“本当にありがとうございます. 事故とはいえ, 主人の前で酔っ払い, お仕事をサボってしまったのは事実です. どんな処分も覚悟してます.”

🛑

“相変わらずかたいねぇ, ヘカテーちゃんは. ヨハン様は怒ってないし, むしろ心配してたよ. 心配しすぎて僕を呼んじゃうぐらいの慌てようだったんだから.”

🛑

🛑

オイレさんははっはっはと大きく笑う. そういえば, 隠密の方々はどうやってヨハン様と連絡を取っているのだろう. 私が倒れてしまったのはお昼過ぎだったが, そこからの対応が早すぎる. しかもオイレさんの表の職業は歯抜き師だ. いつも定まった場所にいるわけではないから, 早馬を飛ばしたとも思えない.

🛑

疑問が浮かびつつも振り払った. この後でヨハン様のもとに伺うなら, 早く話を済ませなければいけない.

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🛑

“ヨハン様にご心配をおかけしてしまったとは, 恐縮です. それで, わざわざヨハン様抜きでしなくてはいけないお話とは, 一体なんでしょうか?”

🛑

“やっぱり君は頭がいいよねぇ. うん, ヨハン様に言う前に確認しておこうと思ってさ.”

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🛑

オイレさんはそこで一旦言葉を区切り, 少し真面目な顔をした.

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🛑

“ヘカテーちゃん, 居館に戻らない? 大丈夫, 今までより楽な環境で働けるよ. ヴォルフ様とクラウス様が保障してくれる.”

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“え. . . どうして. . .”

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🛑

まさに青天の霹靂だった. 地位は保ったまま塔から出て, 居館で働く. 普通に考えれば良い話だ. 来たばかりのころなら喜んで承諾しただろう.

🛑

でも, 今ではこの塔の中に自分の居場所を見出している. ここでの仕事はあまりに離れがたい.

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🛑

“やっぱり嫌? 正直に言っていいんだよ. これはまだ公式な話じゃないから.”

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🛑

予想外の展開に戸惑っていると, 助け舟を出してくれた. 公式な話じゃない. つまり, 先に私の意志を確認してから進言しようとしてくれているということだ. どういう経緯で出た話なのか分からないところがひっかかりはするが.

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🛑

まっすぐ私に向いたオイレさんの瞳は, 昨日のお酒と同じ色で, 混乱した心を解きほぐすように暖かい.

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🛑

“正直に言っていいなら. . . 嫌, です.”

🛑

“どうして?”

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“最近はお仕事も板についてきました. 今日こそ大失態を演じてしまいましたが. . . ヨハン様に言われた勉強も進んでいるし, やっと少しはお役に立てるようになってきたところです. 何より私, 今ではすっかりここでの生活が好きなんです!”

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🛑

私の返答を聞いて, オイレさんは納得したような, 半分呆れたような顔でため息をついた.

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“違うでしょ.”

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“え, 本当です! 私は心から. . .”

🛑

“君が好きなのは, ここでの生活でも, 勉強でもお仕事でもない. ヨハン様でしょ?”

🛑

🛑

ぐさり, と胸を貫かれたような気がした. 私が好きなのはヨハン様? そんなこと, 考えたことがなかった.

🛑

いや, 違う. 考えないようにしていた. 自分が好きなのはヨハン様ではなくて, ヨハン様のお話だ, ヨハン様の語る未来が見てみたいだけだと言い聞かせていた. そう, 自分の自己同一性を考えることについて蓋をしていたあの頃と同じように.

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つまり私は何も成長していなかった. 塔の中で得たものは, 知恵などではなく, 新たな蓋に過ぎなかったのだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒𝟓
共にいる資格

“やっぱり, 自覚してなかったんだね. それとも気づかないように頑張ってたのかな. 君は賢いから.”

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オイレさんが追い打ちをかける. さっきの言葉で貫かれた胸の傷が無理やり広げられる, ぎりぎりという嫌な音が聞こえてくるようだ.

🛑

だって仕方ないじゃない. 領邦の君主たる方伯のご子息. いずれはご自身も方伯となられるお方. 使用人が感情のままに恋をしてよい相手ではない. 決して叶わない夢を見るよりも, 叶うかもしれない夢の手伝いをする方が良いに決まっているでしょう?

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🛑

“だったら, どうだって言うんですか.”

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🛑

唇を噛みしめるようにして, 私は声を絞りだした.

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“私がヨハン様のことを好きだから, 感情を制御できない使用人はお仕えする資格がないということですか?”

🛑

“. . . ごめんね.”

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🛑

オイレさんは何に対して謝っているのだろう. 素直に肯定してくれた方が楽なのに.

🛑

🛑

“僕は恋というものを信用していないんだ. 君がもっと自分勝手な, 打算的な子だったらよかった. 恋をしている間は妾としての立場を楽しんで, 恋が終わったら離れるときの駆け引きも簡単だから.”

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どこまでも優しく, まるで小さい子に言い聞かせるように話す声が, ひどく私の不安を煽る.

🛑

🛑

“でも君はまじめで誠実で, まっすぐすぎる. 正面から恋をして, 恋が終わった時は自分を叩いて無理に律するだろう. だからといって人間の感情は抑えられるものではない. そして, 暴走した愛ほど恐ろしいものはないんだよ.”

🛑

“私は, ヨハン様に振り向いていただこうなんて不敬なことは考えていません. それどころか, 今日オイレさんに言われなければ, 自分の好きだという気持ちさえ知らずに済んだんです.”

🛑

“そうだね. 知らないほうが安全でいられることもたくさんあるって, 僕は前に君に言ったのにね. にもかかわらず僕は今, 君が頑張って知らないようにしていたことをわざわざ知らせてしまった. それは, いつまでも知らずにいつづけることはできない事実だったからさ. いつ決壊するかわからないよりは, わかったほうが対処できる. そのためにはあえて決壊させてしまうのがいい. 今日の君の行動を聞いて, それに対するヨハン様の反応を見て, 僕はそれが今だと判断したんだ.”

🛑

🛑

オイレさんの言葉は誠実で残酷だ. いつもの間延びした調子で, 冗談を交えながらのらりくらりとはぐらかしてくれたらいいのに. こうして真摯に語りかけられるほどに, 自分の気持ちが浮き彫りになり, 想定される未来は決まっていってしまう. さっきはまだ公式な話じゃないと言っていたが, オイレさんの中ではすでに答えが出ているのだ.

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🛑

“君はいままで, 誰かに恋をしたことがあるかい? 自分の心を知った今, これまでと全く同じに, 気持ちを封印していられると証明できる?”

🛑

“それは. . .”

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🛑

答えられるわけがない. このやりとりは, 私が納得してヨハン様のもとを去るためだけに行われているもの.

🛑

🛑

“この後で, 君と一緒にヨハン様のお部屋に向かう. 僕はそこで, 君を居館に戻すようヨハン様に進言するつもりだ. いいね?”

🛑

🛑

はい, とはどうしても言えなかった. 涙がこぼれないようにぎゅっと目を瞑って, わたしは微かに頷くことしかできない.

🛑

🛑

“うん, いい子.”

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🛑

オイレさんが俯いたままの私の頭をそっとなでる. それはあまりに不躾で, 振り払いたいほど不快に感じられた. 別にオイレさんのことは嫌いではないし, 単なる親しみという意味ではむしろ好きといってよい. でも, 私の心を打ち砕き, 夢を破ったそのあとで, そんな風に優しく接してほしくなかった.

🛑

なによりその手は, 私が触れられることを望む人の手ではない. 別の人に撫でられるまでそのことに気づかないほどに, 私の思い込みの力は強かったようだ.

🛑

それでも, 今ここで感情をむき出しにすることをわずかばかりの自尊心が許さなかったためだけに, 私はただ黙ってなでられながら, 床を見つめていた.

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🛑

“そうそう, 君のこと. . . 君のお父さんのことも, あれからずっと調べてるよ. 申し訳ないことにまだ言えないんだけど, わかってきたことも結構ある.”

🛑

🛑

オイレさんの手が頭から離れた.

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🛑

“本当は君の気持ちを思えば, お暇を出してどこか良い嫁ぎ先を紹介するのが一番いいんだろうけど, もし僕らの推測が正しければ, 君を城から出すわけにいかないんだ. 中途半端な距離は一番つらいよね. 本当に, 本当にごめんね.”

🛑

🛑

話題が変わったことで, 私は少しずつ冷静さを取り戻していった.

🛑

🛑

“いえ, いいんです. この状態で急に結婚しろと言われても, 夫とうまくやれる自信がありませんから. 居館のお仕事はここより忙しいので, 頭を冷やすのにはちょうど良いです.”

🛑

“お父さんのことを教えてほしいとは言わないんだね.”

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“ええ. . . 言っても仕方ないので. . .”

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“お父さんに会いたい?”

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“それはもちろんですが, 難しいかと. . .”

🛑

🛑

すると, オイレさんは少しかがんで私に目線を合わせ, しっかりとこういった.

🛑

🛑

“こんなに傷つけてしまったお詫びに, ひとつだけ約束する. あとどのくらいかかるかわからないけど, 僕は絶対, お父さんを見つけてあげる.”

🛑

“でも. . .”

🛑

🛑

私は言いよどんだ. ケーターさんから, 父は病死したと聞いているからだ. しかし, それはケーターさんとの密談で聞いたお話. ケーターさんの命にもかかわる可能性がある情報かもしれない以上, 口にすることはできない.

🛑

🛑

“ケーターが言ったことを気にしてる? あれは全部が本当じゃない. お父さんはきっと生きてるよ.”

🛑

🛑

そうか, この人は隠密だ. あの日オイレさんは外で待ってるとは言ったが, 話を聞かないとは言っていなかった.

🛑

🛑

“少しは落ち着いたかな. じゃあ, ヨハン様のところへ行こうか. いつもこのくらいの時間までは普通に起きていらっしゃるからね.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒𝟔
これからの日々

蝋燭の小さく揺らめく明かりを頼りに, 重い足取りで階段を下る. 下り慣れた短い階段が, やたらに長く感じられた.

🛑

この先の扉を開ければヨハン様がいらっしゃる. こんな時間まで私を待っていてくださる. しかし, そのお顔を見られるのも, 今日で最後なのだろう.

🛑

🛑

“おお, 意外とかかったな. ヘカテー, もう大丈夫なのか? 顔色は優れないようだが.”

🛑

🛑

私の思いなど知る由もないヨハン様は, お部屋に入るなりそう声を掛けてくださった.

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🛑

“はい, 休ませていただいたおかげでもう大丈夫です. 職務中にもかかわらず, 酔っぱらって倒れるなど, 使用人にあるまじき失態でした. 大変申し訳ございませんでした.”

🛑

“そんなに気にせずとも良い. あの酒が強すぎただけだ.”

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🛑

ヨハン様のお言葉は, 単に体調を崩した自分の使用人を気遣うだけのもの. そうわかっていても尚, 笑顔で暖かい言葉を掛けてくださることが嬉しく, 否応なく自分の気持ちに気づかされてしまう.

🛑

🛑

“さて, オイレ. ヘカテーと二人で話しておきたいことがあると言っていたが. . . ?”

🛑

“はい, 済んでおります. お時間をいただきましてありがとうございました.”

🛑

“では内容を教えろ.”

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🛑

ヨハン様の声に, おもわず肩がびくりと震える.

🛑

🛑

“実は, 家令のヴォルフ様, 並びに執事のクラウス様より, ヘカテーを居館に戻したいとの打診をいただいております.”

🛑

“なんだと.”

🛑

“事前にヘカテーと二人で話す時間をいただきたかったのは, 本人にことの経緯と意志を確かめるにあたり, ヨハン様の御前では本音で話しにくかろうと思ってのことです. 結果, ヘカテーはその話を知らされておりませんでしたが, 居館に戻ること自体は問題ないとのことでした.”

🛑

“オイレ, お前はその打診をどう思う?”

🛑

“私としましては, 受けたほうがよろしいかと存じます.”

🛑

“. . . そうか.”

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🛑

報告に淡々と短く応える声は, 一段低く, 冷え切ったものとなっていった.

🛑

🛑

“ヴォルフだけならまだわかる. しかしクラウスも打診しているといったな? お前ならその意図をわかるはずだと思ったが?”

🛑

🛑

オイレさんは一呼吸おいて, まっすぐとヨハン様の目を見上げ, 決然と答える.

🛑

🛑

“クラウス様の立場は承知しております. しかし, 恐れながらヘカテーはヨハン様のお側に置く者としては不適格かと.”

🛑

“何っ?!”

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🛑

ヨハン様は目を見開き, オイレさんを注視する.

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🛑

“なぜそう判断した?”

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“それは. . .”

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🛑

オイレさんは少し躊躇したように私を見やった. きっと気遣ってくれているのだろう. 正直に理由を答えれば, 秘めていた私の気持ちを, 私の目の前で, 代わりにヨハン様に伝えることになる.

🛑

🛑

“私が感情を自制できない人間だからです.”

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🛑

だから, 私は自分で答えることにした. ただし, この想いをヨハン様にお伝えするつもりはない. 私の主は冷淡なふりをして, その実ひどくお優しい方だ. 本当の理由を知ってしまっては, きっと困らせてしまうだろう.

🛑

🛑

“先日の解剖の後で, 私はオイレさんにご協力いただき, ケーターさんと二人で話す機会がありました. 話は私の父に関することです. 席を外してくださっていたオイレさんが戻ってきたとき, 私は話の内容を問われ, 嘘をつきました. その情報が皆さんにとって有用であろうことをわかった上で, 喋ることによって父やケーターさんの立場に危険が及ぶことを恐れ, 感情に流されてしまったのです.”

🛑

🛑

オイレさんは私がつらつらと喋り出しても顔色を変えず, ただ姿勢を戻して聞いている. 私はそれを, 話の持っていき方を肯定したものと受け取ることにした.

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🛑

“ヨハン様のお側には, 賢く, 信用のおける者のみがお仕えすべきだと思います. 残念ながら私は, 自分で自分のことをそうだとは思えませんでした. ご期待に副えるような活躍もできぬままこの場を去ること, 大変申し訳ございません.”

🛑

“お前がケーターと話したこととその内容については, オイレから聞いてはいたが. . .”

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🛑

私の返答を聞くと, ヨハン様は細長い両眉を下げ, 片手で頭を掻きむしる. さすがのヨハン様も予想外の回答であったようだ.

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🛑

“まぁ, ヘカテーを匿う場所は城の中でありさえすれば, 別にこの塔である必要はないのは確かだ. 本人が望むなら追うべくもない, か. . .”

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🛑

多少の逡巡はあったようだが, 結局あっさりと受け入れられてしまった.

別に, 引き留められることを期待していたわけではない. ねぎらいの言葉があるとも思ってはいなかった. それでも, いざヨハン様の口から”追うべくもない.”と聞くと, 心臓を抉られるようだった.

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🛑

“3日待て. 居館で再びお前を受け入れるにも準備が必要だ. 今後のことは決まり次第ズザンナから伝える.”

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“かしこまりました.”

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3日. それはまるで私に与えられた執行猶予だ. これから戻る現実に向けて, 夢から覚める準備をするための日々は, 私にとってはむしろない方が幸せであるように思えてならなかった.

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🛑

“ヘカテー, お前がいたこの半年ほど, 存外に楽しかったぞ.”

🛑

🛑

話が終わり部屋を去ろうとすると, ヨハン様が私の背中にそんな言葉を投げかけてきた.

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“. . . もったいなきお言葉にございます.”

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🛑

声を押し殺して何とかお返事をし, 私は顔を伏せたまま廊下に出た. こんな無礼な去り方でもきっと許してくださるというのは私の甘えだが, ヨハン様に涙を見せてしまうよりははるかにましだろう.

🛑

扉が閉まりきるのを確認すると, 階段を走り下りながら, 私は子供のように泣いた.

きっと明日は目が腫れている. 何か言い訳を考えておかなくてはいけない.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒𝟕
薬か毒か

結局そんな状態で眠れるわけもなかったが, 眠れないことはかえって都合がよくもあった. 私がここにいられるのはたった3日. この短い時間で許される限りヨハン様のお役に立つには, 睡眠時間など邪魔以外の何物でもなかったからだ.

🛑

しゃっくり上げて咽ぶ自分を叱咤しながら, 頭ではなくひたすら手を動かすことにした. この塔で働くために貸し与えられたこの部屋は, 元々空き部屋であり, ヨハン様が使っていらしたわけではない. ヨハン様は必要ない事柄に関しては無頓着なので, きっと私が去った後は, 何かで入り用になる機会があるまで放置されるのだろう. 私物を片付けるだけでなく, 私が今まで訳してきた”体部の有用性.”の資料や, 解剖の時にまとめたメモの残りなどを整理し, いつかこの部屋が開かれた時には2つ目の書庫のような形で使えるようにしておこうと思った.

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落ち着いてきたと思ってはぶり返してしまう私の泣き声は, 4階まで聞こえてしまっていないだろうか. 夜遅くまで起きていらした分, ヨハン様の眠りは深いだろうとは思いつつ, 反響の大きい石造りの階段のことを思うと少し心配ではあった.

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整理するとはいっても, さすがに, ほんの数か月で私が残せたものなどあまりない. お借りしていた本をお返しするのと一緒に, まとめて書庫に移動したほうがいいかもしれない.

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とりあえず種類別に資料をわけて机の上に置き終えると, 部屋を徹底的に掃除することにした. 蝋燭の明かりでは汚れも見づらいので, あまり効率的な作業とは言えないが, どうせ明日も多くの仕事があるわけではない. 日が昇ってからやり直すくらいの方が気が楽だ.

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頭がくらくらとするのは, 泣き過ぎたせいだろうか. 蝋燭の臭いにやられた可能性もあるので, どこかのタイミングでセージの葉を少しいただいて来よう. 生肉の臭いに効くのなら, 獣脂の臭いにも効くだろうし, 虫よけの意味もある.

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そういったことを教えてくれたのもヨハン様だったと思い出して, せっかく落ち着きかけてきた瞼がまたむくみ始めた.

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ふと手を止めて, 片付けた私物を眺めてみる. その中で異様な存在感を放つ, 父が私に残していった不思議な本. 今の私にとっては唯一の家族とのつながりだ.

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しかし, この本は薬学に関するもの. 私がただ思い出として持っているよりも, ヨハン様に差し上げた方が遥かに有効に使ってくださるだろう. それに, オイレさんは必ず父を見つけ出すと約束してくれた. あの人は奇矯なところがあるが, 信頼できる隠密である. きっと, 私がヨハン様のもとを離れたとて, 約束を反故にするような真似はしないはずだ.

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私物をあつめた袋から本を取り出し, パラパラとめくってみる. 使い慣れた羊皮紙とは異なる, ざらつきの目立つ手触り. どこで文節が区切れるのかすら見当もつかない, 縦に書かれた不思議な黒い文字は, 人間の体質の調べ方からはじまり, 体調を整えるのに有用な薬の調合を語っているはずのものだ.

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傍らの書きこみ曰く, 人間の身体には, “血.”と”水.”と”気.”が巡っており, それらが滞ると体調を崩すという. これはガレノスやヒポクラテスが書いていた”四体液説.”というものと似ている.

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構成するものの分け方が3種類しかない点では四体液説より曖昧だが, この本の調べ方ではさらに, 体質や症状として現れるその人の状態を見るようだ. その分け方が複雑で, 虚と実であったり, 光と陰であったり, 寒さと熱であったりと, ものさしが複数ある.

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そして, この判断を間違えると, 薬として与えたはずのものが毒に転じることもあるらしい. おそらく祖父も翻訳に困ったのだろう, このあたりの言葉は音をそのまま写したものが多く, 意味がわかりづらかった.

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そう, 祖父は父のためにわざわざギリシア語で解説している. ということは, 父もこの文字は読めないのだろう. ならば, この文字を読める祖父, ギリシアよりもさらに遠くの血をひいた祖父は, なぜ, どこからやってきたのだろうか. そして, 彼はこの帝国の大地を踏んだのだろうか.

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. . . それにしても本当に, 私は何人なのだろうか.

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気づくと窓から光が差し込んできていた. 目を覚ました鳥たちの声も聞こえる.

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私は一度深呼吸して本を閉じると, わざと勢いよく音を立てて机の上に置いた. 長く触っていると, またあの疑問がわいてきて, 私を惑わせる.

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幸い, この塔を去るまで, 食事運びのお仕事はまだ任せていただけている. 今日お部屋に伺ったら, 手放す決心が揺らいでしまう前に, これをお渡しすることとしよう.

🛑

同じ薬草が, 人によって薬にも毒にもなると語る異国の本. 私にとってはこの本自体が, 薬でもあり毒でもあった. でもきっとヨハン様なら, この本を薬としてくださるはずだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒𝟖
汚れた手

食事をとりに行く頃には, もう掃除すべき場所など残っていなかった. 明日と明後日をどう過ごすべきなのか, 私には見当もつかない. こういうところが本当に愚かだと, 自分で自分が可笑しく思える.

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🛑

“失礼いたします. お食事をお持ちいたしました.”

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“入れ.”

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返ってくる言葉はいつも同じ. この一言を聞けることが, どんなに幸せであることか, いままで考えたこともなかった.

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“ひどい顔だな.”

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“急に居館に戻るお話が来たもので, 夜通し片付けをしておりました. 普段から整頓していればそうはならないところ, お恥ずかしい限りです.”

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“ふん, お前はかなりのきれい好きだと思っていたが. . . まぁ良い.”

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嘘をついていることは当然バレているだろう. しかし, 追求してこないということは, 糾弾する必要はないと判断されているということ. もしかして私の気持ちまで分かってしまわれているのではないかと, 少し不安になる.

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“あの, お食事中に申し訳ございません.”

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配膳を終えたところで, 恐る恐る声をかけてみた. ヨハン様は相変わらず美しい所作で食事を取りながら, 対応してくださる.

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“何だ?”

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“実はこれを, お受け取りいただけないかと思いまして.”

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差し出した本を見て, 少し眠たげだったヨハン様の眼は一気に見開かれ, 動きが止まった.

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“これは, お前の祖父の形見だろう. おいそれと貰うわけにはいかない品だ.”

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そういって付き返そうとされる手に, 半ば強引に本を押し付ける.

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“お気遣いいただきありがとうございます. しかし, この本は私が持っているよりも, ヨハン様のお手許にあってこそ, 生きるものだと思うのです.”

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ヨハン様はまだ本を受け取らずにいるが, 私はあえて構わずに続けた.

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“私は以前申し上げました. 今の私には夢ができたと. この塔で働かせていただいている間は, 私はこの国の未来を変えるような知恵にも, 直接触れることが許されておりました. しかし, これからはそうはいきません. その本には異国の薬学の知識が詰まっておりますが, 私が持っていても思い出以上の役割を果たしてはくれないことでしょう. その本が本来の役割を果たすためには, 私ではなく, ヨハン様のお手許にあるべきだと思います.”

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“. . . お前は, もっとここで医学を学びたかったか.”

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“いえ, 私にとって学ぶ者が誰であるかは関係ないのです. もとはただの商人の娘, 何者になろうとも思ってはおりません. 私の夢はただ, ヨハン様の夢が成されることですから.”

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手を動かすのは, 別に俺である必要はない. 市井から無能な医師が消え, まともな医師が増えればそれで良い. . . 以前ヨハン様は, そういって夢を語られた. 理由は違えど, 今の私も同じだ.

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“つくづくお前は面白い. しかし, オイレの言う通り, 俺のそばにいるのは不向きであったかもしれんな.”

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ヨハン様は初めて会った時のような悪辣さをもった笑みを浮かべると, 目をそらしながらおっしゃった.

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“今のお前には, 俺が民の命を救うために身を削る聖人にでも見えているのだろうな. しかし, よく思い出せ. 俺はお前の年の頃には, すでに二人の人間を切り裂いている.”

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“解剖は医学の発展のために欠かせないことです. 人の身体を知らずして, どうして人の身体を治せましょうか.”

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“違う. 解剖のために死体を引き取ったのではない. 自分の家に仕えるメイドと侍従を, 俺は手ずから殺したのだ.”

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思わず息を呑む. 解剖のことを知ってから, あの話についても, ただ人間の死体を用いて解剖をしたのだとしか考えていなかった. 死んだのがメイドと侍従だとは聞いていたが, そのふりをした賊を隠密が片付け, ヨハン様は死体を有効活用したのだろうと勝手に思い込んでいた. そう, この間私を襲ったカールさんの死体で解剖を行った時のように.

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“俺はお前に語ったな. 医学を学び始めたのは, 姉上の死がきっかけだったと. 確かに最初は, 一人でも多くの命を救おうと, 無能な医師をこの国から排し, 自らが教え導こうと異国の医学を志した. しかし, 学問とて欲だ. 学び続けるうちに, もっと知りたい, まだ足りないという声が頭に鳴り響き, 自らを蝕んでいく. 声は次第に大きくなり, 抑えることができなくなる.”

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“ヨハン様. . .”

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ヨハン様は気づいていらっしゃるのだろうか, 目をそらしたまま語るその声が震えていることに. 透き通るオリーブの瞳が, 私を見ないように弱々しく揺れ, 自罰的な哀しさに染まっていることにも.

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“失望したか? 俺はこの家に長年尽くしてきた二人を敬いもせず, その中身を見たいという欲のままに切り裂いただけだ. そのうえ今は, 父上から穢い仕事を請け負うことを条件に死体を切り裂くことを許され, 喜んでその立場を受け入れている. 俺はただの知識に憑りつかれた獣だ. お前が思うような人間ではない.”

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わざとらしく声を荒げるヨハン様に, 返す言葉を考えることはできなかったが, それでもここで引こうとは思えなかった.

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無言のまままっすぐとその横顔を見つめ, 本を押し付け続ける私を見て, ヨハン様は根負けしたように本を手に取り, 少し呆れたように笑う.

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“わかった, これはありがたく受け取ろう. だが, 俺の手は血で汚れきっている. あまり俺に夢を見てくれるな. お前のその目は, 俺には少し痛みが過ぎる.”

第5章 光と影
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟒𝟗
新しい主

それから2日間, ヨハン様とはこれと言って会話をする機会もなく過ぎていった. 接触はお食事の配膳と片付けのみ. わざと私と会話することを避けていらっしゃるようだ.

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そうなると当然, 部屋でやることも特にない. 掃除や片付けも終わっているので, 結局私がやることは, ギリシア語の翻訳だけだった. 祖父の本はすでにお渡ししてしまっているので, まだお返しできていない”体部の有用性.”を, 塔を去るまでにできる範囲で翻訳することとする.

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尤も, ヨハン様は完全版の17巻の方を読破していらっしゃるご様子なので, 私の翻訳がヨハン様のお役に立つわけではない. ただ, 何かしていないと耐えられない日々であるのと, いずれ私以外の助手が付く可能性を考えてのことだ. たとえばオイレさんなどは, 普段使う言葉で読み書きはできてもギリシア語はできないので, 翻訳済みの資料があれば手助けになるかもしれない.

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朝のお食事を受け取りに居館へ向かうと, 塔のそばに二つの人影が見えた. 城壁付近から城の外を眺めて何かを話しているようで, 逆光になっているが, 私はその片方を見て驚いた.

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“え, ヨハン様?!”

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ヨハン様は, 塔の外へ出ることは許されていないはずだ. 驚きに思わず声を漏らした私に気づいたのか, 人影はこちらへと近づいてきた.

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すると, 近づいてくるにつれ, ヨハン様より背が高くがっしりとした体躯であることが見て取れた. そして, お顔の造作こそどことなく似ているが, もっと自信に満ち溢れた雰囲気を纏い, まばゆい黄金の髪と, 晴れた空のような碧い瞳をしている.

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私は思い違いに気づくとともに, その人が誰であるかに思い至り, 慌てて立ち止まり頭を下げた.

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“塔から誰か出てきたと思えば. . . 黒い髪に黒い目, 君が噂のヨハンの愛人か.”

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笑顔で親しげに声を欠けてきたその人は, ベルンハルト・フォン・イェーガー様, ヨハン様のお兄様だ. 私がこの城に来る前から国境の守備に出向かれており, お見かけするのは初めてだった. どうやら私の言葉までは聞き取れていなかったようで, 私は少しほっとする.

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ベルンハルト様は街の庶民にも有名な方だ. 方伯の跡継ぎという高位にありながら, 人望の厚さとともにその武勇でも名高く, 自ら先陣を切って軍を鼓舞するという[黄金のベルンハルト]の二つ名は, すでに宮廷で轟いていると聞いたことがある. その噂から, 私はもっと武人然とした方だと思っていたが, 目の前のご本人はさわやかな好青年といった印象である.

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“あいつが側に女性を置いたと聞いたときは驚いて椅子から転げ落ちそうになったが, 実際に見ると納得だな. 異国の令嬢も何度か目にしたことはあるが, こんな美人は見たことがない. なぁ, クラウス?”

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“ええ.”

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先ほどから隣にいらっしゃったのはクラウス様だった. クラウス様は短く答えて微笑み, 私を見やる.

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“もったいなきお言葉にございます. ただ恐れながら, 私は一介のメイドにすぎません. 塔でのお勤めも本日が最後になりました.”

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“なんと, 言葉遣いも完璧じゃないか! 流暢なだけでなく丁寧だ. もしかして, 君は異国の貴族の娘なのか?”

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“いえ, 私はただの商人の娘にございます. 異国の血を引いてはおりますが, 物心ついた時からレーレハウゼンで過ごしておりました.”

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“ではこれが母国語ということか. 知らずに流暢などと言ってしまい悪かったね. しかし, 見た目だけでなく, 所作も言葉も美しいので驚いたよ. 君を異国の貴族として紹介しても, 疑う人はいないだろう.”

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“過分なお褒めにあずかり光栄です.”

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ベルンハルト様はヨハン様と対照的だった. 貴族らしい上品さを持ちながらも, その笑顔は晴れやかで人懐っこさを感じる. ピンと張った背筋はいかにも頼れそうな雰囲気があり, 老若男女共に人気が高いことは容易に想像できた.

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“それにしても. . . さっき, 塔でのお勤めは今日が最後といったか?”

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“はい, さようでございます. 明日より居館に戻り, お仕事をさせていただく予定です.”

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“なんと!”

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嬉しそうな反応に, 私は少しだけ悪い予感がした.

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“クラウス, 居館のメイドは人員不足で困っているか?”

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“いえ, 緊急を要するほどの人手不足という話は聞いておりません.”

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“それはよかった!”

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クラウス様に確認したベルンハルト様はこちらに向き直ると, 私の両手を取ってご自分の手の中に包んだ.

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“今日, こんな形で君と会えたのは, きっと運命に違いない. よかったら私付きのメイドになってくれないか? 君がいてくれたら, 私はきっと, 今よりもっと楽しい日々を過ごせると思うんだ.”

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どうだろう, と尋ねてくださるが, ご領主様の長男様が望まれていることに対し, 使用人に拒否権などあるわけがない. ちらりとクラウス様の様子をうかがうと, 促すように頷いていらした.

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“そのようなお言葉を頂戴し光栄です. 私などに勤まるかわかりませんが, よろしくお願いいたします.”

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私の返答を聞いて, ベルンハルト様は手を握ったまま上下に振って喜びを表現された.

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“そういえば名前はなんという?”

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“ヘカテーと申します.”

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“なんだと? たしか死神の名じゃないか. 君の祖国では普通の名前なのか?”

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“いえ, この名前はヨハン様につけていただいたものです. もとはヴィオラと. . .”

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ヨハン様の名を出した瞬間, ベルンハルト様の表情は一気に曇り, 私が話し終わらないうちに長い溜息をつかれた.

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“なるほど. . . いかにも悪趣味なあいつがやりそうなことだ. もうその名前は名乗らなくていい.”

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そう聞いて胸がずきりと痛む. ベルンハルト様の発言はただの思いやりゆえとわかっているが, 私にとってはヨハン様との繋がりが完全に断たれてしまうような絶望感を伴う言葉だった.

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“大変だったね, ヴィオラ. 大丈夫だ, 私は君を大切にする. 明日から一緒に過ごすことを楽しみにしているよ.”

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呆然としている私の髪を軽く撫でると, ベルンハルト様は去って行かれた. 連れ立って遠ざかるクラウス様の満足げな表情が妙に印象に残る.

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―― クラウスも打診しているといったな?お前ならその意図をわかるはずだと思ったが?

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オイレさんが私を居館に戻すことを伝えた時のヨハン様の言葉が, なぜか脳裏をよぎった. もしかしてクラウス様は, 最初から私をベルンハルト様のお付きにしたかったのだろうか. そうだとしたら, 一体なぜ?

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しかし, その疑問の答えを出す術が私にない. 黙って居館にお食事をとりに行くほかなかった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓𝟎
明日は塔の外

“兄上に会ったそうだな.”

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お食事をお持ちすると, ヨハン様から声をかけられた. 塔から見ていらしたのかと思ったが, 伝聞調であるところからすると近くにだれか隠密がいたのかもしれない.

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“はい, お食事を受取に居館へ向かう途中, お会いいたしました. また, 明日からは居館のメイドとなる予定でしたが, ベルンハルト様とお話した結果, お付きのメイドとなることになりそうです. . .”

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私の反応をみて, ヨハン様は乾いた笑い声を漏らした.

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“そんなに露骨に嫌そうな顔をするな. 兄上自身は別に悪人でもなんでもない. お前ならやっていけるはずだ.”

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“もちろん, ベルンハルト様を悪く思っているわけではございません. しかし, お側にずっとクラウス様がいらっしゃいました. 私が塔から出るときにちょうど塔のそばにいらしていたのも気になりますし, ベルンハルト様のお付きになるお話が出た際, クラウス様がとても満足そうなお顔をされていたので, なにか最初から計画されていたような気がしまして. . .”

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“まぁ実際そうだろう. お前を居館に戻す話自体クラウスが打診している. オイレはヴォルフもと言っていたが, あれもお前がここに来ることに乗り気ではなさそうだった.”

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そういえば, ヴォルフ様は私がヨハン様付きのメイドになるとき, わざわざ私に声をかけしきりに心配し, 初日も塔まで送ってくださった. 本来, 説明も見送りも侍従にやらせればよいことで, 家令という使用人として最高位のお立場の方が, 下級の使用人にそこまでする必要はない.

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あの時は単にお優しい方だからと思っていたが, もしかすると最初から何かあったのかもしれない.

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“しかし, 何故私なのでしょう. . . 特別何かに秀でているわけでも, 実家に強い力があるわけでもございませんのに.”

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“いや, そもそもお前は最初から, メイドの中でも異質の存在だった. おそらくだが, 兄上につけようという話が最初にあったが, 早々に国境へ旅立たれたために, 先に俺の話が通ってしまったのだろう. 執事たちの間で話を決めていたとしても, さすがに言葉の重みは俺のほうが強い.”

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なるほど, 最初から私は愛人枠として期待されていたというわけか. メイドの仕事は, 花嫁修業にもなる仕事. 私もそのつもりでお城に来ていた. 数年ご奉公すれば, その経歴をもとに良い嫁ぎ先が見つかるからと. しかしそういった動機は, お城の運営をされる方々からすれば関係ない. ベルンハルト様が戻られるまでに一通りの仕事を叩き込んでおけば, 戻られるまでに優秀な愛人が即席で完成する算段だったのだろう. つまり, 容姿だけで知らない間に勝手に見定められていたという話であった.

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“. . . ヨハン様に拾っていただけたのは, 本当に幸運なことだったのですね.”

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思わず小声で呟くと, ヨハン様はなんとも微妙な表情をされた.

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“会った瞬間に殺されかけておいてよく言うな. だが, お前がそう思うならよかった.”

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“そのお陰でここでの生活を得られたことを思うと, 最初の事故にさえ感謝しております.”

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“まさかと思うが. . . 兄上に何か言われたのか?”

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“いえ, 滅相もございません. ただ, あれだけ警戒していたクラウス様と, 今後頻繁に顔を合わせるだろうと思うと, どこまでうまく立ち回れるか心配になりまして. . .”

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“なんだ, そんなことか. なら心配するな. 今後のクラウスはお前にとって無害だ. 何かにつけお前にクラウスに注意しろと言っていたのは, お前が俺付きのメイドだったからだ. 俺のもとを離れる以上, 奴が何か仕掛けることはない.”

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ヨハン様は私の心配を鼻で笑うと, 困惑する私に説明してくださった.

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“この家に嫡男は二人, 兄上と俺だ. 選帝侯の地位は長男である兄上が引き継ぐのが普通だが, 俺を推したがる連中も意外に多くてな, いわゆる跡目争いというやつだ. クラウスは兄上側だが, 俺を推す力が強くなりすぎないように, わざと俺との橋渡し役を買って出て何かと調整しているのさ.”

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“そんなご事情があったのですね. . .”

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お家の跡目争いに執事も絡んでくるというと不思議な感じがするが, 執事は貴族の家から採られる. クラウス様もきっとご実家の派閥が関係しているのだろう.

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“ああ, 本当に貴族とは面倒なものだ. 外野が勝手に盛り上がって, 当事者にとっては迷惑極まりない. 俺を推す連中の気が知れん.”

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“そうでしょうか? ヨハン様のご聡明さと人を導くお力は, 上に立つ方として何より求められるものです. ヨハン様を推す方々がたくさんいらっしゃることに, 不思議はないかと思いますが.”

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“. . . お前, 明日以降は口が裂けてもそれを言うなよ?”

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“. . . もちろんでございます.”

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ヨハン様は答える私を疑わしそうに見られるが, そこまで本気で攻めるつもりはなさそうだった.

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“しかし, なんだかんだ言って一番いい形に収まったのかもしれんな. 兄上のところにいるなら, 使用人棟にいるよりも更に安全だ. 安心しろ. . . それから, 今日はどうも食欲がない. 夕食は持ってこなくていいぞ.”

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“え, ご体調がすぐれないのですか? お薬か, 代わりになるようなものをお持ちいたしましょうか.”

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“いらん. だからお前と会うのもこれが最後だ. いままで世話になったな.”

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そう言って私をねぎらうヨハン様の笑顔をどことなく寂しげに感じてしまったのは, 私の傲慢だろうか.

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“お世話になったのは私でございます. 今まで本当に, ありがとうございました.”

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結局, 塔で過ごす最後の日は, 尻切れ蜻蛉に終わってしまった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓𝟏
お付きのメイド

ヨハン様がおっしゃったとおり, 私はベルンハルト様のお計らいで, 居館の空き部屋の一つを使わせていただけることとなった.

滞在用に作られた部屋ではなく, 簡易的な応接間の一種ともいえる小さな部屋だが, それでも個人部屋が与えられるなど破格の待遇だ.

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私の仕事は, 基本的には普通のメイドと変わりはない. ベルンハルト様のお部屋だけでなく, その周辺の部屋や廊下の掃除や整理整頓なども併せて行う. ヨハン様のお付きだった時も, 表向きは北の塔全体の掃除を任されていたため, 新たに覚えるべきことは特になかった.

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ただ, 塔から一切出ることのないヨハン様と違い, ベルンハルト様は頻繁にお出かけになる. また, 空き時間も勉強に充てるのではなく, 人手の足りない現場に赴いてほかのメイドたちの手伝いをすることが多いため, 私の生活は一気にメイドらしいものとなっていた.

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その日, ベルンハルト様は, 夕食後に私を部屋に呼んで, 雑談に誘ってくださった. 私が居館に移ってから, 2度ほどはこうして雑談に呼ばれている. いつもお話は軽妙で, 話題も宮廷の世間話を中心に多岐にわたっており, 人と会話をすることにも才能があることを感じさせた.

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ご兄弟なのに, ヨハン様とは本当に対照的なお方だ. 本よりも武芸を愛し, 身の回りの品もどちらかと言えば派手なものを好まれる. ただ, 派手だからと言って嫌味な感じはなく, 鮮やかな色の服や金細工の小物もよくお似合いだった. ヨハン様のお顔が端正な印象だったのに対し, ベルンハルト様は目鼻立ち華やかなお方なので, あまり控えめなものだとかえって物足りない印象になってしまうのかもしれない.

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お話を聞きながら, そんなことを思ってお顔を見つめていると, ふいに視線がかち合った. どうやら無意識に見つめすぎてしまったらしい. 慌てて目を伏せる.

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“それにしても, 君は本当に肌が綺麗だね.”

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“ありがとうございます. 自分では特にそうは思いませんが, もしそうだとしたら, このお城で良いお食事をいただけているお陰です.”

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“謙遜することはない. 上質な陶器のようで, こんな肌を持つ人はあまりいないよ.”

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ベルンハルト様はそういうと, 手を伸ばして私の頬に触れてきた.

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“ヨハンは君にヘカテーと名付けたらしいが, 私はどちらかというとセレーネーと呼びたくなるな. その黒い髪に白い肌は, 月光によく映えそうだ.”

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声を落とし, 囁くようなその言葉には, 多分な艶が含まれている. 頬に触れていた指先は, 耳元を通って首筋に移動し, 私の髪を掬い取るようにして絡ませた.

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突然変わった空気に戸惑いつつ顔を上げると, いつの間にか先ほどまでの笑顔は消えており, 熱を持った眼差しが私を射貫く.

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“ヴィオラ, そろそろ日が落ちる. 月明かりの時間だ.”

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急に身体が浮いて, 抱き上げられたのだと気づいた. ベルンハルト様のお顔が近づき, 今度は手ではなく唇がそっと触れる.

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. . . それが何を意味するか分からないほど, 私は子供ではない. だが瞬時に受け入れられるほど大人でもなかった.

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そうだ, 私は自分の望まれている立場を忘れていた. ヨハン様が一度もその権利を行使しようとしなかったために, 守られる代わりに差し出すべきものがあるという単純なことを忘れていたのだ.

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高級な家具を移動するようにゆっくりと持ち運ばれながら, 身体の奥から悪い感情が浮き上がってくるのを感じた.

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. . . 嫌だ

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嫌だ, 怖い,

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離して欲しい

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だが拒否してはいけない. してよい相手ではない.

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理性を総動員させて, 何とか気を落ち着けようとするが, 次第に息が上がってきてしまう. 抑えようとすればするほど短く, 浅くなる呼吸. 身体が言うことを聞いてくれない.

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“ヴィオラ?”

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手足に痺れを感じ始めたあたりで, ベルンハルト様が異変に気付かれた.

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“なんでも, ございませんっ!”

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必死に息を抑えながら答える私を見て, ベルンハルト様ははっとした顔で私を床に下ろす.

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“どうした, 息ができないのか?! 具合が悪いならすぐにでも医師を. . . それとも司祭を呼ぶか?”

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“いえ, その, 少し緊張しただけで, 大丈夫で.”

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“どう見ても大丈夫じゃないだろう!”

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ベルンハルト様は, 指輪をひとつご自分の手から外すと, しゃがみこむ私の喉元にそっとあててくださった.

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“この脇石はアメジストだ. 呼吸の病に良いと聞く. 小さいから気休めにしかならんだろうが. . .”

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背中をさすってくださる手にはもう, さっきまでの熱はない. 雰囲気が変わったのを感じるうちに, 次第に呼吸も落ち着いてくる. 宝石が効いたのか, 単に時間の経過かはわからなかった. それほどの長い間, ベルンハルト様はただ私が落ち着くまで待ってくださった.

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“. . . 私が, 怖かったか?”

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“滅相もございません. ベルンハルト様が怖かったのではなく, その, こういった状況そのものに緊張してしまいまして. . . 本当に申し訳ございませんでした.”

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“いや, 私こそ申し訳ない. よく考えればもっと気遣うべきだったよ. 君は半年も塔に閉じ込められて, あの悪魔とたった二人で過ごしていたんだものな.”

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返ってきた言葉は予想外のものだった.

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“申し訳ございません. 今のは私が悪いのです, ヨハン様は何も. . .”

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“うん, わかっている. 君がどんな日々を過ごしていたのか, 聞こうとは思わない. でもこれだけは信じてほしい. ヴィオラ, 私は君が嫌がることをしようとは決して思わない.”

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“塔での日々は幸せなものでした. どうか誤解なさらないでください, ヨハン様は何も悪くないのです.”

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本気で訴えるものの, 私の思いは伝わらない.

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“健気だな. 今日は落ち着くまで, もう少しおしゃべりだけしていよう. 宮廷での土産話はまだあるんだ.”

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ああ, 私が未熟で, 耐えられなかったばかりに, ベルンハルト様に余計な誤解を与えてしまった. 兄弟の間に余計な軋轢も生んでしまったかもしれない. なんだか無性に悔しくて, 悲しい夜だ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓𝟐
仮初の一枚岩

窓からさす月明りと蝋燭の淡い光の中で, ベルンハルト様は私に触れることなく, たわいないおしゃべりを再開してくださった.

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“. . . それで, ティッセン宮中伯夫人が言っていたんだけど, 最近の貴族女性の間では, 幅のとても太いベルトが流行っているそうだよ.”

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“ティッセン宮中伯!”

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聞き覚えのある名前に, 思わず反応してしまうと, ベルンハルト様は少し驚いた顔をした.

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“おや, ヴィオラは宮中伯夫人のことを知っているのかい?”

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“いえ, お名前を少し聞いたことがあるだけで. . . 貴族様のことはほとんどよく知りません.”

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“そうか, 夫人は昔から貴族女性の憧れの的だものな. しかし, 庶民の女性にも名前が届いていたとは.”

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“ええ, そんなところです.”

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もちろん本当は違う. ケーターさんが派遣された工作の対象として名前が挙がっていたのを覚えていたからだ. しかし, 話題が流行の服装のことだったこともあり, そこまでの疑問は持たれなかった.

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🛑

“ティッセン宮中伯夫人は, そんなに美しい方なのですか?”

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“ああ, 宮廷でも有名だよ. 紫色の瞳が印象的な, 知的で凛とした雰囲気の方だ.”

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“紫色の瞳! 神秘的ですね.”

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“どちらかというと, 同性に人気が高い美人と言えるかもしれないね. しかも, 社交界に出て20年以上になるはずなんだが, 当時を知る人から見ても一向に年を取ったように見えないらしい.”

🛑

“それは素敵ですね. もしも身近にそんな方がいたら, 私も憧れてしまいます.”

🛑

“ははは, 本当に女性は, 美しい女性を囲んで服の話をするのが好きだな. もっと交流の深い家だったら, 宮中伯が夫人を伴って家へいらして, 君が見かける機会も会ったかもしれないが, 残念ながらその機会はないだろう.”

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“その. . . あまり親しくない間柄でいらっしゃるのですか?”

🛑

“親しくないというか, 一応同じ皇党派貴族ではあるんだが. . . って, 君に政治の話をしても仕方ないか.”

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“いえ, お聞きしてもよいなら伺いたいです.”

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ベルンハルト様はいつも女性向けに話題を選んでお話してくださっているようだが, 正直に言うと, 庶民の間の流行ならまだしも, 貴族女性の流行のお話を聞いても参考にならない. それだったらむしろ, 政治や学問の方が興味があった.

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“君は珍しいね, そんなところもあの頭でっかちに気に入られたのかな. . . せっかくだから少し説明しよう. ティッセン宮中伯と我がイェーガー方伯は, 宮廷内の[皇党派]と呼ばれる貴族の派閥を二分している. いわば, 同じ宗教の中に別々の宗派があって, その指導者同士といった関係性なんだ. あ, そもそも皇党派とは何か知っているか?”

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“申し訳ありませんが, 存じ上げません.”

🛑

“そうか. 細かい派閥はたくさんあるんだが, 国のまとめ方に関して言えば, 大きく2つに分かれる. 一つは中央集権を重視する皇党派で, うちは代々皇党派に属している. もうひとつは地方分権を重視する教会派だ.”

🛑

“中央集権とはきっと, 帝国全体を宮廷で統治するということですよね. 宮廷の中心は皇帝ですから, 皇党派と名がつくのもわかるのですが. . . なぜその逆が教会派なのでしょう?”

🛑

“地方の政治の一端を教会が担っていることもあるし, 一番の表向きの主張は, 国をまとめるためには, 議論よりも信仰という精神的な絆を重視すべきというものだ. [帝国]といっても小さな国の集合体のようなものだから, 領邦ごとに文化も違ったりするし, 根本的に国としてのまとまりがあまり強いわけではない. その中で, キリスト教という共通の文化に着目し, 教会の力を強めることで間接的に国をまとめようというのが彼らの言い分になる.”

🛑

“それで教会が出てくるのですね. でも, 表向きの主張ということは, 真に目指すものは別にあるのですか?”

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“その通り, 君は理解が早いね. 我々皇党派は皇帝を中心に領主たちが団結することで国をまとめようとしているが, 彼らが重視しているのはむしろ力の分散だ. 皇帝よりも教会, ないしは教皇の権威を上に据えることで, 皇帝や宮廷での決定に反駁する権利を正当化しようとしているのさ.”

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なるほど, 確かに私も自分が属する国が存在するということは知っているが, 国と言われても規模が大きすぎてピンと来ず, レーレハウゼンの住民という意識のほうが強い. また, 統治者と言われて思い浮かぶのも, 皇帝ではなくご領主様だ.

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ご領主様. . . つまりイェーガー方伯様は帝国を一つにまとめるよう尽力なさっているようだが, 他の領主の中には自分の治める地域の君主として, 帝国に従属することを嫌う方々もいらっしゃるのかもしれない.

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しかも, 皇党派の中にも派閥があるというのだから, この国は全くもって一枚岩ではないようだ.

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🛑

“とてもわかりやすくご説明いただき, ありがとうございます.”

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“このくらい, 貴族であれば知っていて当然のことだ.”

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“いえ, 私のような無学な者でもわかるように, 簡潔にお話されるのはすごいことだと思います.”

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🛑

何も知らない相手に簡潔に説明するというのは, どんな話題でも骨が折れるものだ. 前からお話が上手な方だと思ってはいたが, 常に相手を観察して, 興味や理解の度合いを測りながら言葉を選んでいらっしゃるのだろう. それはとても稀有な能力だと思う.

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🛑

“まぁ, ヴィオラに褒められるのは悪い気はしないな. さて, そろそろ寝る時間か. 部屋に戻るかい?”

🛑

“はい, 色々とお気遣いいただき, ありがとうございました.”

🛑

“こちらこそ. また話そう.”

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🛑

そういって目を伏せて微笑まれる横顔は, やはりヨハン様のお兄様なのだと思わせるものだった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓𝟑
余話:溝鼠の思い出

“才能にはどんなものがあるか.”って聞くと, たいていの奴はやたらに大雑把な答え方をする. 運動ができる, 頭が切れる, 手先が器用等々.

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でもたいていの場合, 才能というものは幅がなく, もっと細かい一点に集中してるもんだ. 例えば, 運動ができる中でも, 走るのが速い奴と泳ぎが上手い奴は別だし, 泳ぎが上手い奴にも早く泳げるのと長く潜れるのがいるとかな.

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わかりやすい才能ですらそうなんだから, ごく小さな, 目立たない一点に集中した才能というのは見過ごされやすいぜ?

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俺が生まれ持った才能も, そんな地味な側の一つだった. だから, 早いうちに自分でその才能に気づくことができたのは, 本当に幸運だったとしか言いようがねぇ.

🛑

きっかけは, 親父と一緒に飲み屋で賭博を見物していた時のことだった. 賭けの内容はわからなくても, 俺には誰が勝つか手に取るように分かった. 次はあいつだ, 次はそいつだと当てていったら, いつの間にか俺と親父の周りに人が集まってきて, 今度は俺が何連続で勝負を当てるかを賭け始めたっけ.

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しまいには向こうで賭けてた連中が俺に直接勝負を挑んできたから, 親父をせっついてさっさと逃げた.

理由は簡単だ. 俺は別に賭けが強かったわけじゃない. 俺にわかったのは, イカサマをするのは誰かってことだけだったからな.

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不運だったのは親父がろくでなしだったことだ. 俺の才能を知った親父は, 次の日から詐欺の手口を叩き込んだ. ここでまともに商売人になってりゃ, 別の人生があったのかもしれねぇな.

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まぁそんなわけで, 長いこと, カモを見つけるのと, その限界を見極めるのが俺の仕事だった.

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勘違いされやすいが, 信じやすい甘ちゃんを狙うわけじゃない. そういうやつは大体周囲に頭の切れる仲間がいるからだ. むしろ, 疑り深い孤立した馬鹿を探し出すのが一番やりやすい. それから, カモになるかならねぇかは顔で8割方わかるが, 残りの2割を詰めるには何回か話をする必要がある. 最後に一番肝心なのは引き際だ. カモの限界を越える前に忽然と姿を消すこと. どんな気配を残すわけにもいかない.

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そんなちょっとしたコツも, 俺は誰にも教えられずにすぐ身に着けることができた. 気づいたときには結構いい暮らしができるようになってたもんさ.

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だがそんな俺にも, 自分の人生がこれで終わりだってことに気づく日がやってきた. ある朝親父を見たら, カモの側の顔をしてたんだ. びっくりして色々話してみたら, もう完全にそっち側の反応をしやがる. ああ, もうだめだって思ったね. 案の定, 1週間経たないうちにお縄になったよ.

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で, 人生が変わったのはこっからだ. 親父が下手こいた相手が大物, というかご貴族様だったってんで, 親父と俺はご領主様の前で裁判を受けたんだ. 結果はもちろん有罪, 親父は死刑. 俺は子供だからってことで一旦修道院で預かってもらうことに. . . なったはずだったんだが.

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終わってからすぐ, 知らない貴族に声をかけられた. うちで雇ってやるからついてこいってな. 嘘じゃないことはすぐわかったからついていったんだが, 行った先がまさかのご領主様のお城だったのよ. この貴族はご領主様のところの執事だったんだ.

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このご領主様ってのがやばいのなんの. 動物で言うところの捕食者の側だってことが一目でわかったよ. 計算高くて頭が切れるし, 情はない. そんなご領主様が生きる宮廷っていう世界も騙し騙されの伏魔殿だそうで, 汚れ仕事のできるやつを囲いたかったってわけだ.

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とはいえ俺には断る選択肢なんてなかった. 別にやることは今までと特に変わらねぇ. 新しくつけられた名前が溝鼠ってのはさすがにいい気はしなかったが, 今までの人生振り替えりゃそう呼ばれて当然だ, 反論する気も起こらねぇ.

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表向きの仕事も用意してもらえたし, 今までの経歴も全部真っ白. 親父に指図されることもなく, 指令が出た時だけ仕事しに行けば, 表の仕事で利益がなくても衣食住が保証される. いい条件だろ?

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もちろん, 危ない仕事もたくさん降ってきたが, そんなの裏街で生きてきた俺には慣れっこだ. 仕事は基本的に単発だから, そつなくこなしていけば, 案外前より平和な生活ができてたってもんよ.

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そのうち俺以外にも何人か似たような奴らが来て, 古株の俺は気づけば隊長みたいな立場になってた.

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そんで, 10年くらいたった時だったか? 俺は今度こそ人生最大の衝撃を受けた. ご領主様がこの仕事の統括を息子に譲るってんで, 会いに行った時のことだ.

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そこには塔に閉じ込められたドラゴンがいた. 言ってることわかるか? 捕食者どころじゃねぇ, 存在自体が人間の常識の外にいる奴がいたんだよ. ほんの10歳くらいのガキの顔をして, その頭の中には世界が丸ごと詰まってるって感じだった. 殺されるかもしれないっていう意味以外で他人を怖いと思ったのは, あれが初めてだな.

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この新しいご主人様は医学とやらに興味があるとかで, 今までとは違う雑用みたいな仕事も増えた. 俺には学がないから, あんまりそっちの方は期待に沿えなかったがな.

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んで, 手伝いができるやつを探して来いって命じられて, 見つけてきたのが梟さ. 妙ちくりんな割に器用な奴で, どっちの仕事も淡々とこなす. 表の仕事が派手なのだけ心配だったが, 俺が思ってた以上に気に入ってもらえたみたいで良かったよ.

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. . . おっと, ひさしぶりに人探しの依頼を受けたもんだから, 思わず思い出に浸っちまった.

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さ, カモは見つけた. あれは頭も根性もしっかりしてるし, 身分もちょうどいい. 今はまだ獣の死体を受け渡すだけだが, 将来的に仲間に引き入れられるかもな.

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“よぅ坊主! ここ数日お前を見てりゃ, 毎日怒鳴られたり殴られたり可哀そうだなァ? そんなんじゃ嫌になるだろ? 質のいい原革が無料で手に入る伝手があるんだ. ちょっと話聞いていかねぇか?”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓𝟒
優秀な執事

ベルンハルト様はお忙しく, またお世話をするものも私だけではないので, 頻繁に呼ばれることはない. しかし, 近くで生活しているために, お姿は日常的にお見かけする.

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おかげで嫌でも気づくことがあった. それは, ベルンハルト様がほとんどいつも, クラウス様を連れられているということだ. 塔にいたとき, クラウス様はご領主様とヨハン様の橋渡し役を買って出ていると聞いていたので, 私はクラウス様はいつもご領主様と共にいらっしゃるのかと思っていた.

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そんなわけで, そこまで気になっていたというわけではないが, ベルンハルト様とお話しする際, 話題の一つとして振ってみることにした.

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“そういえば, ベルンハルト様はいつもクラウス様をお連れですよね.”

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“おや, クラウスのことが気になるの? 少し妬いてしまうな.”

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“あ, いえいえそういう意味ではございません! ベルンハルト様が侍従ではなくクラウス様をお連れということは, ご領主様のお側にはどなたがお仕えしているのかと思いまして. . .”

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“ああ, そういうことか. 父上のお仕事は領地に関することだから, 仕事の話はほとんどヴォルフが請け負っている. 家の中のことはむしろ私がクラウスと一緒に取り仕切っているんだ. だから, 逆に父上のほうが侍従で事足りるということだね.”

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“そういうことでしたか. 同じ使用人であっても, 上の方々のことはよくわからなかったもので. それにしてもベルンハルト様は, ご武勇でも名高いのに, 家の中のことまで取り仕切っていらしただなんてすごいですね!”

🛑

“いや, 私は別に武勇で名高いということはないよ.”

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“ご謙遜なさらないでください. 私はこのお城に来る前から, [黄金のベルンハルト]様のご名声は存じておりました. 方伯のご長男様でありながら, 自ら前線に出向かれ, 兵たちの士気が一気に上がったと.”

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“それを武勇と言ってよいのか. . . 私は言葉で皆を鼓舞しただけで, 敵をバッタバッタと切り伏せたわけではないんだよ?”

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🛑

何かをお褒めするたび, 毎回否定してしまうこの方は, もしかすると最初の印象に反して意外と自己評価が低い方なのかもしれない.

ただ, 私にはその姿が, もっと褒められることを欲していらっしゃるようにも思えた. いつも晴れやかで明るい笑顔を浮かべ, 上に立つ者として頼もしいふるまいをなされるが, 夕食後のこの時間に見るベルンハルト様は, 日中より少しだけ幼く見える.

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🛑

“それに, 家の中のことにしたって, 実務をやってくれているのはほとんどクラウスだ. 私は彼の仕事を承認する係のようなものだ.”

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“そんなことをおっしゃらないでください.”

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だからこそ, もっと自信を持っていただけるような言葉をかけて差し上げたいのだが, お仕事の内容がよくわからない私にはその言葉を明確に否定することができないので, そのような反応をされると少し困ってしまう.

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仕方がないので, 話題をずらすことにした.

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“執事というのは, 大変なお仕事なのですね. 今まで, 私たち使用人をまとめてくださる方としか思っておりませんでした.”

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“そうだな, 管理者だけに就ける者の少ない職だが, その中でもうちのクラウスは飛び切り優秀だよ. 与えられた仕事を完璧にこなすだけではない. 私のことをよく気遣って, ここぞという時に必要な言葉をかけてくれるのはいつも彼だ. それに, ちょっとしたことにもすぐ気が付いて, 改善点を挙げ, 私が納得すればすぐ実行してくれる. 自分で自分の仕事をどんどん増やしていってしまうのだから, 彼は相当な仕事中毒とも言えるが.”

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“それはすごいお話ですね. 私など, 目の前のことを片付けるので精一杯ですのに.”

🛑

“ああ, なかなかいる人材ではない. クラウスは末っ子だったからこの家に執事としてやってきたが, もしもアウエルバッハ伯の跡継ぎだったら, あの家は彼の手腕で復興していたかもしれないね.”

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“復興, でございますか. . . ?”

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少し引っかかる言い方だった. お家を大きくするというのならまだわかるが, 復興する必要があるような状況ということだろうか.

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“おっと, 少し良くない言い方をしてしまったな. 君といるとどうも気が緩んでしまうようだ. そう, アウエルバッハ伯は前の代から宮廷での情勢が悪い. . . 今は斜陽にあると言っていい. クラウスをうちの執事に出したのも, 間接的であれうちの後ろ盾が欲しかったんだろう.”

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“そんなご事情がおありの方だったんですね.”

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“まぁ, 仕事中毒ぶりもきっと, その負い目を仕事で返そうとしているんだろう. 私は彼がいてくれて幸運だが, 本来は執事にしておいてはもったいない男だよ.”

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🛑

ベルンハルト様は目を細めてそう言った.

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“どんなご事情でこのお家に仕えていらしたとしても, ベルンハルト様のお役に立てるなら, 私はクラウス様にとっても幸運なことだと思います.”

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“君は優しいね. 私も彼にそう思い続けてもらえるように, 頑張らなくてはいけないな.”

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🛑

これは別に, ベルンハルト様を喜ばせようとして言った言葉ではない. 事実だ.

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以前ヨハン様は, このお家には跡目争いがあるとおっしゃっていた. イェーガー方伯をベルンハルト様が継ぐか, ヨハン様が継ぐか.

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クラウス様は, その跡目争いを有利に導くために, あえて自らヨハン様との橋渡し役を買って出るほど, ベルンハルト様を強く推していらっしゃるのだ. もちろん, クラウス様ご本人ではなく, アウエルバッハ伯のご意志かもしれないが, 私は表に出る行動が全てだと思う.

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🛑

“窓の外がだいぶ暗くなってきた. ヴィオラもお腹が空いているだろう. 部屋に戻って休むといい.”

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“ありがとうございます. いつも楽しくお話させていただいてばかりですが, 何かできることがあれば, いつでもお申し付けくださいませ.”

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🛑

あの日から, ベルンハルト様は私に無理に触れようとはなさらない. 呼ばれるときも, 夕食後のおしゃべりに誘ってくださるのみだった. 使用人として, せめて仕事で役に立ちたいところだ.

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🛑

“ふふ, 今の私にとって, 君と話せる時間が一番気が休まるんだ. 話につきあってくれるだけでも, 十分役に立っているよ. さぁ, おやすみ.”

🛑

“はい, おやすみなさいませ. 失礼いたします.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓𝟓
異動の理由

“居館でのお仕事も, だいぶ板についてきたようですね.”

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🛑

朝方, ベルンハルト様のお部屋を整えて退室すると, 廊下でクラウス様に声をかけられた.

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“はい, まだまだ覚えなければいけないことは沢山ありますが, 皆様が丁寧に教えてくださるので, ついていけております.”

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“それはよかった. ベルンハルト様も, あなたがこちらに来てから, 以前にも増して生き生きとしていらっしゃるように思いますよ.”

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“私は特に何もできていないのですが, ベルンハルト様が生き生きとしていらっしゃるのなら嬉しいです.”

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🛑

以前, 父の安否を確かめるためお休みをいただいた時以来, クラウス様はいつも口元に張り付けていた怖い笑みを浮かべることはなくなった. もともと誰に対しても丁寧な口調の方だが, 私の扱いもより丁寧になっている感じがする.

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それは, 周囲のほかの使用人と比べてもそうだ. 侍女や侍従といった, 私より立場は上のはずの人たちよりも, 私はクラウス様に優しく接されている自覚がある.

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“こちらに来てから, 何か困ったことはありませんか?”

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“いえ, 何も. 慣れないこともあるのでご迷惑をおかけしてしまっているとは思いますが. . .”

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🛑

一瞬, 初めてお部屋で抱き上げられた時のことがよぎってしまったが, 表情に出さないように注意して答えた.

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“本当ですか?”

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しかし, クラウス様はそんなちょっとした変化も見逃す方ではない.

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“ヴィオラ, 私はあなたのことを高く評価しています. 言葉遣いや礼儀作法, 気遣いもよくできますし, あなたの優秀さを疑ってはいません. 私が心配しているのは, あなたが助けを求められない性格なのではないかということですよ.”

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“そんなことはありません. 本当に困ったことはないだけで, 何かあれば上申いたします.”

🛑

“そうですか? でも, 以前ズザンナさんにやりこめられていた時, あなたは自力で説得しようと頑張っていましたね. あの時のあなたの立場なら, 一旦引いてヨハン様にお願いすればお休みをもらえたでしょうに.”

🛑

“. . . お休み程度のことで, ヨハン様のお手を煩わせるという発想がありませんでした.”

🛑

“そうでしょう, そういうところですよ? 自分の立場を自覚して, もっと上の者を上手く使いなさい. 私だって, あなたは身分を気にして話しかけづらいかもしれませんが, 困ったことがあればいつでも協力するつもりですよ.”

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“あの, クラウス様. どうしてそんなに気にかけてくださるのですか?”

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🛑

この際, 直球で聞いてみることにした. 私は他人の表情には敏感な方だ. 嘘を答えられたとしても, それはそれで違和感という手がかりを与えてくれるだろうと思った.

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“あなたは, この家にとってとても重要な存在ですから.”

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🛑

返ってきたのは, 以前聞いたのとよく似た言葉. お休みをいただこうとした時も, “ヨハン様にとって大切な人は, 我々にとっても大切な人.”として, 私を特別だとおっしゃった.

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🛑

“それはその. . . ベルンハルト様の, あ, 愛人, だからでしょうか.”

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🛑

やはり愛人という立場は, そう思われていると自覚していてなお, 口に出すのは恥ずかしいものがある.

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🛑

“自分で言うのも変ですが, 私は珍しい顔だちをしているので, それを魅力的に思ってくださる方は確かに多いです. でも, その分飽きられやすい顔とも言えるのではないでしょうか. 私はあまり, 自分の立場が安定したものだとは思えないのです. そこに手間をかけようとしてくださるのは, 少し不思議と言いますか. . .”

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🛑

私がそういうと, クラウス様は微笑みを湛えたままで納得したように頷き, 答えた.

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“あなたのその賢さが, より信用に繋がっているのですよ.”

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“賢さ, ですか?”

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“はい. 少し場所を移動しましょうか.”

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🛑

周囲に誰かいるわけではないが, 確かに廊下で話すような内容でもないだろう. クラウス様に連れられて, 私は執事の執務室に向かう.

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扉を閉めると, クラウス様は厳粛な雰囲気でお話を再開された.

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🛑

“さて, これからあなたにお話しすることは, ご領主様とヴォルフ様, そして私の3人しか知らないお話です. 私の部屋までついてきたということは, それを聞く覚悟がおありだと考えてよろしいですか?”

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“はい, クラウス様が私に聞かせてよいとご判断なさるなら.”

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まっすぐ目を見て答えた私を見て, クラウス様は満足そうだ.

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“私があなたを特別扱いしているのは, ベルンハルト様の愛人という立場ゆえではありません. 何しろあなたはあのヨハン様の側で, 半年も仕えることのできた稀有な女性です. そして, ヨハン様があなたに飽きたという話も私は聞いていません. 何しろ, 今回の居館への異動は私から打診したものでしたからね.”

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“そういえば, そもそも何故私を居館に移すというお話が出たのでしょうか.”

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“実を言うと, あなたのことはもともとベルンハルト様のお付きにする予定で雇っていました. あの方は際立って見目の麗しい, 年下の女性を好まれますので.”

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🛑

これは, ヨハン様もおっしゃっていたことだ. 私の容姿は目立つので, 華やかなものを好まれるベルンハルト様のための, 一種の装飾品に選ばれること自体はわかる気がする.

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🛑

“しかし, あなたは先にヨハン様を射止めてしまった. これは予想外でした. 正直に言えば, そもそもヨハン様が女性に興味を持つのかという時点で疑問がありましたからね.”

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🛑

本当はここで, 実は愛人として囲われていたわけではなかったと告白するべきなのかもしれない. しかし, 私はまだクラウス様が味方だと信じ切れていない. クラウス様の考えをすべて聞かせていただくのが先だと思った.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓𝟔
兄と弟

“さすがにヨハン様直々にお手紙をいただいては, 我々もあなたをそちらに回さざるを得ません. 更に予想外だったのは, それが半年も続いたことです.”

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“恐れながら. . . それなら, そのままヨハン様のもとに置いておくのが普通ではないでしょうか?”

🛑

“ええ, 普通ならそうでしょう. しかし, この家の将来のことを思えば, ヨハン様の気持ちが冷めないうちに, あなたを居館に戻す必要がありました. それは, あなたにベルンハルト様とヨハン様の間を取り持ってほしかったからです.”

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🛑

クラウス様のお話は意外なものだった.

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“あなたは優秀です. それは私が今まで見てきた言動からもわかりますし, ヨハン様は優秀ではない人間を側に置くことはなさいません. あの方が塔に一人でいらっしゃるのは, 単に幽閉されているからというだけではないのですよ.”

🛑

“つまり, 塔に移られる前も, 身辺に人を置くのを好まれなかったのですか?”

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🛑

クラウス様に, 私が隠密の存在を知っているということが知られているかはわからないが, 念のため知らないというていで受け答えをしておく. 別に隠密のことを知らないと嘘をつくわけではない. 過去の話を持ち出す分には, 後でいくらでもいいわけがきくはずだ.

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🛑

“ええ, その通りです. 例えば, あなたが塔に行くまで, お食事と御用聞きが当番制だったのを覚えていますか?”

🛑

“はい, その時私が規則を知らずに, お部屋までお持ちしてしまったのが, ヨハン様にお仕えするきっかけでしたから.”

🛑

“そうですね. あなたへ配膳の規則が知らされなかったのは奇跡的な偶然, むしろ運命だったとしか思えない. そして, その規則を決められたのはヨハン様ご自身なのです.”

🛑

“えっ, その, メイドと侍従が殺されてしまったから決められた規則だと, 伺っていましたが. . .”

🛑

“たしかにそれが直接的な理由だったのは間違いありませんが, ヨハン様は自ら当番制を提案されました. 使用人には発案者が誰であるかまで伝わらないので誤解を招くのは仕方ありませんが, ご領主様の命ではなかったのですよ.”

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🛑

たしかに, ヨハン様であれば, 自らそういった不思議な規則を提案されることも十分ありそうだ. もともと無暗に人を近づけたくなかったのもあるだろうし, 塔を出る直前に伺ったお話を考えると, 有り余る知識欲の前に人を殺せてしまったご自分のことを, ご自分で怖くなってしまわれたのかもしれない.

🛑

ただ, ここで当番制が決まった裏話を伺ったところで, 私の疑問に対する答えにはなっていなかった.

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🛑

“さようでございましたか. そのようなご事情があった中で, お側に置いていただけたのは本当に光栄なことです. ただ, お二人の間を取り持つ役割というのなら, やはり私はヨハン様のもとに居続けたほうが, 合理的なような気がするのですが. . .”

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🛑

そう, クラウス様たちの私の立場に対する認識は, あくまで愛人だったはずである. それを異動させてしまうなど, 普通に考えたら間を取り持つどころか, 愛人をめぐっての争いさえ起きかねない. それなら, ヨハン様とベルンハルト様の間で意見の相違があった際, 愛人の立場からヨハン様を説得するほうが理にかなっている.

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🛑

“正直, これは賭けでした. もしヨハン様が執着を見せるようなら, すぐに撤回してあなたを塔に戻すつもりでしたよ. でもあなたが塔を去るにあたって, 一切の引き留めもありませんでしたね?”

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優しげに話すクラウス様の言葉が, 鋭く胸に刺さる. そう, 私は別にヨハン様に愛されていたわけではない. その事実は強い毒となって, 心臓を塗りつぶすように覆っていく.

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“前にも少し話したことがありましたが, この家の未来のためには, ベルンハルト様とヨハン様, 双方に助け合っていただく必要があります. ベルンハルト様には人望が, ヨハン様には叡智がある. どちらが欠けても良い方向には転がらないでしょう. しかし現状, お二人はどう客観的に見ても仲が良いとは言えません. 特に, ベルンハルト様のヨハン様に対する思いは非常に良くないものです.”

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🛑

執務室の中とはいえ, クラウス様がここまできわどい発言をされることに, 私は驚いた. どちらが欠けても良くない. . . それは逆に言うと, ベルンハルト様に叡智がなく, ヨハン様に人望がないと言ったも同然だ. 不敬どころの騒ぎではない.

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目を瞠って固まっている私を見てクラウス様は少し悪戯な笑みを浮かべると, そっと近づいてきて, 私の耳元に小声で囁いた.

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🛑

“何度かお話しして, あなたも気づかれたのではないですか? 世の中では女性のほうが嫉妬深いと言いますが, 頻度が高いというだけで, 男が嫉妬をするとそれは女性よりも遥かに強い.”

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クラウス様がすぐに離れられたが, 私は黙って頷いた.

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そう, ベルンハルト様は, ヨハン様を快く思っていない. はっきり言って嫌っていると思う. その理由は, おそらく嫉妬だ.

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“その点, ヨハン様は非常に冷徹なお方です. 感情に流されるような方ではありません. そして, ご自身も地位を欲してはいらっしゃらない. 将来, ベルンハルト様が選帝侯の地位に就き表舞台で活躍されて, それをヨハン様があの叡智で支えてくだされば, この家と領地はより発展を見せるでしょう. しかし逆ならば結果は想像に難くありません. 勝手な話ですが, お二人の結束のためには, ヨハン様はベルンハルト様に, 常に何かを譲っている必要があるのです.”

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🛑

なんとなくそれは感じつつも, そんな訳がないだろうと思っていた. 世の中的な名声も, 長男という地位も, ベルンハルト様の方が上なのに, 嫉妬するなど奇妙に感じられるからだ.

🛑

とはいえご本人にしてみれば, ヨハン様の聡明さは, それを取って余りあるものなのだろう. 幽閉されていて尚ヨハン様を跡継ぎに推す勢力もあるとなれば猶更, いつ追い落とされるかという恐怖もあるのかもしれない. ヨハン様を跡継ぎとすることが実現してしまえば, イェーガー方伯領は骨肉の争いで没落しかねない.

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🛑

“おっしゃることはよくわかりました. ただ, それは仲を取り持つというのとは少し違う気もしますが. . .”

🛑

“ヴィオラ. 私は今, 大変無礼で, 身勝手で, 残酷なことを, あなたを信じて赤裸々に語っているのです.”

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クラウス様はなおも続けた.

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🛑

“ヨハン様は常に何かをベルンハルト様に譲る. しかしそれではベルンハルト様の心は鎮められても, ヨハン様の心は蝕まれていくだけで, いつ爆発するとも限りません. 今は大人しくしていらっしゃいますが, 根は非常に気難しく苛烈なお方. しかもあの智謀をもってすれば, 見えない形でベルンハルト様を攻撃することなどいくらでも可能です. そこで鍵となるのがあなたなのです.”

🛑

🛑

クラウス様は笑顔を崩さないままで私を指さす. それはまるで, 剣を突き付けられているような緊張感があった.

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🛑

“ヨハン様の身の上を考えれば, 今後新しい愛人を迎えることは極めて難しいでしょう. 奥方を迎えるにしてもそれは愛のない政略結婚となります. つまり, あなたはヨハン様にとって生涯ただ一人の女性です. そんなあなたがベルンハルト様のもとにいれば, ヨハン様にとってベルンハルト様を補佐する最大の理由となるのですよ.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓𝟕
貴族に仕える貴族

とんでもないお話を聞いてしまった. 緊張で膝が震える. 私は, 目の前で穏やかに微笑むクラウス様が, こういう残酷な世界を生き抜いてきた, 一人の貴族なのだということを実感していた.

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🛑

“さて, お話は以上です. 疑問は晴れましたか?”

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“はい. . . そんな重要な機密をお話しくださったこと, 感謝いたします.”

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“先ほど言ったように, 今のお話はご領主様とヴォルフ様しか知りません. そして, もしあなたがこの話をどこかに漏らせば, 私の首は簡単に飛んでいくでしょう.”

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“そんな. . . っ!”

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“気にする必要はありません. 私はあなたになら, この命を預けてもいいと思ってお話したのですから.”

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クラウス様はにっこりと笑みを深め, 私の頭を軽くなでた.

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“私たちはこれで運命共同体ですね. 重大なことに巻き込んでしまって心苦しいですが, 私は幸いにしていつもベルンハルト様のそばにおります. あなたのことも全力で守りますから, 安心してついてきてください.”

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“はい. . .”

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“さすがに少し時間を取りすぎました. お互いそろそろ持ち場に戻りましょう.”

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🛑

クラウス様に促されて, 私は退室した. 部屋を出た瞬間に, 開放感からどっと疲れが押し寄せてくる.

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さきほどのお話は, 私が抱えるにはあまりにも重く, そして複雑なお話だった.

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話の筋は通っていると思う. 確かに, ベルンハルト様はいつもの会話のご様子からして, ヨハン様に良い感情を持っていないのは明らかだったし, 普段は自信に満ち溢れた雰囲気だが, 二人でお話しするときにはやや自虐的な発言が散見される.

🛑

ベルンハルト様がヨハン様に協力する可能性が薄いとすれば, ベルンハルト様にご領主様の後を継いでいただき, ヨハン様にその補佐を仰ぐ. これでヨハン様のほうがお兄様だと厄介だが, 幸いにして長男はベルンハルト様だ.

🛑

また, これらの話は以前ヨハン様がおっしゃっていたこととも合致する. すなわち, ベルンハルト様を推す勢力とヨハン様を推す勢力が割れていることや, クラウス様がベルンハルト様側であり, ヨハン様が力をつけすぎないように調整しているということ.

🛑

ヨハン様の気持ちを弄び, 利用しようとするやり口には腹が立つが, ベルンハルト様を推すうえでは至極当然の, いたって自然な流れだと言えた.

🛑

. . . しかし, 何故だろう, なんとなく胸騒ぎがする. クラウス様のお話に妙な違和感を感じるのだ.

🛑

もちろんそれは, 私がクラウス様を苦手に思っているからというのもある. 今の私はベルンハルト様お付きのメイドだが, 未だに心はヨハン様にお仕えしている頃から抜け切れていない. そして, ヨハン様への思いが強すぎるせいか, 塔を出る前に”今後のクラウスはお前にとって無害だ.”と言われてるにもかかわらず, ヨハン様の味方ではないというクラウス様に, 懐疑心や警戒心は解けないままでいる.

🛑

この違和感は, 私がクラウス様に対して疑心暗鬼になりすぎているからだと, 切り捨てるべきものなのだろうか?

🛑

先ほどの会話を思い出しながら, 私は考える. きちんと自分の中で納得させないと, 切り捨てるべき疑念も切り捨てることができないだろう. 私は貴族ではない. 腹芸などほとんどできない小娘が, 今後クラウス様と”運命共同体.”と言われる状況に耐えるには, 違和感の正体を探り, それを打ち消す合理的な理由を見つけなければいけない.

🛑

🛑

―― お二人の結束のためには, ヨハン様はベルンハルト様に, 常に何かを譲っている必要があるのです.

🛑

―― あなたはヨハン様にとって生涯ただ一人の女性です.

🛑

―― あなたがベルンハルト様のもとにいれば, ヨハン様にとってベルンハルト様を補佐する最大の理由となる

🛑

🛑

しばらく考えて, 私は気づいた. いや, 気づいてしまった. クラウス様のお話は, ヨハン様の私に対する思いしか考慮されていない, ということに.

🛑

ヨハン様は確かに, 今後愛人を持つことは難しいだろう. 塔の中に閉じこもっていては, 好みの女性を見つけることなど, 物理的にできないのだから.

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だが, ベルンハルト様は違う. 頻繁にお出かけになり, 宮廷へもお出ましになる. 奥方様は政治的な理由で選ばれるとしても, 愛人など選び放題のはずだ.

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さらに言うと, 流行に敏感で, 女性慣れしているお方でもある. クラウス様も”ベルンハルト様は際立って見目の麗しい, 年下の女性を好まれる.”とおっしゃっていた.”年下が好き.”がもし年若い娘が好きという意味だとすると, 私が成長するにつれベルンハルト様にとっての魅力は下がっていくかもしれない.

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そのため, 一口に側にいるといっても, 私の価値はベルンハルト様に取って高くない. あえて言えば”ヨハン様が欲しているものを自分が持っている.”という価値はあるかもしれないが, ベルンハルト様は基本的に非常に紳士的でお優しい方だ. そのことは日常的な会話からも, あの日以来指一本触れてこないことからも感じられる. そこまでヨハン様への当てつけに執着するとは考えにくかった.

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つまり, ベルンハルト様は, 飽きたら私を傷つけないような形で上手く別れを切り出せる方だということ. すると, クラウス様がおっしゃっていた”ヨハン様が愛する女性をベルンハルト様の側に置くことで, 間接的にヨハン様がベルンハルト様を助けるように仕向ける.”という作戦は, 長期的にみるとあまりにも脆いのだ.

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. . . 困った. 違和感の正体を探ってそれを切り捨てるつもりが, 見つけたものは切り捨て難い整合性を持っている. かえって疑念を深める結果となってしまった. しかも, この話はこのお家の将来にかかわる重要できわどいお話. 少しでも身の振り方を誤れば, すぐに足を踏み外してしまうだろう.

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今までもそうだった. 都合の悪いことを隠そうとするとつい嘘をついてしまう私と違い, クラウス様は決して嘘はつかない. 嘘をつくのではなく, 重要な事実を隠し, 無関係の事実を関係ありげに強調することで, 相手の思考を誘導するようにお話になる.

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だからこそ踊らされてしまうのだ. 貴族に仕える貴族とは, こんなにも優雅な足取りで, 複雑な道を簡単に進まれるものなのか.

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自分の手に余る疑問を相手取り, 私はするべき仕事も手につきそうになかった.

第6章 抵抗
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓𝟖
誕生日に

冷静に考えれば, クラウス様は誠実だ. 私が漏らせばご自分に命の危険が及ぶような秘密を, 私を信じて打ち明けてくださった. それだけでなく, 私のことを守るとまで言ってくださるのだ. 疑うなど失礼千万, まして嫌っている場合ではない.

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それでも, 一番近くで見守るベルンハルト様をして, 執事にしておくにはもったいないほど優秀と言われる方の考える計画に, 私が少し考えれば見つけてしまえるようなほころびがあることが不思議でならなかった. お話を聞いてから胸騒ぎがするのは, その不思議さゆえだ.

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なぜ, 長期的に見れば無に帰す可能性のある計画をなされるのだろう.

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そしてなぜ, ヨハン様とベルンハルト様の資質に対する, 無遠慮な見解をわざわざ述べられたのだろう. 特にベルンハルト様については, 私のことを側に置いておきながら, 私がベルンハルト様に幻滅し軽蔑するように仕向けているかのようだ.

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―― 全力で守りますから, 安心してついてきてください.

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この言葉は耳障りの良いものだが, こういったことを踏まえると, まるでヨハン様とベルンハルト様よりも自分についてこいと言っていらっしゃるようにも聞こえる.

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. . . いや, まさかとは思うが, 本当にそうなのだろうか?

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ベルンハルト様は, 文武両道で性格も心優しく, 人を引き付けるカリスマ性もあり, これといった欠点は見当たらないお方だ.

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しかし, それはあくまで庶民である私から見た姿. クラウス様はヨハン様の協力が不可欠であるとしきりに主張される.

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学問より武芸を愛される傾向のあるベルンハルト様の知恵は, 貴族として必要な水準は超えるものであっても, いざご領主様の地位を引き継ぐとなると少々難しいのかもしれない.

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その点, クラウス様は, もしご長男に生まれていれば一代で家を復興させたかもしれないといわれるほどの聡明なお方. ヨハン様にすら警戒される智謀の持ち主でもある. 今は家の内部のお仕事が主だが, ご領主様にも深いつながりを持つお方だ. ベルンハルト様の信頼も一身に受けている.

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ベルンハルト様がご領主様の地位を引き継がれたら, ベルンハルト様はきっと, 領地のこと以外も, ことあるごとにクラウス様に意見を求められるはずだ.

🛑

そのような将来を考えてみると, 本当にヨハン様のご助力は必要なのだろうか? 仮にヨハン様がその知略をもってベルンハルト様を支えようとしたとして, ヨハン様を疎ましく思っておられるベルンハルト様は, 素直にその意見を取り入れるだろうか?

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ここまで考えると, 私は一つの恐ろしい可能性に思い当たり, どっと冷や汗が出てきてしまった.

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クラウス様が家令の地位にあれば, 補佐としては十分. そして, ベルンハルト様のクラウス様に対するあの信頼の強さ. . . クラウス様に悪意があったなら, 求められるまま意見を述べるだけで, ベルンハルト様を実質的に傀儡としてしまうことも可能だ. 斜陽にあるアウエルバッハ伯の家の復興など, イェーガー方伯の力をもってすれば, 直接跡を継いでいなくともたやすいかもしれない.

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そして, もしクラウス様が本当にそのような将来を思い描いていらっしゃるなら, そのような動きを見破る力を持ったヨハン様の存在は, クラウス様にとって邪魔でしかない.

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. . . さすがに考えすぎだろうか?

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さきほどの, 私を利用してご兄弟を結束させるというお話は, ご領主様とヴォルフ様もご存じだと, クラウス様はおっしゃっていた. 私の立場では確かめようもないが, 本当にそうなら, 私の思いつく程度のほころびには, すでに何らかの対策があるのかもしれない. そうだと思いたい.

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それでも, 万が一にもヨハン様のみが危ぶまれるような可能性があるのなら, 私はそれを黙って受け入れることなどできない. ただでさえヨハン様は, 幽閉の憂き目にあい, あらゆる自由や権利を取り上げられて, 孤独な道を歩まれているというのに.

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何か, どんな小さなことでも良い, 私はヨハン様のお役に立つことはできないのだろうか.

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考え事をしながら仕事をしていると, 矢のように時間が過ぎていく. あっという間に夜を迎え, 私はまたベルンハルト様におしゃべりに誘われた.

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“ヴィオラ, おめでとう! そろそろ君の誕生日だそうじゃないか. クラウスに聞いたよ.”

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“ありがとうございます. お陰様で15になります.”

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“なんで教えてくれなかったんだ. 私だって君のことをお祝いしたいのに.”

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“そんな, ベルンハルト様にお祝いの言葉をいただくなど, 身に余ることです.”

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“君は本当に健気だな. 女性はもっとわがままでいたってかわいいものなんだよ.”

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ベルンハルト様は相変らず会話がお上手で, 口下手な私をうまく引っ張って盛り上げてくださる. その言葉はいつも温かく, 私はこの時間を素直に楽しめるようになってきていた.

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“何か欲しいものはないか? 言葉だけじゃなくて, 私は君に何か贈り物がしたい.”

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“そんな, 私に贈り物など, もったいないことでございます. . .”

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“遠慮することはない. 私はただ, 自分の贈り物で君が喜ぶところを見てみたいんだ. 何かあれば言ってごらん. 流行の服? それとも装飾品の類だろうか?”

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“欲しいもの, と言われますと, 特にないのですが. . .”

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わたしの欲しいものは, ヨハン様をお守りできる力. ベルンハルト様にお願いできるようなものではない.

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しかし, ここで, この瞬間に気づいてしまった. 私に力はないが, 力を持った人たちはいる. そしてそのうちの一人は, 今の私でも自然に会うことができる.

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“じゃあ, 物以外で何かあるということだね?”

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ベルンハルト様は目を輝かせて, 興味深そうに私を見つめている. なんとお優しく, 純粋な方だろう.

. . . ああ, 神様. この方のご好意を利用することをどうかお許しください.

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“もしお許しいただけるなら, 街に行って大道芸が見てみたいです.”

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“大道芸か! そういえば庶民にとっては一番の娯楽だな. . . それはつまり, 私も誘いを受けたと解釈してよいのか?”

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“不躾なお願いとは思いますので. . . その, もしよろしければですが. . .”

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“ああヴィオラ! 君はなんてかわいらしいんだ! もちろんだとも, 次の休みは是非一緒に見に行こう.”

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🛑

ベルンハルト様は感極まったように私を抱きしめ, 額に口づける. 私はおずおずと背中に腕を回すことで罪悪感を退けた.

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一口に大道芸と言っても, 旅芸人はたくさんいる. だが, 運が良ければ, 観客としてオイレさんに接触することができるかもしれない.

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ヨハン様はこの国の未来に必要なお方だ. 私の悩みが杞憂でないのなら, きっと天の助けがあるだろう.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟓𝟗
街へ再び

ベルンハルト様を半ば騙すような形になってはしまったが, 自分では解決できない問題を託せる先を思いつけたことで, 私は少し心を落ち着けることができた.

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今日聞いたこと, 考えたことを書き忘れてしまうことがないよう, 部屋に戻って早々に手紙を書く.

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クラウス様とお話したこと. クラウス様の考えられているとおっしゃったこと. そして, そこに見つけほころびと, 自分の見解.

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さすがに疑いすぎではないか, 洩らせばクラウス様の命が危ないという機密をこうもすぐに洩らしてよいのかと, 何度も筆が止まってしまうが, 私にとって最も大切なのはヨハン様だ. オイレさんは勝手な行動をとる方ではないし, ヨハン様がクラウス様を殺すこともないはずだと信じて, 何とか全てを書き記した.

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そして最後に, 悩みつつも付け加えたこともある.

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私は取り立てて演技が上手いわけではないので, 綱渡りになってしまうが. . . もしクラウス様がヨハン様にとって危険な存在であった場合, 一番近くで監視できるのは私のはずだ.

ベルンハルト様を介して顔を合わせることも多く, クラウス様からも”運命共同体.”と呼ばれた. 何より, クラウス様の言動からして, 理由はどうあれクラウス様は私を自分の近くに置こうとしていることは明確だった.

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私であれば, 隠密のような諜報とまではいかなくとも, 大きな動きがあった時ヨハン様へ情報を流すことくらいはできるだろう.

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事務的で少々無機質すぎる手紙をしたため終えると, 私はそれを肌身離さず持ち歩くことにした. 自室の机にでも閉まっておけばよいのかもしれないが, 小心者の私にとってこの手紙の内容は大事過ぎて, 自分の手から放してしまうのはあまりに怖かったのだ.

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そして翌週, ベルンハルト様と出かける日がやってきた.

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“今日を楽しみにしていたよ, ヴィオラ! 大道芸を見るのは久しぶりだ.”

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“はい, 私もです! ベルンハルト様は, 大道芸をご覧になったことがあるのですか?”

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“ああ. だが, 通りすがりに出くわしたことがあるだけで, 大道芸を見ること自体を目的に出かけるのは初めてだな.”

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“さようでしたか! 面白いものがみられるとよいですね.”

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通常, 大道芸は予告なくやってきて始まることが多いものだが, 今回は時間と場所が決まっているようだ. ベルンハルト様のご命令で芸人に指定していたのだろう.

🛑

今日はメイドとしてではなく, 完全にベルンハルト様の愛人という立場で出かけているので, ベルンハルト様だけでなく私の荷物も従者の方々が持ってくれている. 湯浴みをし, 髪と肌もよく整え, 侍女様お古の上質な服を着て, 騎士に囲まれて. . . 見た目も下級貴族くらいにはみえているかもしれない. 自然に背筋が伸びた.

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“そういえば, ヴィオラは少し緊張しているようだが?”

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“ええ, 久しぶりの街歩きで興奮しているのもありますし, 騎士の皆様に囲まれて歩くのは初めてで. . .”

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“ははは, では私たちはどちらも, 初めて何かをする者同士ということだ! 今日は一緒に目一杯楽しもう.”

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もちろん緊張している最大の理由は袖口に忍ばせた手紙にあるのだが, ベルンハルト様は気にした様子もなく, 明るく笑い飛ばしてくださった.

🛑

ベルンハルト様はいつも以上に上機嫌だ. 道沿いの商店にご興味がおありのようで, 時々立ち止まっては従者に指示し, どんなものがあるかを覗かれている. レーレハウゼンは商業の街. 将来この街を治められるベルンハルト様にとっては, 視察という意味もあるのかもしれない.

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“やはりこの街は活気があるな.”

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“ええ, ご領主様のおかげです. 私は物心ついたころからここで育ちましたが, 皆いつも笑顔で, 静かな街を見たことがございません.”

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“そうだろう, 父上は偉大なお方だ. 私欲に惑わされず民を思い, その結果が逆に富となって返ってきている. 民あってこその領地だからな.”

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🛑

街の奥へと進んでいくと, 段々と喧騒が大きくなり, 笛と太鼓の音が聞こえてきた.

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“ベルンハルト様, ヴィオラさん. そろそろ始まるようです. 私は先に行って場所を確保してまいります.”

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従者の一人がそういって去っていった. 軽快な音楽につられて, 遊んでいた子供たちは走り出し, 大人も商いの手を止めてそちらに向かう.

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“いよいよか. さぁ, 私たちももう少し早く歩こう.”

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ベルンハルト様に肩を抱かれるようにして進んでいくと, その先には人だかりができていた. 一番見やすい場所にはさきほどの侍従が陣取り, こちらに合図を送っていた.

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そちらに着くのとほとんど同時に, 太鼓が一段と大きくどん, どん, どん, と打ち鳴らされ, 音楽がいったん途切れると, マントルを翻した小太りの男が中央に進み出てきた.

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“お集まりのみなみなさまぁー! 本日は, 世にも不思議, 摩訶不思議! 私オイレがこの場にて, 数々奇跡を起こしましょう! とくとご覧あれぇー!”

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男はそういうや否や, ばさりとマントルを脱ぎ捨て, 背丈ほどもある大杖を高々と掲げて見せた.

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. . . ああ, やはり運はヨハン様に味方した. お化粧で作った赤ら顔に貴族風の派手な衣装, 仰々しいお辞儀で始まりの口上を述べるあの人は, 間違いなくオイレさんだ!

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔𝟎
奇術

“さぁさぁオイレが始めるよ♪ 私は梟, 昼間のフクロウ♪ 大杖片手に見せるは魔法♪ 誰もが忘れた昔の秘法, 私が魅せれば誰もが唸る♪ 感心しちゃってホゥホゥホゥ♪.”

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🛑

オイレさんはすぐには芸を始めず, 歌うようにしゃべって場を盛り上げている. どうやら今日は歯抜きではなく, 奇術を中心に内容が組まれているらしい. オイレさんは大きな杖を振り回しながらニヤニヤと怪しげな笑顔を浮かべ, 会場をぐるりと見渡している. 役どころは魔術師といったところか.

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オイレさんは私がいることに気づいただろうか. いや, あの人なら当然気づいているはずだ. 何しろ私は, 依然としてベルンハルト様に肩を抱かれたままでいるのだから.

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しかし, 存在を認識されただけでは足りない. どうにかして渡したい手紙があるということに気づいてもらわないと, ここまでやってきた意味がない. 本当は目が合った瞬間を狙って袖口の手紙をそっと見せるつもりだったが, この状態でその動きをすることはかなわなかった.

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“何を隠そうこの梟, 今年で齢2000歳♪ 名前と魔法とこの美貌, 譲り受けたは鷹様からぁ♪.”

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齢2000歳という大嘘はもちろん, この美貌, といって頬に手を当て, 女性のように品をつくる姿に観客がどっと沸いた.

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🛑

“はっはっは, まさか梟を名乗って鷹の名前を出してくるとは, この芸人, なかなかに教養があるな!”

🛑

“鷹とはなんでしょうか. . . ?”

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“ギリシア神話に出てくる魔女さ. オデュッセイアーという叙事詩に出てくるよ. 人間を動物に変えたり戻したりできると言われている. 動物にした人間を元に戻した際には, もとの姿より美形になっているともいうが. . . ふははは, それをあの赤ら顔の小太りが言うとおかしくて仕方がない!”

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🛑

異端じみた魔術師という設定や, 皮肉たっぷりの貴族まがいの風体など, ベルンハルト様の眼にどう映るか内心冷や冷やしていたが, 心底楽しんでいらっしゃるようだ. オイレさんと接触する口実に大道芸の観覧をお願いしてしまったので, その姿に少しホッとする.

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“最初の魔法は炎の魔法♪ 杖から炎が出てくるよ♪ それ, ホゥホゥホゥ!”

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オイレさんが杖をくるりと回すと, 先端から炎が飛び出した. しかし炎が飛び出しただけでは終わらない. 杖を使って器用にそれをあやつり, 炎は杖にあたる度に黄色や青に色を変える. 色が変わるたびに歓声が上がり, その声と拍手はどんどん大きくなった.

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🛑

“続きましては水の魔法♪ 樽に入った井戸の水, 杖で水面を叩いたならば, 真っ赤なワインに変わりまぁす♪.”

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🛑

見習いらしき芸人が用意した, 樽いっぱいの水に, 杖の先をちょんと付けると, そこからじわじわと色が赤く変わっていく. だいぶ赤みが強まったところで, 鍋をかき混ぜるように杖で樽をかき混ぜ, オイレさんはそれをコップに注いで飲み干した.

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🛑

“おお, うまぁーい♪ . . . おっとっと, お仕事中に飲んじゃった♪ こりゃまた失礼, あなたもどうぞ♪.”

🛑

🛑

思わず飲んでしまったという風におどける姿に, 再び笑い声が上がる. そして, 別のコップを取り出して近くにいた観客に渡すと, 受け取った客は嬉しそうに飲んでいた. どうやら本当に赤ワインのようだ.

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改めてみると, オイレさんは本当にすごい. 大道芸といっても芸の内容は幅広いが, 初めて見たのがたまたま歯抜きだったため, わたしはどちらかというと暴力的な印象を持っていた. しかし, 今日の奇術は違う. ただ不思議な術で驚かせるだけでなく, 観客を笑わせることを忘れない. 目的を忘れて見入ってしまうほど魅力的だった.

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🛑

“さてさて皆さまここから本番♪ 魔法もいろいろありまして, ひとりで起こすは小さな奇跡, 誰かがいれば大きな奇跡♪ 参加する人, 手を挙げて♪.”

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その言葉を聞いて, 私ははっとして手を上げた. ベルンハルト様は私を見て, ほほえましいといった感じで背中を押してくださった.

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“ではではそこの, 左の隅の, 綺麗な金髪のお嬢さん♪ どうぞこちらへいらっしゃい♪.”

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しかし, あてられたのは別の人だった. まばゆい金髪が目立つ, 見たことがないほどに美しい女性. やはり舞台映えする人を選ぶのだろうか. 私がベルンハルト様と一緒に見に来ている時点で, 何か目的があると察してくれそうなものなのに.

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“まさかこちらの会場に, こぉんな美女が来てるとは♪ でもでも私の手にかかりゃ, どんな美女でもこのように. . .”

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楽しそうに笑顔で立つその人に, オイレさんが最初に脱ぎ捨てたマントをかぶせる. そしてなにやら呪文を唱えて杖を振ると, 急に彼女の背が低くなる.

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“あ, あれぇー! なんで, あたし, いつの間におばあちゃんに?!”

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マントをはがすと, そこには金髪の老婆が立っていた. 焦った様子でしゃがれた声を上げ, 皺皺の両手を見回している.

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“何を隠そうこの梟, 今年で齢2000歳♪ 魔法の師匠は鷹様, 魔術の師匠は死神様ぁ♪.”

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🛑

観客からどよめきが起こったが, 私はそれより”ヘカテー.”という単語にドキリとする. オイレさんからのメッセージととらえてよいのだろうか?

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🛑

“とはいえ実はこの私, 世にも敬虔な信徒です♪ 神様以外が人間の, 寿命を縮めちゃいけないね♪.”

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🛑

再びマントをかぶせて杖を振ると, シルエットの背丈が伸び, 中から先ほどの美女がほっとした様子で出てきた. 協力のお礼なのか, オイレさんから小さな花束を受け取ると, 少し涙を浮かべながら群衆の中に走って戻っていった.

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“奇跡の時間ももうすぐ終わり♪ お次の参加はどなたかな?”

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オイレさんがぐるりと観客を見渡すが, 手を上げる人数はぐっと減り, 数名の男性が手を挙げているのみだ.

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. . . 絶好の機会かもしれない. わたしは周囲に少し遅れて, そっと手を上げる. ベルンハルト様はぎょっとしたように目を見開いた.

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“黒髪のお嬢さん, どうぞこちらへいらっしゃい♪.”

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緊張しつつも前へ進み出ると, オイレさんは2輪の赤い薔薇を渡してきた. 渡された薔薇を受け取ると, ふわりと大きな布がかけられる.

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“最後の奇跡は恋の魔法♪ 真っ赤な薔薇は情熱の花, あなたの心はお見通し♪ 恋する人は誰かしら♪ それホゥホゥホゥ!”

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かぶせた布がはがされると, 2輪だった薔薇は1輪になり, 金粉がかかってキラキラと輝いている.

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“おおっ?!”

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小さな叫び声がしてそちらを見やると, ベルンハルト様の襟元に, 同じくキラキラの赤い薔薇が差さっていた.

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“えっ. . . あっ. . .”

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“そうじゃないかと思ってたけど♪ やっぱり魔法は正直だねぇ♪.”

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驚く私にオイレさんはばちんと目くばせをし, 群衆からヒューヒューと歓声が上がる.

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“奇跡の時間はこれにて終了! ご観覧ありがとうございましたぁー!”

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拍手喝采の中, 始まりと同じく大仰な礼をするオイレさんを尻目に元の場所に戻ってくると, 嬉しそうに頬を染めたベルンハルト様に抱き寄せられた.

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. . . そして, そっと袖口を確認すると, いつの間にか持っていた手紙も無くなっていた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔𝟏
見知らぬ友人

“思っていたよりも面白かった! しかし, 2度目に協力者を募られた時も手を挙げたのには驚いたぞ. ヴィオラは意外と度胸があるな.”

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奇術でもらった金粉付きの薔薇をマントの襟元に差したまま, ベルンハルト様は笑った. 私も大道芸は何度か見たことはあるが, あそこまで派手な奇術は見たことがない. ベルンハルト様が初めてしっかり見るものとしては大当たりだっただろう.

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🛑

“度胸と言いますか. . . 最初に出てきた方も元に戻してもらえていましたし, あれだけ観客がいる中で悪いことをすれば人気も落ちますから, 危険はないと思いまして.”

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“いや, 芸人の感覚など我々にはわからん. 特に旅芸人は犯罪とのかかわりも深いから, 見る分にはいいが, あまり迂闊にかかわろうとしないほうが良いぞ. 向こうにしたら冗談のつもりでも, ヴィオラに何かあったら心配だ.”

🛑

“ありがとうございます, これからは気を付けます.”

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🛑

その芸の人気から忘れられがちだが, 大道芸人は賤民に区分される. 貴族が見る娯楽でもないし, ベルンハルト様からしたら得体の知れない存在なもかもしれない.

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それにしても, オイレさんの奇術には驚かされた. もともと何かと器用なことは知っていたが, 基本的には歯抜き師を名乗っているので, 軽業ならまだしも奇術のみの演目を行うとは思っていなかったのだ.

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🛑

“ねぇ, もしかしてヴィオラちゃん? ヴィオラちゃんよね?”

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“おい, 何者だ?!”

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ベルンハルト様と雑談していると, ふいに声をかけられた. 騎士に制されながらも一生懸命こちらに声をかけてくるあの人は, 先ほど老婆に変える奇術をかけられていた美女だった.

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“あなたはさっきの. . .”

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“ヴィオラさん, お知り合いですか?”

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相手が女性で, かつ声をかけているのがベルンハルト様ではなく私なので, 騎士たちは近づいて来る彼女を制しつつも, そこまで警戒はしていないようだった.

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“やっぱりヴィオラちゃんでしょ? あたしのこと覚えてない?”

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潤んだ目でこちらを見つめてくるが, わたしの記憶の中にいる人ではない.

しかし, 彼女は先ほどオイレさんに協力した人だ. 並外れた容姿からしても, 単なる観客ではなく仕込まれていたのかもしれない.

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私は一つの可能性にかけてみることにした.

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“もしかして. . . フィーニおねえちゃん?”

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“覚えててくれたのね!! そうよ, 数年前にここに帰ってきてたのよ!”

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私の知り合いにフィーニという名前の人はいない. それに対し当たり前のように反応したということは, やはりこの人はオイレさんの仲間だ. 隠密かどうかはわからないが, 何らかのメッセージを持ってきてくれたのだろう.

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“声かけてくれるまで全然わからなかったよ! フィーニおねえちゃん, 最後にあった時はまだ14か5だったもの.”

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“そうよね. 帰ってきてすぐ探そうと思ったんだけど, わかってもらえなかったらと思うと怖くて. . . でも, さっき前に立ってるのを見て, 絶対そうだと思ったから, 思わず声をかけちゃった!”

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🛑

騎士たちは警戒を解いて前を開けてくれた. 私たちは駆け寄って抱き合うと, 偽物の再会を喜ぶ.

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“ヴィオラ, そちらの女性は. . . ?”

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“大変失礼いたしました. ベルンハルト様, 彼女は私が小さい頃, よく姉代わりに一緒に遊んでくれた人で, フィーニといいます. フィーニおねえちゃん, この方は私が今お仕えしている方で, ご領主様のご子息のベルンハルト様だよ.”

🛑

“まぁ, 初めまして, フィーニです. [黄金のベルンハルト]様, お名前は存じておりました.”

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“そうか. ヴィオラに声をかけてくれてありがとう. 二人が久しぶりに再会できたようで, 私も嬉しいよ.”

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“そ, そんな. . .”

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“もったいなきお言葉にございます.”

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ベルンハルト様に笑いかけられて, 顔を赤らめながら言葉につまる”フィーニおねえちゃん.”は, 同性の私が見ても胸がキュッとするほど色っぽく, かわいらしかった.

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ベルンハルト様にご許可をいただいて, 私たちは少し近況を報告しあい, またきっと会おうと約束して別れた.

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“お時間をいただきましてありがとうございました.”

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“いや, いいんだ. ヴィオラが楽しそうで私も嬉しかった.”

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彼女の姿が完全に消えたのを確認すると, ベルンハルト様は徐に口を開いた.

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“ヴィオラ, フィーニに側にいてほしいか?”

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“え, それはもちろんですが. . .”

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“先ほど君たちは[また会おう]と言っていたが, おそらく彼女の職業上難しいだろう.”

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“職業上難しい, とはどういうことでしょうか.”

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“年若い女性にはわからないか. . . 彼女の服装, 装飾品, そして何より化粧. あれは娼婦だ. ここへ戻ってすぐに君を探せなかったのも, 自分の職業を恥じたからかもしれない. また, 彼女を城に招くことも到底できない.”

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🛑

言われてみれば納得のいく話だった. 一般の女性で濃いお化粧を施す人はほとんどいない. 元の顔立ちがはっきりとした美しい人なので, お化粧の濃さがわかりにくかったが, 確かにあの朱い唇は噛みしめただけでは出せない色と艶だった.

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🛑

“ヴィオラ, もし君が望むなら, メイドとしてうちで雇ってもいい. さすがに下級のメイドにはなってしまうが.”

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さりげなく手を差し伸べようとしてくださるベルンハルト様はやはりお優しい.

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しかし, 私には彼女がどういった立場の人なのかよくわからない. もしも娼婦という立場を利用してオイレさんの手伝いをするような機会のある人なら, メイドとしてお城にいれてしまって妨げになってしまうだろう.

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“そこまでお気にかけてくださり, 本当にありがとうございます. ですが, 大変なお仕事であっても慣れや目標があると思います. 事情を知らぬまま私の一存で転職させてしまっても, かえって困ってしまうかもしれません.”

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“言われてみればそうかもしれないな. さて, 城に戻るか. 今日は一緒に出掛けられて楽しかったよ.”

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“はい, 私の方こそ本当に楽しかったです. ありがとうございました!”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔𝟐
大根役者にできること

ベルンハルト様との外出は無事終わり, 夕食後に少し雑談を楽しんだ後, 私は部屋にもどった.

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袖口を探ると丸めた紙が入っている. 出掛けるときに持っていたものは奇術を見たあと確かになくなっていたのを確認したので, これは”フィーニおねえちゃん.”が入れたものだ.

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見られているはずのないことはわかっているが, 少し周囲の様子をうかがってから, 窓からも扉からも見えづらい位置でそれを開く.

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内容は, やはり私の手紙に対するオイレさんからの返信だった.

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たくさんの情報と勇気ある申し出をありがとう.

時間がないから内容について書かないけど, しっかり受け取った.

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とりあえず, 僕から伝えたいことを3つだけ.

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1. K様は君が相手にできるような人ではない. 君が今日僕の芸を観に来ちゃった時点で, すでにいろいろ感づかれてるかも. それに実は, 彼が欲しがっているものの中には君も含まれている. 危ない橋はわたらず, B様にお仕えすることに専念してね.

🛑

2. 念のため仲間を一人紹介しよう. この手紙を持ってきた女性のことだ. 暗号名を蜘蛛という. 君がこの手紙を読んでいるということは, B様に彼女との友人関係を知らせることができたと思う. 何か問題が起きたら, 休みをもらって, 今日僕が芸をした場所においで.

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3. この手紙を他の人に見られると相当ヤバイ! 読み終わり次第, 必ず燃やすこと!

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じゃあ, くれぐれも気持ちを穏やかに. 無事を祈ってる.

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🛑

文面は非常に簡潔で, いつものような冗談は一つも含まれていなかった. それだけに, この手紙の重要さを強く訴えかけている. 私は何度か読んで内容を頭に入れると, 言われた通りすぐ蝋燭で灰にした.

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その場では勝手にフィーニおねえちゃんと名付けて呼んでいたが, 彼女の名はシュピネさんだという. たしかこの名前は, 以前ご領主様の命でヨハン様が政治工作のお仕事を受けられた時, ケーターさんやラッテさんとともに派遣された隠密のひとりだ. 隠密に女性がいるとは思っていなかった. . . しかもあれほどの美女だとは. おそらく, 私が接触しやすいように同性の方を選んでくださったのだと思うが, ヨハン様の隠密はいったい何人いて, うち何人女性がいるのだろう?

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いや, 今はそんなことはどうでもいい.

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手紙にあった”彼が欲しがっているものの中には君も含まれている.”という文言, これが一番気になることだ.

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もちろん, クラウス様が私を近くに置きたがっていることは感じていた. 私のヨハン様・ベルンハルト様・クラウス様それぞれへの印象を操作し, クラウス様を一番信頼するように仕向けていらっしゃるようだったからだ.

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しかし, 理由がわからない.

先ほどクラウス様とお話したときは, 使用人皆がクラウス様についていくような未来を描いていらっしゃり, その最初の布石が私なのだという程度に考えていたが, オイレさんの文面では私だけを指しているように思える.

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私個人がもつクラウス様にとっての利点とはなんだろうか. ヨハン様とベルンハルト様のご関係を考えると橋渡し役として価値があるのは事実だが, それだとクラウス様にとってではなく, イェーガー方伯の家にとっての話なので, クラウス様が欲しがるという言い方にはならないだろう.

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とはいえ, オイレさんがベルンハルト様にお仕えすることに専念しろというからには, 少なくとも今は, ベルンハルト様のお側にいれば安全だということ.

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クラウス様に対する疑念についてはすべてオイレさんへの手紙に記した. 私にはこれ以上できることなど何もないのだ. オイレさんを信じて, クラウス様については頭の中から追い出すしかない.

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ふと, 机の上を見る. そこには小箱に入った首飾りがある. 街歩きだけでは贈り物にならないと, ベルンハルト様が選んでくださったものだ. 七宝製の玉が暖かく煌めき, 上品な色合いはさすがだと思う.

🛑

. . . 私は, ベルンハルト様に恋をしなくてはいけないだろうか.

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ベルンハルト様はお優しい. 初めてお会いしたときおっしゃった通り, きっとこれからも大切に扱ってくださる. ご兄弟の関係性に難はあれど, 人として十分尊敬できるお方だ.

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だから, きちんと向き合えば, 自分はこの方を愛しているのだと錯覚するのはたやすいと思う. そう, クラウス様だけでなく, ヨハン様のことも, きちんとこの頭から追い出すことができさえすれば.

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しかし, それは果たして誠実と言えるのだろうか? 偽物の感情で愛を囁いて, ベルンハルト様に失礼なのではないか?

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. . . 一瞬そう思うも, 私は頭を振ってその考えを追い払った. 言い訳でしかない. 都合の良い言葉で, 自分の気持ちを曲げることを拒んでいるだけだ.

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以前, 家政婦長のズザンナ様は, 私のことを”実態は娼婦だ.”と言った. そう, あの時はズザンナ様の勘違いにすぎなかったが, 元来”愛人.”という立場はそういうものだ.”恋人.”とは異なり, 軽々しく娼館になど出入りできない高貴な身分の方々のためにあてがわれる, 一種の職業である. ベルンハルト様だって, そんなことは百も承知で側に置いているはずだ. 別に私を本気で愛しているわけではない.

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たとえ自ら望んでなったものでなくとも, その地位に就いた以上は, 職務を全うしなくてはならない. 私はベルンハルト様のメイドであり, 愛人. メイドとして生活環境を過ごしやすく保ち, 愛人として楽しい時間を提供するのが今の仕事だ.

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手紙を燃やした灰の残りを掃除しながら, オイレさんのことを思い浮かべた. 彼は常に優秀な俳優だ. 芸人として人前に立つときは, どのような演目かによって自らの役柄を設定し, 巧みな話芸で客を楽しませる. 歯抜きなら面白おかしく, 奇術なら妖しげに. . . それは舞台を降りても同じで, 誰の前に立つかによって役柄を演じ分けていた.

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きっと本当は愛人もそうあるべきなのだろう. 理想的な恋人役を演じきり, 主人の遊ぶ恋人ごっこに全力で付き合うが普通なのだと思う.

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私に演技などできない. しかし, 幸いにして人の感情には敏感だ. 相手が何を言ってほしいかなら, ある程度察することができる.

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だから, 偽りない気持ちをもって接し, 必要とされる言葉をかけて差し上げるのが, 大根役者の私がベルンハルト様にできることだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔𝟑
勇敢な者

大道芸の観覧にお誘いした日から, ベルンハルト様は頻繁に私を雑談に呼ぶようになった. 触れられるも増えたが, 子犬をかわいがるような他愛無いもので, 今のところ閨に招かれることはない.

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“ヴィオラ, いつもそれをつけてくれているな. 嬉しいぞ.”

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🛑

ベルンハルト様は私の首元を指して笑う. 街歩きの帰りにいただいた, 七宝の首飾りだ.

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“ベルンハルト様にいただいたものですから, つけていたくもなります.”

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🛑

もちろんこの言葉に嘘はない. ご厚意は純粋に嬉しいものであったし, これを付けていることによって, 自分は今ベルンハルト様のものなのだという自覚を持つことができる.

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“. . . 君の言葉はいつも私の心を動かす. 参ったものだな.”

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🛑

夕食がご客人を招いての会食であったせいか, ベルンハルト様は少し酔っていらっしゃるようだった.

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🛑

“私が唯一誇れるものは人を動かす力だと今まで思っていた. それを前面に出すことで, 自分の価値を世に示して来たつもりだ. しかし, 最近自分もまた動かされる側の人間でもあるのだと思い知っているよ.”

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“それは, 何か問題なのでしょうか?”

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“何って, 人の上に立つ者とは, 揺るがぬ者であるべきだと思わないか?”

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“いえ. . . それが唯一, とは私には到底思えませんが, ベルンハルト様は確かに人を惹きつけ, 動かすような力をお持ちです. もし, 他人を動かすだけでご自分が誰の影響も受けないなら, それは少し横暴で, あまり良いこととは思えません.”

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“そうか. 思いもつかない意見に驚いた. 理想的な君主を目指すべく, 自分の中に軸を持とうとしていたのだが, どうやらまたやり直さなくてはいけなさそうだな.”

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“そんなことはございません, すでに君主たる資質をお持ちだと思います!”

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“確かに必要十分な資質を持ってはいるのかもしれない. だが私はあまりに中途半端なのさ.”

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🛑

ベルンハルト様は少し目をそらすと, まるで独り言のように語り始めた.

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“何故私は熊のように勇敢な者という名なのだろうな.”

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“ご領主様のお考えなど私にはわかりかねますが. . . 少なくともベルンハルト様は, そのお名前に相応しい勇敢さをお持ちだと思います. 私も, 先日のフィーニも, 以前からベルンハルト様の逸話は存じておりましたから.”

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“ありがとう, でもそういう話をしているのではない. 私はよく, 自分が皆に何を望まれているのかがわからなくなるのだ.”

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“何を望まれているか, でございますか.”

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それは, 単に選帝侯の地位を継ぐこと, という意味ではなさそうだった.

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🛑

“祖父上, つまり前のイェーガー方伯は, 稀代の傑物だったそうだ. 今このイェーガー方伯領が帝国でも類を見ないほど栄えているのは, 祖父上の活躍によるところが大きい. 領土の拡大はもちろん, 拡大するごとに交渉で遺恨を残さず, 貿易の活性化で帝国を潤わせ, 更には教会の補助や救貧院の設置, 税制改革など, 民に慕われる君主として名高かった.”

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🛑

もちろん, 私にもいつも暖かく接してくださっていた, とベルンハルト様は目を細めて付け加えられた.

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🛑

“父上も優秀だが, 君主としての在り方は真逆の方だ. 祖父上の作り上げたものを合理的に制度化していき, この地を拡大期から安定期に持ち込まれたことが父上の功績だと思う. 自分にも他人にも厳しく, 私はこの城で, 父上の笑顔はほとんど見たことがない. 城の外となかで変わらぬ確固たる厳格な姿も, 私は尊敬している.”

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🛑

この城に勤めて1年に満たないこともあり, 私はご領主様を間近でお見かけしたことはない. 厳格という噂は特に聞いていなかったが, 幽閉中のヨハン様に隠密の管理を任せ, 時々お仕事をお渡しになるというからには, かなり合理的な考え方をされる方なのかもしれない.

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🛑

“そんな二人の後を継ぐ私につけられた名がベルンハルトだ. その誇り高き名に恥じぬよう, 最初私は[正義のもとに勇敢に戦う者]と自分を定義づけ, そのようにふるまっていた. そのことを誰しもが称賛した.”

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🛑

ベルンハルト様はここで一度一息つくと, 視線を私に戻した. その顔を見て, 私は驚いた. 泣き出しそうな顔をされている.

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“しかし, 妹が亡くなり, 彼女と仲良しだった弟は, 血に狂うようになってしまった. 私は憐れむよりも恐怖したよ. 一桁の年のころから学者と渡り合っていたような聡明な弟が, 目につく生き物を皆切り裂き, 人の血を求めて城内や街を彷徨っているというのだから. 母からも笑顔が消え, 使用人たちが怯えて過ごすようになった頃, 父上は彼を塔に幽閉した. . . そしてそんな皆の反応を見て, 私は一度決断したのだ. 弟の行動を終わらせてやろうと.”

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“ベルンハルト様. . . ?”

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“その決断を, 皆勇敢だと言った. 勇敢で, 本物の優しさにあふれた崇高な決断だと. そして, 私の代わりに自らの手を汚すことを名乗り出てくれる者たちがいた. 最初は毒で, 次は剣で. 結果, 二人とも帰ってこなかったのだよ. 人の上に立つとは, そういうことだった.”

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“ベルンハルト様!”

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🛑

空色の瞳から, 静かに雫が滴り落ちる. それは天気雨のように, 紅潮した頬に幾本かの筋を作っていた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔𝟒
煉獄の旅路

“驚いたか? 当時の私は, それが正しいことだと本気で思っていたのだよ. あの智謀に残虐さが合わされば, この家や領地にどんな未来が待っているかも恐ろしかったし, 哀しみに気が触れて罪を重ねる彼を, 実の兄である私こそが, 愛をもって救ってやらねばならないとも思った.”

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“いえ. . . ご状況がご状況です. そういう判断をされるのも無理はないかと.”

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🛑

ベルンハルト様の意志であったことには驚いたが, 塔に幽閉されたヨハン様を配下が襲ったということ自体は, 私はさほど驚かなかった. 冷静で理知的なヨハン様が, 自らの家に仕えるメイドや侍従を後先考えず殺してしまうとは考えにくいと, 前から思っていたからだ. 襲われたのを返り討ちにしたとなれば納得できる.

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その後, 出来上がった遺体をすぐ有効活用されてしまうところは悪い意味でさすがヨハン様と言わざるを得ないが.

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🛑

“私の言葉には強い力がある. 崇高な目的を語れば, 人はその心を沸き立たせ, 私のためにつき従い, 簡単に命を差し出してしまう. 戦場でもそうだ. 兵士の何たるかを説いて士気を上げ, 勝利を収めるは良いが, 一体どれだけの死体が積みあがったことか. 無責任に鼓舞するだけして自分は天幕に下がり, 一体どこが勇敢がというのか. 実際, 血狂いの弟などよりも, 私の言葉によって死んだ者のほうが多い. それでも皆, 私を眩しげに見つめ, 黄金だの太陽だのと呼ぶ. 私に熊のように勇敢な者であることを求め続けるのだ.”

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🛑

不躾とは思いつつ, 私は指でその涙を拭う.

二月ほどとはいえ, こんなにお側にお仕えしながら, 明るさの陰にここまでの苦しみを抱えていらっしゃるとは思ってもみなかった.

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よく考えれば当然のことだ. 方伯とは, 帝国に属する貴族であるとともに, 領邦の君主たる存在である. クラウス様のような謀略に長けた貴族を相手に飄々と立ち回りながら, 領民の命と帝国の誇りという重圧を常にその両肩で支え続けなければならないのだから.

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しかし, 自分が責任を持つものの全てを守るというのは不可能なことだ. より大きなものを守るために, 何かを, 誰かを, 切り捨てなければならない場面などいくらでもあるだろう. 外からどんなに優雅に見えようと, それはまさしく煉獄の旅路だ.

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もしかするとベルンハルト様は, 君主として上に立つにはお優しすぎるのかもしれない. 不敬な考えだが, 人を魅了する圧倒的なカリスマ性を持ってしまったことは, この方にとって不幸だとしか思えなかった.

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“しかも何年か前, 私は気づいてしまった. いずれ上に立つものとして, 今の私のこの在り方は, おそらく父上の望まれるものではなかったのだと. 考えてもみろ, 妹の名は知恵ある者, そして祖父上と同じ先駆者の名は私ではなく弟が継いでいる. ヨハン=アルブレヒト. . . あの血狂いは, 祖父上と区別するために, 祖父上と父上の両方の名をとって呼ばれるのだ.”

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“ベルンハルト様とヨハン様のお年は5歳しか変わらないではないですか. ご領主様はベルンハルト様の行動を見てお二人の名をつけられたわけではありません.”

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“そんなことは私だってわかっているよ, ヴィオラ. それでもこの名前は, 私を悩ませるのさ.”

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涙を浮かべたままで, ベルンハルト様は笑われる.

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“そんなことを考えるようになったら, 今度は周囲がいかに自分を気遣っているかも見えてきた. クラウスもヴォルフも, 私こそが方伯にふさわしいと強調する. それは要するに, あの塔に閉じこもっていて尚, 弟が継ぐ可能性がまだ残っているということでもあるだろう. 勇敢さをもって人を導こうとしていた者が, 親しい者には子供のようにあやされて, 私はまるで道化だ. そこに思い至った時, 私は今までずっと, 自分が弟に嫉妬していたということにも気づいてしまった. なんとも恥ずかしい話だな.”

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“ベルンハルト様, 恐れながらそれは考えすぎです. クラウス様もヴォルフ様も, ベルンハルト様に心酔されているからこそそうおっしゃるのです. それに, 仮に心の中でヨハン様に嫉妬されていたとしても, それを行動に表すことなくご自分を制していらっしゃるのですから, 私はご立派だと思います.”

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“なぁヴィオラ, 君はどうしてそんなに私に優しくしてくれるんだ? どうしてあの弟にも優しくできたんだ? 私の幼稚さも, 弟の冷酷さも, 君がわからないわけがないのに.”

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“優しさで申し上げているのではございません. 私はお二人ともを, 心から尊敬しておりますから. むしろお優しいのはベルンハルト様の方です.”

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ふいに, ベルンハルト様の腕が私を包み込んだ.

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“困ったな. 君を妻にすることはかなわないのに, このままでは君を本気で愛してしまいそうで怖い. すまない, 君はそんなことを望んでいないことはわかっている. でも私は, 適切な距離の保ち方が, わからなくなってしまった.”

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逃すまいと言いたげに抱きしめる両腕の力は強く, しかし震えていて, 私はそれを恐ろしいとは感じない.

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“大丈夫です. 私は, ベルンハルト様の望まれる距離でお側におります.”

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ベルンハルト様と私の気持ちの種類が違うということは, お互いわかっている. だが, 私の気持ちは紛い物の恋心ではなく, 本物の敬意と友愛だ.

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この違いで苦しめてしまうなら離れ, それでも良いといってくださるならもっと近く. . . この方の望まれる距離で, この方の心を少しでも支えることができるなら良い.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔𝟓
撒かれた種

それからしばらく私は平穏な日々を過ごしていた. 日中はメイドとして働き, 早めの夕食をとって夜はベルンハルト様とお話をする. 仕事は代わり映えしないし, ベルンハルト様が涙を見せるということもなかった.

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. . . だからこそ, 慢心していたのかもしれない.

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その日, 手が足りないという他のメイドたちの手伝いを終え, 自分の部屋に戻ってくると, 妙な違和感があった. 当然城の居館, ご領主様方のお部屋ならまだしも応接室だった場所に泥棒など入るわけはなく, 見回してみても特に目立った変化は見つからないが, いつもの私の部屋と何かが違うと直感が告げていた.

🛑

こういった違和感は無視しないほうが良いと思い, 部屋の中を調べてみることにした.

調べるといっても, 探るべき場所はさほどない. 机の上や窓際には物を置いていないので, せいぜいチェストの中を見る程度だ.

🛑

チェストの中を調べてみたものの, これと言って気になる点はない. 入れている私物が少ないため, 誰かが荒らしたとしても元に戻すのは簡単かもしれないが, 何か持ち物が減っているということもなかった.

🛑

よく考えたら, 私は部屋に入った瞬間に違和感を感じた. チェストの中のような外から見えない部分に異常があっても, 私に気づけるはずがないので, 探るべきはそこではなかった.

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では何がおかしかったのだろう?

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入った瞬間に目につく部分がどこかを考えるために, 一旦外に出て, 部屋に入りなおしてみる. 扉を開けた瞬間の位置で立ち止まり, あたりを見回してみた.

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目に入るのは, 正面の窓, ベッド, 机ぐらいのものだ. どれも特に汚されたり壊れたりしているということもない. そもそも, そのような大きなものに変化があれば, なんとなくの違和感では済まないはずだ.

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気を落ち着けて, よく考えてみる. 入った瞬間に気が付くが, どこに起きたかまではわからない程度の小さな変化. 部屋全体から感じる, いつもの私の部屋ではないという嫌な雰囲気.

🛑

. . . 部屋全体から感じる?

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はっとして壁に目をやる. そこに違和感の根源があった. 壁にはめ込まれた石の隙間に, 何か白っぽいものが詰まっている. それも1か所ではない. 何個所にも, もしかしたら10箇所ほど, 壁のあらゆる隙間にその変化は生じていた.

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恐る恐る近づいてみると, どうやら折りたたまれた羊皮紙のようだ. 普段は存在すら気にかけない狭さしかない壁の隙間に押し込むには, 小さくたたんで無理に押し込むしかない.

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もしかして, シュピネさんだろうか? 連絡のため, 気づかれないように私の部屋にメッセージを隠した?

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いや, 部屋に入ることができるなら, 私がいるときに直接手渡したほうが早い. しかも, 壁の隙間に押し込むなど, 私が気が付かない可能性も高いので, 連絡手段としては下策だ.

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誰からかわからないメッセージ. 私は一度深呼吸すると, 勇気を奮い立たせて, 押し込まれたそれを引き出し, 開いてみた.

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ー これによって, 聖堂参事会が同盟を結び, 皇帝に反抗する勢力を組まんとしていることは明らかである. 便宜的にこれを聖堂参事会同盟と名付けるが, エアハルト大司教により教区内の馬の補充が進められており. . .

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🛑

そこまで読んで慌てて閉じる. 違う, これは私宛ではない. 明らかに何か公的な, 政治的な意味を持った文書だ. 心臓がバクバクと音を立てている. 紙の小ささからメモ程度のものと思われたが, 壁に挟み込むために意図的に切ったのかもしれない. いずれにしても, 私が読んでよいものではなかった.

🛑

なぜこんなものが仕込まれているのかはわからないが, 私の手に負える問題ではない. 内容的に, ご相談する先はヴォルフ様だろう. 私は紙切れを袖口に入れると, 急いで部屋を飛び出した.

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“おや, どうしたのですか? そんなに慌てて.”

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すると, そこにはクラウス様が立っていた.

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“少しご相談がありまして, ヴォルフ様に. . .”

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🛑

そういってお返事をしようとクラウス様のお顔を見上げ, 視線がかち合うと, 背筋がぞわりと粟立った.

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これは最近見せていた笑顔ではない. 久しぶりに見た, あの煮詰めたような暗さを湛える濁った瞳. 口元の優雅な微笑では隠し切れない冷酷な無表情さ.

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🛑

“ヴォルフ様ですか? 使用人の統括は私です. 何か困ったことがあるなら, まずは私に相談して良いのですよ? ヴォルフ様に言うべき案件かどうかは, 私の方で判断しますから.”

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🛑

ああ, そうだ. クラウス様は使用人の行動を把握している. 使用人がいつどこにいるか把握し, 女性使用人の部屋に入っているところを見られたとしても怪しまれることのない立場のお方だ.

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最初から仕組まれていたのか. 私なら気づいてすぐにヴォルフ様に相談しに行くだろうと, ここで待ち構えていらしたのだ.

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“青ざめた顔をして, 可哀そうに, 何か困っているのですね. 袖口に何か隠しているようですが, それが原因ですか? また窓から変なメモでも舞い込んだのでしょうか?”

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“あ, クラウス様っ!”

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私が抵抗する間もなく, クラウス様は突然私の手首をつかむと, 袖口から先ほどの紙切れを取り上げた.

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“ん? これは. . .”

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紙を広げ, 文字を追うクラウス様の目が吊り上がる. そして, 今まで見たことのないほどの形相で私を睨みつけた.

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“ヴィオラ, こちらに来なさい. 現行犯ですね.”

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🛑

普段より数段低い冷ややかな声でそういうと, クラウス様はさっき離したばかりの私の手首を再び, 今度は握りつぶされそうなほどの力で掴み, 無理に引っ張る.

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🛑

“何をおっしゃるのですか, 私がやったわけでは. . .”

🛑

“私は愚かでした. あなたのことを何も知らず信頼していたとは.”

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“違うんです, その紙切れがいつの間にか私の部屋に. . .”

🛑

“黙れ! さっさとこい!”

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クラウス様の珍しい怒号に, 周囲の使用人たちが驚いて一斉にこちらを見る. 皆の前で私は引きずられるようにしてベルンハルト様のお部屋へ連れていかれた.

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🛑

“ベルンハルト様, クラウスです. お話が.”

🛑

“ど, どうした, そんな激昂して. お前らしくないぞ? ヴィオラが怯えているではないか. . .”

🛑

🛑

クラウス様は, 私の手首を掴んだままで, 戸惑うベルンハルト様をまっすぐ見つめると, 深々と礼をして仰った.

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🛑

“大変申し訳ありません. 雇い入れた時に気づけなかった私の失態でございます. ベルンハルト様に付けたこの娘, どうやら隠密の類でした.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔𝟔
こじつけ

“いきなり何を言い出すんだクラウス. 正直者のヴィオラに隠密などできるわけないだろう. . .”

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🛑

さすがのベルンハルト様もクラウス様のお話についていけないようだ.

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“いえ, この娘, 我々をずっと欺いていたのです.”

🛑

“違います, 欺いてなどおりません! 私の部屋にいつのまにか何かの文書の切れ端が. . .”

🛑

“無駄口を叩くな, 発言を許可した覚えはない!”

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🛑

クラウス様は依然として高圧的で, 私を睨みつけている. そして, 近くにいた侍従にそっと何かを耳打ちすると, 侍従は急いで部屋の外へ出ていった.

🛑

🛑

“待ってくれ, 状況がわからない.”

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🛑

私たちの攻防をベルンハルト様は穏やかな声で制する.

🛑

🛑

“クラウス, 大切な女性が目の前でその様に責め立てられるのを見ていては, さすがに私も黙ってはいられないぞ. まずは落ち着いて, 何があったのか説明してくれるか?”

🛑

🛑

ベルンハルト様の声を聞いて, クラウス様はようやく私の手を離してくださった. ずっと握られていた手首は, 指の跡がくっきりと赤くなっており, 急に戻った血流で指先がじんじんと痺れている. どんな怖いことを言っているときも, いつも穏やかな様相を崩さないクラウス様がしたとは思えない狼藉は, 余計に恐ろしく感じる.

🛑

私の手首を見て悲しそうな表情をするベルンハルト様に気づいたのか, クラウス様は正気に戻ったように姿勢を正し, 丁寧に一礼した.

🛑

🛑

“あまりのことに我を失ってしまいました, 申し訳ありません. 実は, 先ほど部屋から来たヴィオラと遭遇したのですが, 何か隠すようなそぶりをしたため, 念のため確認すると, これを持っておりました.”

🛑

🛑

クラウス様が先ほどの紙を広げて渡すと, ベルンハルト様の顔が少し曇る.

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🛑

“これは. . . 先日ホーネッカー宮中伯から届いた文書ではないか. 重要な機密が含まれるゆえ, 私の部屋で保管していたはずだが. . .”

🛑

“はい. 彼女はこれをもって[ヴォルフ様に相談がある]と言っていました. 使用人を統括しているのは執事である私, 本当に相談ごとがあるなら, まずは私かズザンナさんに連絡するはずです.”

🛑

“しかし, それだけでヴィオラが隠密だとは言えないだろう. 話が飛躍しすぎていないか?”

🛑

“私も信じたくはありません. しかし, 今回のことだけを見て判断したわけではなく, 以前から気になっていた点と点が線でつながった, ということです.”

🛑

“つまり, 前からヴィオラを疑っていたのか?”

🛑

“さようでございます.”

🛑

“そんな, クラウス様, さっきは. . .”

🛑

“ヴィオラ, 今は私がベルンハルト様の質問に答えている時間です. 口を挟むのはやめなさい.”

🛑

🛑

言いかけた言葉を飲み込む. そう, さっきは信頼していた自分がおろかだとおっしゃっていた. 実際, ほんの数週間前にお話したときには, 私のことを信頼しているからと, ご自分の首が飛ぶかもしれないという重要なお話を共有されたというのに.

🛑

🛑

“きっかけは先日, ベルンハルト様とヴィオラが街に出かけた時のことです. 途中, ヴィオラの旧友を名乗る女性との接触があったと聞きました.”

🛑

“フィーニのことか.”

🛑

“はい. 彼女はもともとここの領民で, ヴィオラが幼いころに引っ越し, またここに戻ってきたのだというお話です. しかし, 騎士も侍従も皆彼女のことを[見たことがないほどの美女]と形容しました. そこまでの美人であれば, 多かれ少なかれ噂があっておかしくないと思いますが, 街で一番と名高い娼婦は濃茶髪にヘーゼルの瞳と言います. 気になって調べてみたところ, 街の庶民の男たちの間では, 先日の大道芸で前に出てきた女性が[見たことがないほどの美女]だったという話でもちきりだとか. 昔のことはわかりませんが, 少なくとも現在ここに住んでいる人物ではないと思われます.”

🛑

“まだ話が繋がらないぞ. 他に何か疑うところがあるのか?”

🛑

“はい. ヴィオラは以前も, 父親の訃報が入ったといって, 街へ出るための休みを取ったことがあります. 結局誤報だったとのことで, 5日休む予定だったところを1日で帰ってきましたが, そのことが気になって調べたところ, 彼女の家として申告されていた家は現在貸家になっています. 父親はトリストラントという名前だそうですが, 同じ名前の人物は確かにギルドに登録されているものの, 同一人物だという確証はありません.”

🛑

🛑

私は顔を伏せてクラウス様のお話を聞きながら, これは明らかな悪意だと確信した. さすがに”物は言いよう.”にも限度があるというか, 話がこじつけすぎる. 何があったかはわからないが, やはりクラウス様は私を無実の罪で陥れるおつもりだ.

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🛑

“確かに一つ一つの疑いはこじつけに近いものかもしれません. でも, そもそも最初からおかしいのです. 名もなき商人, しかも異邦人の娘でありながら, この土地の言葉を巧みに操り, 教養や礼儀も貴族と変わらない. そして何より, 聡明で誇り高きイェーガー方伯のご子息を二人ともたぶらかすなんて真似が, たった15歳の少女にできるでしょうか?”

🛑

“そんな, たぶらかしてなどおりません! 私はただ心からお仕えしているだけです!”

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🛑

あまりの侮辱に思わず叫んでしまった私を, クラウス様は冷たい目で見つめる.

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🛑

“ほら, 自分の嫌疑について語られるのをしおらしげに聞いておきながら, こうやって要所要所で感情的に揺さぶりをかけるのです. だからこそ, 私たちも彼女の言葉を本心だと思ってしまう. . . しかし, ベルンハルト様もご自覚があるのではないですか? 愛人という, 普通は近くで愛でるだけの装飾品に近いはずの存在に, 今ご自分がどれだけ入れ込んでいらっしゃるか.”

🛑

“な, 何を言うかクラウス. . .”

🛑

“ベルンハルト様はもともと高潔で公正なお方だと私は知っております. しかし, いつの間にか, 一介のメイドにすぎない彼女を誰よりも信頼できる部下のように扱っていらっしゃいます. 結果的に, 彼女に問われるまま多くのことをお話になっていたのではありませんか? きっとヨハン様もそうでいらしたのでしょうね. これが訓練を積んだ結果でなくて何でしょうか.”

🛑

🛑

ベルンハルト様は愕然とした顔で, クラウス様と私を交互に眺めた. 私は必死で首を横に振るが, その表情に変化は見られない.

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🛑

“そんな彼女が, ベルンハルト様がお持ちのはずの重要な公的文書を持って部屋から出てきたところを捕まえたのです. 彼女の仕事には一切関係ない, 必要としないはずのものです. . . まさか与えたとはおっしゃいませんよね?ベルンハルト様, どうか公正なご判断を.”

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クラウス様に促され, ベルンハルト様は諦めたように, 公正か, とつぶやくと大きく溜息をついた.

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“公正な判断というなら, ここで私が処遇を決めることはできない. 先ほどの文書は軍事機密にもかかわるものだ. 家の内に収まる問題ではないので, 父上に相談しろ.”

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そして, 私に近づくと, そっと頬を撫でながら弱々しく微笑まれた.

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“ヴィオラ, 私はまだ君が私たちを騙したと思っているわけではない. 父上は本当に無罪ならそれを証明させてくださる方だ. これがクラウスの勘違いで, 君が元気に戻ってくることを信じているよ.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔𝟕
余話:執事のたくらみ

一通りの仕事を終えると, 私は長い溜息をついた. もちろん, 理由はあの小娘だ. 現状を把握して慎重に物事を進めることにかけては自信がある私だが, 彼女について誤算が多すぎる.

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まず, 本来接触叶わぬ筈のヨハン様の目に止まったこと. 後で調べたところ, どうやら使用人たちの間で虐められており, 直接部屋を訪ねる失態を犯すよう仕向けられていたらしい. これまで下級使用人に対して必要なのはただ仕事を管理することであり, 使用人同士の関係性にまで手出しする必要のないものと思っていたが, あの時は下級使用人たちの教育にももっと力を入れる必要があると思い知らされたものだ.

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もともと見た目で選んだ娘であり, たいした出自でもなかったので気にかけていなかった. 成長したらさぞ美人になるだろう類まれな美貌をもちながら, 年より幼げで謝罪が多く, 自信なさげにふるまう姿は嗜虐心を煽る. 故に虐めの話も, 血狂いのヨハン様からお付きにするお話が持ち込まれたと聞いた時も, それ自体はさほど驚かなかった. 最初は相変わらず下品なご趣味をお持ちだと軽蔑したものだが, 彼女が一切痛めつけられることなく長く続いたことは予想外だった.

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しかしこれは, 彼女の価値を証明する出来事でもあった. あのヨハン様に気に入られるとはどんな娘かと観察してみれば, なるほど, 非常に賢い. 礼儀作法も教養も, 貴族に引けを取らないものだ. 食事運び当番の際にどんなやりとりがあったか知らないが, どうやら彼女は顔ではなく中身でヨハン様を射止めたらしいことが明らかになった. これはとんでもない誤算である.

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とはいえ将来のことを考えると, ヨハン様に精神的支柱ができてしまうのは好ましくないので, 一度は熱が上がる前に離そうとした. 一旦彼女を思い上がらせることで, 人に近づかれるのを嫌がるヨハン様に手酷く振ってもらえれば, 上手く引き剥がすことができると思ったのだが. . . 特に変化はなかった.

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そこで今度はヨハン様の冷静さを利用し, ベルンハルト様につけることにした. もともとベルンハルト様に付けようと選んでいた娘だっただけあって, ベルンハルト様は会うなり彼女を気に入ったようだった. これでしばらくの間, ベルンハルト様は直接, ヨハン様は間接的に彼女の影響を受けることになる.

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所詮は初心な小娘だ. すでにヨハン様に気持ちが傾いていたとしても, 物理的に距離を置けば自然に収まるだろう. あとは信頼や好意をあの兄弟ではなく私に向けさせ, 言われるままに二人を操ってくれれば良い. しかも身分はあくまでメイド, 使えなくなれば解雇するだけで, 何の後腐れもない. 良い嫁ぎ先でも紹介してやれば恩すら売れるだろう.

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兄上はすでにリッチュル辺境伯を味方につけている. 私がいずれ家令として次のイェーガー方伯. . . つまりベルンハルト様を操ることができれば, 我がアウエルバッハの家は復興へ向け大きく動くことができるはずだ.

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そのための布石として, あの娘は非常に利用価値がある. そう思って執務室に呼び, 一気に話を進めたのが先週のことだった.

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だが, 彼女はここでまた私の想像を超えてきた. おそらくヨハン様に何か吹き込まれていたのだろうが, どうやら私のことをかなり警戒しているらしい. 私が命を張ってまで重要な話をしたというのに, 口では丁寧に受け答えしつつも, 餌を差し出す手を引っ掻く野良猫のような嫌な目をしていた.

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更に, ベルンハルト様から誕生日の贈り物を問われ, 大道芸が見たいといったそうではないか. 考えすぎかもしれないが, ヨハン様の配下の隠密には, 確か大道芸人がいたはずだ. それがもしその隠密と接触を図るための口実だったとしたら, 単なる賢い娘ではなく, 想像を絶する恐ろしい娘ということになる.

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もちろん, そこで何かをされたところで私の地位が揺らぐものではない. 嫌疑をかけられるような証拠はないし, ベルンハルト様の信頼は私が圧倒的に勝っている. とはいえあの方は意外と真面目で, 公正さにこだわる方だ. 彼女から疑念を聞いたりしたら, 念のためと調べ上げられ, 何かまずいことになるかもしれない.

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さすがに少し焦ったものの, 少し前に実家から入った連絡を思い出した時は, 正しく天啓だと思った.

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曰く, リッチュル辺境伯はティッセン宮中伯を影響下に取り込もうとしている. 当然宮中伯はその役職上, 代々皇党派であり, 簡単に教会派に転じることはないだろうが, 利害を共有できればそこを起点に皇党派貴族とのつながりを一気に広げることができる. それだけでも得られる利益は非常に大きい.

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そこで使えるのが, ティッセン宮中伯夫人に婚外子がいる可能性があり, 宮中伯がその子を探しているという事実だ. 明確な証拠のある話ではないが, 父親と目される人物はギリシア出身であり, 子供の容貌もその形質を受け継いでいる可能性が高いのだという.

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ちょうど良いことに, あの小娘は黒い髪に黒い目を持ち, 明らかな異国の風貌をしている. 教養の高さやギリシア語を操るところなど本当にそうである可能性すらあった.

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彼女は私の想像を超えて危険なところがある. 側に置いて利用することに魅力はあるが, 諸刃の剣だというのなら, 危ない橋を渡るわけにはいかない.

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そうとなれば作戦を変更しよう. 時には思い切りも必要, 贅沢に1回で使い捨てれば良いのだ.

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ティッセン宮中伯を釣る道具として秘密裏にリッチュル辺境伯に引き渡すことができれば, アウエルバッハと辺境伯のつながりをより濃くつなぎとめることができる. もし結果的に思っている人物と別人だったとしても, 特徴が一致しているため, 差し出したという事実だけでもプラスになるはずだ.

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ベルンハルト様の書類を片付けた後, ヴィオラの私室に向かう. 現時点では, 家令ではなく執事という立場が役立った. いつ誰がどこにいるか簡単に把握でき, どこにいても不思議に思われないというのは, こういう時非常に便利だ.

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さぁ, 種は撒いた. あとは彼女がまた勝手に踊りだしてくれるのを待つのみ.

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安全に, 穏便に, 優雅に, 冷徹に.

今までの想定外の事態はすべて彼女の行動が引き起こしたものだ. 今回も心配はどこにもない. この誇り高きクラウス・フォン・アウエルバッハ, 主に対する裏切りなど, 何一つしていないのだから.

第7章 悪夢の塔
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔𝟖
それは似ているが故に

ベルンハルト様のお部屋を出ると, 外には騎士の方々が控えていた.

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“クラウス様, そちらは. . .”

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“まだ容疑の段階です. 処分が決定したわけではありませんので, 手荒な真似は避け, 拘束と監視にとどめておきなさい.”

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“承知いたしました.”

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中には先日の街歩きでついてきてくださった方もおり, 困惑した顔で私のことを見ている. 周囲の使用人たちも仕事を続けてはいるが, こちらをちらちらと伺っているのは明らかだった.

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おそらく, クラウス様はわざと騒ぎを大きくしている. 先ほど珍しく大声を上げたのもそうだし, この仰々しい騎士の集団もそうだ. 私が無事にご領主様の前で無罪を認められたとしても, 仕事に復帰するのは難しい. ベルンハルト様もあそこまで言われては, 周囲の刺々しい視線と戦ってまで私を傍に置く決断はされないだろう.

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つまり, クラウス様は私をこのお城から追い出すつもりでいる. オイレさんはクラウス様の欲しがっているものの中には私も含まれると言っていたし, 私もクラウス様が私を取り込もうとしていらっしゃるのを感じていたので少し不思議だ.

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また, 今こうして捕まってはいるものの, 手荒な真似はしないようにとの指示を出されている. 拘束は緩く, 怪我をしないように配慮されているようだった. どうにも目的は見えてこないが, 城からは追い出したいが, 殺したいわけではない, といったところだろうか.

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しかし, ベルンハルト様のお部屋でのやりとりを考えると, 私が自分の無罪を主張できるとは到底思えず, 有罪と断じられれば待っているのは死のみだろう.

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陰鬱な気持ちで考え事をしつつも, ご領主様の予定はすぐにはあかないので, 私は騎士の方々に監視されながら城門塔で待つことになった.

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“ヴィオラさん, イェーガー方伯がお会いになるそうです. 来てください.”

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日が落ちるころになって, 私の監視をしていた騎士の方が声をかけてきた.

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“かしこまりました.”

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縛られたままなので両脇を騎士の方々に支えられてはいるが, 居館に向かうまでの間, 彼らは一言も言葉を発さない. 暗い廊下, 壁にかけられた松明が皆の顔を揺らめかせ, まるで幽霊に囲まれているような不思議な気持ちだった.

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“ご報告申し上げます. イェーガー方伯様, 並びにご子息ベルンハルト様. メイドのヴィオラを連れてまいりました.”

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大広間に案内されると, 先頭に立った騎士が報告する.

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“入りなさい.”

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少し時間をおいて, 中から声がすると, 案内係により扉が開けられた. 声はヴォルフ様のもののようだ.

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中に入ると私は膝立ちで前に突き出され, 案内係は下がり, 騎士の方々は跪いて控えた.

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“皆ご苦労だった. クラウスより話は聞いているが, ここは方伯様に最終的なご判断を仰ぐ場だ. 気を引き締めよ.”

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“良い. さっさと始めよう.”

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ヴォルフ様のいつになく厳かなお言葉に対し, 割って入るように声が降ってきた. 初めて聞くご領主様のお声だ. ヨハン様のお声を一段低くして渋みを足したような, 少しだけしゃがれたお声.

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“お前がヴィオラか. 名前だけはよく話に聞いていたが, 見るのは初めてだ. 顔を上げろ.”

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発言を許されたわけではないので, 無言のままそっと顔を上げる. そこに見えたのは, 白っぽい金髪に淡い緑の瞳をした壮年の男性だった. しかし彩度の低い色合いに反して, その瞳は暗がりとシャンデリアの火とのコントラストも相まって, 脂でも塗り付けたかのようにギラギラとしている.

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“ふん, これは随分と愛くるしく, 整った顔をしているものよ. まるで純真無垢な乙女を思わせるその面立ち, 惑わされた我が息子たちを一概に責めることもできんな.”

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ヨハン様とベルンハルト様を足して割ったような色彩をお持ちでありながら, ご年齢以上の老獪さが滲み出たそのお顔はどちらにも似ておらず, 背中をつぅ, と冷や汗が伝った.

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“してクラウス, 彼女の部屋は調べられたか.”

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“はい, 調べさせたところ, 同じように切られた断片が壁中から出てまいりました. 彼女が持っていた断片と合わせて全てを組み合わせても完成しませんでしたが, ホーネッカー宮中伯からの文書で間違いありません. 引き続き調査させております.”

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“そうか. さて, 念のため聞いておこう. ヴィオラ, 何か言いたいことはあるか.”

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きちんと弁解の時間が与えられたことに内心ほっとしながら, 慎重に言葉を紡いだ.

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“恐れながら, 今回のことは時間の巡りあわせの悪さが招いた誤解でございます. 他のメイドの手伝いをして部屋に戻ったところ, 違和感があり, 部屋の中を探ってみたところ壁に紙切れが挟まっているのを見つけました. 中身を確認したところ, 何か公的な文書と思われましたので, それをもってヴォルフ様にご相談に行こうと部屋を出たのですが, そこでクラウス様にお会いし, 持っていた紙切れを見咎められたのがことの顛末にございます.”

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“なるほど.”

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帰ってきた言葉は抑揚がなく, 先ほどまで以上に冷たい. 嫌な予感がする.

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“今の答弁で, お前には少なくとも三つ罪があることがわかった.”

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“え, そんな. . . ?!”

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“ヴィオラ, 方伯様がお話し中です.”

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思わず声を上げると, ヴォルフ様に冷たく制された.

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“し, 失礼いたしました.”

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慌ててお詫びをする私を無視して, ご領主様は続けられた.

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“一つ, 重要な機密文書を許可なく読んだこと. 二つ, 内容を理解した上で自分の意志でそれを所持していたこと. 三つ, クラウスに会ったにもかかわらず, そこですぐ相談せず文書の存在を隠し通そうとしたこと.”

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淡々とした口調や論理的なお話の仕方は, ヨハン様とよく似ていらっしゃる. しかしそれは, 似ていらっしゃるからこそ, 決定的な違いを感じさせるものだった.

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ヨハン様は常日頃, 何事に対しても仮説と検証が重要であると私に説いていた. 論理的な思考は, 仮説を導き出すための手段にすぎない.

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ご領主様は逆だ. 先に結論があり, それを補強するために論理的な説明を使われている. 今の場合なら, 私を有罪にするという結論が先にあってこそのお話である.

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そういえば, クラウス様はもともとご領主様とヨハン様の橋渡しをされていたお方. 今回の件も, クラウス様とご領主様のお二人で, 何か共謀されていたとしてもおかしくはない.

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🛑

“さて, ヴィオラ. 改めて問うが, まだ他に言いたいことはあるか?”

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私は身震いした. 喋る機会を与えられても, 余計に罪が増えていくだけ. この方は, 温情を与えるふりをして, 人を陥れるための道筋を何の迷いもなく作っていかれる方だ.

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“. . . いえ, ございません. 先ほど申し上げたことが, 私の知るすべてでございます.”

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“賢明な判断だな.”

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ご領主様は相変わらず抑揚のない声で, 自己弁護の機会を辞退した私を褒めた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟔𝟗
悪魔の証明

“ではここからが本題だ. 先ほどクラウスからの報告にもあった通り, お前の部屋にあった分だけでは文書が完成しない. 考えられる理由はいくつかある. まず可能性の低いものから話そう.”

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ご領主様は無表情を崩さず, 視線をヴォルフ様に向ける.

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“仮にあの切り裂かれた文書がひとりでにヴィオラの部屋に入ってきたものだとして, 数枚だけ先に入ってきており, 気づいたヴィオラはそれをヴォルフのもとへもっていっていた. 今回もクラウスを無視してヴォルフのもとに向かおうとしたのは, すでにヴォルフに相談していたため, 話が早いと思ったから. . . ヴォルフ, 昨日以前に, ヴィオラから変な紙切れが部屋にあったと相談を受けたことは?”

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“いいえ, ございません.”

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“だろうな. お前ならただの紙切れと判断せず, 一目でホーネッカー宮中伯からの文書ということに気づくだろう. ならば次だ. 何者かがヴィオラの部屋に文書を隠したが, 時間がなくてすべては隠し切れなかった. クラウス, ヴィオラの部屋に入れるものは誰がいる?”

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“城の者では, ヴィオラ本人と, ズザンナさん, それから私です. 怪しい者を見かけたという報告はありませんが, 賊の可能性もあります.”

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“窓の板戸に錠が破られた痕跡はあったか?”

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“いいえ, 特に目立った異変はなかったかと.”

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“すると, 賊の可能性は限りなく低い. あの部屋に扉から入るには, 居館表の出入り口を入って廊下を抜ける必要があるから必ず使用人に見つかる. クラウスとズザンナも念のため後で取り調べるが, 二人とも動機が見えんな.”

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🛑

ご領主様は一旦言葉を切り, 私を睨みつけて続けられた.

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🛑

“では, 最後に, 私が最も疑っている可能性だ. ヴィオラがベルンハルトの部屋から文書を持ち出し, 部屋に隠した. 文書は分厚く量が多かったため, 怪しまれぬように隠し持てる大きさに切り分け, 数回に分けて外部の者に渡そうとした. 見つかっていない断片はすでに城の外の者の手にある.”

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あまりの言いがかりに言葉も出なかった.

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“どうだ, ヴィオラ?”

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“私はそんなことはしておりません.”

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“していないという証拠はあるのか?”

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“恐れながら, そのやり方ではあまりに効率が悪いと思います. 紙切れは部屋の壁中に, おそらく10か所近くにはめ込まれていました. 元の文書の大きさがどの程度かはわかりませんが, あの断片の大きさから察するに, そこまで巨大ではないはずです. 荷物にでも隠せばいいのに, 10回も往復するのは非効率すぎます.”

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“私は証拠はあるのかと聞いたはずだが, その答えは答えになっとらんな. しかも, この状況で動じることもなく, より効率的な方法を考えるとは. やはりお前は相当な訓練を積んだ者だろう.”

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“とんでもないことです. 私はただの商人の娘, 特殊な訓練など受けておりません.”

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“その商人とやらは, ギルドに同じ名前があるだけで, お前の生まれたという家も貸家になっていると聞いたが?”

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“時系列が異なります. 父は私がこのお城へ奉公に出るまで一緒に住んでおり, その家から送り出してくれました. 数か月前, 父の訃報が入り, 真偽が定かではなかったためお休みをいただいて確認に行ったのですが, その時には貸家になっていたので驚きました. 隣人に尋ねると, 1週間ほど前に引っ越したという話で, 父の消息は依然不明です. . . このような経緯でしたので, 雇っていただく際に虚偽を申請したわけではございません.”

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“随分べらべらとよく喋るものだな.”

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私の返答を聞いて, ご領主様は面倒くさそうに溜息をつかれた.

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“立て板に水とばかりに上手く言いくるめているが, やっていない証拠があるのかという質問の返答には一切なっておらん. この娘, 怪しいところが多すぎる. 決定的な証拠には欠けるが, 城に置いておくには危険すぎるのは間違いなさそう, か.”

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ご領主様が苛立ち紛れにコンコンとテーブルを叩く音が, 大広間に反響する. ヨハン様と同じ癖. しかし今はまるで, 私に迫ってくる死の足音のようだ.

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“盗み出された文書の機密はこの領地に収まらず, 帝国の軍備にも影響を及ぼしかねないものだ. もしこの娘が隠密の類であるとするならば, 国内の政敵ではなく, 国外の者である可能性が高い. 実際, 我が領民を名乗ってはいるが, どう考えても異邦人だしな. ヴォルフ, クラウス, どう思う?”

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“まだ信じたくない気持ちはありますが, 否定できません.”

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“私も, どこの手の者かまではわかりかねますが, 危険であることは間違いないかと.”

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お二人の言葉が, いよいよ私の運命を決定づける.

やっていない証拠, そんなものは出せるわけがない. あったことの証明であれば, 一つでも見つけ出せればよいが, ないことをないと言うのは悪魔の証明だ. 起きていなかった事象に痕跡など存在しないのだから.

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🛑

“この件は上級裁判に持ち込む. ヴォルフは早急に裁判の申請を. 教会側の準備が整うのにも数日かかろう. その間, クラウスはその娘を塔の地階に放り込んでおけ. 北の塔にはヨハンがいる. あれに女を逃がすほどの情があるとは思えんが, 念のため南の塔にしておこう.”

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“そんな, ご領主様, 私は, 私は何もしておりませんっ!!”

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“はぁ, 最後までうだうだと煩いことよ. さっさと連れていけ.”

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ご領主様が片手を振ると, 私は周囲の騎士たちに無理やり立たされ, 後方の扉へと引っ張られる.

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“私は隠密などではございません! 異邦人でもございません!! どうか, どうか. . . !!”

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“ヴィオラ, 安心してください. 裁判は厳粛に行われるものです. 上級裁判であれば経験豊富な尋問官が付きます. あなたが本当に無罪であれば, そこで疑いを晴らすことができるでしょう. さ, 行きますよ.”

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近づいて来て私に声を掛けるクラウス様は, 相変わらず濁り切った冷たい目のままで. . . しかし, 場に不釣り合いなほど嬉しそうな笑顔を浮かべていた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕𝟎
かくも塔の地階は

大広間を出ると, 私は引っ立てられるようにして, 速やかに南の塔へと移動させられた. 騎士の方々も, 先導するクラウス様も, 誰一人何も言わない.

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本当に考えが甘かった. クラウス様のことを警戒はしていたが, その牙が直接自分に向くとは思っていなかったのだ.

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何が”傷つけないように配慮されている.”だろう. あの時はご領主様にお伺いを立てるまで処遇を決められなかっただけのこと. ひとたびご領主様が塔の地階に放り込めとおっしゃれば, それを避けることなどできないのに.

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何より, クラウス様は隙を見せないお方, 後からほころびが出やすいあからさまな嘘などつかないと思っていた. だからこそ, 全力で守るという言葉も信じてしまっていた.

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よく考えてみれば, クラウス様が嘘をつかないのは後で余計な問題を起こさないためでしかない. 周囲の人が, 長年勤めた執事と1年満たないメイドのどちらの言葉を信じるかなど明白. 私と二人きりでした会話など, いくらでも嘘はつけるし, あとから撤回も可能なのだ.

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ヨハン様のお付きだったころは, 厳密にはクラウス様と二人きりでお話したことはなかった. きっとヨハン様へ報告が上がることを前提にお話をされていたはずだからだ. しかし, 居館にきてからの私はクラウス様との会話を誰かに報告することなどない. オイレさんへの手紙にこそ書いていたが, 仮に裁判に持ってきて貰ったとしても私の自筆なので証拠として扱ってもらえることはないだろう.

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南の塔へ着くと, 後ろ手にゆるく縛られていただけの拘束は, より厳しいものとなった.

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“裁判前に自死を選ばないとも限りません. 舌を噛まないよう, 口にも縄を.”

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クラウス様の指示で, 騎士たちが淡々と私を縛り上げ, 喋ることもままならなくなった. 両腕を固く拘束され, 足首にも縄がかけられる. 痛みこそないが, この固さではもうすぐ全身が痺れてしまうだろう.

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いつの間にか涙が溢れていた. 噛まされた縄で嗚咽は封じられ, 噛み締め過ぎて破れた唇に零れ落ちた涙が沁みる. 怒りと悲しみと悔しさがごちゃごちゃになって, 自分で自分が何を感じているのかもわからない. 気づけば目の前のクラウス様を睨みつけていた.

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“そんな怖い顔をしたところで, 今のあなたにできることなど何もありませんよ. 私も心苦しいですが, ご領主様がおっしゃった以上, こうせざるを得ないのです.”

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クラウス様は優雅に, そしてさも心配そうに眉根を寄せる.

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“大丈夫, 裁判までの辛抱です. 私はあなたが無罪だと信じていますからね.”

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無力とわかっていても, 私は泣きながら睨むことをやめられなかった. 無実だと信じている? そんなの当たり前だ, あなたがでっち上げたのだから. 全て仕組んでおいて, こじつけで私を陥れて, 何でそんなことが言えるのだろう. どうしてそんな顔をしていられるのだろう.

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喋れない分必死に睨む私に一切ひるむことなく, クラウス様はふわりと騎士たちに向き直る.

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“では, その娘を地階へ.”

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その言葉を聞くや否や, 誰かがどん, と私の背を押した. 私は縄でつられた状態で床の小さな穴に落ちる. するすると縄が下ろされるにしたがって, 視界から光が消えていく. . . 中ほどまで進んだと思ったとき, 唐突に手が離され, つま先から床に叩きつけられた. ぐき, と足首が捻じれ, 両膝を打ち, 寝転がるようにして床に倒れる. あまりの痛みに気が遠のいた.

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“必ずまた迎えに来ます. それまでどうか, 強い意志で耐えてください. あなたならできるでしょう?”

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ぼんやりとしたまま声のする方を見上げると, クラウス様が覗き込んでいた. 私にしか見えない角度で, 歯まで見せて嬉しそうに微笑んで.

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“ーーーーーっ!!”

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抗議の声を上げようとするが, 縄にさえぎられて言葉にならない. そんな私をほんの数秒, 満足げに眺めてから, クラウス様は天井の戸を閉めた.

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. . . そして, 月明りも, 蝋燭の明かりも差さない, 本物の闇が訪れる.

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ああ, 塔の地階とはこんなにも恐ろしい場所だったのか.

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耳元を何度も往復する不快な羽音.

擦り傷に滲む血の臭いに誘われて, 何かが這い上がってくる, チキチキと抓るような感覚.

苔と黴の臭いを含んだ埃っぽい冷えた空気.

🛑

視界を奪われた今, 聴覚が, 触覚が, 嗅覚が, この場所の異常さを強く訴えかけてくる.

痛みが, 恐怖が, 絶望が, 私の頭の中を真っ黒に塗り潰す.

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ここには狼や熊のような大きな獣こそいないだろう. しかし今, 私は完全なる被食者だった. 蛇や毒虫, その他姿のわからない暗闇に潜む全てが, 私の血肉を狙っている気配を感じる. いつもなら気にもかけないような小さな虫も, 今の私の縛られた腕では払いのけることすらできない.

🛑

ふと, 北の塔の地階に閉じ込められていたケーターさんのことを思った. あの人は縛られるだけでなく爪まで剥がされて, 縄を切られてからも毎晩, こんな場所で一人耐え続けていたのだ. もう解放してもらえただろうか. それともまだ孤独に戦っているのだろうか. どうか今は解放されて, 傷も癒えていてほしい.

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先ほどのご領主様のお話では, 裁判の準備に数日かかるという. 数日はおろか一晩であっても, ここで正気を保ち続けることなど, 私には到底できそうになかった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕𝟏
暗闇の接吻

どれくらい時間がたっただろうか.

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固い縄で痺れているというのに, 痛覚が鈍化しているわけではないらしい. 時折何かに噛まれたり刺されたりするたび, 朦朧とした意識を痛みが引き戻す.

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発熱でもしているのか, 熱さと寒さを交互に感じる. 頭がくらくらとして倒れそうになるが, 地面に横たわると余計虫にたかられそうな気がして, 私は地面や壁との接触をできるだけ避けるため, 膝を屈めて縮こまるようにして座り, ただ只管時が過ぎるのを待っていた. 吐き気もあるが, 吐けばまた臭いで何かを呼び寄せてしまうだろう. お腹の中が空っぽであることが, 今は逆に幸いであった.

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ここから出してもらえたとして, 裁判で無実を証明することなどできるのだろうか.

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大広間で感じたのは, 今回私を有罪に陥れたのはクラウス様だけではなさそうだということだった. ご領主様の理知的なお話の仕方と, むりやり結論に結びつけるような内容とのそぐわなさは, ベルンハルト様のお部屋でのクラウス様とのやりとりとよく似ていた. お二人が何かの目的で私を有罪にしようと共謀されているのなら, 裁判に出たところで, 私の生き残る道などない.

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そんなことを考えながら, 口に巻かれた縄を少し強く噛んでみた. 縄は太いが, 唾液をすって少し柔らかくなっている気がする.

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どうせ生き残ることができないなら, 苦しむ時間は短い方がよい. それに, 裁判を経て縛り首になるより, ここで死ねば, 遺された身体をヨハン様が解剖に役立ててくださるかもしれない. 無実の罪に恥を晒して命を無駄にするより, その方がずっといい.

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ぎりぎり, ぎりぎりと, 精一杯の力で縄を噛み解す. どのくらい時間がかかるかわからないが, これが外れたら舌を噛み切って. . .

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🛑

. . . ふいに天井の戸が開き, 淡い光が差し込んできた.

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ゆっくり顔を上げると, ぼんやりと人の姿が浮かび上がってくる. 布で覆われていて, 顔はよくわからない.

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🛑

“お待たせしちゃってごめんね.”

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聞こえてきたのは女性の声だった. 彼女は梯子を下して私の元へと降りてくる. 私は呆然としながらその様子を眺めていた.

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“すぐにでも助けたかったんだけど, このぐらいの時間が一番見つからないのよ.”

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助ける? 私を?

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“今縄を切るからね. 騒いじゃだめよ.”

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小さなナイフでゆっくりと足の縄が切られ, 助け起こされる. 彼女に寄り掛かるようにして何とか立つと, 今度は手首と腕の縄が外された. 蝋燭を上に置いてきているため, 彼女の姿はまだわからない.

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🛑

“大丈夫? 登れそう?”

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🛑

自由になった両手と, 目の前に掛けられた梯子を見て, 私はようやく自分がここを出られるのだという自覚を得た.

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🛑

“あ, こら, そんなに急いだら危ないったら.”

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🛑

もたつく手足を必死に動かして梯子に飛びつくと, 彼女は落ちないように下から支えてくれた. 無我夢中で梯子を上がりながら, じぶんにこんな体力が残されていたことに驚いた.

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上がり切ると, そのまま前のめりに倒れこむ. 掌に伝わる冷たい床の感覚. . . ああ, 本当に助かったのか. 私は助け出されたのだ.

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振り向くと, その人は布を取って私に笑いかけ, 静かに, と人差し指を口元に立ててから再びナイフを取り出した.

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濡れているかのように輝く長い金髪, 美しすぎる卵型の顔.

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“ああ! シュピネさ. . . んむぅっ?!”

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縄を切られるなり声を上げそうになったが, 瞬時に抱きすくめられ, なにか柔らかいもので口を塞がれる.

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“騒いじゃだめって言ったでしょ, ここは結構声が響くの. でも, 本当によく頑張ったね.”

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いい子いい子, と優しく笑いかける彼女の顔のあまりの近さに, 口づけをされたのだと気づいたのは数秒遅れてからだった.

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🛑

“とりあえず, 早くここを出るわよ. おんぶした方がいい?”

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“いえ, 大丈夫です. . . 助けてくださってありがとうございました.”

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“まだお礼を言うには早いって.”

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塔を出て地上に降りると, シュピネさんは蝋燭を消し, 私に布をかぶせて, 塔のすぐそばに座らせた.

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“いきなりだけど, 私が戻るまでここで待っててね.”

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“どうかしたんですか?”

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“まだどうもしてないわ. これからちょっと, 悪いことしてくるの.”

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シュピネさんは, にひひ, と変な笑い方をすると, 縄梯子を取り出し, 城壁かけてするすると降りて行った.

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“え. . . ?”

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城壁はかなりの高さがある. まだ日も登らない時間に月明りだけで縄梯子を降りていくなんてただ事ではない. 私なら最初の一歩で足がすくんでしまうだろう.

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また一人になってみると, なんだか妖精の悪戯に遇ったような気分だった. あの恐ろしい空間に, 私はどのくらいいたのだろうか. 大広間でご領主様とお話したことも, クラウス様の数々の恐ろしい所業も, 酷い悪夢を見ていたようで, いざこうして解放されてみるとまるで現実感がない. シュピネさんの度を越えた美しさや, 唇にほんのり残る柔らかな感触の余韻も, それに拍車をかけている.

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しかし, 彼女は意外なほど早く戻ってきた. 先ほどの縄梯子ではなく, 城門から.

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“お待たせ! 無事準備できたわ. さ, 行くわよん!”

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随分と嬉しそうに近づいて来るシュピネさんの姿は, 華奢でいかにもか弱そうだが, 今の私にはどんな大男よりも頼もしく見えていた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕𝟐
蜘蛛の巣

シュピネさんに急かされて向かうと, 城門にはいつもいるはずの門衛がおらず, あっけなく城を出られた. 真っ暗な街は静かで, 私は自然と, 足音をたてないように注意して進む.

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城をだいぶ離れて裏道に入ったところで, 小声でシュピネさんに聞いてみた.

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“あの, 門衛の方がいなかったようですが. . .”

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“ふふふ, 悪いことしてくるって言ったでしょ? 野暮なことは聞かないものよ.”

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はぐらかされてしまった.

とはいえ, 戻ってきた彼女に怪我や返り血などはなかった. いくら優秀な隠密であっても, 華奢な女性が面と向かって戦って門衛に勝てるわけはないので, 荒っぽいことはしていないだろうと思う.

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“よし, 着いた. ようこそ蜘蛛の巣へ!”

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今までレーレハウゼンで生きてきたが, 入ったことのなかった裏街, その奥に彼女の拠点はあった. 表に黄色い布の掛けられた, 簡素な建物. 娼館だ.

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“こっちに来て. 部屋に着くまでは静かにね.”

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🛑

シュピネさんに案内されて娼館の奥へと進む. 静かだが, 何人もの人の気配がした. 居る者すべてが認識されることを拒み, 互いに互いを無として扱うことを暗黙の了解とする独特の雰囲気. 私には, 生涯縁のない場所だと思っていた.

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辿り着いた部屋は, 思っていたよりも広い. 表の簡素さに比べて, 内部は壁も家具も装飾が多く, 店に陳列するように服やアクセサリーが並べられている. これも演出の一つなのだろう.

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“お疲れ様. もう喋って大丈夫よ, ヴィオラちゃん. あ, ヘカテーちゃんのがいいのかしら?”

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シュピネさんはそういって笑いかけながら, 当たり前のように私のマントルを脱がせて, 椅子に座らせてくれた. お若いのにまるでお母さんのようだ. 私にお母さんの記憶はないけれど.

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“呼びやすい方で大丈夫です. 私も今の自分の立場がどうなっているのか, よくわからないので. . .”

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“じゃ, ヘカテーちゃんにする! そっちのが聞きなれてるの. それより, お腹が空いてるんじゃない? 温かいものはないけど, とりあえずこれでも食べて.”

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目の前でパンが皿におかれ, 白ワインが注がれるのを見て, 私はやっと空腹感を覚えた.

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“ありがとうございます.”

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パンを手に取って口に含む. ほんのりと甘く, 粘るような口当たりを感じると, ひとりでに涙が溢れてきた. 今度は絶望の涙ではない. 安堵の涙だ.

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“う. . . シュピネさん. . . ありがとうございま. . . 助けてくださって, 本当に. . . うあ. . .”

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静かな嗚咽はどんどん大きくなり, 私はパンを掴んだまましゃくりあげるように泣いた. シュピネさんは私を背後から抱きしめ, 文章にならない私の言葉を, うんうんと頷いて聞いてくれている.

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“よく頑張ったね, えらかったね. もう大丈夫だからね.”

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暖かい. 柔らかい. 誰かの腕に抱きしめられながら大泣きするなんて, いつぶりだろう. 咽びすぎてえずくぐらいに泣いている私を, シュピネさんはただずっと抱きしめたまま, 落ち着くまで待ってくれた.

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しばらくして, 呼吸が落ち着いてくる頃には, 窓からほんのり夜明けの光が差し込んできていた.

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“そうだ, お風呂に入ってこようか. そのほうが落ち着くでしょ.”

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“お風呂, ですか.”

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“そうよ, ここは娼館だからね. たらいじゃなくてちゃんとしたお風呂があるのよ. あたしもさっぱりしたいし!”

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🛑

シュピネさんに浴場まで案内され, 服を脱ぐと, 初めて自分の悲惨な姿を目の当たりにした. そこらじゅう傷だらけのできものだらけ, 手首や足首には縄の跡がくっきりと痣になっている. 水面に映る顔を見ると, 目と口の周りが赤く腫れ, 少し爛れているようだった. これがボサボサの頭で土埃を被っていれば, 墓場から出てきた幽霊と思われるかもしれない.

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シュピネさんの方を伺うと, ヴィーナスの彫像のように美しい姿が目に飛び込んでくる. 磨かれた大理石かと思うほど滑らかなその肌と, 自分の肌を比較して, 少し惨めな気持ちになってしまった.

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“ふふ, 何見てるの?”

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“あ, いえ, すみません. . . 綺麗だなと思って. . .”

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“その言葉そのまま返すわ. 仕事柄色んな女の子を見てきたけど, ヘカテーちゃんはとんでもない逸材よ. 数年後が楽しみね.”

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彼女は私の肌の惨状には一切触れない. 温かいお湯を贅沢に使って身を清めながら, 沈黙が苦にならない程度に, なんてことのない雑談をするだけ.

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湯浴みを終え, 彼女は布ときれいな服も貸してくれた. 血や膿がつくといけないと思い断ろうとすると, 気にしないで良いと言って私の身体を拭き, さらには薔薇水まで出してきてくれた. お湯でも沁みる状態だったので使えなかったが.

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部屋に戻りお礼を言うと, シュピネさんは私に椅子をすすめ, まだ乾ききらない髪の毛を結い始める.

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“あの, そこまでしていただかなくても. . .”

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“気にしなくていいのよ. こういう時は, 思い切り甘えて, 誰かに触れていたほうが早く落ち着くもの. それと, ヘカテーちゃんのことはしばらくここで匿うつもりだから.”

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“え, 大丈夫なんですか? その, お仕事に影響とかは. . .”

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“うん, この部屋にいる限りは大丈夫. 念のため, 普通の客が間違って来たりしないように, 赤毛のアホが連日通い詰めてるわ. そんなことより, まずは説明が必要よね.”

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🛑

丁寧な手つきで髪を結いながら, シュピネさんは言った.

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🛑

“今回のこと, 全部クラウス様が仕組んだことなのは, ヘカテーちゃんもわかってるでしょ? でも多分, 最初からこうなるはずじゃなかったの. 予定が大きく狂ったのは, あなたの手紙が原因よ. クラウス様があなたについて, どこまで把握していたのかはわからないけど. . . きっと途中で大幅に方針を変えることになっちゃったのね.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕𝟑
茶番劇の裏で

“まず初めに言っておくけど, ご領主様は敵じゃないわ.”

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“えっ, 大広間で謁見したときは, 無理やり私を有罪にしようとなさっている感じでしたが. . .”

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“それはクラウス様を欺くためね. 彼は本当に狡猾で油断のならない人. でも, 自分の思い描いた台本通りにことが進んでいると思えば, 少し隙ができるでしょ? 裁判にかけるといって目の前で塔に幽閉すれば, クラウス様を安心させられて, 時間稼ぎになるから.”

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“つまり, 全部演技だったってことですか.”

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🛑

大広間でのご領主様は, 冷酷無慈悲で, 私に意見を求めつつも, 喋らせる気は一切ないように見えた. だからこそ私は, 何らかの理由でご領主様とクラウス様が共謀して, 私を陥れようとしているのだと思っていたのだ. その後, 実際に捕縛され, 塔の地階に押し込められたのだから猶更.

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🛑

“演技, と言っていいかはわからないわね. あの人は昔からあんな感じだから. でも, ご領主様はヨハン様からの連絡を受けて手を貸してくださったのよ.”

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“ヨハン様から?!”

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思いがけない名前が出てきたことに驚く.

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🛑

“ええ. さっき, 手紙のせいで状況が変わったって言ったでしょ? あなたがベルンハルト様を大道芸に誘って, オイレに託した手紙のこと. クラウス様はヨハン様とご領主様の橋渡しをしていたのよ? 当然, 私たち隠密の存在も, その中に大道芸人がいることも知っているわ. ヨハン様は手紙を受け取ってすぐ, クラウス様があなたの動きに気づいて口を封じようとするだろうと, ご領主様に連絡を取ったの.”

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“そんなにすぐ感づかれるとは思いませんでした. . .”

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🛑

迂闊だった. あの時は, 誕生日に欲しいものを聞かれて答えただけだったし, クラウス様も私を手元においておきたがっているように思えたので, それがそこまで危険な行動だとは思っていなかったのだ.

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🛑

“彼は堅実で, 案外小心者なのよ. 確実にできると判断したことしかやらない人. まぁ, 本人が優秀で, 自分ならできると信じられることが多いからなんでしょうけど. . . 使える駒だと思えばすぐ欲しがるくせに, 駒が優秀すぎると出し抜かれるんじゃないかと怖くなってしまうのね.”

🛑

“気づかれるとは思わず手紙を出してしまう時点で, 自分が優秀とは思えません.”

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“その行動がどう見えるかは人によって違うわ. クラウス様の目には, ヘカテーちゃんが未だヨハン様に仕えていて, 本物の主人のためなら仮初の主人を平気で騙し, 命がけの行動も平気でできる人, と映ったはずよ.”

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🛑

言われてみると, 本物の主人以外にとってそんな人材は危険すぎる. クラウス様が小心者でなくとも, 側に居てほしいとは思わないだろう.

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🛑

“. . . 手紙は, 役に立ったのでしょうか.”

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🛑

ヨハン様を守りたい一心で必死に託した手紙だというのに, その手紙のせいで窮地に陥り, 結果的にヨハン様に守られたとなっては少々ばつが悪い.

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“あなたは本当にいい子ね.”

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🛑

なので, はっきりと肯定しないシュピネさんの返答に, 私は少し肩を落とした.

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🛑

“ヨハン様は, クラウス様がどういう人で, どんな将来を思い描いているか, 最初からわかっていたわ. でもね, 彼はとても立ち回りが上手い人. 決定打になるような証拠はずっとなかったのよ. だから, ご自分やこの家に訪れるかもしれない未来を知りながら, 誰にも言わず, 孤独に戦ってた. 子供のころから何年もね.”

🛑

“隠密の皆さんがいるじゃないですか.”

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“そうね. でもあたしたちは証拠を集めるのが仕事. 何かあっても証言をすることはできないの. 表向き存在する人間じゃないから.”

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🛑

そういうと, シュピネさんは髪を編んでいた手を止め, わたしをぎゅっと抱きしめた.

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🛑

“だから, そう, 役に立ったの. 情報そのもの以上に, あなたがあの手紙を出してくれたこと自体が, ヨハン様にとっては何より嬉しかったはずだわ. だからこそ, 決定的な証拠が見つかるまで黙っていたのに, ご領主様に連絡を出されたのよ. ご領主様も, ヨハン様のもとで半年も働いたあなたの書いたことなら, 無碍にすることはない. 内容に憶測が多いから公にできるものではないけど, 少なくともヨハン様とご領主様との間では, 一種の証言として機能したの.”

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“全く無意味なわけじゃなかったなら, 良かったです. . .”

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🛑

シュピネさんは腕をほどいて, 俯く私の手を取った. ぼろぼろになった痣だらけの手.

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“ヘカテーちゃん, もっと自分のことを大切にしてね.”

🛑

“これはその, 不可抗力と言いますか. . . 手紙を出した時には, こんな結果を招くとは思わなかったんです.”

🛑

“それでもよ. あなたが南の塔へ放り込まれたと聞いて, ヨハン様も大変だったんだから.”

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“え, ヨハン様のご意志ではなかったんですか?”

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🛑

先ほどの話では, ご領主様はヨハン様からの連絡を受けて手を貸してくださったはずだ. 目の前で塔に幽閉すれば時間稼ぎになるからと.

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🛑

“一旦捕縛するのはヨハン様の案だけど, 地階に放り込むとは思わなかったらしいわ. 南の塔は今空いているから, 普通に考えれば見張りを置いておくだけで十分だもの. ご領主様としては, そのくらいあなたを黒だと思っていると, クラウス様に態度で示したかったんでしょうね.”

🛑

“たしかに, 私を地階に投げ落とした後のクラウス様は, とても満足そうにしていました. 余裕の笑顔で, 必ず迎えに来ます, なんて言ってましたし.”

🛑

“じゃあ, そこもヨハン様の予想の通りだわ. 多分彼は, 翌日に手筈を整えてから, 裁判の前に誘拐するつもりだったのね. だからあたしは, 先回りしてその日の夜のうちに救出する必要があるって話になったの. 間に合って本当に良かった!”

🛑

“え, 待ってください, その日の夜のうちに救出って. . . 私はあの場所に一晩もいなかったっていうことですか.”

🛑

“そうなるわね. ベルンハルト様のお部屋での出来事も, 大広間での謁見も, 全部昨日のお話よ.”

🛑

🛑

愕然とした. 少なくとも二晩は過ごしていると思っていたのに, 晩課から讃課まで程度の間だったというのか. 苦しい時間は長く感じるというが, 私は時の感覚を奪うあの暗闇に改めて恐怖した.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕𝟒
もしも望むなら

“少なくとも二晩は経っていると思っていました. あの場所は本当に恐ろしくて. . . 私は, 弱いですね. . .”

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🛑

暗闇で自分を蝕む虫たちを思い出し震える私の手を, シュピネさんはそっと撫でる.

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🛑

“弱いことなんてないわ. それが当り前よ. まさかとは思うけど, ケーターみたいな化け物と比較してないわよね?”

🛑

“えっと. . .”

🛑

“ケーターは隠密きっての武闘派. どんな状況でも生き残る術を知っているし, 精神力も段違いなの. あたしはむしろ, 15歳になったばかりの女の子が, よくあの環境に耐えられたと思うわ.”

🛑

🛑

言われてみれば, 歴戦の猛者を比較対象にするなど傲慢であった. それでも, ふがいなさは消えない. 自分だけが特別な情報に気づいて, ヨハン様の窮地を救ったつもりでいた. 迂闊な行動で, ヨハン様だけでなくご領主様のお手まで煩わせて. . . 結果がこれだ.

🛑

🛑

“シュピネさん, 今の私は表向き, まだ南の塔にいることになっているんですよね?”

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🛑

塔に私がいないということは, 遅かれ早かればれてしまう. クラウス様が今日中に私を誘拐にくるなら, いないことに気づいたクラウス様が何もしないとは思えない.

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🛑

“そうね. クラウス様には, ご領主様のお計らいで手続きより先に教会から迎えが来たと伝える予定よ. 裁判の管轄はヴォルフ様で, クラウス様は連行する現場を見られないから大丈夫. ヴォルフ様については, 後日偽物の聖職者に迎えに行かせて, 塔の中で死んでいるあなたを発見することになるわね.”

🛑

🛑

クラウス様はともかく, 私にも良くしてくださったヴォルフ様をそんな形で騙すことを思うと心苦しくなった. あの方は大広間の謁見の際も, 信じたくないといってくださった. きっと, 罪の有無が不明のまま死んだメイドのことを思って胸を痛めるだろう.

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そして, 私はもうヴォルフ様にお会いすることもないのだ.

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“私は今後, どうなるんでしょうか.”

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🛑

ここに一旦匿ってもらうにしても, 父の消息も不明な今, その後どうしてよいかもわからない. クラウス様がいる以上, お城に戻ることは不可能だし, この身体では娼婦になることすらできない.

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🛑

“それはあなた次第よ.”

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しかし, 返ってきた言葉は予想外のものだった.

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🛑

“あなたが望むなら, どこか遠く, 国外に逃がしてもいい. ヨハン様の一筆で, 何かしらの身分と職を与えられるはずよ. あるいは, ヨハン様のもとに戻るという手もあるわ.”

🛑

“えっ, ヨハン様のもとでって, 隠密になるということですか?”

🛑

“いいえ, 確かにあなたは人を惑わすことも可能な美貌の持ち主だけど, あたしみたいに善意の人から情報を騙し取ることには向いてない. でも, それ以上に礼儀も教養も持っていて, ギリシア語も学んだ貴重な人材よ. 使える可能性は無限にあるの. 今まで通りメイドとしてお世話をしつつ, 何かあった時だけ雑用を頼まれればいいわ.”

🛑

🛑

ヨハン様のもとに戻れる, またお会いできる. . . それだけで目の前の霧が晴れていくようだった.

🛑

すると, 私の顔を覗き込むようにして確かめてから, シュピネさんは言った.

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“本当に戻りたい? あなたにとっては, 国外に逃げるより辛い道になるかもしれないわよ?”

🛑

🛑

そう, 以前オイレさんにも言われたこと. 私はヨハン様のことが好きだ. ただお仕えする方に対する敬愛ではなく, 恐れ多くも恋心を抱いてしまっている. そしてそれは決して叶うことがなく, 気持ちをお伝えすることすら許されないもの. シュピネさんもオイレさんも, 側にいながら決して届かぬ思いに, 私がいつか感情を暴走させてしまうことを恐れている.

🛑

. . . それでも, 私の答えはすでに決まっていた.

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“戻りたいです.”

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別に, 恋しい方と一緒にいたいという浅はかな理由からではない. 今回の一連の出来事で, 自分の中で確かめられた別の思いもあったからだ.

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🛑

“私をここまでの行動に駆り立てたのは, 確かに恋する気持ちがあった故です. でも, 私はあの手紙を書いたとき, ヨハン様の御身に何かがあったらということが何より怖かったんです. ヨハン様をお救いするためならどんなことだってできると思いました. 所詮は素人ですので, 結果は伴いませんでしたが. . . もし今後自分の気持ちに苦しめられることがあろうと, ヨハン様を傷つけるような行動だけは起こさないと, 今なら私は誓えます.”

🛑

🛑

私の返答を聞いて, シュピネさんは少し驚いたように目を瞠ったが, すぐに穏やかな微笑みを艶やかな唇に湛えた.

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🛑

“そこまで言うなら, 誰も文句は言えないわね. というか, あたしが言わせてやらないわ. じゃ, 決定!”

🛑

“ありがとうございます!”

🛑

“とはいえ, まだすぐに動くわけには行かないから, しばらくここにいてね. 状況が落ち着いたら, 一緒にまた北の塔に向かいましょ.”

🛑

“わかりました. しばらくお世話になりますが, よろしくお願いいたします.”

🛑

“そんなかしこまらなくていいのよ. さ, あなた徹夜だったでしょ? ベッド使っていいからちょっとお昼寝でもしてて. あたしはまだやることがあるから.”

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🛑

シュピネさんはいつの間にか結い終えていた私のおさげをちょんちょんと引っ張ると, 元気に部屋を出ていった.

🛑

その姿を見送ってからベッドに座り. . . 私はそのまま倒れこんでしまった. 想像以上に疲れ切っていたのだな, というぼんやりとした思考さえも, すぐに静寂に沈んでいった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕𝟓
女はみな仮面を被る

しばらくすると, 誰かの話し声で目が覚めた.

ぼんやりとした頭で考える. 私は南の塔で一晩過ごしたのち, シュピネさんに助けられて, 今は彼女の働く娼館に匿われているはずだ. この部屋にお客は来ないといっていたけれど, 会話が聞こえるということは誰か来ているのだろうか.

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うつらうつらとしながら上体を起こすと, 会話の主が私に気づいた.

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🛑

“あら, 起こしちゃったかしら. ごめんなさい, ちゃんと眠れた?”

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“おはよぉ.”

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🛑

目を開けると, シュピネさんとオイレさんだった. そうか, シュピネさんが言っていた, ここに通い詰めている赤毛のアホとはオイレさんのことか. 怪しまれないよう, お客としてこの部屋を抑えておいてくれたのだ. 前回お会いしたときは太った魔術師の姿だったので, 素顔のオイレさんはとても久しぶりに見る.

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🛑

“おはようございます. すみません, すっかり眠ってしまって.”

🛑

“眠れたなら良かった. 今, ちょうどあなたの復帰についてこれと話していたところなの.”

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🛑

シュピネさんは美貌に似合わぬ乱暴なしぐさで, オイレさんを親指で指差した. 酷い言い方だが, 笑顔を崩さないところを見ると, むしろ雑な扱いができるほど仲が良いのかもしれない.

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🛑

“こ, これ. . . えっと, オイレさんはいつ頃からいらしてたんですか?”

🛑

“ついさっきだよぉ. お店が開く時間までは来られないからねぇ.”

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🛑

窓の外を見ると, 空はほんのりと朱くなり始めていた. お昼寝どころではなくしっかりと眠ってしまっていたようだ.

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そして, 先に言わなければいけなかったことを思い出す.

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“オイレさん, この度はご迷惑をおかけしました. 身勝手な行動にもかかわらず, 手紙を受け取ってくださって, 本当にありがとうございました.”

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🛑

オイレさんが私の手紙に気づいて受け取ってくれなければ, 私はクラウス様に無駄に疑われるだけ疑われて, ヨハン様にメッセージを届けることもできず, 今頃まだ南の塔で絶望の時を過ごしていただろう. 裁判に持ち込まれるにしろ, その前にクラウス様に誘拐されるにしろ, 待っていた未来が恐ろしいものであることに変わりはない.

🛑

改めて最敬礼をする私を, オイレさんは笑って許してくれた.

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🛑

“堅苦しいのはやめてよぉ. 君がベルンハルト様と一緒に僕の芸を見に来るなんてよっぽどのことだもの, そこでちゃんと動けなかったら隠密失格だからねぇ. でもホント, 助かってよかったよかった!”

🛑

“ありがとうございます. 私が今こうして無事でいられるのは, オイレさんとシュピネさんのおかげです.”

🛑

“いやいや. っていうかとても無事には見えないよ? 相談先に僕を選んでくれたのは賢明だったけど, 隠密の真似事はたいがいにしなねぇ.”

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🛑

そして, オイレさんは私の袖からのぞく手首を見て, 少し悲しげな顔をする. 痣になった手首は, まだ血が滲んだままだ.

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🛑

“君の行動力を甘く見てたよ. こんなことになるんなら, そもそもヨハン様から引き剥がすべきじゃなかった. 僕こそごめんね.”

🛑

“そんなこと言わないでください. こんな迂闊で無鉄砲な娘が主人のそばにいたら, 離そうとするのは当然のことです.”

🛑

🛑

オイレさんと私は互いに謝りあって, 少し気まずい沈黙が流れた.

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🛑

“はいはい, 二人ともしみったれた話は終わり! とりあえず, さっき話したことだけど, ヘカテーちゃんのことは1週間程度ここで匿うことにするわ. その後様子を見て, 北の塔に戻りましょ. 戻ることについてのご報告は先にオイレが済ませておく. これで大丈夫?”

🛑

“はい, 承知いたしました!”

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“はぁい, 任せといてぇ.”

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🛑

あと一週間で, また塔での生活が始まる. またヨハン様のお世話をして, ギリシア語を学んだり, 解剖のお手伝いをしたりできるのだ. そう思うと少しずつ元気がわいてきた.

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半面, ちょっとした不安もあった. 私は傷だらけになった自分の手をじっと見つめたのち, 掌で顔に触れて感触を確かめてみる.

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🛑

“ヘカテーちゃん, どうかした?”

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“いえ. . . 1週間で傷は治るのかなと思いまして. . .”

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🛑

正直に言うと, この墓場から出てきた化け物のような状態で, ヨハン様にお会いしたくないという気持ちがある. 人間のはらわたを平気で覗けるヨハン様のことだから, きっと気にはされないとは思いつつ, 醜い姿を晒すのは嫌だった.

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🛑

“ああ, そういうことね. . . ヘカテーちゃん, お化粧でもしてみよっか.”

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“えぇ? シュピネ, この子に客でも取らせる気?”

🛑

“ボンクラは黙ってて. この子の気持ちには最初に気付いた癖に, 何でこういうとこわかんないのよ. ねぇヘカテーちゃん?”

🛑

“あ. . . いえ, そんな. . .”

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口ごもり赤面する私を見て, オイレさんはようやく合点がいったようだった.

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🛑

“ああ. . . なるほどぉ.”

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シュピネさんはチェストの上に置いてあった大きな箱を持ってきて, 私を椅子に座らせた. 箱の中には見たことのない細々とした綺麗なものがたくさん入っている.

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彼女はまず, 一番大きな容器から白っぽい粉をいくらか取り出すと, お皿にのせる. 次いでその中に薔薇水が加えられた. 丁寧な手つきでそれを練ると, 肌よりも少し明るい色の, 柔らかい粘土のようなものが出来上がる.

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“うふふ, 気になる?”

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“はい, とても. お化粧品を見るのは初めてで. . .”

🛑

“そうよね. 本来はこんなものいらないくらい白くてきれいな肌だもの. これはユリの根を粉に挽いたものよ. 小麦粉を使う人もいるけど, あたしはこれが好きなの.”

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🛑

しかし, 布に含ませたそれが私の頬に押し当てられると, 状況は一変した.

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🛑

“い, 痛たたたっ!!”

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“あらら, だめそうね. ごめんなさい, 顔を洗ってきて!”

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🛑

慌てて渡された布を受取り, 浴場に顔を洗いに行く. よく考えれば, お湯が沁みるような状態だったのだ. 水で練ったものが痛くないはずがなかった.

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🛑

“すみません, せっかくやっていただいたのに. . .”

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“いいえ, いいのよ. しかし困ったわね. お化粧で隠せればと思ったんだけど. . .”

🛑

“あー, 君たち, もしよかったらこれ使う?”

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🛑

シュピネさんと一緒にあたふたとしていると, オイレさんが声を掛けてきた. 見ると, 派手に飾られた仮面を手にしている.

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🛑

“ヨハン様の前に出るときは, 治るまでこれつけてたらいいよぉ.”

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🛑

戸惑う私を見て, シュピネさんが代わりに受け取った.

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“そうね, いいんじゃない? 女はみんな, いくつもの顔をもっているもの. 物理的に違う顔っていうのも面白いと思うわ.”

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🛑

シュピネさんは仮面を私の顔にあてがい, にひひ, とまた変な笑い声を立てる.

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🛑

“ヨハン様はこれが外されるまでもどかしいでしょうね. 謎が多いっていうのも, 女の魅力の一つよ, かわいい小悪魔ちゃん♪.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕𝟔
知る者だけが

それから, 私はシュピネさんと女性二人で, なんの気兼ねもない時間をゆっくりと過ごしていた. オイレさんはお店が開く時間になると毎日やってくるが, 特に連絡事項がなければそのまま窓からするりと出て行ってしまう.

🛑

これといった仕事もなく, せいぜいお食事の用意を手伝うくらい. ベッドを共有するのはなれなかったが, まだ暗闇に対する恐怖心が残っている私には, 日が沈んだ後も頼りになる人が隣にいることがかえってありがたかった.

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10日目の朝, シュピネさんはついに出発を告げた.

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“ヘカテーちゃん, そろそろ大丈夫そうよ. 今日の夕方, 一緒に塔に向かいましょ. 隠密だけが知っている道があるの.”

🛑

“ありがとうございます.”

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🛑

ここへ来るときに荷物は持ってきていないため, いつでも出発できる. もともと来ていた服はボロボロになってしまっていたため, 今日着ているシュピネさんのおさがりをそのまま着ていくことになった.

🛑

娼婦が着る少しばかり華美な服で, オイレさんにもらった仮面をつけてみる. 袖口や襟元から覗く肌の傷と痣は, 一向に癒える様子はなかったが, 髪の毛は綺麗なままなので, そういう仮装をしているように見えなくもない.

🛑

🛑

“仮面は外で見つかると怪しまれるから, 塔に入ってからね. もし途中で誰かに声を掛けられた時は, ヘカテーちゃんは皮膚病を患った妹で, あたしはその姉ってことにしましょ. とはいえ, 暗がりなら肌の色なんてわからないけれど.”

🛑

“わかりました.”

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日が沈むまではいつも通り過ごし, 一旦居酒屋に向かう. 娼婦が夜出歩いてもおかしく思われないためだそうだ. また, あえて馴染みではない店に行くことで, 私の存在を怪しまれにくくする. こういった計画性に関して, シュピネさんはさすが本物の隠密だった.

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“おう, 別嬪さんよ! 今夜は空いてないのかい?”

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居酒屋に入るなり, 突然ガラの悪そうな男が声を掛けてきた. 腕が私の腰ほどもありそうな, がっしりとしたその男は, 完全に酔っぱらっていて, ニヤニヤと下品な笑みを浮かべている. 思わずびくっとすると, シュピネさんは私の手をテーブルの下でそっと握り, こともなげに言葉を返した.

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“うふふ, ざぁんねん! 今日はあたしも呑みに来ただけなの.”

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“酒ならおごるぜ? あんた, 最近話題になってるらしいじゃねぇか.”

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“あたしは高いのよ? 居酒屋のお酒じゃ飲みきれないわ. でもあなたいい男ね! お店に来てくれたらちょっと割引してあげる.”

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“へへ, そりゃ悪い気しねぇな. 明日にでも行ってみるか.”

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“はぁい! じゃ, 明日は一晩2ペーニヒ半. 毎度ありぃ!”

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“ちょっ, 俺が知ってる相場の倍以上じゃねぇか!”

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“何言ってるの, 本当は3ペーニヒのところを負けてあげたのよ? また会えるのを楽しみにしてるわ.”

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シュピネさんが艶っぽい声でそう言い, 手をひらひらと振ると, 男は参ったと言いながら, しかし満足そうに去っていった.

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私が呆然とその背中を見送っているとシュピネさんは小声で囁いてきた.

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“わかる? あたしたちは戦わないことが何よりの必勝法よ.”

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“はい. . .”

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確かに, 負けないためには戦わないことが一番だ. シュピネさんのように隠密として訓練を積んだ人でもそうなのだから, ただの商人の娘である私が, 本職の人たちに立ち向かって勝てるわけがない. 柳のように言葉で流して戦闘を避けることが最も合理的である.

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それは身体を張っての戦いだけでなく, 言葉でも同じだろう. うまくあしらうことが苦手な私には頭の痛い話であったが, 敵対する人物と話すときは, 舌戦そのものを避ける方向に話を持っていけるよう注意しなくてはいけないと思った. もしそれができていれば, クラウス様とのやりとりもこんな結果を生まずに済んだのかもしれないのだから.

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その後も声を掛けられては嫋やかに受け流すシュピネさんを見ながら, そうした面を少しでもこの人から学びたいと思った.

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“さ, そろそろ頃合いね.”

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彼女に連れられて店を出ると, 完全に日は沈み, 月明りを頼りに歩くこととなった.

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裏通りを回って歩いていくと, 川辺に出る. お城には遠回りなのではないかと困惑した.

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“急がば回れって言うでしょ. ここを突っ切ると, 誰にも見られずにお城の北側に出られるの. 今はお天気続きで堀に水が張っていないから, 直接城壁を登れるわ.”

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“の, 上るんですか?”

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“うん. 慣れないと大変だけど, 頑張ってね.”

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🛑

そこからは無言で, 息をひそめて堀まで向かった. しかし, お堀に着いたところで, まずお掘を降りるのが一苦労だ. 縄梯子でも使うのかと思いシュピネさんの様子をうかがうと, 彼女は”見て.”とある場所を差し示す.

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そこには, 周囲になじみすぎて見えないほどの, 小さな階段状の足がかりがあった.

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“こんなの, あるって知らないと誰も気づかないわよね. もしもいざ戦争になったらいったん埋めるらしいけど, よくこんなこと思いつくものだわ.”

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“すごいですね. . . 気を付けないと降りる途中でも見失いそうです.”

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前を進むシュピネさんに歩調を合わせてゆっくりと階段を降り, なんとかお堀の底までたどり着いた.

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すると, シュピネさんは変わった形の笛を取り出して吹いた. そんなことをしては門衛に感づかれるのではないかと驚いたが, その笛はピィという笛らしい音ではなく, まるで夜の鳥の鳴き声のような低い音で響き渡った.

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長めに3回鳴らしたところで, ふいに上から縄梯子が下りてくる.

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“あとは上がるだけね. あたしが下を行くから, 上だけ見てれば大丈夫よ.”

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私は緊張に震える手で不安定な梯子を掴み, 必死で上を向いて登った. 今夜は満月だ.

第8章 もうひとつの物語
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕𝟕
主のもとへ

ゼイゼイと息をしながら梯子を登りきると, 最後は城壁の上で待ち構えていた人が引き上げてくれた. そのまま壁面通路の床にごろんと倒れこむ.

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“ありがとうございます!”

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“おう, お疲れさん.”

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朗らかに微笑むその人は筋骨たくましい男性だった. 暗めの茶髪にこげ茶色の瞳, 野性味のある顔立ち. どこかで見たことがあるような. . .

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“. . . ケーターさん?!”

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“あん? どうした, いきなり.”

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このしゃがれた声と荒っぽい口調, 間違いない, ケーターさんだ. しかし, 私の記憶とはずいぶん印象が違う.

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“復帰されたんですね! 肌の傷もすっかり癒えたみたいでよかったです. それに, なんだか雰囲気が丸くなりましたね.”

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そう, 以前あった時のケーターさんは全身傷だらけで, 肌も荒れ放題だったが, 目の前のケーターさんの肌は, 女性かと思うほどつるつるになっている. 浅黒かった肌色も幾分か明るくなり, 髪の毛もだいぶ伸びたようだ. 何より, 以前は全身に纏っていた攻撃的な雰囲気がなくなっている. すぐに思い出せないのも無理はなかった.

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“丸くなったって, なんだそりゃ, 生意気言ってんじゃねぇぞ! でもまぁ, ありがとよ. 傷を癒される過程は地獄だったがな.”

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“地獄って, 一体何をされたんですか. . .”

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“なぁになぁに, あたしにも聞かせて!”

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後から登り終えたシュピネさんも参加してきた. シュピネさんもケーターさんとはしばらく会っていなかったのだろうか.

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“ああもうお前ら, うるせぇな! とっとと塔に行くぞ.”

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機嫌を損ねてしまったようで, ケーターさんはぷいっと顔を背けると内側のはしごを降りて行ってしまった. 仕方がないので謝りながら後をついていくと, シュピネさんの笑い声が私を追いかける. 警戒の解かれたその声は, もう安全だという合図のようだ. 肩の力を抜いて, 夜空に聳える石造りの塔を見上げる. 帰ってきたのだ, と感じた. 1年に満たない塔での生活が, それほどまでに懐かしかった.

🛑

塔に着き, 2階に上がると, 急ぎ足で階段を上ろうとする私をシュピネさんがそっと制した. 何かと思うと, オイレさんにもらった仮面が取り出される.

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“あ. . . そうでした, ありがとうございます.”

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“ふふふ, ヨハン様どんな顔するかしらね.”

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そのまま私に仮面を被せ, 髪を手櫛で整えるシュピネさんは心なしか楽しそうだ.

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なんだかんだ言って廊下で待ってくれていたケーターさんに連れられて, ヨハン様の私室へ向かう階段を上る. 石造りの無骨な階段は, こんなにも長かっただろうか. お二人とも無言で, 高鳴る自分の心音が耳にうるさい.

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“失礼いたします. ケーターです. シュピネとヘカテーを連れてまいりました.”

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“おお, 戻ったか. 入れ.”

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許可を得て入室すると, ヨハン様は部屋の中央に立って出迎えてくださった. 貴族にしては荒っぽく, しかし堂々としたたたずまいは相変わらずで, そのお姿を再び目にできたことが唯々嬉しい.

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“シュピネ, 苦労を掛けたな. . . で, なんだそれは?”

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ヨハン様は私の仮面を見てあからさまに困惑の表情を浮かべる. 端正なお顔にそぐわないその表情はどこかおかしく, 不謹慎にも笑ってしまいそうになった.

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姿勢を正して私が答えようとしたとき, シュピネさんが代わりに口を開いた.

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“ヘカテーは南の塔の地階で一晩過ごしましたので, 傷が酷く. . . ヨハン様にお見せするわけにはいかないと, 隠しております. 治るまではどうぞこのままでご容赦ください. 本人であることは, 私が命に懸けて保証いたします.”

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“そうだったか.”

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ヨハン様は一言そう答えると, 突然私の手を取り, 袖口を捲り上げた. 血が滲み, 痣だらけの手首がむき出しとなり, 私はたじろぐ.

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“よ, ヨハン様, そんなことをしてはお指が汚れてしまいます. . . !”

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“気にするな. そして, その声はやはりお前だな, ヘカテー.”

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ヨハン様は少し悲しそうに微笑むと, しばらく手をつかんだまま手首を回したり, 肌を撫でたりしていらした. 手つきはあくまで穏やかで, どうやら傷の状態を観察されているようだ.

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ただ, 真剣なお顔があまりに近い. ただでさえ久しぶりにお会いして緊張しているというのに, このままでは私の心音がヨハン様にも聞こえてしまいそうだ.

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“症状はケーターの時と大体同じようだ. 安心しろ, すでに薬はできている. ひと月もすれば傷も癒えよう.”

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“薬でございますか? そんな貴重なものを私に使ってはもったいないです.”

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“いや, お前は誰よりもその薬を使う権利がある. 何しろ, お前の祖父の本を参考に作ったものだからな.”

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“あれが解読できたのですか?!”

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祖父の本. それは, 父がお守り代わりに持っていた異国の薬学本. 未知の言語で書かれ, 祖父によりギリシア語で書き込みが残されていたものだ.

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🛑

“ああ, 傷と皮膚病に関する部分だけだがな. そこの実験台が大いに役に立ったぞ. それに, お前の父のこともだいぶ分かった. そのことは後でケーターから話させよう. . . だがな, ヘカテー, まずは説教だ.”

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ヨハン様は掴んでいた私の手首を放り出すように離すと, 髪を引っ張って詰め寄られた. 儚げだった微笑は, いつの間にか眉が吊り上がり, 怖いお顔に変わっている.

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🛑

“あの手紙は何のつもりだ? 勝手に俺の心配をする前にきちんと考えてから動け. まったく, 余計な手を焼かせおって. 本当にお前は危機感が足りなさすぎるぞ.”

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“も, 申し訳ございません. . .”

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“その謝り癖もまだ直っていなかったのか. いいか, 今後一切, 俺に向かって心にもないことを言うなよ. 言葉に信頼のおけぬ部下など, 俺はいらんからな.”

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“そ, そんな, 心にもないことを言ったわけではありません!”

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“じゃあなんだ. 大体お前は前から. . .”

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🛑

待ち遠しかった塔での生活は, 前途多難のようだった. しかし, 目の前の主は手ずから私の傷を見て, 私のために怒ってくださる方. やはりここは, 居心地が良い.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕𝟖
遥か東の薬

その後, ヨハン様と私のやり取りを見ていたシュピネさんがなぜか笑いだしてしまい, お説教は中断された.

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“シュピネ, 何がおかしい?”

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“いいえ, 別におかしいとは思っていませんわ. ヨハン様もヘカテーちゃんもかわいいなと思いまして! でもほっとしたお顔が見られてよかったです. この1週間ほどずっと苦しそうになさって, 本当に心配いたしましたよ? なのに素直じゃないんですから.”

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“お前はまた妙なことを. . .”

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“うふふ. だってあたし, いつだってヨハン様のお母さんのつもりでおりますもの.”

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艶っぽく笑いながら, シュピネさんはとんでもないことを言い出した.

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“え, お母さんですか. . . ? そんなに年が離れているようには. . .”

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シュピネさんはおそらく20代半ばぐらいに思える. ヨハン様が19なので, 一桁の年で生んだことになってしまう. どう頑張っても計算が合わない.

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“ヘカテー, 本気にするな.”

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ヨハン様は疲れたような顔で私の言葉を遮った.

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“シュピネはもともと父上の愛人でな. ことあるごとにこういった戯言を言うんだ. . .”

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“そう, 要するにあたしは義理のお母さんみたいなものでしょ? もちろん, ヘカテーちゃんのことも娘みたいに思ってるわよ!”

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“やめんか.”

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“シュピネさん, さすがにそれは無理があります. . .”

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🛑

理屈はわかったが, ヨハン様には本物のお母様がいらっしゃる. 普通なら到底許されない, 失礼千万な発言だ. にもかかわらずヨハン様があまり本気で咎めようとしないのは, やはり部下には甘いところがおありなのか, 何年も言われ続けて諦めたのか.

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“. . . なんだか出鼻をくじかれた. 気を取り直して, 薬を持って来よう. ヘカテー, 来い. 2階に行くぞ.”

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🛑

ヨハン様はげっそりとしたお顔で首を横に振ると, 部屋を出ていかれた. 私は慌ててついていく.

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階段を下り着いた書庫は, 私が前に見た時よりも大幅に物が増え, 吊り下げられるようにして沢山の薬草が壁にかかっている. 書庫というより薬草部屋といった方がふさわしいような様相だ.

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ヨハン様は奥に進むと, チェストの上に置いてある陶器を手に取り, ふたを開けて中を見せてくださった. 覗くと, 紫色のどろりとしたものが入っている. 少し不気味だ.

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“これがお薬なのでしょうか?”

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“ああ, ニワトコの枝とシコンという植物の根をすりつぶし, ギリシアのヒマシ油という油で仕上げたものだ. これを直接肌に塗布して使う. ニワトコはすぐにわかったが, シコンのほうが難しくてな.”

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“シコンとは, 私も初めて聞きました.”

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“そうだろう? 俺は最初, 隣国でチコリをシコンと呼ぶというので, それかと思ったんだが, 描いてある絵とは似ても似つかないし, 更には根が薄い紫色で, 傷つけると濃い紫の汁を出すと描いてある. それで, これはきっとこの国にはない植物だと諦めようとしたとき, ヤープが見つけてきた.”

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“ヤープですか!”

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思わぬ名前が出てきた. 私の知っているヤープは, 解剖後の死体を受け取るだけの係だったはずだ. いつの間にヨハン様と話をするようになったのだろう.

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“そうか, お前が塔を出た後だったな. あれは今, ラッテの下について雑用をやっているが, なかなか使えるぞ.”

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🛑

詳しくお話を伺うと, ヤープは隠密の見習いとでもいうべき立場にいるようだ. ラッテさんと何かのご報告に行った折, ヨハン様がケーターさんと”根が紫色の植物.”について話しているのを聞いて, 声を掛けてきたそうだ. 絵を見せてみると間違いないといい, 翌日には両手いっぱいのシコンを持ってきたという. ヤープの住む区域の近所に生えていたらしい.

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🛑

“傷薬になるとなれば可能性は無限にある. 取りつくさないように注意して薬を作り, 今はなんとか栽培できないか実験しているところだ.”

🛑

“そこまで進んでいただなんて驚きました. ヨハン様はさすがですね.”

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🛑

私の返答を聞いて, ヨハン様は少しうれしそうに微笑むと, 一旦器を戻して, 側に会った樽を開けられた.

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“そちらは何でしょうか?”

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“以前お前とも作った, ワインを蒸留器にかけた東方の酒だ.”

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慣れた様子でお酒を布に含ませ, こちらに手を差し出してこられた.

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🛑

“まずは毒消しだな. 貸せ.”

🛑

“えっと, 何をでしょうか. . .”

🛑

“お前の傷のためにここに来たんだ. 左右どっちでもいい, 手を貸してみろ.”

🛑

“は, はいっ!”

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🛑

左手を差し出してから気づいた. そういえばこのお酒は, 一口で喉が焼けるほどの. . .

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“ひぁあああああああ!!!!”

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布を当てられたか所に激痛が走り, 思わず悲鳴を上げる.

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🛑

“大声を出すな. 外に聞こえたらどうする.”

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“し, 失礼, いたひまひたぁ. . .”

🛑

🛑

涙声で答える私をよそに, ヨハン様は袖を捲り上げた左手の全体をお酒を含ませた布で拭いた. 痛みのせいで目の前がチカチカとして, 関係ないのに頭まで痛くなってくる.

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🛑

“さて, これでようやく薬が塗れる.”

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🛑

今度は紫色の薬を取り出されるのを見て, 思わず身構える. ヨハン様はへらのようなもので薬を取ると, 丁寧に塗ってくださった. 不気味な見た目故に, もっと激しい痛みが襲ってくるのではないかと覚悟したが, さほど痛みはない.

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🛑

“よし, できたな. 最後に, これを後で煮出して飲んでおけ. 乾燥させたニワトコの枝と葉を砕いてリコリスと混ぜたものだが, 痛みに効くらしい.”

🛑

“承知いたしました. わざわざ手当てまでしてくださって, 本当にありがとうございます.”

🛑

“気にするな. 処置の方法はわかったな? 左腕以外は自分でやれ. 今日からこれを毎日だ.”

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🛑

私はケーターさんが言っていた”癒される過程は地獄.”のという言葉を思い出した. 貴重なお薬をいただいておいて文句は言えないが, 毎日全身にあのお酒を塗ることを考えると気が遠くなる.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟕𝟗
存在しない者

“さて, 上へ戻ろう. お前について, 皆を交えて話したいことがある.”

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“かしこまりました.”

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🛑

そう, 私は今北の塔に来てはいるものの, 表向きは南の塔で死んだことになっているはずだ. 以前のようにメイドとしてここで働くとしても, 行動範囲やお仕事内容などはがらりと変わってくる.

🛑

ヨハン様の私室に戻ると, シュピネさんとケーターさんだけでなく, いつの間にかオイレさんとラッテさんまで勢揃いしていた. 階段を上る足音で気づいたのか, 皆すでに一列に並んで跪いている. 私もそれに加わろうとしたが, ヨハン様に片手を上げて制された.

🛑

🛑

“今日, こうしてヘカテーが戻ってきた. 皆の働きに感謝する. 本人への報告もかねて, 現状の確認と, ヘカテーが一体何者かについて話そう.”

🛑

🛑

その言葉に私は息を呑む. 私は何者か. それは, お城でメイドになるまでは気づかないようにふたをし続けていた疑問. そして, ヨハン様のお側でお仕えするうちに, 解こうとしても深まるばかりだった謎だ. 父の行方も未だわからず, あの紙が何だったのかさえ分からないままだった.

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🛑

“まずは前者から話そう. ヴィオラというメイドについては, クラウスには教会への引き渡しが先になったと告げ, 誘拐を未然に防いだ. 実際に裁判の手続きをすると大事になるので, 手続きはしていない. ヴォルフには数日前, 南の塔で女の死体を発見させている.”

🛑

“大変なお手数をおかけいたしました. 救出してくださり, ありがとうございました.”

🛑

🛑

私は改めてヨハン様に最敬礼をした. ここまでのお話は, シュピネさんに聞いた通りだ.

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🛑

“ヘカテー, 何か質問はあるか?”

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“クラウス様とヴォルフ様に渡された情報の食い違いに, お二人が気付いてしまうことはないでしょうか?”

🛑

“問題ない. クラウスはそもそも裁判の件は管轄外だ. 下手に情報を確認しようとすれば, 何か関係しているのかと疑問を持たれることになる. 奴はそんなヘマはしない.”

🛑

“ということは, クラウス様には, ご領主様からお話をされたのではないのですか?”

🛑

“ああ. 俺の配下はこの塔に出入りする隠密だけではないのさ. クラウスは侍従の噂話をまた聞きしたに過ぎん. 実際に塔に確認に行くぐらいはしただろうが, もちろん誰もいないからな. 話を信じてがっくりしたことだろうよ.”

🛑

“そうだったのですね. ヴォルフ様の方は, 教会からのお迎えご一行や, 私の死体はどうしたのでしょうか. . .”

🛑

“それも同じことだ. ヤープを引き入れたことで, 父親のウリも仲間に加わっている. 同じくらいの背格好の女の死体を融通してくれた. 修道士の役はオイレの知り合いの役者だが, [修道士のふりをして塔まで行き, 帰れ]と命じたのみで, 何の情報も渡してはいない.”

🛑

“沢山の方が, 動いてくださっていたのですね.”

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“お前をクラウスの手に渡すわけにはいかなかったからな.”

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🛑

ヨハン様は一旦目を伏せて溜息をつく.

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“その理由はお前の正体にある. わかった時は正直, よく本人にもわからせぬまま隠し通したものだと呆れた.”

🛑

“私の正体, でございますか.”

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🛑

いよいよ人生最大の疑問の答えが近づいてきた. 急に部屋中に緊張が走るのを肌で感じ, 私は思わず顔を伏せる.

🛑

正直に言えば, 聞くのが怖い. 崩壊していく自己同一性と, こんな唐突に正面から向き合うだけの勇気を私は持っていない.

🛑

だが, 私が何者なのかが分かったということは, ヨハン様やオイレさんが, 私が塔を去った後も父について調べ続けてくださっていたということの証明でもある. ここで私が物怖じして目を背けるわけにはいかない.

🛑

そして何より, 怖かろうが重かろうが, 私は知りたいと思った. 何故私の容貌は他の皆と違うのか. 父は何故ギリシア語ができて, 祖父は何故ドイツ語ができなかったのか. 最愛の父はどうして, 自分の過去や私の出自を教えてくれず, 知らない間に失踪してしまったのか.

🛑

意を決して, ヨハン様の目を見つめた.

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“お聞かせいただけますでしょうか.”

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🛑

ヨハン様は私の覚悟ができたのを見届けて軽くうなずくと, その先の言葉を継がれた.

🛑

🛑

“ヘカテー, お前は商人の子ではない. ティッセン宮中伯夫人の婚外子だ. 父親は宮中伯に仕えていたヤタロウという下級騎士, トリストラントというのも本名ではなかったようだな.”

🛑

“父が. . . 下級騎士. . . しかも私にまで偽名を. . .”

🛑

🛑

覚悟していてなお, 想定を超える衝撃だった.

🛑

私に優しく微笑みかける父の顔が脳裏に浮かぶ. 14年間, いつでも私を優先し, 私を支え, 慈しんでくれた. 疲れた日や大変な日もなかったわけはないのに, 私にそんなそぶりを見せたことは一度もない. 誰よりも頼れる人. 私のたった一人の家族.

🛑

でもそれは, 嘘で塗り固められたものだったというのか. 名前も, 身分も, 死んだと言っていた母親のことも, 全部全部嘘だったというのか.

🛑

私は主の御前であることも忘れて膝から崩れ落ち, 床にへたり込む. 自分が半分上流貴族の血を引いていたことなどどうでもいい. 表向き死んだ私と, 虚像にすぎなかった父. . . 私は, 私たちは, 存在しない人間だったのだという事実が, 何よりも心を抉った.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖𝟎
誰かの駒

“大丈夫か?”

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🛑

ヨハン様の短いひと声で現実に引き戻される.

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🛑

“大変失礼いたしました. 今まで父の身分も, 名前すら知らなかったということに驚きまして. . . 大丈夫です, 続きをお聞かせいただけますか.”

🛑

“では続ける. ティッセン宮中伯夫人はどうやったのか, 上手いことお前の存在を隠し通してきたようだが, 何故かしばらく前に宮中伯が感づき, お前を探し出そうとしていた. 誰かが唆したと思われるが, 今のところそれが誰かまではわかっていない.”

🛑

“探してどうするつもりだったのでしょうか.”

🛑

“婚外子はその家の血にとって危険因子ゆえ, 男であれば殺すつもりだっただろう. その点, お前が女であったのは不幸中の幸いともいえるが, 婚外子とは存在自体が夫人の罪の証だ. 親子ともに罰せられることは免れんだろうな.”

🛑

“さようでございますか. . .”

🛑

“そして, この件にはクラウスと, その実家であるアウエルバッハ伯が関わっている. この辺はちとややこしいんだが. . . うちとティッセン宮中伯, アウエルバッハ伯の関係性は知っているか?”

🛑

“以前ベルンハルト様に, 貴族が皇党派と教会派に分かれているというお話は伺っております. ティッセン宮中伯はご領主様と皇党派内の派閥を二分する存在だとも. アウエルバッハ伯は, 先代からあまり情勢が良くなく, ご領主様の後ろ盾が欲しくてクラウス様を使用人として雇ってもらったとのお話でした.”

🛑

“ふん, 兄上がそんな話をしていたか. ティッセン宮中伯についてはその通りだが, アウエルバッハ伯については半分正解・半分不正解といったところだな. 当初はうちの後ろ盾も欲しかったのだろうが, 政局は常に動く. 今は教会派の大御所であるリッチュル辺境伯と近しく, ほとんどその傘下といってよい状況だ.”

🛑

“すると, ティッセン宮中伯とは党派が異なりますよね? なぜアウエルバッハ伯がこのお話に関わってくるのでしょう. . .”

🛑

🛑

リッチュル辺境伯は教会派の大御所ということは, 傘下であるアウエルバッハ伯も教会派なのだろう. 対立関係にあるティッセン宮中伯の婚外子探しに協力する利点がよくわからない.

🛑

🛑

“別に党派が違うからと言って, 必ずしも対立するわけではない. 利害が一致すれば, 稀に党派を超えた派閥が生まれることもある. リッチュル辺境伯は以前, ティッセン宮中伯を親教会派にしようと画策していた. 半年ほど前に俺たちが介入し分断したが, 辺境伯はまだ諦めてはいないのだろう.”

🛑

“すると, アウエルバッハ伯とクラウス様は, 辺境伯がティッセン宮中伯に近づく手助けをしようとしているということですか.”

🛑

“ああ. 今はまだ, 単に恩を売ろうとしているだけだが, 将来的にティッセン宮中伯がリッチュル辺境伯と政治的に癒着することがあれば大変なことだ. それに, お前が手紙に書いていたことも憂慮している. 皇党派の半分が辺境伯の影響下に入り, 兄上もクラウスの傀儡となった場合, 宮廷は実質辺境伯の独擅場となるからな. 皇党派や我がイェーガーにとどまらず, 帝国の将来を揺るがすほどの変化だ. 実現させるわけにはいかん.”

🛑

“そんなに大きな問題だったのですね. . .”

🛑

🛑

自分の出自が, 巡り巡って帝国の将来にかかわるほどの問題につながっているとは夢にも思わなかった.

🛑

昔は, 貴族という人たちのことを, なんとなく”優雅で上品な方々.”と認識していたが, リッチュル辺境伯という人はあまりにも野蛮だ. 同じ私の命を狙う存在でも, 妻の浮気相手とその子供を追うティッセン宮中伯はまだわかる. しかし辺境伯は, 将来的に自分が宮廷で実権を握るための足がかりとして宮中伯の心を揺さぶり, 単なる近づくためのきっかけとして私の命を使い捨てようとしているのだ. あるものすべてを自分の駒としか考えていない.

🛑

そこにあるのが帝国の行く末を見据えた冷徹さではなく, ただただ肥大化した欲であることが気持ち悪かった.

🛑

🛑

“だからこそ, お前のことは何としてもこの城で守らねばならない. 決して存在を気付かれず, そして死ぬな.”

🛑

“ありがとうございます. ですが, このお城である必要はあるのでしょうか?”

🛑

🛑

そんな苛立ちのせいで, 無意識に少し刺々しい返しをしてしまった. こんなの八つ当たりだ.

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🛑

“ある. ティッセン宮中伯夫人はホーネッカーの家の出身だ. ホーネッカー宮中伯はイェーガーと強い友好関係にある. うちの使用人の管理が行き届かないために, お前たち親子が罰せられたら大問題だ.”

🛑

🛑

ヨハン様は無表情を崩さず, 淡々と事実を告げる. それを聞いて心の中にもやもやがたまる自分に対して怒りが沸いた. 主に対して甘えすぎである.

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返事もできず俯いていると, くく, と意地悪そうに笑う声が聞こえた.

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🛑

“なんだ. お前はここに帰ってきたいと言ってくれたと聞いていたが, 話が違うようだな? この城が嫌なのであれば, 今から国外に送り出しても構わんぞ. 隣国の貴族にも伝手はある. イェーガーの責任からは外れる上, 辺境伯らの手は届くまい.”

🛑

“そっ, それは. . .”

🛑

🛑

あまりのことに言葉が詰まる. 思わず城にいたくないかのような言い方をしてしまったが, シュピネさんに問われ, ここに戻ってくることを選んだのは私の意志だ.

🛑

🛑

“ヘカテー, 勘違いをするな. イェーガーの家にとって, 本当はそれが一番楽なのだぞ. それでもお前に塔での生活という選択肢を与えた意味が解らんか.”

🛑

🛑

恐る恐る顔を上げると, ヨハン様は穏やかな微笑みを浮かべていた.

🛑

🛑

“俺たちはお前を必要としている. 使い捨ての駒ではない, 俺が側に置く者として選んだ一人の人間だ. だから, ここにいろ.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖𝟏
追われる者たち

一人の人間として必要とされている. その言葉に, 思わずつう, と涙が流れた. 仮面で隠せる程度の一筋の涙. 咽ぶほどではない, ただじんわりと身体が暖かくなっていくのを感じる. たった半年間共に過ごしただけで, 私という厄介な存在を受け入れてくれる人たちに, 今私は囲まれているのだ.

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“それから, お前は父親が嘘をついていたことを気にしているようだが, 何も真実を告げることだけが誠実であるとは限らん. お前の父親がお前を愛しているということは明らかだ.”

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“それは. . . 私も疑っているわけではございませんが. . .”

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“嘘をつき通すということは驚くほど難しい. 14年間, 娘相手にそれをやり遂げたというのは, 父親はさぞ優秀な男なのだろうな. そもそも, お前がここにやってきたこと自体が, 彼によって仕組まれていたと俺は考えているぞ.”

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“父が, 仕組んでいたのですか?”

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“ああ. 方伯であれば宮中伯と地位も同格, 更に政治的立場を鑑みると城を捜索させろと要求することはとてもできない相手だからな. そして, ティッセン宮中伯の追手が付いたのはおそらく1年ほど前だ. お前がここに雇われた時期と合致する.”

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“父からは, ただの嫁入り修行だと聞いておりました. . .”

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“知っている情報は少ない方が安全なこともあるのさ. おそらくはお前が兄上の愛人になることも見越していただろう. そうすれば, 宮中伯も益々その娘を差し出せとは言えなくなる. そして, 娘の安全を確保できれば, 自分も身軽になって安心して逃げることができる. . . 非常に賢い選択だ. イェーガーの家も, 実にうまく利用されたものだな. お前の異質さ自体は最初から気になっていたが, 俺もここまで出し抜かれたのは初めてだ. まったく, お前の父親はとんでもない奴だぞ.”

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ヨハン様は悪態をつきつつも, どことなく嬉しそうな表情をしている. 貶しているように感じないため, 私も嫌ではない.

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“さて, ここからなんだが, 実は今回のことが分かったのはケーターの働きだ. といっても最初捜査を妨害していたのもこいつなんだが. . . ケーター, 続きを頼む.”

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“承知いたしました.”

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ケーターさんは改めて背筋を正し, 少し私のほうに向きなおった.

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“ヤタロウ. . . トリストラントと名乗っていたヘカテーの父親は, 私の師です. 優秀な下級騎士であり, 誰よりも騎士であろうとした人でした.”

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ケーターさんは真剣なまなざしで語り始める.

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“出会ったのは私が傭兵だったころです. ティッセン宮中伯に雇われ, 共に戦地に出たのがきっかけです. 私は戦地での彼のふるまいに心酔し, どうか弟子にしてくれと頼み込みました. その時彼と夫人がすでに恋仲であったかどうかはわかりかねます. 記憶の限りでは, 夫人は傲慢で苛烈な性格であり, よく騎士たちを振り回していました. ヤタロウさんが槍に女性ものの袖飾りをつけているのを目にしたことがあったので, 恋人がいるのだろうとは思っていましたが, 私が二人の関係を知ったのは夫人がヘカテーの命を宿してからでした.”

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父のふるまいに心酔するのはわかる. 身内ながら, 父よりも丁寧で気配りのできる人を見たことがないし, どんなことにも真摯に取り組む人だからだ.

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しかし, 宮中伯夫人. . . つまり私の母が傲慢で苛烈というのは意外だった. 母の話はほとんど聞いたことはないが, 父は”聡明で, 高潔で, 誰よりも美しい人.”と言っていた. 私が生まれると同時に亡くなったと聞かされていたからかもしれないが, どちらかというとか弱く淑やかな人だと思っていたのだ.

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“ヤタロウさんは, それから少し時期をずらして宮中伯との契約を打ち切り, 娘が生まれたら状況を見て共に逃げるといっていました. 新天地としてイェーガー方伯領を選んだのは夫人の提案だそうです. 私もすぐについていこうとしたのですが, それは断られてしまいました. それが14年前のこと. 私がヤタロウさんを探しまわることで宮中伯に気取られてしまっては問題なので, 各地を流浪しながらゆっくりと訪ね歩き, レーレハウゼンに着いたのは5年程前のことです.”

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“そんな. . . 10年も父を探してくださっていたんですか!”

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ケーターさんが父を慕っていることは知っていたが, 父に迷惑が掛からないよう最大限の注意をはらいつつ, 人生の三分の一も探し続けるなんて尋常なことではない.

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驚愕の目を向ける私に, ケーターさんは口調を変えて, 照れくさそうに答えた.

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“別にそこまで本気で探していたわけじゃねぇよ. イェーガー方伯領は広いし, そこを探せと言われても情報が曖昧過ぎてほぼ無理だからな. ただ, 傭兵はどこにだって行ける. 俺はただ, 自分の師が暮らす地で残りの人生を生きてみたいと思っただけだ. ヤタロウさんに会えたのは, ほとんど奇跡だったんだ.”

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“それでも. . . そこまで父のことを思ってくださって, ありがとうございます.”

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礼をする私を無視してわざとらしく咳ばらいをすると, ケーターさんは話を続ける.

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“私は隠密活動の中で, ティッセン宮中伯が婚外子の可能性に気づき, 相手をヤタロウさんだとあたりをつけて追っ手を放ったという話を耳にしました. 宮中伯の抱える隠密の優秀さは, 雇われていた身として誰よりも知っています. いずれこの地にも手が伸びるだろうと思いました. そこで私はヤタロウさんを国外に逃がすことにしたのです.”

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“国外?! 父は今国外にいるのですか?!”

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“そうだ. . . そして, 私は半年前の隠密活動中に, 昔馴染みである宮中伯陣営と何度も接触し, ヤタロウさんが南方に行ったという噂を流しました. また, あのヤタロウさんが逃げる先として, 理由なくイェーガー方伯領を選ぶわけがない. つまり, 方伯は彼らの存在に気づけば味方になってくれるのだと思いました. だから私はヘカテーの部屋へと紙を投げ込み, ヨハン様がヘカテーの正体を探るように仕向けたのです.”

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“ケーターさん, なぜ素直にそのことをヨハン様に報告しなかったのですか. 拷問まで受けて, ケーターさんが死んでしまうところだったじゃないですか. . .”

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詰め寄る私に, ケーターさんは見たことがないほど優しい笑顔を向けた. まるで自分の娘を慈しむような笑顔を.

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“俺は宮中伯陣営に接触する際, またそちらに戻りたいということも合わせて告げていたんだ. だから, イェーガーに大きな被害がない程度の情報も一緒に流していた. 結果的に俺が処罰されれば, ヤタロウさんの行方の話も信憑性が増すだろう?”

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ああ, なんということだろう. こんなにも真摯な人を, 私は知らない. 塔で出会うまで顔すら知らなかったこの人に, 私たち親子は命懸けで守られていたのだ.

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“私は説明が不得手です. あの人について語るなら少し思い出話をさせてください.”

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ケーターさんは, 徐に口を開いた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖𝟐
拾われた犬

俺は15になるなり傭兵となった. 親父も傭兵だったから, それまでも斧は振るっていた. 戦場で使い物にならない期間は割と短い方だっただろう.

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俺にとって生きることと殺すこと, 食べることと奪うことは同義だった. なにしろ, 僅かな金で雇われて血を流し, 足りない報酬は略奪で賄う, それが傭兵の生き方だ. 疑問に思うこともなく, 頭を使うこともなく, ただ身体を動かして, 両手を血に染める日々だった.

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そのせいか, 俺はずっと貴族という存在が嫌いだった. 自分の手を汚すこともなく食べ物にありついて, 俺たちの命を使ってわけのわからない遊戯を楽しんでいるだけの悪趣味な連中. そんな印象しか持っていなかったからだ.

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そして, 騎士という存在も嫌いだった. 俺たちと同じ戦士のくせして, 綺麗な恰好をして綺麗事ばかりを言い, 自ら貴族に飼われに行くからだ.

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しかし17歳のある日, 俺の前に光が現れた.

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その騎士は, 容貌からして他の騎士と違っていた. まっすぐな長い黒髪, やや中性的な柔らかい面立ち. 騎士にも外国人がいるとは知らなかったが, おそらくそうなのだろう. しかし何より印象的なのは, 虹彩との境目もわからない漆黒の瞳に宿る, 言い表しようのないほどの強い力だ. 思わず目を奪われる迫力があり, 信仰心など持ち合わせていない俺も, 昔見た戦いの天使の絵を思い出してしまうほどだった.

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実際彼は強かった. 剣だけでなく槍さばきも得意なようで, 戦場に出れば先駆けを勤め, 見る見るうちに敵を薙ぎ払っていく. 彼の後ろについていくと, 今までのどの戦いよりも負担が少ないことがわかった. 一体一人で何人分の働きをしているのかと驚いたものだ.

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とはいえ, いくら強かろうと騎士は騎士, 相容れない存在. 戦いが終われば俺の興味はすぐ失せた. もしその日にぐっすり眠っていれば, 俺の人生がここまで変わることなどなかっただろう.

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だが, 俺は夜中に目が覚めた. そのまま眠れず, 意味もなく起き上がって周囲をふらついていたら, その騎士が目に入ったのだ. 普通, 騎士は騎士の拠点とする場所にいる. 傭兵の出歩く範囲内に騎士がいるだけでも十分おかしいことだが, 彼は何もないところに跪いて, 一人で何かぶつぶつ喋っていた. 外国語なのか, 何を言っているのか全く聞き取れない.

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妙に気になったので近づいてみると, 彼の方も俺に気が付いて, 先に話しかけてきた.

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“少年, 何か用か?”

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“いや, 何やってるのかなと思って. . . 今のは, あんたの国の言葉?”

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少年と呼ばれたことに一瞬ムッとしたが, それでもこの騎士に対する興味のほうが勝った.

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“いや, ラテン語だ. 死者に祈りを捧げていた. 私は司祭ではないから, 正式な弔いにはならないが, 習慣のようなものだな.”

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“なんでそんなことをするんだ?”

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“私は今日もこうして生きている. それはつまり, それだけ多くの者を殺めたということだ. 散らしてしまったその命に対し, 敬意を払わなくてどうする.”

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その返答に俺はひどく驚いた. 騎士とは貴族の側の人種だと思っていた. 生きることと殺すことは同義という, 俺にとっては当たり前のその考え方を, 騎士も持っていたとは思わなかったからだ. しかし, 敬意という発想は俺にはないものだった.

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“殺した者のために祈ってたって. . . つまり敵の死を悼んでいたってことか?”

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“敵といえども, 人は人だ. 彼らの多くは我々を憎んで戦いに参加しているわけでもあるまい. 君も傭兵ならわかるだろう?”

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“それは. . . そうだけどよ. . .”

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なんだか腑に落ちない答えだった. 俺の知っている騎士は, いつも正義を語る. 国を愛し, 異教徒には容赦するなと言う. 確かに俺は参加する戦いの目的なんか知ったこっちゃなかったが, 彼らの語る内容はいつも同じなので, 嫌でも覚えるのだ.

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“あんた, 騎士なんだろ? 正義の為に剣を振れって言わねぇのかよ?”

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“ははは, 傭兵にそれを言われるとは. だがな, 少年. 正義のために剣を振るのは大切なことだが, 我々が正義だからといって相手が悪とは限らないということだ.”

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“うーん?”

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“別に難しく考えることはない. [汝, 寛大たれ], これもまた騎士の十戒のひとつ. 私は相手を悪と認めない限りは, 敵であろうとこれを実践しているに過ぎない.”

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わけがわからず無言になる俺を嘲笑することもなく, 彼はまっすぐな目をこちらに向けて微笑む. それは俺が今まで出会ったことのない, 暖かい眼差しだった.

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“さて, 夜も遅い. 明日に備えて休むのも仕事だぞ.”

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“あ, 待ってくれ!”

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そういって立ち上がり, 去っていく彼を引き留めたのはほとんど無意識だった. 引き留めてしまったものの, 何を言ってよいかわからず少し口ごもる.

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“えっと, 名前!名前を教えて!”

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“ああ, すまない. 私の名はヤタロウという. ティッセン宮中伯に仕える下級騎士だ. 君は?”

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“俺はヴェルナー.”

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“勇敢な守護者か, 良い名だな.”

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“明日も会える?”

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“ああ, 時間が許せばまたここで話そう. では, 君に神の祝福があらんことを.”

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翌日も俺は生き残り, 夜中に同じ場所に行ってみた. 彼はやはり昨日と同様, 一人で跪いて祈りを捧げている.

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言葉が途切れたところで近づくと, 声を掛けてきてくれた.

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“また会ったな, ヴェルナー.”

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“ヤタロウさん, 今回の戦いが終わったらどっか行くのか?”

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“ん? 私はティッセン宮中伯の元に戻るよ. どうかしたのかい?”

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“騎士のことってよくわからなかったから, 今日先輩に聞いたんだよ. そしたら, 下級騎士は上級騎士と違って, 一人の主君に仕えるわけじゃないっていうから. . . なんか, 気になった.”

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“ああ, 確かにそういう者も多い. 多くの主君と契約をした方が報酬も多くなるからな. 契約の多さを自慢する者もいると聞いたことがあるよ. しかし, 私はティッセン宮中伯に忠誠を誓っている. 上級騎士の真似事に思われるかもしれんが, 他の領主と契約する気はない.”

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“騎士道ってやつ?”

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“そんなようなものだな.”

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そこまで話して, 俺は昨夜から考えていたことを口に出してみた.

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“なぁ, ヤタロウさん. . . 俺を舎弟にしてくれないか?”

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“舎弟?”

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“あんた, すっごい強い. 今まで見た中で一番強いよ. あんたのこと見てて, 俺, ちょっとでも近づきたいって思ったんだ.”

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“それは少し買いかぶりすぎだ. 私より強い騎士は他にもいる.”

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“それでもだよ! 俺, 今まで騎士って嫌いだったんだけど, あんたは今まで会った騎士と違って, すごくしっかりした何かを持ってるって思った. あんたについてったら, 今までのクソみたいな人生から抜け出せる気がするんだ!”

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“. . . クソみたいな人生, だったのか?”

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“うん. だから頼む, あんたに言われたことは何でもやるから!”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖𝟑
忠実な犬

ヤタロウさんはしばらく困ったような笑顔で俺を見ていたが, やがてゆっくりと頷いた.

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“汝, 須く弱き者を尊び, かの者たちの守護者たるべし, か.”

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“え?”

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“困っているものには手を差し伸べろということだ. 要するに今君は, 辛い境遇にあるということだろう? 舎弟というのはよくわからんが, 弟子として稽古をつけてやろう. 帰る場所がないならうちに来るといい.”

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“本当に?!”

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“ああ. ただ, 傭兵と騎士では戦い方が違う. 君が思うより稽古は辛いかもしれないが, 構わないか?”

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“頑張る!”

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そうして, 俺は戦いが終わると, ヤタロウさんの家に厄介になることとなった. 昼は使用人の手伝いや自主練習をして, 夕方になったら稽古をつけてもらう, その繰り返し.

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ヤタロウさんの指導はいつも全身が悲鳴を上げるほど厳しい. 傭兵の戦いには決まった型というのがなかったので, まず覚えるのが大変だった. 騎士の剣術には屋根の構え, 雄牛の構え, 鍬の構え, 愚者の構え. . . 構えだけでも基本の4つの構えと, 副次的な10の構えがある. そしてさらに攻撃も3つの基本攻撃のほかに, 5つの達人攻撃を習得しなくてはならなかった.

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もちろん, こういった型を覚えるだけでは足りない. 地上であれ馬上であれ, これらの組み合わせを状況に合わせて瞬時に判断し, 連続で滑らかに繰り出し続けなければいけない. 毎日, 今日こそはもう動かないと思う身体を引きずって, 一人の時は泣きながら練習をした. 動きは覚えたはずなのに, 実践しようとするとできない自分の力不足を呪う日々が続いた.

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だが, 最初は様子見をしている感じだったヤタロウさんも, 音を上げることなく必死でついていく俺を見て, 本気だということをわかってくれたようだ.

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ともすれば動きが雑になり, 型が乱れる俺に, ヤタロウさんは語った.

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“ヴェルナー, 剣術とは作法だ.”

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“作法? 俺, 堅苦しいことは何も知らないんだけど. . .”

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“別に堅苦しいものではない. 剣術とは作法, 作法とは礼節, 礼節とはすなわち心だ. 誇りを持ち, 相手を尊べ. そして会話する際は, 後で恥じる必要のない言葉を選ぶんだ. 戦場において, 剣術こそ自らの何たるかを語る言葉となる.”

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“剣で語るの?”

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“そうだ. 今の君はただ覚えた動きを再現しているだけだが, 一人での鍛錬でも常に相手の存在を思え. その相手と誠実に向き合えば, おのずと動きも滑らかになるはずだ.”

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騎士の行動のすべてには理由がある. 神を愛し, 国を愛し, 寛大であり, 誠実であれ. 動物のように, なんとなく衝動で動くわけではないのだといって, 具体的な礼儀作法や言葉遣いを教える前に, 俺に騎士道を説いた.

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おかげで俺は, ただ喋るのではなく会話をすることを覚えた.

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するとどんどん強くなった. 剣が強くなるほどに, 心も強くなる. 俺は, 自分よりも弱いものとは戦わないことを覚えた. 盗まずに食べ, 誇りを持って戦う. 生きていることに感謝し, その礎となった死者を悼む.

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そのうちきちんと礼儀作法や言葉遣いも教わった俺は, 周囲にも騎士の息子だと誤解されるようになった. ヤタロウさんの弟に間違えられた時には, 内心飛び上がるほど喜んだものだ.

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ある時, 気になって聞いてみたことがある. 騎士道では国を愛せというが, あなたは外国人ではないのかと. 俺の素朴な疑問に, ヤタロウさんは笑って答えた.

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ヤタロウさんの生まれはギリシアだそうだ. 子供の頃は親に連れられて, 只管旅をする人生だったらしい. 父親は遍歴商人だったが, やがて帝国に辿り着いて商売をするうち, その博学さをティッセン宮中伯に気に入られて下級騎士に取り立てられたのだという.

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“つまり, 私の父は称号をもらっただけで, 鍛錬を積んだ騎士ではなく, 私自身も生まれた時から騎士だったわけではない. 後れを取っているからこそ, 私は誰よりも騎士でありたいと思っている.”

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“それで, 故郷よりもこの国を愛することにしたんですか?”

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“いいや. [汝, その生まれし国家を愛すべし]. . . これは別に故郷以外を愛するなと言っているわけではない. 生まれた村や領地という狭い範囲ではなく, 国という規模で愛せよということだ. 私は自分が生を受けたギリシアを愛しているし, 同じく自分を自分たらしめてくれたこの国を愛しているんだよ.”

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“私には, 国といわれても, 大きすぎてよくわかりません. . .”

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“すぐにわかる必要はないさ. 自分の守るべきものが何かを理解できれば, いずれ大きな視野を持つことができる.”

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“そうですか. . .”

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そういわれてもまだピンとこなかった俺は, あることを思いついた.

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“あの, もしよかったら, 私にギリシア語を教えていただけませんか?”

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“それはかまわないが. . . なぜだ?”

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“私は根無し草ですが, あくまで帝国の中で生きてきました. ヤタロウさんの大きな視野と心は, 故郷を二つもっているからこそ生まれたもののような気がするんです. だから, その国の言葉がわかったら, 何かわかるかなと思って.”

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“普通は自分の所属するところから意識を広げていくものだと思うが. . . たしかに, いきなり国境を超えてみるのも面白いかもしれないな.”

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そうして俺はギリシア語を教わったが, やはり国という概念を理解することはできなかった. そもそも俺は今まで自分の生まれ故郷すらおぼろげで, 国以前に自分の国という感覚がない. 国を愛するための心をそもそも持っていなかったのだ.

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俺が心から忠義を尽くそうと思えるのは, 村でも国でもなく, ヤタロウさんだけだった. 騎士道が心だというなら, この誰よりも[騎士であること]を体現している人についていくことが, 俺にとっての騎士道だ.

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もしかすると, ヤタロウさん自身, 俺の忠誠が領主でも国でもなく, ヤタロウさんに向いているということに気づいていたのかもしれない. 半年ほどすると, 何の称号も持たない俺を, 宮中伯のもとに出向く際, 一緒に連れて行ってくれるようになった.

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だが, もしヤタロウさんが俺の忠誠を宮中伯に向けさせるためにそうしていたのだとしたら, 正直それは逆効果だった. 宮中伯に対しては何を思うこともなかったが, 俺は夫人のことはどうしても好きになれなかったのだ.

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ほとんどしゃべることもなく, 無表情で立っているだけの人形のような人. 今まで見た誰よりも美しい人だったが, それがかえって人間味の無さに拍車をかけている. それでいて, たまに口を開くときはいつも誰かを叱責するか, 無理難題を押し付けるときだ. 常に虚無と怒りの間を行き来しているような不気味さがあったのである.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖𝟒
背いた犬

ある日, ヤタロウさんが宮中伯夫人の叱責の対象となった時, ついに俺はこぼした.

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“ヤタロウさん, どうしてあの方々だけに忠誠を誓っているのですか? 夫人の言動はいつも理不尽がすぎますし, 宮中伯にそれを補って余りある魅力があるとも思えません. お父様が取り立てられた恩義があるにしても, あなたほどの人なら, 他にもっと評価してくれる領主がいるのではないですか?”

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“ははは, 君からはそう見えるのか.”

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“今日怒られたのだって, どう考えてもヤタロウさんの責任ではなかったのに. . .”

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悔しくて愚痴を言う俺を, ヤタロウさんはそっと窘める.

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“人は立場によって見える景色が違うものなんだ. 誰かの言葉を聞くときは, 常にその人が何を考えてその言葉を発したのか, 考えなくてはいけないよ. 夫人はとても聡明な人だ. よりよい未来のために, 常に私たちを試しているのさ.”

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“私は, 人を試す時点で好きになれません. . . 騎士の十戒は婦人に寛容であれと説きますが, 宮中伯夫人は我々より立場が上です. 弱者ではありません. 騎士以外に騎士道を望むべきではないのかもしれませんが, あの方はもっと弱者を尊ぶべきだと思います.”

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“君の言うことも一理あるが, 光は常に影がなくては存在しえない. 宮中伯が光であるために, そして何よりこの領地と国の未来に光があるために, 夫人はわざわざ影の役を買って出ているのだよ. そのせいであの細い肩にかかる重圧を思えば, それは尊敬に値することだ.”

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だが残念なことに, 俺にはその言葉の意味を理解する能力がない. 納得いかずに黙り込む俺を, ヤタロウさんはただ優しい目で眺めていた.

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結局夫人の言動の真意はわからないままだったが, ヤタロウさんのもとで過ごした日々, そしてその騎士道は, 俺の人生を真っ白に塗り替えていた. 傭兵時代, いつ死んでもかまわないために戦っていたはずの俺は, いつの間にか, ただその背中を追い続けたいために[生きていたい]と思えるようになっていたのだ.

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. . . そんな俺の絶頂期が唐突に終わりを迎えたのは, それからさらに4年ほど経った時だ.

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“ヴェルナー, 話がある.”

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“なんでしょう.”

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“今度, 子供が生まれるんだ.”

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“なんとっ?! おめでとうございます!!”

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馬鹿みたいに明るく祝いの言葉を述べる俺を見て, ヤタロウさんはいつかと同じように, 困った顔で笑った.

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“ありがとう. それで. . . 私はもう少ししたら, この地を去る. 君を連れてはいけない.”

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“え. . .”

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“君はもう十分な実力を持っている. 下級騎士にしてもらえるよう, 夫人に頼んでおいたよ.”

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“なんで. . . そんな, 俺. . . 私は, あなたについていきたくてこの地に来たんですよ?! 地位なんていりません, どこかに行くなら私も連れて行ってください!”

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“申し訳ない, それはできないんだ. . . なぜなら, これは私の逃避行なのだよ. 子供というのは, 私とティッセン宮中伯夫人の間にできた子供だ. 生まれ次第, 私はその子を連れて逃げる.”

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“夫人と?! そんな, どうして!”

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“その子も私も見つかれば殺されるし, 私に協力したとなれば君もただでは済まないだろう. だからどうか, 私からの最後の贈り物と思って, ここで騎士として暮らしてくれ. 私はもう, 自分を騎士とは呼べない. だから, せめて立派な騎士を一人この手で育てたのだという誇りだけでも, 私にもたらしてはくれないか?”

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痛切に訴える彼の目を見て, 俺は何も言うことはできなくなってしまった.

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ヤタロウさんが旅立つとき, 何とか行く先を聞いた. イェーガー方伯領, この帝国の北方を占める, 最も大きな領邦のひとつだ. おそらく, 教えても探すことはできないと考えて教えてくれたのだろう.

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この期に及んで夫人を庇うヤタロウさんの, 愛とも忠誠ともつかないそれを, 俺は病だと思った.

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久しぶりに最低の気持ちだった. 俺の人生の, たった一つの光が失われたのだ. 光をなくした俺は闇に沈むしかない. 俺はヤタロウさんの希望を叶えることなく, 時期を見てティッセン宮中伯領を後にした.

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誰よりも気高い騎士から, 騎士であることを奪った宮中伯夫人が許せなかった. 本物の騎士になれても, そんな人のもとで働きたくないし, 忠誠を誓うなどとんでもない. その子供の存在も, いくらヤタロウさんの血を継いでいようと, 美しい絵画についた傷のように思えて憎らしかった.

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宮中伯に気取られないように, できるだけゆっくりと放浪しながら, イェーガー方伯領を目指す. もともと俺は傭兵だ. 宿なし生活には慣れている. 西に, 東に, 傭兵業で食い扶持を稼ぎながら, 少しずつ北方へ移動した.

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騎士然とした言動は, 傭兵として生きるには邪魔になる. 教わった剣術の腕前だけ残して, 言葉遣いや礼儀作法はすべて元に戻ってしまった. 相手を尊べという言葉と, 下品な傭兵仲間を軽蔑してしまう心が葛藤し, 俺は誰ともつるまなくなった.

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仕事柄, 移動するごとに戦いを挟むので, イェーガー方伯領に辿り着くだけで7年がかかった. そこからさらに3年, 領邦内を流れ歩き, ついにレーレハウゼンに辿り着くと, 俺はある噂を耳にした.

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[外国からやってきた, 強く上品な黒髪の商人がいる. 娘と二人暮らしで, 娘は幼いがびっくりするほどの別嬪だ. ]

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思わず会いに行こうとして, こらえる. ヤタロウさんは俺がティッセン宮中伯のもとで騎士として生きることを望んでいた. 会いに行けば, 喜ぶより悲しませてしまうだろう. 彼らだと思われる情報を耳にできただけで十分だった.

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そして俺は, イェーガー方伯のもとで傭兵をするうち, 隠密に転職することとなった. 抜きん出た強さと傭兵とは違う剣での戦いが目立ったのだろう. 俺に唯一残っていた騎士としての部分である剣術が, 俺を騎士から最も遠い職に追いやったのはどんな皮肉か.

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新しい主は, たった15歳の子供だった. ただ, 俺が15だったころと違って, ただのガキではない, 一本芯の通った優秀な人間であることは一目でわかった. 淡いオリーブ色の瞳には強い力が宿っており, それは初めて戦場で見たヤタロウさんの瞳に宿っていた何かを思い起こさせるものだったからだ.

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だが, それでも俺が忠誠を誓う相手にはならない. 大きな視野というものを, この期に及んでまだ俺は持てずにいた.

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“さて, ヴェルナーと言ったか. 隠密にはそれぞれ, 暗号名が与えられる. 外で名前を呼んでも不審がられないよう, 動物や虫の名前になるが. . . どうしたものかな.”

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半ば独り言のように問いかける仮の主に, 俺は即答する.

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“それでは, 駄犬とお呼びください.”

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今の俺は, 飼い主を失った. . . いや, 飼い主を思い過ぎて裏切った犬だ. 動物の名で呼ばれるなら, この名前以外に何があるだろう.

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“ほう, 自分で名を選ぶか. ではケーター, 以後励め. 期待しているぞ.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖𝟓
たとえ囚われていようとも

“. . . そうして隠密になった私は, 中途半端な心持ちのまま, 単なる荒事をこなす駒と自分を定義してヨハン様にお仕えしておりました. あの人に会いに行ったのは, 追っ手が放たれた話を耳にした時が初めてでしたから, ヨハン様によって引き合わされるまで, ヘカテーにも会ったことはありませんでした.”

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ケーターさんは顔を伏せ, ただ淡々と語った.

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“15年間, 私は幻を追いながら闇の中に生きる愚か者にすぎませんでした. ですので, ようやく恩義に報いることができると分かった時には, 久しぶりに心が躍ったものです. 血でも肉でも命でも, 使えるものは何でも差し出すつもりでした. ヨハン様は最初から私の忠誠心がご自分に向いていないことに気づいていらっしゃるようでしたので, ヨハン様に命を救われたことは計算外でしたが. . . そこからの顛末は, 先ほどお話しした通りです.”

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私は思わずケーターさんに走り寄ってその手を取り, 無我夢中でお礼を言った. 握った手の爪はまだほとんどなく, 肉が盛り上がって変形している. どれだけの苦難を肩代わりしてくれていたのだろう. 父を探した10年, 危険を冒して噂をばらまいた隠密活動, そして自ら死ぬためだけに過ごした絶望的な地階での日々. 私はそんなこと何も知らなかった.

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ありがとう以外の言葉が出てこず, 泣きながら繰り返す私を, 彼はただ優しい目で眺めていた.

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“ケーター, それでそのヤタロウは, 今どこにいる?”

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見かねたヨハン様が, 中断させるように声を掛けてきた.

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“東方を目指したはずです. この目で見届けたわけではないので, その後は知りませんが. . . ヤタロウさんはもともとギリシアの血を引く人ですから.”

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“そうだったな. つまりヘカテーは帝国とギリシアの混血ということか.”

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“いえ, ヤタロウさんの母親はギリシア人だそうですが, 昔, 自分には3つの血が流れていると言っていました. ヘカテーは更に宮中伯夫人によって帝国の血が混じり, 4つの血を受け継いでいることになります.”

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“4つの血か. それは出自もよくわからないはずだな. . .”

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ケーターさんの反応に, さすがのヨハン様も驚きの表情を浮かべている. それは私も同様だ. 一つは帝国, もう一つはギリシア, それから祖父の本の言葉を用いる国の血. . . 私の中には, 更にもう一つの血が流れていることになる. その中で最も濃いのは帝国の血とはいえ, 周囲は私のことを異邦人と認識する.

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自分を定義するためのよりどころが無くなってしまった. . . そんな気分だった. 私は漸くケーターさんのもとを離れ, 呆然と立ち尽くす.

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しかし, ヨハン様は特に意に介さないようだ.

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“まぁ, ヘカテーの血がどこだろうがどうでも良い. 言葉が通じ, 読み書きもできるのだから一般的な帝国貴族と特に変わるところはないだろう. そんなことより今後のヘカテーの扱いだ.”

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私の悩み事はあっけなく一蹴され, 簡単に次の話題に移ってしまった. そういえばこの方は皮剥ぎ人や刑吏とも普通に言葉を交わされるような方. 周囲の人間を測る物差しは, 使えるか使えないかのみなのかもしれない.

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“立場としては使用人でも隠密でもなく, ティッセン宮中伯夫人からの預かりものということになるが, 夫人のもとに返す日が来るわけでもないし, 表に出すわけにもいかん. クラウスやヴォルフごと騙しているから, 城どころかこの塔からもな.”

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“承知しております. . .”

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幼いころに聞いた囚われのお姫様の物語. お姫様は言い過ぎにしても, まさか自分がその立場になるとは思っていなかった. 私の生涯は, この細長く薄暗い塔の中で終わる. いつかヨハン様の幽閉が解かれれば, そこからはここにたった一人で過ごすことになるのだ. 物語のお姫様と違い, 誰かが迎えに来ることもない.

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“これで境遇は俺と一緒だ. 仲良くここに囚われようではないか. 慣れれば悪くないものだぞ.”

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そんな私の心の内を知ってか知らずか, ヨハン様は少し意地悪そうな顔で, ははは, と大きく笑う.

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“それと, 客人といえども, お前には存分に働いてもらうつもりだ. お前がいれば研究も大いに進む.”

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“研究でございますか. メイドとして働くのではないのですか?”

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“それもある程度は頼みたいが, どちらかというと研究が中心だ. さっきの話をケーターが白状したついでに, こいつもギリシア語ができるということが判明したからな. 今は二人で翻訳を分担しつつ, オイレと3人で床屋や歯抜き師にばら撒くための冊子を作っている. もちろん, 最終目標は医師を啓蒙することだが, 連中は頭が固すぎる. まずは現場の改善のほうが先だ.”

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ヨハン様の選択はいつも合理的だ. あまりにたくさんの情報が一気に入ってきて, 処理しきれずに戸惑う私を置き去りに, ただ淡々と現状の説明と今後の予定を語るだけ.

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それでも, こんな話を聞いてしまえば, 私は簡単に喜んでしまうのだ. さっきまで自分の将来を憂いていたというのに, 今, 目の前に差し出されている状況が, とても楽しそうに思えてしまって. たとえそれがどんなに短い期間になろうと, 幸福に思えてくる.

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“かしこまりました. ヨハン様のお手伝いをさせていただけるなら, これほど嬉しいことはありません.”

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“理解が早くて助かる.”

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私の返答に短く返すと, ヨハン様は隠密の皆さんに目を向けた.

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“さて皆, こういうわけで今後ヘカテーはこの塔でメイド兼学者見習いとして働く. ヘカテーの存在を隠し続けろ. 今までで最も長期にわたる指令だが, お前たちであればやり遂げると信じているぞ.”

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“はっ, 仰せのままに!”

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声をそろえて答える皆さんは, なぜかどことなく嬉しそうにしている. 非常に優秀で, 個性的な方々のことだ. もしかすると, 難しい課題ほどやる気が出るのかもしれない.

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“もう夜も更けた. 皆下がってよい. ヘカテーは少し残れ.”

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隠密の方々が全員退室すると, ヨハン様は少し姿勢を崩された. やはり統率者として命令を出すときにはそれなりの緊張があるのだろうか.

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“以前お前がいた頃は, 用事があるときはベルを鳴らして呼んでいたが, 今後はあれを使えない. 用事があるときは, お互い部屋に出向く形で良いか? もちろん勝手には入らない.”

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“私はもちろん大丈夫です. ヨハン様にご足労いただくのは恐れ多いですが, 私も他に良い案も浮かびません.”

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“それと, 食事運びと雑用は当番制に戻っているから, メイドがやってくる六時課と終課の間は部屋から出ず, 物音を立てるな.”

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“かしこまりました.”

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この日から, 第二の人生が始まった.

第9章 癒すもの
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖𝟔
仮面に隠した白肌

塔で私に与えられた部屋は, 以前メイドとして働いていた時に与えられていた部屋と同じだった. 家具の配置も, 机の上の本も, 何も変わっていない. ただ, 埃が溜っていないところを見ると, 私がいない間も時々使われていたのかもしれない.

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仮面を外すと, 顔が少しすーすーとして涼しく感じる. なんとなく, 天気の良い日に草原でやるように, 両腕を伸ばして深呼吸をしてみた. 別に空気が澄んでいるわけでもない小さな部屋の中, しかも今は囚われの身だというのにおかしな話だが, やはり私にとってここは自由の象徴になっているところがある. 少なくとも今は, 今後の人生をここで過ごすことに後悔はない.

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“あれ?”

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仮面をしまおうとチェストを開けて, 何かが入っていることに気が付いた. 蝋燭で照らしてよく見てみると, それは大量の羊皮紙の束と, インクと, 一目で高価なものだとわかる綺麗なペンだった.

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[Καιρὸς δέ(久しぶり)]

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羊皮紙はすべて白紙で, 一番上の紙の隅には, 小さく, しかし整った美しい文字でそう書かれていた. この字は忘れようもない, ヨハン様のものだ.

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復帰祝いの贈り物? あるいは, これでまたギリシア語の勉強に励めという意味だろうか. どちらにしても, 無言で置いておくあたりがヨハン様らしい.

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“ありがとうございます, 嬉しいです.”

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私はひとり小声でお礼を言うと, 蝋燭を消して寝ることにした. 安心感と身体の疲れで, すぐに眠りへと落ちていく.

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. . . 気づいたときには, もう明るい時間になっていた. 窓の戸を閉めていたせいか, 思いのほか長く寝てしまったようだ. 一瞬焦って起きようとするが, そろそろ当番がヨハン様のお食事を持ってくるころかもしれないので, 静かにして外の様子をうかがうことにした.

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すると, ふいに扉がノックされる.

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“ヘカテー, 俺だ.”

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“よ, ヨハン様?! ただいま参ります!!”

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ヨハン様がいらしたということは, 当番がやってくる時間帯ではないのだろう. 私はあわてて着替えて髪を整え, 仮面をかぶって扉に走り寄る.

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“お待たせいたしました!”

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“どうした, 寝坊か?”

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“うっ. . . はい. . .”

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“そうか, 眠れたならよかった.”

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ヨハン様の観察力はいつも素晴らしいが, こんなところに使われなくてもよいのにと思う.

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“あ, あの! 紙とペンをありがとうございます!”

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“ああ, 好きに使え. それより, 呼んだのは昨日の薬と, お前の食事の件だ.”

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ヨハン様は私のお礼にそっけなく返事をすると, 隣室の扉を開けられた.

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“薬は昨日見せたとおりだ. あれを毎日, 時間があるときに傷や痣のあるところに塗ればいい. それから, 当番に運ばせる食事の量を増やすとお前の存在がばれるからな. 食事は隠密が週に1度, まとめてこの部屋に運んでくる. 煮炊きがままならないから粗末なもので悪いが, 好きな時に適量とって食べろ.”

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生きている以上食事は必要だが, ヨハン様のお食事は居館から持ってきているため, ここで頻繁に調理場を使うと不審に思われる可能性がある. 今週の分はもう誰かが運び込んでくださっていたようで, たくさんのパンと野菜, シードルなどが置いてあった.

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“かしこまりました, ありがとうございます. それでは, 掃除などは朝のうちに済ませ, できるだけ部屋で静かに過ごすようにいたします.”

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“いや, そこまでしなくとも, そもそもこの塔にほとんど人は寄り付かん. 当番が出入りする時間帯だけ気を付ければそう簡単にばれることはない. お前の事情については父上も承知の上だからな.”

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“さようでございましたか.”

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“お前には研究を手伝ってもらうといったが, 机の上の仕事だけでなく解剖や薬づくりにも参加してもらう. 部屋にこもりきりになることはあまりないぞ.”

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“それは幸いです, 頑張りますね! . . . あ, 失礼いたしました.”

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思わず声を張って返事をしてしまい, 口を覆った私を見て, ヨハン様はふっと相好を崩した.

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“まぁ, そのくらいの声なら問題あるまい. 六時課と終課の間以外はそこまで気にするな. それより, 研究がそんなに楽しみならさっそく手伝ってもらおうか.”

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“もちろんでございます. 何でもお申し付けください.”

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“お前の祖父の本に載っていた薬は, 材料を探すのが難しいものばかりだった. ケーターとお前の症状に合うものは作れなかったから, 昨日の薬は二つとも, 薬草単体で載っていたものを俺たちで組み合わせて作ってみたものだ. だが, 載っている調合通りに作れそうなものもいくつかある.”

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そういいながら, ヨハン様はテーブルに置いてあった箱から植物の根のようなものを2種類取り出された.

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“例えばもっとも簡単なのはこれだ. ピオニーとリコリスの根で, 痙攣を鎮める薬ができる. 関節痛や筋肉痛, さらには腹痛にも効く.”

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“それは便利ですね. 痛み全般に効くということでしょうか?”

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“全般というよりは, 引き攣る筋肉を緩めることによって間接的に効くということだ. いずれは量産して, 戦場で戦う者たちに携帯させたいものだな.”

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続いて別の箱から根をもうひとつと, 土の塊のようなもの, 壁にかかっていた薬草を2つ外された.

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“これはアンゼリカの根で, 薬草はラヴィッジとサジタリア. こっちは松の根にできる瘤で相当な貴重品だ. あともう一つ, ビャクジュツというものがあれば完成する薬があるんだが, これはどうも国内で手に入りそうにない.”

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“そちらは何の薬なのですか?”

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“貧血や冷えに効く, 体力回復の薬だ. ただ, 材料が全部そろわないと効果が出ないのか, 試してみたい気持ちもある.”

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そこまで言うと, ヨハン様はニイッと笑って私を見た.

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“あの本の一番面白いところは, 薬草ごとの薬効や, 薬の調合の方法ではない. [診断]という概念だ. 要するに, 患者の体力や体型, 顔色などによって, 使える薬と使えない薬がある. 最初の痙攣の薬は, 珍しくそれらの指定が特にないものだったんだが, こっちの薬は指定があってな.”

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“えっと. . . どういう者に使う薬なのでしょうか?”

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“体力が少なく, 華奢で, 色白の者. 特に女に適応するそうだぞ. 今は仮面で見えないが, お前は雪のように美しい白肌の持ち主だったな?”

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せっかくヨハン様に美しいと褒められているというのに, 全く喜びは沸き起こってこなかった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖𝟕
埃の舞う部屋で

薬について, 今までなんとなく対岸の話として聞いていたが, 自分で実際に飲むと聞いて初めて”薬は人に使うもの.”という当たり前のことを実感した. それだけ慎重に作らなければならない.

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幸い, その薬についての頁は, すでに翻訳が済まされていた. 塔を離れている間ギリシア語の勉強を中断していたので, 読みなれた言葉がとてもありがたい.

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手順は簡単, 指定の量を測ったらすりつぶして混ぜ, 粉末にするだけ. すべての薬がそうではなく, 粉末にした後で丸く固めるものや, 鍋で煮出すものもあるそうだが, 今回作る薬は粉末にするものだ.

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しかしそれが大変だった. すり鉢でひたすらすり続ける作業は, 純粋な肉体労働に近い. すりこぎを握る手は徐々にしびれてくるし, 腕も痛くなってくる. 続けっぱなしだと手がうまく動かなくなるので, こまめに休みを挟まざるを得ない.

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“これは, もっと効率の良い方法を考えなければならないな.”

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隣で同じ作業をされるヨハン様も, 時折手を休められているようだ.

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“ヨハン様のような方がこんな労働をしなくても, 私にお任せくださいませ.”

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“いや, いい. 薬を作る以上, 必要な作業にはすべて携わっておきたい. それに, お前よりは俺の方が力もある. もし身分のことを言いたいならお前だって貴族の娘だぞ?”

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“はい. . .”

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“今は仕方ないが, この方法は量産には向かない. . . どうしたものだかな.”

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ヨハン様は思案しながら, 額に浮いた汗を拭われる. 粉が舞っているので, 汗と混ざって泥がついたようになってしまった.

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“ヨハン様, お顔が. . .”

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“そんなもの後で洗えばよかろう. どちらかというとお前の服の方が問題に見えるが?”

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そういわれて自分を見てみると, シュピネさんにいただいた薄緑色の服は, 畑仕事でもしたかのように埃だらけで, 茶色いしみがたくさんついてしまっていた. ほかにも何着かいただいているが, せっかく華やかなものなので, 少しもったいない気がする.

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“本当ですね. これは洗ってもなかなか落ちなさそうな気がします. . . せっかくシュピネさんにいただいた服なのに, もったいないことをしてしまいました. 取り外しができればいいのに. . .”

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“ふん, 取り外す, とな?”

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“はい. この作業では服の後ろ側は汚れませんので, 前側だけ取り外せれば何着も服を汚さずに済むのにと思いまして.”

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“なら作れば良いではないか.”

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“え?”

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“お前は繕い物が得意だったな? 前側半分だけの服を作って, 首と腰のあたりで紐で結べるようにすれば, お前の言う取り外しできる服になるのではないか?”

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目から鱗だった. たしかにそれなら, 汚れるのは取り外しできる部分だけで済む.

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“いや, わざわざ新しく服を作らなくても, 今着ている服を前後で切り離したほうが合理的か. 紐の部分は後ろ半分の布から作れる.”

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“ヨハン様は, 裁縫までおできになるのですか?”

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“いや, 裁縫自体はほとんどしたことがないが, 服の構造なら考えればわかるだろう? この作業が終わったらしばらくやることもないから, 作ってみるといい.”

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ヨハン様は考え終わると興味をなくしたらしく, 薬草をすりつぶす作業に戻った. 言われてみれば簡単なことに思えるが, 普通は思いつかない. 裁縫をたしなまれるわけではなく, 女ものの服に詳しいわけでもないだろうに, この方は頭の中で次々に新しいものを作り出してしまわれる.

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“あ, 先に言っておくが俺は要らんぞ? 別段外に出るわけでもないし, 汚す用の服とそうでない服を分ければいいだけだ.”

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ヨハン様の分もお作りしようかと思っていると, 先に言われてしまった. 普段からあまり身なりを気にされる方ではないので, 新しい服を渡されてもうっとおしいのかもしれない.

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. . . そうこうするうちになんとか薬ができた. 出来上がった2つの薬をそれぞれ器に入れると, ヨハン様はその中に炭を一片入れられる.

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“炭も薬になるのですか?”

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“いや, これは乾燥した状態を保つためだ. この薬は粉の状態で飲めと書いてあったが, 湿気ると固まってしまうからな. さて, お前はこれから毎晩, こっちの薬を既定の量飲んでおけ. 体調は毎日記録し, 万が一調子が悪くなることがあれば直ちに飲むのをやめて俺に報告しろ.”

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“かしこまりました.”

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“肌の薬の方も忘れるなよ?”

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そういってヨハン様は部屋を後にされた. 私は一人部屋に残される. ついでなので, 薬を塗っていくことにした.

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“痛ぁ. . . っ.”

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薬を塗る前に肌を浄める東方のお酒は, やはり傷に沁みた. 後から薬を塗り広げると, 肌がほんのり紫色になっていく. このまま肌の色が変わってしまわないか, すこし心配になる.

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だが, 私の肌は今, 擦り傷やあざ, できものなどでボロボロの状態だ. この薬できれいに治るということは, ケーターさんの肌によってすでに証明されている. なら, やってみるしかない.

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この薬を塗る作業もまた服に染みを作ってしまう. 今日はもう手が疲れて針仕事はできそうにないが, ヨハン様に提案された取り外せる服は, 明日さっそく作ってみよう.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖𝟖
新しい服

翌朝, 私は朝から針仕事に取り掛かった.

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昨日着ていた服の糸をほどき, 前後に分解する. 袖はそのままつけておきたいところだったが, 着脱が難しくなりそうなので外してしまうことにした. 代わりに上腕部分で, 袖が汚れないように留めておくものを作る. 調子に乗って少し縁飾りをつけてみた. これで袖の汚れも覆うことができる.

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続いて, 後身頃から布を切り出し, 幅の太いベルトのようなものを4本作った. これを, 前身頃だけになった服の, 肩の部分と腰の部分に左右1本ずつ取り付けたら完成だ.

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ふと, 髪の毛の乱れを整えようとして, 昨日は髪の毛も埃だらけになってしまっていたことを思い出す. 後身頃の布はまだ余っているので, 埃除けになるよう, 髪の毛を覆うウィンプルのようなものもついでに作ってみた.

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前側だけの服, 友布のウィンプル, 袖留めの3点. 早速, 別のワンピースの上からこれを着てみる.

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“結構, かわいいかも?”

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初めて見る形の服は少々奇妙な感じもするが, 服の上から服を着ているというよりも, 下に着ている服の一部のようにも見える. 思っていたよりもずっとおしゃれなもののように思えた.

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今日からはこれで薬づくりに励み, 使い勝手がよさそうなら古くなった服でもう1つ作ろう.

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昼食を摂るため, その姿のまま隣室に向かうと, すでにヨハン様がいらしていた.

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“おお, 作ったのか. やはりお前は仕事が早いな. よくできているぞ.”

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“ありがとうございます. ヨハン様のご提案のおかげです.”

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“いや, 俺はもっと味気ないものを想像していた. 思っていたよりなじむな. 意外と貴婦人たちの間でも流行るかもしれん.”

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“少し, 変わりすぎてはいませんか?”

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“いや, 宮廷では皆, 新しいもの, 今までに見たことのない変わったものを我先にと取り入れるのさ. 俺は実際に宮廷には出ないが, 話ぐらいは入ってくる. 社交界で目を引くには, 単純な美しさよりも希少性の方が有利だからな. お前のその恰好は, 仮面込みで流行ることすらあり得るぞ?”

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“社交界とは面白いものですね.”

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“それにしても, お前は一人で隣室に移動するときすら仮面をつけるのだな.”

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そう言うヨハン様は何故か少し不機嫌そうだった. このまま食べ物だけ持ち帰るのも気まずいので, 少し話題を変えてみる.

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“今日も昨日のお薬を作るのですか?”

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“ああ. だが少しやり方を変えるつもりだ. すり鉢で粉にする方法だと, 時間も負担もかかるから量産に向かない. そこで, 碾き臼を使ってみようと思っている.”

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“粉碾き人に渡すということでしょうか?”

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“いずれはそのぐらいの規模で作れたらよいのだろうが, 小麦と薬で同じ碾き臼を使うわけにはいかない. 一旦ナイフで細かく刻んでから, 手回しの碾き臼で作ってみよう. すり鉢よりは時間も短縮できるはずだ.”

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“私もお手伝いいたします!”

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“では, 薬草の方を刻んでおいてくれ. 根は俺がやる.”

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トントンと薬草を刻む音が部屋に響く. そうして肩を並べて薬を刻んでいると, 一緒に料理をしているようで, 少し不思議な気持ちになった. メイドとして奉公に出る前は父と台所に立つこともよくあったが, お城では専門の料理人がいるし, そもそも主が台所に入ることなどない.

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ある程度のみじん切りになったところで, ヨハン様が作られたものと混ぜ, 碾き臼でひく. まわすごとに周囲に粉が落ちていった.

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“やはりこの方が効率が良いな.”

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“そうですね, 一度にたくさん作れますし.”

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ヨハン様はひき終わった粉を集めると, ひとつまみ分だけ紙の上に分け, 残りを器に移して蓋を閉めた.

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“薬を飲むのは食前が良いそうだ. 流れで手伝わせてしまったが, ここには食事をとりに来たのだろう? 食べる前に飲んでおけ.”

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“ありがとうございます.”

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それから, 隣室に食事をとりにいくついでにヨハン様と薬を作るのが私の日課になった. 一度に飲む量は少ないものの, 薬を作るには意外とたくさんの薬草を消費する. 様々な種類の薬を作っていくうちに, 気づけば薬草だらけだった部屋はかなりすっきりと片付いていた.

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そして, 部屋の薬草が減っていくにつれ, 私の肌も元に戻っていった. 1週間ほどすると傷が癒え, お酒が沁みなくなった. さらに1週間ほどであざも消え, できものはぽろぽろと剥がれ落ちるようにして小さくなっていく.

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ひと月経つ頃には, 私の肌は南の塔に拘束される前よりも滑らかになっていた. また, 塗り薬の効果か飲み薬の効果かはわからないが, ただ蒼白だった頬にもうっすらと赤みが差し, 心なしか目の形も以前よりくっきりとしている気がする.

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習慣でここまで続けてしまったが, もしかするともっと前に薬をやめてしまっても良かったのかもしれない. わたしはそんなことを思いながら, 久しぶりに仮面をつけずに隣室に向かった.

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“失礼いたします.”

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声をかけて扉を開けると, 私を見たヨハン様が, 目を瞠って固まった.

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“ヘカテー. . . か. . . ?”

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“はい, お陰様で完全に傷が癒えたようです. ありがとうございました.”

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“ああ. . .”

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“それでもう仮面は要らないかと思いまして.”

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“そうだな. . .”

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“あの, 何かおかしいでしょうか? 身だしなみは整えたつもりだったのですが. . .”

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“. . . あ, いや問題ない. お前の顔を見るのは久しぶりだったから, 少し戸惑っただけだ. すっかり治ったようでよかった.”

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“ありがとうございます. 使わせていただいたお薬のおかげですね.”

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“今日は日が落ちたらシュピネが来る予定だ. 時間になったら呼びに行かせるから, 元気になった姿を見せてやれ.”

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“シュピネさんがいらっしゃるんですね! 是非お礼を言いたいです. この服も, もとはシュピネさんからいただいたものですから.”

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“そうだな. . .”

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ヨハン様のそっけない態度は少し気がかりだが, お怒りを買ったわけではなさそうだ. 今日も一日, 精一杯仕事をしよう. 私は少し腕まくりをして, 気合を入れた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟖𝟗
ものは使いよう

“ヘカテーちゃん! あたしよ!”

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夜になると, 部屋の扉が叩かれ, 元気な女性の声が聞こえた. すぐに走り寄って扉を開ける.

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“シュピネさん! ご無沙汰してます!”

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“久しぶり! ちょっと見ない間にすっかりきれいになったのね!”

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シュピネさんは会うなり私の顔を両手で包み込み, 頬をムニムニと揉んだりさすったりして感触を確かめている.

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“すごい, すべすべのモチモチじゃない! いくらでも触っていられるわね. . . 前に会った時の痛々しさが嘘みたいだわ.”

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“ヨハン様とケーターさんが作ってくれたお薬のおかげなんです. やめ時がわからなくて, 使いすぎちゃったかもしれないですが. . .”

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“ヘカテーちゃんのおじいちゃんの本でしょ? そのくらい許されるわ. ケーターのときは試行錯誤してたから結構時間がかかったけど, 最初から完成品を使うとこんなに早く良くなるのね.”

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そういって私を撫でまわしていたシュピネさんだったが, しばらくすると悪戯っぽい笑顔を浮かべた.

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“ふふふ, これは, におうわね!”

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“えっと. . . なにがでしょうか?”

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“ふふふ, これから楽しみだわ!”

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自分では気づかなかったが毎日薬草まみれになっているので, においが染みついてないかと思い問いかけるも, 返事はなかった. すでに心ここにあらず, のようだ.

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そのままシュピネさんに引っ張られてヨハン様の私室に向かう. シュピネさんは少し肩を揺らして階段を上がり, 鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌だ. これから, いったい何が始まるというのだろうか.

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“失礼いたします. ヘカテーをお連れいたしました.”

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“おお, 早かったな. 女同士, もう少し話し込んでからくるかと思っていたが.”

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“はい, お時間をいただきましてありがとうございます. ヘカテーの元気になった姿を見て安心いたしました. しかし, それ以上に, これはぜひヨハン様にご提案せねばと思いまして.”

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“. . . 何をだ?”

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いつも通り恭しく跪きながらも, あからさまにうきうきとした調子で報告をするシュピネさんに, ヨハン様も珍しく不思議そうな反応だ.

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“あら, ヨハン様, お気づきではありませんでしたの? このお金の匂いに. 世の中, 美容ほど儲かるものはございませんのに.”

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“なるほど. 俺は薬としか思っていなかったが, その手があったか. . . いやしかし, 肌に合わなかった場合が怖いな. . . だが, 配合を調整して効果を弱めれば. . .”

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どうやら, 塗り薬を化粧品として売り出そうという話らしい. たしかにこの薬は, 単に傷を癒すだけではなく美容効果も見込めるものだ. 美しさが商売道具でもあるシュピネさんは, 私の肌を見てすぐ思いついたのだろう.

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しかし一方で, 別の観点からの疑問もあった.

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“あの, お二人ともすみません. 薬の効果からして, 化粧品として欲しがる人が多そうそうなのはよくわかるのですが, 売り出す必要があるのでしょうか? 財源なら豊富だと思うのですが. . .”

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そう, 私はシュピネさんがはっきりと[儲かる]と言っていたことが気になっていた. イェーガー方伯領は経済も発展した豊かな地だ. わざわざ新しいものを売り出そうとしなくとも, 別にお金に困っているわけではない.

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疑問を口にすると, ヨハン様は少し苦笑しながら答えてくださった.

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“確かにこの家も領地も財は豊かで, 俺も金には困ることはない. だがな, それはあくまでイェーガー方伯とその息子の話だ. 俺は自分の生活費と, 仕事に必要な予算を与えられているに過ぎない. 自由に運用できる金となると別の話なのさ.”

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“医学の研究に使えるお金ということですか?”

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“いや, それは俺に割かれる予算の範囲内として, ある程度父上にも認められている. 簡単に言うと, 俺は政治的な工作のために隠密を束ねることを任されているが, 万が一俺が窮地に立たされたり, 父上と対立するようなことがあれば, 自分の身を守るために人や金を動かすことはできんということだ.”

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“そんな. . . !”

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思わず絶句した. ヨハン様を拘束する力は, 物理的に行動範囲を制限するだけにとどまらないというのか. 以前ティッセン宮中伯とリッチュル辺境伯を引きはがすために, ヨハン様は何日も寝ずに働かれていたはずだ. 私が知る工作活動はその一件のみだが, 隠密の皆さんのお話から察するに, こういったお仕事は何年も前から何回も行われている. 家と領地を守るためにこれだけの働きをされていながら, 万が一の時には切り捨てられてしまうというのか.

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私がご領主様に恐怖と怒りを抱き始めると, シュピネさんが宥めるように口を開いた.

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“ヘカテーちゃん, そんな顔しないで. もちろんあたしたちは, ヨハン様の身に何かあれば無償で, むしろ全財産と命を投げ出してでも助けるつもりよ. でも, 隠密の力だけですべてが何とかなるわけじゃないわ. いざという時のために自由に使えるお金があるっていうのは大事なことなの.”

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“そうだ. 現状, 別に父上との関係性に大きな問題があるわけではない. 貴族とはそれだけ面倒くさいものというだけの話だ.”

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ヨハン様ご本人にまで宥められてしまうと, もう私には何も言えない.

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“失礼いたしました. そういうことでしたら, 私も化粧品にするのは良いと思います. 実際, 私はつい習慣で, 傷が治った後も塗り続けてしまいましたが, それによって悪影響が出ることはなく, むしろ調子が良くなりました.”

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“ああ, この薬に副次的な美容効果があるのはわかっている. ただ, この薬はお前の祖父の本に載っていた薬草から効果を類推して調合したものだ. あの本には患者に合わせて適切な薬を選ばないと, かえって毒になることがあると書いてある. この薬そのものが本に載っていたわけではないから, 単にお前とケーターの体質に合っていただけという可能性もある. 万が一, 市井にこの薬が毒になる体質の者がいた場合を考えると, 大手を振って売れるものではない. . .”

🛑

🛑

すると, シュピネさんがふいに笑い出し, 半ばさえぎるようにして口を開いた.

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🛑

“やはりヨハン様はお優しいのですね. 医療が絡むと途端に, 正しいことだけを求めるところがおありですわ.”

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🛑

驚いてその顔を見ると, いつものあどけないような笑顔ではなく, 妙に嫣然とした. . . いや, 悪女然とした微笑みを浮かべている.

🛑

🛑

“大手を振って売らなければ良いのです. 遠く東から届いた出所不明の妙薬として, 旅芸人が売りに来れば, ね?”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗𝟎
美がもたらすもの

シュピネさんの提案に, ヨハン様はなかなかうんとは言わなかった.

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🛑

“いや, 俺も清濁併せ吞むべきことはわかっている. 実際, 今まで相当に汚いことばかりしてきた自覚はあるんだが. . . それはあくまで貴族間の話だ. 相手側にも騙し合いをする覚悟がある. 名を隠したところで, 領民を相手にすることが果たして許されるだろうか.”

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🛑

一般的な商人であれば, 迷いなく売り出そうとするものだろう. しかし, ヨハン様はやはり不思議なお方だ. 必要なことのためなら多少倫理的に外れたことも厭わず, それこそ命のやり取りにも慣れていらっしゃるが, あるべき自分の姿を曲げることはない.

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🛑

“なにより, この薬は本に書いてあることを鵜呑みにしただけで, 何故効くのかは俺自身理解しきれておらん. モノとして出来上がっていても, 研究成果としては未完成だ. 怪我や病に悩む者が手にするならともかく, 健康な者が美のために求める品としては危ういのではないか?”

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🛑

領主の息子として領民を守り, 医学者として自分の研究に責任を持つ. 騎士道精神というには少々歪んでいるが, それに近い矜持をお持ちなのだろう.

🛑

悩み続けるヨハン様に対して, シュピネさんは予想外の言葉を口にした.

🛑

🛑

“ヨハン様, 大変失礼ながら, それは民の心を軽く見積りすぎかと.”

🛑

“なんだと.”

🛑

“何も教えずにただばらまくのであれば, 確かにそれは詐欺に近いことでしょう. しかし, 民は貴族以上に買うものを吟味いたします. 説明をよく聞き, 自分に必要なものかどうかを判断して初めてお金を出すのです. 買う側にもある種の責任は発生いたしますわ.”

🛑

“それはそうだが. . .”

🛑

“ヨハン様のような誠実な貴族の方々にとって, 民とは単に守るべき弱者なのかもしれません. しかし, 弱くとも, 無知であろうとも, それなりの意志と覚悟は存在いたします. 例えば今回の薬, 普通に考えて最初に手を出すのは娼婦たちでしょう. 私もその一人として, 美を保つために必要な並みならぬ努力を知っております. ヨハン様, 何故娼婦が, それほどまでに美にこだわるのかおわかりになりますか?”

🛑

“仕事に必要だからではないのか?”

🛑

“ええ, もちろんそれもあります. しかし, 私たちが美にこだわるのは, 限りなく閉ざされた世界で, わずかな自由を手にする可能性となるからです.”

🛑

🛑

シュピネさんは顔を上げ, ヨハン様の目を見据えて語る.

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🛑

“大前提として, 娼婦には自由がありません. 狭い娼館の中で管理された日々を過ごし, 街に出ればつまはじき, 教会にも憐れまれる存在です. そこから逃げ出す一番の方法は, 美によって愛を得, 力を持つ男の妻か愛人になることです.”

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🛑

整った言葉遣いと真っ直ぐな眼. いつもの親しみやすい甘い空気はそこにはなかった.

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🛑

“. . . そして世の悪人たちもまたそのことを熟知しており, 美を謳い文句に日々獲物を狙っております. 私は, 怪しげな化粧品により逆に美を失い, 失意のうちに姿を消していった者たちを多く見てまいりました. それでも, 女の華やかさに教会が睨みを利かせるこの世の中では, 表立って安全な化粧品を購入することはできない. 素性がわからなくとも賭けに出るほかないのです.”

🛑

“つまり, 化粧品を求める者たちは皆, 毒になる可能性についてはすでに覚悟しているということか.”

🛑

“はい. そして, この薬は最初から毒として作られたものではありません. 確実性はなくとも, 世に出回れば, 悪意ある紛い物を駆逐することができます. 娼婦とて民です. これを売り出すことは, 単にお金儲けのためのお話ではなく, 民の意志に報いる誠実な振舞いです. どうぞご検討くださいませ.”

🛑

🛑

私はその言葉を聞いて, シュピネさんが私の肌を見て目を輝かせた本当の理由を理解した.

🛑

シュピネさんがどういう経緯で娼婦となり, ご領主様の愛人となり, 隠密となったか私は知らない. しかし彼女は, 抜け出せることなく裏町に沈んだ娼婦たちの屍の上に自分がいることを自覚しているのだろう. 一人の力ではどうすることもできないが, 今, ヨハン様に利をもたらしながら娼婦たちに報いるという千載一遇の機会を前にして, 一歩も引くまいと必死に訴えているのだ.

🛑

そう思ったら, 私も加勢しない選択肢はない.

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🛑

“私からもよろしいでしょうか.”

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“ヘカテーまで. . . どうした?”

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“今回このお薬を売り出すことは, 民間に正しい医療を浸透させるための皮切りに使えるのではないでしょうか. 無作為にばら撒くのではなく, 使い方と効能を説明して, きちんと理解した者に[薬]として売るのです. ここでやり方を確立すれば, 例の床屋向けの冊子を配布するときにも応用できるかと思います.”

🛑

“確かにそうだな. それがゆえに, [遠く東から届いた出所不明の妙薬]か. . . 世間知らずの俺にはできない発想だった. やってみよう.”

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🛑

ヨハン様はようやく頷かれた. それを見てシュピネさんと私は安堵し微笑みあう.

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“よく考えてみれば, 俺がこの薬に不安を抱いていたのは, 実験台が二人しかいなかったためだ. 薬の効果は検証の回数が増えるほど証明されていく. この薬を求める者には, 売る前に一度無料で試させてみよう. その結果大丈夫だった者だけが購入し, 合わなかった者は購入しなければよい. 求める者が自ら実験台となってくれれば, 一気に検証の回数が稼げるぞ.”

🛑

🛑

ヨハン様のお顔にも笑みが浮かぶ. 先ほど[世間知らずの俺にはできない発想]とおっしゃったが, 私からすると, [薬を求める者に無料で試させて検証を行う]なんて発想の方が, 常人にはできないものだ.

🛑

やはりヨハン様は, 医療に携わっている時がもっとも生き生きとされている. 今回の[検証]は, きっと良い結果を生むだろうと私は思った.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗𝟏
三つの約束

翌日, 今度はオイレさんが呼び出された. [出所不明の妙薬]を売れる[旅芸人]といえばやはりこの人しかいない. といっても, 何年もレーレハウゼンに留まってヨハン様にお仕えしているようなので, [旅芸人]といってよいのかどうかは怪しいが.

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“. . . そういうわけで, お前にこの薬を売ってもらいたい. 容器に詰めるのはヤープにやらせておく. 出所は伏せろ.”

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“かしこまりました.”

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オイレさんは薬について一通りの説明を受けると, 神妙な顔で答えた.

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“私は医療従事者ではありますが, あくまで歯抜き師です. 医師や修道士などと違って, 人々の間に[薬の専門家]というイメージはありません. 私が自分の言葉として語っても, 人々はそういう筋書きの演出としてしか受け取らず, 本気で耳は貸さないでしょう. とりあえず, 薬とも化粧品ともつかない曖昧な形で売ってみようかと思いますが, よろしいでしょうか.”

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“ああ, 演出は任せる. お前の話を聞いた者たちが, 正しい使い方を理解できればやり方は何でもいい.”

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“ありがとうございます. それでは, 品物が揃うまでの間に演目を考えておきます.”

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“では下がってよい.”

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“は.”

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🛑

ヨハン様からの命令が簡潔に終わり, 速やかに退室するオイレさんを追いかけて, 私は一緒に部屋を出た. シュピネさんの娼館でお会いした時から, 私は仮面を借りたままだったからだ.

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“オイレさん! これ, ありがとうございました. 大変長らくお借りしてしまって. . . 最初にお返ししたかったんですけど, 機会を失ってしまいまして.”

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顔が完全に治るまで仮面をつけて過ごせたことは, 私にとって精神衛生上とてもよかったため, 今日までお会いできなかったのはちょうどよかったが, さすがに長く借りすぎである.

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“そんなそんな, 気にしないでぇ. 別にそれ, そんなによく使うものじゃないしねぇ.”

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“お陰様で助かりました. 本当にありがとうございました!”

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“そう言ってもらえるなら嬉しいよぉ. あ, そうだ, 一個聞いてもいいかい?”

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🛑

オイレさんは仮面を受け取りながら, 少し浮かない顔で言う.

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“もちろん, 私に答えられることなら.”

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“今回の, 僕が例の塗り薬を売るって話, ヨハン様が言い出したの?”

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“あ, そういえばさっき話に上がりませんでしたね. いいえ, 言い出したのはシュピネさんです. いざというとき, ヨハン様の自由にできる財源があった方がいいだろうとのご提案でした. ヨハン様はそれでも, お薬でお金儲けをすることを最初はしぶっていらっしゃいましたが, 最終的に, きちんとした化粧品が出回れば悪意ある紛い物を駆逐できることと, 買う人に事前に試させれば薬の効果を検証できるってことで, 踏み切られたようです.”

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“あー. . . やっぱりそういうことか. なんかおかしいと思ったんだよねぇ. 安心した.”

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“安心? 何がですか?”

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“あのね, 僕はあんまりお人好しなタイプじゃないんだ. たまたまお仕えしたいと思える人に出会えたからお仕えしているだけで, 本来他人に使われるのは嫌いなのさぁ.”

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🛑

オイレさん質問には答えてくれず, ははは, と空笑いして, ただ私の顔の前に指を突き出した.

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🛑

“ねぇヘカテーちゃん. 君は, ヨハン様のことが好きだよね?”

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“は, はい. . .”

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🛑

私が素直に答えると, オイレさんは私の瞳をしばらくじっと覗き込んだのち, 満足そうな顔で言い放った.

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“じゃあ, 君を見込んで3つお願いがある. いや, 正確に言うと約束, かな.”

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🛑

オイレさの声が一段低くなり, ピリリとした空気が流れる. 私は思わず冷や汗をかいた. いつも陽気なオイレさんがまじめな口調で話す時. . . それは, 何か大切なことを警告するときだ. 私は思わず唾を飲み込む.

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🛑

“. . . なんでしょうか?”

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“まず, 僕らに下った命令が, ヨハン様が発案したものじゃないときは, そのことを僕に教えてもらえるかな.”

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“わかりました.”

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“それから, ヨハン様の発案であっても, それがヨハン様のためではなく, 誰かほかの人のための命令であれば, やっぱり教えて. できれば, ヨハン様に口止めされている時でも.”

🛑

“えっと, 善処します.”

🛑

“最後にひとつ. ヨハン様はおそらくこの世界で一番といっていい聡明さの持ち主だけど, まだ18歳だ. しかも12歳からずっと塔の中に閉じ込められている. このことを忘れないで.”

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“はい. . . ?”

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“いいね?”

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連ねられる不可解な言葉に, 少し心がざわつく. なんだろう. この感覚は, 少し怖い.

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🛑

“. . . いいね?”

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“は, はい!”

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“よぉし, じゃあ張り切ってお薬売らないと! さっき部屋でだいたいの筋書きは考えたんだ. さっそく練習してくるねぇ.”

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🛑

オイレさんはばちんと片目をつぶると, 颯爽と梯子を下りていこうとする. 私は慌てて引き留めた.

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“あの! オイレさん!”

🛑

“どうかしたぁ?”

🛑

“今回のお話, 何かヨハン様によくないことになるとお思いなのですか?”

🛑

“いいや, 今回の件はヨハン様の利益になるだろうし, 僕に任せておいてくれて大丈夫だよぉ. どちらかというと今後の話だね. いざというとき行動する上で, 情報は多いほうが助かるからねぇ.”

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🛑

いつもの調子に戻ったはずのオイレさんの声に, いつもと全く違う影が含まれている気がするのは, 私の考えすぎだろうか.

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“それは. . . さっきの約束とどういう関係が. . . ?”

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“あんまり深く考えなくていいよぉ. 要するに, 僕はヨハン様だけにお仕えし, ヨハン様の利益だけを考えてるってこと. ほかの人はどうでもいい. 協力してもらうなら, 僕と同じ目的を持つ人が一番信頼できると思ったんだぁ.”

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🛑

結局, オイレさんは詳しいことは何も教えてくれなかった. さっきの3つの約束に, 何故, どんな意味があるのか, 私にはわからない. ただ, 決して見過ごしてはいけない重い約束であろうことだけは, 私はひしと感じていた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗𝟐
愛の妙薬

イェーガー方伯領の中心地, レーレハウゼン. ここに来た頃には, こんなに長くとどまることになるとは正直思っていなかった.

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大道芸は庶民にとって一番の娯楽だ. 仲間が呼び込みの音楽を奏でれば, あっという間に人が集まってくる. 他所からほかの芸人も頻繁にやってくるが, おそらく僕はもう, この街の芸人で一番の有名人. そして一番の人気者といっていいだろう.

🛑

ヨハン様のもとで隠密として働くようになってからも, 今まで芸自体は好き勝手にやれていた. 表の仕事と裏の仕事で名前が同じなのは, 隠密の中でも僕だけだ. たくさんの人の声の中から必要な情報を拾い, 頭に入れておく. 都合の良い噂が流れるように情報を台詞へ紛れ込ませる. 隠密活動にこの表の仕事を利用するときも, 交わる部分はその程度のことだった. そもそも, 大道芸とは人の関心を最大限に引き付ける仕事だ. そんなことは隠密を始める前から当たり前にやってきた.

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そんな僕にとっても, 今回の指令は結構な難題だった. 本来僕が売るのは芸や技術であって, 品物ではない.

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さて, どうやってうまく物売りにつなげたものか. 一晩考えあぐねて編み出したやり方はこうだった.

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“お集まりのみなみなさまぁー! このワタシ, 歯抜きの腕は世界一ぃ! 癒やしの天使も驚く大道医, オイレの歯抜きのはじまりはじまりぃー!”

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🛑

歯抜きにあまり薬のイメージがないとはいえ, やはり薬には医療行為が一番相性が良い. 歯抜きの最後に混ぜ込むのが最も話の道筋を作りやすいのだ.

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🛑

“かの有名なヨハネス・カッシアヌスは言いました! 暴食はすなわち肉体の罪, 色欲に次ぐ7つの大罪!”

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🛑

嘘に真実味を持たせるには, 真実から語り始めることが重要だ. 実在の人物の名前を出して, 高尚な教会の知識をひけらかす. 僕は人々を笑顔にしても, 決して自身が笑われてはいけない. 無意識の尊敬を集めていないと, いざという時に, 自分の身体を預けるなんてことはできないからだ.

🛑

僕は歯抜き師の証, 抜いた歯で作ったネックレスを, ロザリオのようにジャラジャラと鳴らしながら口上を述べる.

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🛑

“黒く染まった痛む歯は♪ 犯してしまった罪の色♪ 悪魔を払うは祓魔師様, 罪を拭うは司祭様♪ 懺悔懺悔のそのあとは, 穢れを消し去るオイレの出番♪.”

🛑

🛑

できるだけ教会に喧嘩を売らないように, 役割分担をはっきりさせておく. ただでさえ睨まれやすい歯抜き師が, 終わった後に薬を売る. . . つまり修道士の領域に踏込もうというのだ. 歯抜きは抜かれる人にとっては治療だが, 表向きはあくまで悪趣味な見世物であるていを貫かなくてはならない.

🛑

. . . 改めて, 今までにないほどの難題であることを実感し, 少し鳥肌が立つ.

🛑

🛑

“どんどん太鼓は大きくなるよ♪ 歯を抜く痛みは如何程かいな♪ あんたは勇者, それとも弱虫? 太鼓の音とあんたの声と, さてさて勝つのはどっちかな♪.”

🛑

🛑

目の前で震える今回の依頼人に, 罵詈雑言に近い発破をかけながら, 僕は頭の中で, この1週間何度も行った見世物の流れを改めて確認する.

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“準備はいいかいお兄さん♪ それ, ホーゥホーゥホーゥ!”

🛑

🛑

僕の象徴, 梟の鳴き真似. 観客が一緒に大合唱してくれる. これが僕がここで築いたものだ. 今回の仕事は僕が今までレーレハウゼンで積み上げてきた実績があって, 初めて成立する. 流れの旅芸人として各地を渡り歩いていたころにはそもそも不可能だっただろう.

🛑

🛑

“歯抜きの悲鳴は聞こえなかった! オイレの腕は世界一ぃー♪.”

🛑

🛑

さぁ, 今だ. 喝采を浴びたそのあとに, 別の口上を付け加える.

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🛑

“お集まりのみなみなさまぁ, あまりにうまくて不思議かな? しかし, しかれど, だかしかし! 歯抜きの腕は当たり前! なぜならばこのオイレ, かの有名な医師, ドゥルカマーラ先生の直弟子なのだからぁー!”

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🛑

観衆は拍手を続けながら, 少しだけ不思議そうな顔をする. だが, 冒頭で実在の修道士の名前を出しているだけに, [かの有名な]先生を知らないと表立って声をあげることはできない.

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🛑

“思えばこの世界一の歯抜き師オイレ! 歯抜きを始めて何年たったものでしょう? あの日飛び出した先生の家の門を, 今もありありと思い出せます. あんなに素晴らしい師を持ちながら, 医師の道を歩まなかったのは, 人体の中でも歯にしか興味が持てなかったからでした.”

🛑

🛑

僕はここで俳優よろしく, わざと声を落として涙ながらに[ドゥルカマーラ先生]の思い出を語った.

🛑

🛑

“このオイレ, ドゥルカマーラ先生のもとを去ったのは, かの有名な大著[人体の宇宙に関する13の研究]が刊行される直前のことでした. ワタシは心臓の機能について熱心に語る先生を見て思いました. この偉大なる知識には到達しえないと. しかし歯だけならば独り立ちできるのではないかと.”

🛑

🛑

観衆が静まり, 僕に向けられる視線が熱を帯びていくのを肌で感じる.

🛑

🛑

“どうせ独り立ちするならば, 世界一の街を目指してみたいと, ワタシはここレーレハウゼンに足を運びました. ドゥルカマーラ先生は医師の道を捨てたワタシを見送らず, それから実に10年以上, ワタシは先生と音信不通だったのです.”

🛑

🛑

僕のホラに, 数人のご婦人方が目を潤ませている. なんて純粋なんだろう, ごめんね嘘ついて. あ, 右から3番目の美人さんは終わった後ちょっとキスしてくれたら嬉しいなぁ.

🛑

🛑

“しかし! レーレハウゼンは交易の街! ついにこのオイレ, 先日ドゥルカマーラ先生との再会を果たしたのです! 先生は過去を水に流し, 立派になったとワタシを褒めてくださいました!”

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🛑

再び喝采. 僕は案外, 俳優としても生きていけるかもしれない.

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🛑

“そしてワタシは聞きました. かつて心臓の研究で名を挙げた先生は, ついに心の謎を解き明かし, [愛の妙薬]を生み出されたと! 先生は親愛の証に, このオイレにその薬を少し分けてくださったのです!”

🛑

🛑

拍手の勢いが増す. どうやら観客はこの口上が, 薬売りにつながるだろうことを理解してくれたようだ.

🛑

🛑

“意外や意外, この妙薬♪ なんと紫色の塗り薬♪ 毎日肌に塗り込めば, 傷もあばたもぴっかぴか♪ 手にした美貌であの人の心をその手に♪ それこそドゥルカマーラ先生の大発明ぃー!”

🛑

🛑

あくまでこれは[愛の妙薬]. 薬と名がついていても言葉の綾であり, 肌の薬. . . つまり医薬品としての位置づけではないというニュアンスで語る. しかし, [美]といった途端に, ご婦人方が色めき立った. シュピネは娼婦が買うと言っていたらしいが, 一番買う気満々のあの子は金物屋の娘だ.

🛑

🛑

“この妙薬の効き目には, 男女の区別はないけれど♪ どういうわけだかごくたまに, 合わない人もいるみたい♪ まずはいったん塗ってみて, かゆみや赤みが出てきた人は♪ [愛の妙薬]効かぬ人♪ 薬の力は諦めて, 神に祈りを捧げよう♪.”

🛑

🛑

観衆に困惑の波が広がったのを確認してから, 僕は最後の仕上げにかかる.

🛑

🛑

“しかし, しかれど, だかしかし! かの先生の直弟子は, 人の健康, 一番大事♪ お金儲けに薬は売らない♪ まずは一丁, 買う前に, 試してみてはいかがかな? さぁ, 1日分なら無料だよ♪ 欲しい人は並んだ並んだぁー!”

🛑

🛑

面白いように僕の言葉についてきてくれる観衆を見ながら, 僕は大きな仕事をひとつやり遂げた充足感で, 舞台上にもかかわらず本物の笑みを浮かべてしまっていた. これでヨハン様の懐も潤うだろう. まぁ, 僕にとって一番大変なのは, まだまだこれからだけれど.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗𝟑
塔の幽霊

“ヘカテー, いるか?”

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“はい, ただいま!”

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🛑

部屋の扉が軽くノックされ, 声がかけられる. 塔での生活が始まって二月ほど経つが, 部屋にヨハン様が訪ねてくるのは未だ慣れない.

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🛑

“居館での情報が手に入ってな, 使用人の間では早くも面白い噂が流れているようだぞ.”

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扉を開けると, ヨハン様は随分と楽しそうな顔をされてそこに立っていた.

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“どういった噂なのでしょうか. . .”

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“なんでも, 南の塔で殺されたメイドの幽霊が, 夜な夜な城を徘徊しているそうだ. その彷徨える霊魂を塔の悪魔が操って, 呪いに利用しているんだと.”

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“ええっ?!”

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🛑

事実無根にも程がある. 私は南の塔で殺されることなくここで生きているし, ヨハン様は別に悪魔ではない. もちろん幽霊を呼び出して人を呪ったりもしないだろう.

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🛑

“おそらくだが, 食事を届けに来たメイドがお前の気配を感じたんだろう.”

🛑

“メイドが来る時間帯には, できる限り静かにしているつもりだったのですが. . .”

🛑

“いや, 俺も静かにしていると思ったが, 思いのほか勘のいい者がいたようだな. しかし, この噂をきっかけに, クラウスがお前が生きていることに気づくと困る.”

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🛑

困る, と口では言いながらもヨハン様は相変らず楽しそうだ.

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🛑

“でも何か, 策がおありなのですね?”

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“ああ. こうなったら逆に一芝居打ってやろうと思っている. 来い.”

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🛑

ヨハン様はくくっと笑い声を洩らしながら, 私を二つ隣の部屋に案内した.

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🛑

“お前はこの部屋に入るのは初めてだな. 以前は見せるのを躊躇していたんだが, ここでずっと暮らすとなればいずれ知らずにはいられまい. 驚いても声を上げるなよ?”

🛑

“はい. . . !”

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初めて調理場の解剖を見た時のことを思い出しながら, 私はどんなひどい光景が飛び込んできても声を立てないよう覚悟を決め, 両手で口を押えた.

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キィ, ときしんだ音を立てて扉が開くと. . . そこは異様な空間だった.

🛑

部屋のいたるところに置かれた, 骨, 骨, 骨. 鳥や小動物に交じって, 中には明らかに人間のものと思われるものもあった. 壁には大量の解剖図が張られている. 端に寄せられた大きめのテーブルの上見やると, 置かれている陶器には[心臓][肺]といった紙が貼られていた. どこもかしこも死体だらけで, 事前に言われていなければ悲鳴を上げてしまうところだ.

🛑

🛑

“この部屋は, 解剖後の死体を保管している部屋でしょうか?”

🛑

“ああ, 以前はここまで多くはなかったんだが, ウリを仲間にしてから解剖がはかどってな.”

🛑

“ウリ. . . ヤープの父でしたね. その割に異臭がしませんね. セージでも焚いているのですか?”

🛑

“いや, 東方の酒を作れるようになってからは, 取り出した内臓を塩漬けだけでなく, 酒に浸けて保存することもできるようになったんだ. そうすると形が変形しないだけでなく, ほとんど臭いがしない.”

🛑

🛑

そういうと, ヨハン様は床に横たえられた一体の骸骨を指さした. 教会のステンドグラスで見るような, 全身がそろったものだ.

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🛑

“これは, 無縁墓地の掘り起こしで出てきたものをウリに譲ってもらい, 俺とオイレで組み立てたものだ. お前より大柄だが, 抱えてしまえば大きさはあまりわからないだろう?”

🛑

🛑

なんとなくヨハン様がされようとしていることを理解して, 思わず顔が引き攣る.

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🛑

“まさかと思いますが. . . それに服を着せて, 私の幽霊のフリをさせると?”

🛑

“やはりお前は理解が早いな. まぁそういうことだ. 正確には, 噂の内容を[哀しみに耐えかねた俺がお前の死体を手元に保管している]というものに塗り替えて, クラウスのもとまで届けたい. 下手に偽物の幽霊を作っても, あいつは見破りかねんからな.”

🛑

“あの. . . さすがに不謹慎ではないでしょうか. . . その方に失礼では?”

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“別にこれで遊ぶわけではないぞ. 芝居を手伝ってもらうだけだ.”

🛑

🛑

結局, 私の力ではヨハン様を説得することなどできず, 終わったら一緒にその方へ祈りを捧げるということで妥協した.

🛑

そしてその夜. 私はヨハン様の私室の奥で隠れ, 一部始終を見守ることとなった. 今日の当番は本当に可哀そうだ. どうか恐怖に鈍感な人が来ますようにと願う.

🛑

誰かが階段を上がってくる音が聞こえると, ヨハン様は私の服を着せた骸骨を膝の上に座らせて, 語りかけるように一人芝居を始めた.

🛑

🛑

“ヘカテー, 昨日はこの本を読み終えたんだ. なかなかに面白かったぞ. 一緒に読むか?”

🛑

“いや, お前は物語のほうが好きだったな. こんな本に興味はないか. お前を楽しませるにはどうしたらいい?”

🛑

“そうだ, 兄上に首飾りをもらったそうじゃないか. 今度俺からも何か贈ろう. その綺麗な黒髪に映えるような髪飾りがいいな.”

🛑

“ああヘカテー, なんで返事をしてくれないんだ?俺はもっとお前の声が聞きたいのに.”

🛑

🛑

わざと大きめの声で話していたヨハン様は, 扉の外の足音が止まったところで, 服を着せた骸骨を両腕に抱えて立ち上がる.

🛑

🛑

“そうだ, そろそろ食事が届く時間だな. ヘカテー, 一緒に食べよう. お前の顔を眺めていると, 食事も数段美味く感じる.”

🛑

🛑

そんな似つかわしくない台詞を吐きながら, ヨハン様は扉を大きく開けた. 一瞬遅れて, 外で鉢合わせたらしい誰かの悲鳴が塔に響き渡る.

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🛑

“ああ, まだいたのか. ご苦労だったな.”

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“ももも申し訳ああありませんっ!!”

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“気にする必要はない. だが, 俺たちは静かに過ごしたいんだ. 届け終わったならもう帰ってくれるか?”

🛑

“もちろんですっ, すみませんでした!!”

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🛑

可哀そうな当番が走り去っていくと, ヨハン様はかごを持って部屋に戻ってこられた.

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🛑

“さぁヘカテー, 食事にしようか.”

🛑

“はい. . .”

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🛑

本物の私に向けられたのは最後の一つだけ. 私は甘い言葉を囁かれる骸骨に嫉妬している自分に気づき, 少し情けなくなった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗𝟒
知識を持つ者

“服を借りてしまって悪かったな.”

🛑

“いえ. . . そちらはもう, ご自由にお使いくださいませ. 用途はないかもしれませんが.”

🛑

🛑

ヨハン様は借りるとおっしゃったが, さすがに一度骸骨に着せた服をもう着る気にはなれない. 服として使うことはなくとも, 布に戻せば使えるだろうと思い, そのまま差し上げることにした.

🛑

🛑

“そうか, では遠慮なくもらっておく.”

🛑

🛑

ヨハン様はそういうと, 骸骨を部屋の隅に置いて, テーブルにつかれた. 私はそれを横目に食事の配膳をし, そっと向かいに座る. ヨハン様と同じテーブルで食事をするのはいまだ不思議な気持ちだが, 塔に戻ってきてから回数が増えたため, 幾分か慣れてきた.

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🛑

“あの塗り薬だが, ひと月経っていないというのに凄い売れ行きだそうだ. 買う前に必ず試させているが, 肌に異常が出たものは今のところいないらしい.”

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“それは良かったです. 結局化粧品として売っているのでしたよね.”

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🛑

食事中, 話題になるのはやはりこの間の薬のことだ.

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🛑

“どちらともとれるようにぼかした売り方をしていると言っていたな. そのおかげで娼婦だけでなく, 老若男女問わず人気を得ているらしい. オイレはいつも俺が要求する以上のことをやってくれる.”

🛑

“オイレさんはさすがですね. ちなみに, 野草が原料になっていますが, 材料は足りそうなのですか?”

🛑

“ああ, 幸いかなりの量が生えているから今のところ大丈夫だが, 取りつくさないように注意している. 今後は少し出荷量を調整するつもりだ. とはいえ, もともとそれを見越して高級品として売っているから, 調整後もそこまで売り上げに変動はないがな.”

🛑

“栽培するにも時間がかかりますもんね. 希少な品だと思います.”

🛑

🛑

女性たちを間接的に詐欺から守ると同時に, ヨハン様のいざという時に役立てられる財源を確保する. そんな一石二鳥のお話が早くも結果を生んでいるのを聞いて, 私は安心した.

🛑

ヨハン様の今のお立場は危ういものだ. しかし, 経済的な安定はもちろん, いつかタイミングを見て薬の考案者を民に知れ渡らせられれば, ヨハン様がいずれ塔を出て領地を持たれることになっても, 領民の心はヨハン様についていくだろう.

🛑

🛑

“今回は化粧品という形でしたが, 事前に試すという方法を取れば, 他の薬も売れるようになるでしょうか. 以前おっしゃっていた痙攣と痛みの薬などは, 需要も高そうに思います.”

🛑

“いや, しばらく薬からは手を引くつもりだ. 前にも言ったが, 俺は薬がなぜ効くのかまで理解しきれていない. あの本には人体の仕組みと内臓の機能についても記されていたが, 実際に腹を裂いて見た中身とは一致していなかった. ガレノスのように他の生き物の解剖をして書いたというわけですらなさそうだ. 結果だけがあっても, 理屈がわからないことには迂闊に手を出せん.”

🛑

“では, 薬学についてはこれ以上研究なさらないのですか?”

🛑

“いや, もちろん異国の知恵は貴重だ. ただでさえ実際に作った薬が効果を出しているのに, 治療する手段を捨ておく手はない. だから, より詳しい知識を得られるまで時期をみようと思っているだけのことだ.”

🛑

🛑

ヨハン様はそこまでお話になると, 少しワインを口に含み, 温かいまなざしで私を見られた.

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🛑

“ヘカテー, 以前俺が, 何故医学を志そうとしたのか, 話をしたのを覚えているか.”

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“ええ, もちろんです.”

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当然忘れようもない. あれは私が初めてヨハン様に食事に誘われた時だった.

🛑

悪魔, 血狂いと不名誉な噂ばかりが流れているこの方が, そんな侮辱をものともせず自らの志す道を突き進まれるようになったきっかけ. それは, 幼いころにお姉さまを杜撰な医療で亡くしてしまったことだと, あの日ヨハン様はお話しされた. 私は, その話に心を痛めつつも, 一人孤独な戦いに身を投じていたこの方が, 寂しげな瞳で過去を打ち明けてくださったことを, 少し誇りに思ったものだ.

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🛑

“あの時, 俺に姉上の病状について解説した学者がいたと言っただろう. うちと懇意にしている貿易商が, そのまた知り合いの商人の紹介で連れてきたジブリールいう学者でな. . . なんとか, 手紙を介しての形でも良い, 彼を引き込めれば研究が進むのではないかと考えているのだが. . .”

🛑

“連絡先はわかっていないのですか.”

🛑

“ああ. 彼はイスラームを信ずる者で改宗もしていなかったからな. もともとここに連れてこられたのも奇跡的だったんだが, 戦争が始まってからはとんと接触する機会を得られていない.”

🛑

🛑

戦争とは, 2年前, 異教徒から聖地を奪還するために呼びかけられたものだ. 私たちの属する帝国のみならず, 同じキリスト教を信じる各国による連合軍が結成されている.

🛑

ヨハン様がお姉様を亡くされたのは10歳の時, つまり今から8年以上前だと伺っている. 混乱に紛れて行方がわからなくなってしまったのだろう. 隠密の力をもってすれば調査もできるかもしれないが, さすがにヨハン様の[ご趣味]の範囲では, そこまで力を投じることはできない.

🛑

🛑

“時期を見る, ということは, ヨハン様はこの戦争と運動が, いずれ沈静化するとみておいでなのですか?”

🛑

“いいや. 残念ながら, むしろ激化していくと俺は思っている. すでにこれはただの宗教的な戦争ではない. 多くの利権が絡みすぎてしまった. 移住により得られる経済的・物質的利益を目的とした参加者が増え, 単なる侵略戦争へと姿を変えていくだろう. しかも相手は大国だ. 回数を重ねるごとに泥沼化していくはずだ.”

🛑

“では, ジブリールさんにお会いするのは益々難しくなってしまうのではないでしょうか. . .”

🛑

“そうだな. だが幸いなことに, ジブリールを紹介したキリロスというギリシア商人にはまだ伝手がある. ギリシアは宗教的対立がないから, 今だ交易ができている状態だ. 奴を介して彼に接触する機会を探ろうと思っている.”

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🛑

普段あまり使われない[彼]という代名詞に, 私はヨハン様がジブリールさんに抱いている無意識の敬意を感じた. ご領主様に紹介されるということは実際に高名な学者なのだろうが, ヨハン様は対外的な評価をあまり気にされる方ではない. つまり, それだけ実力のある, 頼りになる方だということだ.

🛑

🛑

“キリロスさんとは, 今もときどきお会いになられるのですか?”

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“年に1~2回, 交易品を届けにうちを訪れている. その時に直接話してみるつもりだ. それに, 諸外国を渡り歩くキリロスの知識も十分役に立つものだからな. 薬学の知識そのものはなくとも, 手に入らなかった材料のことや, お前の祖父の本の出どころなど, 何かわかることがあるかもしれん.”

🛑

“あの, キリロスさんには私もお会いできるでしょうか.”

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“言われずともそのつもりだ. 奴は賢い, お前の存在を知ったところでそれを漏らせばうちとの間に重大な亀裂が入ることぐらい理解できる. 利益で動く商人のことだ, そんな阿呆な真似はせんよ.”

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🛑

私に流れている血の半分は帝国であり, ギリシアの血はさらにその半分でしかない. しかしそれでも, 自分と同じ血の流れる人物に合える機会が楽しみでならなかった.

第10章 医療と信仰
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗𝟓
隠密見習い

それから数日後の夜. 久しぶりにヤープがやってきた.

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“あ, メイドのねーちゃんだ! すっげー久しぶりじゃん!”

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“こら, ヨハン様の御前だろうが!”

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🛑

夜になったら来るよう言われていた私がヨハン様の私室を訪れると, ヤープは私の姿を見て砕けた調子で声をかけて, さっそくラッテさんが拳骨を食らわせている. 緊張感あふれる隠密の報告中にはそぐわない, のどかな光景に, 思わず笑ってしまった. つられてヨハン様も苦笑している.

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前にヤープにあったのは, ヨハン様に初めて会わせた時だった. あの時は冷や汗をかきながらたどたどしく応対していたのに, いつの間にかこんなに気を抜くほど馴染んでいたとは.

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“久しぶり, ご報告が終わったらお話ししようね?”

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小声で答えると, ヤープは殴られた頭を痛そうに抑えつつもにこにこと頷いた.

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“そういえばヘカテーは前に塔を去ってからヤープに会っていなかったな. 今日はラッテの報告ついでに解剖用の死体を届けてもらっただけだ. もうさほど話すこともないから気にせずとも良い.”

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“”ありがとうございます!”.”

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同時に返事をする私たちを見て, ヨハン様は少し相好を崩される.

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“今後, 解剖を行う際にはヤープも参加させようと思っている. お前を呼んだのは, 引き合わせついでに, そのことを告げようと思ってな.”

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“ヤープをですか?”

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ヤープは賤民だ. 確かに年の割にしっかりしていて賢い少年だが, 読み書きどころか言葉遣いも危うい. 医学からは遠い存在に思えた.

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“よく考えればこいつは皮剥ぎ人, 目的は違えど刃物仕事に慣れている. 作業の手伝いとしては適任だろうよ. ラッテ, 解剖や医学については話しているか?”

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“はい. 概略しか話していないので, どこまで理解しているかはわかりませんが, ヨハン様のお志については伝えております.”

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“ならさっそく, 明日はヤープを借りるぞ. ウリへの伝言を頼む.”

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“は.”

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“えっと, 不慣れゆえ, ご迷惑をおかけするかもしれませんが, 頑張りさせていただきます!”

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🛑

ラッテさんに仕込まれたのだろうか. まだおぼつかないところはあるものの, 以前よりかなり敬語も上達しているようだ. 知らぬ間にこの小さな友人が成長していたことをほほえましく思いつつも, 私は少しオイレさんのことが気になった.

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“確かに, 皮剥ぎ人の技術は解剖に応用できそうですね. そして, 解剖ということは, 明日はオイレさんもいらっしゃるんですね?”

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“いや, 今回はあいつは呼ばない. 塗り薬の時もそうだが, 最近あいつに頼む仕事が少々多すぎた. 自分の趣味の手伝いまで甘え続けるわけにもいかん.”

🛑

“そういうことなら仕方ありませんが. . .”

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その返答に, 私はなぜか少し不安を感じた.

🛑

以前からヨハン様は, 隠密の中でも特にオイレさんがお気に入りなのだろうそぶりを度々見せていたので, ご本人としては甘えすぎないように注意していらっしゃるのかもしれないが. . . 先日のオイレさんとの会話で, 彼の意図をまだ測りかねているせいだろうか. なんとなく, ヨハン様とオイレさんをあまり離しておきたくないような気がするのだ.

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すると, 私の悩む様子を察してか, ラッテさんが口を開いた.

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“ヨハン様. 失礼ながら, オイレは何かお気に障るようなことでもしでかしましたでしょうか?”

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“いや, 全くそんなことはないが, どうした?”

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“オイレを引き入れたのは私です. あいつはヨハン様の医学に貢献したいという気持ちがことさらに強く, わざわざそれ故に隠密になったようなものです. 別途ご命令された仕事と重ならない限りは, どんな事情があろうと喜んで参加するでしょう. 次回以降は是非, オイレもできるだけ傍に置いてやってください.”

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“そうか. . . わかった, そうしよう.”

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“ありがとうございます. 差し出がましい発言を失礼いたしました.”

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“構わん. 気になったことがあればいつでも言え. 今日はもう, 下がってよいぞ.”

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“は.”

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特に引き留められもしなかったので, 私も二人と一緒に部屋を出た. 出るなりヤープは上機嫌で話しかけてくる.

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“メイドの. . . じゃなくて, えっと, 貴族のねーちゃん! 俺, 隠密になったんだ!”

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“何言ってんだ, お前はまだ見習いだよ!”

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🛑

私が[貴族のねーちゃん]を訂正する前に, すかさずラッテさんの拳骨が飛ぶ. でも, 常日頃殴られなれているヤープはさして意に介さない様子だ.

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🛑

“確かに今は見習いだけどさぁ. . . まさかご領主様のご子息にお仕えするなんて夢にも思わなかったんだ! 父ちゃんと一緒に大出世だよ! だから, 紹介してくれたねーちゃんには, ずっと会いたかったんだ!”

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“そんな, 紹介したのはラッテさんでしょう? [頭巾のおっちゃん]に声かけられたって言ってたじゃない. 私はヨハン様のもとに案内しただけだよ.”

🛑

“それでも, ねーちゃんがいなきゃ今も死体を受け取るだけだったって, みんな言ってるもん.”

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“みんなが?”

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“うん. ラッテさんも, 他の隠密のみんなもそういってた. あと, 父ちゃんも!”

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“そ, そっかぁ. . .”

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🛑

ヨハン様に言われて, 半分騙すように塔の中へ案内しただけなので, あんまり感謝されると居心地が悪い.

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🛑

“しっかしなぁ, 隠密になるのを[出世]と考える奴がいるたぁ, 夢にも思わなかったぜ. 俺にとっちゃ, 世間からはみ出した奴らの最後の砦ってとこだったんだがなぁ. . .”

🛑

🛑

ラッテさんも困惑気味にこぼす. 隠密の方々の過去はあまり知らないが, 基本的に表に出せないような仕事を請け負う方々だ. あの陽気で穏やかなオイレさんでさえ, 躊躇なくカールさんを殺害し, ケーターさんを拷問にかけていたのを私は知っている. 脛に傷を持つような方々が集まるのは必然だろう.

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🛑

“そういえば, ヤープは親子で隠密になったのよね?”

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“うん. 俺は見習いだし, 父ちゃんは隠密っていうよりただの協力者だけど.”

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“じゃあ二人とも, もう皮剥ぎ人や刑吏の仕事はやらないの?”

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私がそういうと, ヤープは幼い顔に少し翳りのある微笑を浮かべた.

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“いや, さすがにそっちの仕事は無くなんないよ. でも, 生活に困らなくなったのと, 未来のご領主様のお役に立ててるっていう, ホコリ?が持てたってこと.”

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🛑

ヤープの少し危なっかしい発言に, 思わずラッテさんの様子をうかがったが, 黙認しているようだった.

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“ヘカテー, 塔の中でくらい, 夢を見させてやろうや. ヨハン様だって, 家督は継がれなくても, どっかのご領主様にはなるんだろうしな.”

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“そ, そうですよね.”

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“俺は昔から学問の方はからっきしだからよ, 明日の解剖には付き合わねぇが. . . ヤープのこと, 頼むよ.”

🛑

“ええ, もちろん. 解剖は久しぶりなので, 友人が傍にいるのは私も心強いです.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗𝟔
刑吏の子

解剖は翌日の昼から行われた. 動物の解剖は以前塔にいた時に何度か見て慣れていたが, 人間の解剖を見るのはまだ2回目. 私は今も遺体に刃を入れることに対する忌避感がないわけではない.

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調理場の台の上に横たわるのは小柄な男性だ. ウリさんに届けられたということは, 自殺者の遺体である. がりがりに痩せて, 眼が落ちくぼんでおり, 顔を含めてそこら中に殴られたような痣がある. おそらく生活が苦しかったのだろう. 貧困に追い詰められて死を選んでしまったのだろうと思われた.

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カールさんはおそらく, ティッセン宮中伯の隠密だった. ヨハン様配下の隠密の方々とお話していてもわかるが, 隠密は自らが社会からはみ出した存在であることを自覚しているし, 他人の命を奪う代わりに, 自分の命も奪われる可能性を常に覚悟している. だからこそ, その亡骸に刃を入れることに対しても, 暗黙の了解を得ているようなつもりで解剖に参加できた.

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しかし, 今目の前にいる人はそうではない. 民間人だ. もちろん, 自殺が罪であることや, その罪を犯せば, 教会の敷地内に眠ることができないことなど誰でも知っているので, そういう意味では[覚悟]もしていたかもしれないが. . . 首元についた鮮やかな縄の跡と, 対照的にどこか安堵したような表情を前にすると, 彼の身体を傷つけることを厭う気持ちが生まれてしまった.

🛑

🛑

“ヘカテー, 嫌だったら参加しなくても良いぞ. 部屋で読書でもしていろ.”

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そんな私の様子を察してか, ヨハン様が声を掛けてくださる.

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以前にも似たようなことを言われた. あれはカールさんの解剖でできた傷を縫い合わせようとした時のことだ. あの時もヨハン様は, 無理をするなと言ってやめさせようとした. それを押し切って最後までやり遂げたのは私の選択だった.

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🛑

“俺の研究を手伝うなら紙の上の知識だけで十分だ. 俺はもう弁解の余地がないほどに手を汚してきた. 今更, 罪がどうこうと考えることもないが, お前は違う.”

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ヨハン様は少し自嘲気味にそうおっしゃった.

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本当に何も感じていないなら, わざわざ手を汚すだの罪だのと言及するはずもない. この方は, 悪魔と蔑まれ, 葛藤を抱えながらも, 歩みを止めることを自らに許していないだけだ.

🛑

私は自分の両頬を手ではたいて気合を入れ, 答えた.

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🛑

“この人の身体もまた, 未来の医療の礎となるものです. 自殺という罪を犯してしまっていても, 間接的に多くの人の命を救うことになれば, 天国の道が開けるかもしれません. 解剖はこの人にとっての救済措置です. 刃を入れる勇気を私はまだ持てませんが, お傍でお手伝いをさせてください.”

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🛑

私の返答にヨハン様は目を瞠り, そして伏せる. しかし, その口元には微かな笑みが浮かんでいた.

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“. . . そうか. では始めよう. ヤープ, まずは鎖骨下あたりから大きくY字状に切れ. へそまで行ったら, 上下反転したY字で腹の下までだ.”

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“かしこまりました.”

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🛑

ヨハン様が切り方を指で指し示し, ヤープによって刃が入れられる. やはり日ごろから皮剥ぎの仕事をしているだけあって, 見事な刃物遣いだ. 小さな手に握られたナイフは, 何度も小刻みに動かされ, 泳ぐように滑らかにYの字を描いていく. 突っかかったりすることもなく, 血もあまり出ない.

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🛑

“切った線に沿って皮膚と脂肪を剥がしたら, 次は肋骨を開く. 鉗子を使え.”

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“はい.”

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ミシミシ, カンカンと嫌な音を立てながら, 肋骨が折り切られていく. 全てを切り終えて下半身側に持ち上げると, 肋骨が屋台骨のようになって板状の筋肉を押し上げ, 身体の内側を明らかにした.

🛑

🛑

“以前拝見した時よりも, 随分と手際が良いですね.”

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“ああ, あれから何度か人体の解剖を行って, 一番効率の良い切り開き方を研究した. 肋骨を使って肉を押し上げ, 蓋を開けるように開くのはオイレの案だ. あいつは歯抜きの際, 口腔が外側に展開するようにできていたら良いのにと, いつも思っていたらしい. 今は口を開きっぱなしにする器具を作ることを考えているそうだぞ.”

🛑

“たしかに, 口の中を覗き込んでの作業は大変ですものね.”

🛑

“さて, 中身が見えるようになった. ここから先は俺がやろう.”

🛑

“はい!”

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🛑

今度はヨハン様が場所を代わり, 各臓器の観察に入る.

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🛑

“やはり, ヨハン様は心臓が一番気になるのですか?”

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“ああ. ガレノスが言うには, 血液を作り出し, 体中へ運ぶ器官だ. 血液には2種類あり, 肝臓で作られた栄養に富む静脈血と, 心臓で作られる動脈血に分かれるのだが, 動脈血にはあまり言及がない.”

🛑

“さして重要な役割ではないということでしょうか. . .”

🛑

“いや, その割に, 心臓の鼓動が止まれば命を失うだろう? 何らかの重要な役割をもっていることは間違いないのだが. . . 止まっている状態で眺めていても仕組みが良くわからんのだ. かといって動いている状態を観察する機会など得られんしな.”

🛑

🛑

すると驚いたことに, ヤープがおずおずと手を挙げた.

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“あの. . . よろしいでしょうか.”

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“何だ?”

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“血は確かに2種類ありますが, どちらも心臓から出ていきます. 体内を巡る前と後で, 血の色が違うだけです.”

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🛑

ヨハン様もガレノスも知らなかった知識を, この無学なはずの少年は平然と口にしたのだった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗𝟕
流れる血の差異

ヤープの衝撃的な発言に, ヨハン様は興奮した様子で詰め寄られた.

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🛑

“お前, いったいどこでその知識を得た?!”

🛑

“えっと, 父ちゃ. . . ウリから聞きました. 刑吏の間では常識だそうです. 人間のものではありませんが, わたしも動いている心臓は屠殺の場で何度か見たことがあります. 動物を締めた後, しばらく心臓が動き続けることはあるので.”

🛑

“なるほど, 刑吏の間の知識では世に出回らないわけだ. . . 体内を巡る前と後といったが, どういうことか?”

🛑

“心臓に繋がっている管は2種類あります. 心臓から血が出ていくための管と, 戻ってくるための管です. どちらも身体の末端で折り返します. よろしければ, ご自身の手首の内側を見てみてください. 青っぽく透けているのが, 戻ってくる方の管です.”

🛑

“ガレノスはそれを肝臓で作られた血だと書いていたのだが. . . 心臓から行きっぱなしで消費されるのではなく, 循環しているのか.”

🛑

“はい. それから, 出て行く方の管は切ると血が勢いよく噴き出しますが, 戻ってくる方はそうでもありません.”

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🛑

血は循環している. それは驚きの知識だった.

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刑吏の持つ人体についての知識というのは馬鹿にすることはできない. 罪人の処刑はもちろん, 拷問を行うのも仕事だ. 特に拷問では, 受刑者が命を落としてしまわないよう加減を調整し, 時には受刑者の治療を行うこともあるという.

🛑

つまり, 誰よりも. . . 下手をしたら床屋よりも, 人の身体に触れ, その扱いに長けている者たちである. 賤民である彼らが書物によってその知識を遺すことこそないものの, よく考えれば口伝によって伝わっている知識はあって当然だった.

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子供のうちからそんな話を当たり前に聞かされて育つヤープの身の上を思うと少し胸が痛むが, 通常であれば社会から隔絶され, 貴族はおろか一般市民すら決して触れることのない彼らの知識がヨハン様のもとまで届くという奇跡を思うと, ヤープがヨハン様の配下になったことの重要性を思い知らされる.

🛑

🛑

“しかし. . . 何故循環するのだろう.”

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ヨハン様が素朴な疑問を漏らす.

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“戻ってくるからには, 戻す意味があるということだと思うが. . . 食べ物から血が作られるのなら, 使い終わったものは消費しないと血が増え続けて身体が破裂してしまうはずだ. いったいどういう仕組みになっているのだろうか?”

🛑

“すみません, そこまではわたしもわからないです.”

🛑

“今度ウリに訊いておいてくれ. しかし, 刑吏の知識とは盲点だった. よく考えれば, 処刑も拷問も作業内容的には解剖に近い. 本当はウリもこの場にに参加させたいことだが, すぐ予定を合わせるのは難しいだろうな.”

🛑

🛑

もし完全に隠密に転職してもらえるならば, 身を隠しながら城に来てもらえばよいのだろうが, 刑吏は”人の死.”に関するあらゆる仕事を請け負う. 処刑や拷問だけなら頻度は高くないが, 自殺者の埋葬や無縁墓地の管理, 皮剥ぎ人としての副業, 人によっては娼館の管理も行っており, 仕事が大量にある上に代わる者がいない. 彼らは蔑まれつつも, 社会になくてはならない存在なのだ. ヨハン様としても, 迂闊にその仕事を奪うわけにはいかないのだろう.

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🛑

“. . . ただ, わたしも皮剥ぎの仕事でよく目にしますが, 心臓から赤い血が出ていき, 青っぽくなって戻っていくのはどの動物も同じだと思います. 流れる血にあまり違いはないように思います.”

🛑

“流れる血に, あまり違いはない. . .”

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🛑

私は思わずドキリとして, その言葉を鸚鵡返しにした. 無論, ヤープが言ったのはあくまで物理的な血の色の話だ. しかし, 自分に流れる4つの国の血, 貴族である母の血と, 下級騎士から商人になった父の血と. . . 私にとって[血]というのは自己を象徴するものでもある.

🛑

公にできない出自が判明し, 存在しない人間としてこの塔に閉じこもるようになってからは余計にそのことを考えるようになっていた. 自分は果たしてどこの国の者なのか, そして自分は貴族なのか平民なのか. ヨハン様は私が何者であろうと気にしないで接してくださるし, それは隠密の皆さんもそうなのだが, だからと素直に消えてくれるような疑問ではないのだ.

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🛑

“ヘカテー, 何か思うことがあったか?”

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“あ, いえ. . . 本当に違いはないのだろうかと思いまして.”

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🛑

ヨハン様の声で現実に引き戻される. そして, 医学的な意味での[血]について考えることにした.

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“そもそも血とはいったい何なのでしょう. 何故主なる神は, 私たちの身体をこの液体で満たされたのでしょうか.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗𝟖
天国の門

“ほう, 血とは何か, か. 摂取した食事から取り出した生命力と思っていたが. . . 確かにヤープの話と掛け合わせると, それだけではなさそうだな.”

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🛑

ヨハン様も思案顔になる. そして, ふいに手で水鉄砲の形を作ると, ぷしゅ, と空気をふき出させられた.

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🛑

“以前, 解剖で取り出した心臓を2つに割ってみたとき, 内部には4つの部屋のような空洞があった. 単に血を作って送り出し, 循環させるだけなら, 空洞は1つで足りるはずだ. 4つの部屋は2つずつ1対になっているようだったから, 動脈血を送り出す部屋と, 静脈血を受け入れる部屋に分かれているのだろう.”

🛑

“それは, [血とは何か]という疑問にどうかかわってくるのでしょうか.”

🛑

“いや, 直接の回答にはならんな. しかしこの心臓の構造から言えることは, 血が最初から2種類あるのではなく, 何らかの理由で動脈血が静脈血に変化し, この2つを混ぜてはならないということだ. このあたりに手がかりがありそうだ.”

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🛑

ヨハン様は丁寧な手つきで, 遺体から心臓を持ち上げ, 選り分けるようにして繋がっている管を手繰る.

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🛑

“ガレノスの論では, 肝臓で作られた血の一部が心臓に受け入れられ, 更にその一部が肺の栄養に使われる. 血を作り送り出す仕組みは, 肺と連動しているのかもしれん. そこの仕組みまでわかったら, そもそも血が何のためにあるのかもわかりそうなものだが.”

🛑

🛑

今, ヨハン様の頭の中ではどんなことが行われているのだろう. 臓器の構造が映像が浮かんでいるのか, それとも読んだ書物の文字が見えているのか. 私にはこの博識で聡明な方の思考についていくことはできないが, もしその頭の中を少しでも覗き見ることが叶うならどんなに良いだろう.

🛑

いや, できもしないことを願うよりも, 自分にもてるだけの力で少しでもこの方をお助けするしかない. 私はヨハン様と過去にした会話を思い起こしていると, ふと気づいたことがあった.

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🛑

“ヨハン様. 以前, 人体とは一種の宇宙だとおっしゃっていましたよね?”

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“ああ, それがどうかしたか?”

🛑

“人体を宇宙に例えるなら, 液体である血は水, 血が通る管は川になると思うのです. すると, 川を流れるのは必ずしも水だけではありません. . .”

🛑

“そうか! 川の中を魚が, 川の上を船が移動するように, 血によって何かが運ばれているということだな? 水を基に内包する成分が変わると考えれば, 四体液説とも矛盾しない.”

🛑

🛑

ヨハン様は, 私が気づいたことを一瞬で理解してくださった. そう, 川とは単なる水の流れではない. 魚が住み, 水草が生え, 小石が転がり. . . 水以外のものもたくさん含まれている. そして人々は川で魚を獲ったり, 交通手段や運搬手段として利用したり, ときには水車の動力源として利用するのだ.

🛑

🛑

“すると肺につながっていることも合点がいく. 血管とは, 肺から取り入れたプネウマを身体中に行き渡らせるための川. . . そして血は川を流れる水であり, 身体の各器官は川からプネウマという魚を獲るのか. これはどの文献でも見なかった, 面白い発想だぞ!”

🛑

🛑

ヨハン様はいよいよその瞳をキラキラと輝かせて語られる. 私のちょっとした思い付きが, ヨハン様の頭の中を整理するのに役立ったならとても誇らしい.

🛑

🛑

“私はプネウマのことまでは考えられておりませんでしたが, おっしゃる通りかと思います. 血管が見えないような場所でも傷がつけば血が流れるのは, 地下水脈のようなものもあるのかもしれませんね.”

🛑

“そうだな. 血管は辿っていくと, 心臓からや各臓器から離れるほどに細くなっていく. おそらくだが, 途中で途切れているわけではなく, 俺たちの目に見えないほどの細さになって肉の下に潜っているのだろう. . . これらのことも刑吏の間には伝わっているのだろうか. 是非ともウリに確認してみたいところだな, ヤープ?”

🛑

“かしこまりました. 帰り次第聞いてみて, わかったらご報告に上がります!”

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🛑

ヤープも嬉しそうな顔で応えた. 私たちはお互い目配せをして, ヨハン様のお役に立てたであろう喜びを分かち合う.

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🛑

“とはいえ, 今言ったことはすべて憶測にすぎん. 今日はできる限り血管を写し取ることに注力しよう. 解剖を続けるぞ.”

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🛑

笑顔を浮かべつつも, ヨハン様は冷静だった. しかし, 今日が今後の医療に大きく貢献する日であるだろうことを, 私は確信できていた.

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私たちは暗黙の了解で, 目の前の遺体に改めて一礼し, しばし黙祷を捧げる. この方の天国の門は開かれただろう. 私たちはその恩恵を, 責任をもって生かさなくてはならない. 今回の解剖は長くなりそうだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟗𝟗
記す言葉

血管の観察は非常に難しかった. 何しろ, 腐敗という期限があるにもかかわらず, 血管は量も複雑さも尋常ではない. 個々の臓器であれば, 今までのように切り取ってお酒につけておくことができたが, 血管はそうもいかない. 仕方がないので, 私たちは臓器付近の特に太い血管のみを, 手分けして写し取ることにした. 臓器自体は今までの解剖で写し取った資料があるため, ある程度簡略化して描いてもそこまでの影響はない.

🛑

それでも丸2日かかった. 基本的には体内に内臓を置いたまま, 見えにくい時には血管がちぎれてしまわないよう持ち上げながら写していく作業は, いつもの解剖の倍の慎重さが必要になったからだ.

🛑

出来上がった図を一つにまとめるように並べることができたのは, 翌々日の朝のことだった.

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🛑

“こうして見ると, 人体が一種の宇宙であることを改めて感じますね.”

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“ねーちゃ. . . ヘカテーが言っていた, 川という表現も, 絵におこしてみてみるとピンときます.”

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“ああ. まるで歯抜けになった地図のようだ. これを一つの絵にまとめ直す際には, 空白の部分を無意識のうちに想像で埋めてしまわぬよう, 気をつけねばならんな.”

🛑

🛑

精緻に描かれた絵の集合体を見て, 持った感想は3人とも同じだった. そう, まるで地図のように思える. 臓器という領地を血管という川が繋いでいるようだ.

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🛑

“しかし, 臓器付近の血管を写すだけでこれだけの労力がかかるとは. 腹全体, 更に手足や頭の構造を写すには, いったいどれだけ時間がかかることやら. ヤープとウリを仲間にしていて本当に良かった. 人間の解剖が偶然できる機会を待っていたのでは, 書にまとめるより俺の寿命の方が先に終わってしまいそうだ.”

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“縁起でもないことをおっしゃらないでください. . .”

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🛑

ウリさんからの提供なしに遺体が手に入る機会, それはすなわち誰か. . . 正確に言えば, ヨハン様か私が襲われ, それを返り討ちにした時だ. その前提があった上で[俺の寿命の方が先に終わる]などと言われては, 聞くだけで恐ろしくなってしまう.

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🛑

“悪かった. だが, 今の恵まれた環境にあっても, その可能性は十分考慮しておかなくてはならん. 今回は血管系の観察に入ってしまったが, 臓器の観察はだいぶ進んだ. そろそろ冊子を出してみようかと思っている.”

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“分冊にするということですか.”

🛑

“書ではなくあくまで冊子の話だから少し違うが, まぁそうだ. 完全版を書としていきなり世に出そうとしても, それこそまとめる前に俺が殺されでもしたらすべてが無に帰す. だからこそ, 最初は床屋にばら撒くごく薄い冊子で良い. 小分けにして徐々に世に浸透させていきたいのさ.”

🛑

“ということは, 最終的には正式な書物になるのですね.”

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“そのつもりだ. 床屋に知識がつくに越したことはないが, 連中には自ら判断して治療する権限はないからな. 医師を啓蒙できないことには医療を変えることなどできんよ.”

🛑

“もしかして, 完成形ももう思う描いていらっしゃるのですか.”

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“ああ. 最終的には体の各部の構造と働きを中心にして, 診断・薬学の巻を付したものにしようと思っている. 書名は暫定だが[NOVUS ANATOMIA]だ.”

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ふと見ると, ヤープが私たちの会話をきょとんとした顔で聞いていた. そういえば, この子はヨハン様の志こそ聞かされてはいるものの, 根本的に学問や書物に触れる機会があるわけではない.

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“ヤープ, えっとね. ヨハン様は医学の研究で得られた知識を本にまとめて世に出そうとしていらっしゃるのよ.”

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“うん, 本自体は読んだことないけど, どういうものかはわかるよ. おれがよくわかんなかったのは, 本の名前が外国語みたいだったからさ.”

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“ラテン語だ. 単純だが[新しい解剖学]という意味だ.”

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“そうなんですね. わたしはこの土地で話される言葉以外の言葉を知らないのですが, 床屋というのは, ラテン語というもので話すものなのですか?”

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“何?!”

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ヤープの一言でヨハン様の顔色が変わった.

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“. . . そうか. 少なくとも冊子の方は普段使う言語で書かなければ意味がないな. まったく, ここのところヤープに気づかされてばかりだ.”

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“ラテン語で書くおつもりだったのですか?”

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“その通りだ. 通常, 学術書とはラテン語で書くものだが, 床屋はラテン語を解さない. それに, 母国語でないものでは正確に伝わらない可能性がある. . . そんな単純なことを見落とすとは, 俺も随分未熟なものだな.”

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少しばつが悪そうな珍しい表情に, 私たち二人はどうしてよいかわからなくなってしまった.

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“ええっ, そんなことはないです. . . !”

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“博識すぎるがゆえに庶民の感覚がわからなかっただけかと. . . !”

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慌てる私たちを見て, ヨハン様はふふ, と笑った.

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“いや, 庶民の感覚というのは重要なものだ. 普段用いる言葉で書けば, 床屋のみならず, 民間に正しい知識を広めることができる. そうすれば間接的に医師を啓蒙する布石にもなろう. 一般人が当たり前に知っていることを, 医師が知らないとは言えまい. これは良い案だぞ.”

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“では, 冊子の方はドイツ語で書かなくてはなりませんね. もしよろしければ, 私もお手伝いいたします.”

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“そうだな, 頼んだぞ.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎𝟎
眼に映る世界

ヤープの一言がきっかけとなり, 最初に配る冊子はドイツ語で書かれることとなった. 各臓器の図を中心に, その働きをガレノスやヒポクラテスの著作から信憑性が高いと思われるものを抜き出して記す. 刑吏の知識や祖父の本の知識については一旦見送ることとなった.

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まずは元となる冊子を制作する. 研究の過程でほとんど作り上げられている状態だったので, ラテン語に直されていたものをドイツ語に戻すだけだ. ヤープはまだ文字がおぼつかないので, ヨハン様, オイレさん, ケーターさん, 私の4人で作業にあたる.

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といっても, ラテン語ができるのはヨハン様だけなので, 本文はヨハン様にお願いした.

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ヨハン様の作業が飛びぬけて多くなってしまうのは心苦しかったが, ご本人曰く[俺の研究なのだから俺の作業が多いのが当たり前だ]とのこと. 将来的には, 私もギリシア語だけでなく, ラテン語も勉強したほうが良いのかもしれない.

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元となる冊子ができたら, 今度は写本の制作に移る. 各自が手元に1冊作れてしまえば, そこから先は多少作業効率も上がるだろうが, 最初は1冊の本をみんなで囲み, 見合いながら作るので, これもまた非常に時間がかかった. 手が痛くなるほどの作業量に, 一度ペンを走らせるだけで複数枚の紙に書けるような道具があればいいのにと思ってしまう. 当然ながらそんなものは存在しない.

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“冊子はどのくらい作るおつもりなのですか?”

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“まずはレーレハウゼンの中だけで配布するつもりだから, 10冊ほどあれば十分だ. 床屋も歯抜き師もそんなに数がいるわけではない. レーレハウゼンで様子を見て, 興味を示す者の割合を確かめてから, 他の町へと広めていこう.”

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“では, 一人2冊ずつともう2冊ですね. 余る2冊分は, 1冊を前後半に分けて二人で作成いたしましょうか.”

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“そうだな. とりあえず2冊作ってから担当を決めよう.”

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しかし, そう予定通りにはいかなかった. ヨハン様が描かれた解剖図は恐ろしく精緻で, 図を写す作業の大変さが想像を超えていたのだ.

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全員が何度も挑戦したが, 完成した絵画を見慣れている人や花などならともかく, 臓器の絵など始めてなので, そもそも描き方がわからない. 結局, 見たとおりに再現することができたのはオイレさんだけだった.

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そういえば, 始めて解剖図を見せられた時も, 臓物の気持ち悪さ以上に, その絵のお上手さに驚いた. 日ごろから奇術などで手先の器用さを鍛えているオイレさんはわかるが, なぜヨハン様はこんなに絵がお上手なのだろう. やはり, 貴族の家では小さい頃から芸術を習うのだろうか.

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“ヨハン様は, どこでこのような技法を習われたのですか?”

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“いや, 習ったわけではない. というか, 技法というほどのことか? 境界に線をひくという点では, 普通の絵と特に変わるところはないと思うが. . .”

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“どういうことでしょう?”

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“いや, 別に人の顔を描く時だって, 輪郭に色がついているわけではないだろう? それと同じで, 凹面と凸面, 物体と空間といった境目に線をひけば良いだけだ. 俺には逆に, なぜお前とケーターは人や植物を描けるのに臓器が描けないのかがわからない.”

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ヨハン様はご自分のお顔を指でなぞりながらそう答えられた.

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“言われてみれば, 私たちは何をもってそこに線があると思っていたのでしょう. . .”

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やはり, ヨハン様と私たちでは根本的に目に映る世界の認識の仕方が異なっているようだ. 私も小さいころ, 気まぐれに地面に絵を描いたりしていたものだが, 描き方を習ったことなど一度もない.

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“今まで私の描いていた絵は, 誰かのものまねだったのでしょうか?”

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“妙なことをいうものだな. ものまねで描いていたのなら俺の絵だって描けるはずだぞ.”

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“いえ, そういうことではないのです. 自分で描いているつもりになっていただけで, 目の前に見えているものではなく, 原型となる何かを描いていた, ような. . . あるいは, いつの間にかどこかで[人の顔とはこう描くもの]という思い込みを身に着けていただけのように思えるといいますか. . . 申し訳ありません, うまく考えがまとまらず, 言葉にできません.”

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“ふん, 思い込みで描いていた, か. それならなんとなくわかるような気がする. つまり, お前やケーターの頭の中には[人の輪郭には線を引く]という無意識の思い込みはあったものの, [絵を描くときに線を引くべき場所はどこか]という概念はなかったということか.”

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そしてヨハン様は顔にかかる髪の毛を弄りまわしながら上を見上げると, ゆっくりと次の言葉を紡がれた.

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“やはり, 俺には常識がないのだな.”

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“. . . はい?”

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“え?”

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“は?”

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脈絡なく出てきた言葉に, 全員が手を止め, 一斉に主を見つめた.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎𝟏
疑いに生きる

“ヨハン様に常識がないなんてことはないと思います.”

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“ヘカテーの言う通りです. ヨハン様は, 自らの志のもとに, 時折あえて常識を覆すようなことをなさいますが, 知っていなくては覆すことなどできません.”

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“私もそう思います.”

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常識がないとのご発言を, 私たちは慌てて否定する. しかし, どうやら自虐でも皮肉でもないらしかった.

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🛑

“お前たちがそういってくれるのは嬉しいが, 別に自虐を込めていったわけではない. 俺は常識そのものに善悪はないと思っているからな. しかし俺の根幹は, 疑うことによって成り立っている. それは社会で生きていくために必要な常識とは相いれぬものだ.”

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“疑うことも, 生きていくのには必要ではないのですか? 言われたことを何もかも信じていたら, 騙されて苦い思いをするかもしれません.”

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“程度によろう. ヘカテー, お前はこの間, 俺は庶民の感覚がわからなかっただけだといったな? 確かにある面ではそうなのかもしれん. 思えば俺にやたらと疑う癖がついていたのは, この塔で暮らすようになる前からだ. これはおそらく一貴族として, 隙あらば出し抜こうとする者たちに囲まれて育ったことに起因している. しかしな, 普通の人間はそれでも, ある程度は見たまま・聞いたままを受け入れ, 考えるまでもない当たり前のものだと思い込むことができるのだ.”

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ヨハン様は困ったように眉尻を下げてお話を続けられた.

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“俺にはそれができない. その思い込みを多くの者たちが共有すれば[常識]と名が付き, 共有できぬものをはじき出す[社会]が生まれるというのに, 俺は誰かに言われた言葉だけでなく, 眼にするもの, 耳にするもの, すべてをまず疑ってしまう. 自ら理由を考え, それに納得しないと先に進めない.”

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“それは. . .”

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🛑

私が反応に困っていると, 不意にオイレさんが口を挟んできた.

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“ヨハン様. それはもしかして, 今見えている世界がすべてまやかしなのではないか, という恐怖によるのではございませんか?”

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“なっ. . . ?!”

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眼を見開くヨハン様に, オイレさんは温かい微笑を浮かべる.

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“恐れながら, 私もそうなのです. 私は旅芸人の身, 位の高いお方と比べてはおこがましいですが, やはり物心ついたころには周囲が嘘と理不尽で溢れておりました. そのせいか, 私は他人の言葉はもちろん, 自分の眼や耳も素直に信じることができません. ややもすると, 自分は悪魔にでも取り憑かれ, 長い長い夢でも見せられていて, ひとたびパチンと指でも鳴らされれば全てが崩れ去り, 眼前の景色は地獄に変わるのではないか. . . などという妄想に狂いそうになります.”

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“. . . ああ. 俺も似たようなものだ. .”

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🛑

お二人の会話を聞きながら, 私は一人納得していた.

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オイレさんは飄々としている. 隠密の方々の中では最もお話したことの多い人だが, いつも何かの役を演じていていて, 自分というものが存在していないかのような印象をもたらす人だ. 私は未だにどのオイレさんが素の姿なのかわからないし, 一度も私に素の姿など見せたことがないのではないかとも思う. まるで自分をこの世界の一員とは思っていないかのような振舞いに, どんなに親しくお話していても妙に距離を感じていた. もちろん, 私は心からオイレさんを信頼しているが, 言葉にできないようなその遠さにさみしさを覚えることも多かった.

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それはきっと, 私が”思い込みができる.”側の人間で, オイレさんがそうではないがために存在する壁だったのだろう. 彼は本当に, 自分をこの世界の一員と思っていなかったのだ.

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🛑

“だからこそ, 私はヨハン様にお仕えしているのです. 初めてお会いした日のことを覚えておいでですか? あの時ヨハン様は, 夜通し私に医学を語り, 私をその見えない地獄から救ってくださいました. 異国の書物を手に, 世界というものの一片を解剖して見せてくださったのです.”

🛑

“オイレ, お前はそんなことを思っていたのか. . . 大げさなことを言うな. あの時の俺は今以上に知識が浅く, 世界はおろか医学のほんの少しさえ語ることはできていまい.”

🛑

“いいえ. 少なくともあの時間, 私は確かに救われていました. 今もこうしてヨハン様のご研究に触れている間は, その妄想に取り憑かれなくて済むのです. . . ヨハン様, 私は眼に映る世界が崩れ去りそうになる恐怖を知っております. きっと何度も辛い思いをなさってきたことでしょう. しかし, 無意味な常識など持たず, 与えられるものを当たり前と受け入れないからこそ, 真実に近づくことができるはずです.”

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🛑

微笑を浮かべたままで滔々と語るオイレさんを, ヨハン様は少し目を潤ませながら眺めている.

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“. . . その結果手にした真実は, 僅かであっても人を救います. 医学であれば猶更です. ヨハン様の切り拓こうとなさっている道は, 長く険しいものでしょうが, このオイレ, その一助となれるのであればどんなことでもいたしましょう.”

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🛑

だがその表情は, オイレさんがそう言った途端, 急速に険しいものとなっていった.

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“おい, その眼は一体なんだ.”

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🛑

そして, ヨハン様は突然, つかつかとオイレさんに詰め寄ると, その胸倉を乱暴に掴み, 言い放ったのである.

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🛑

“お前, 一体何を考えている? どうしてそんな, 覚悟を決めた者の眼をしている?!”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎𝟐
初めての著作

“嫌ですよぉヨハン様, まったくお気難しいんですからぁ.”

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🛑

胸倉をつかまれたままの状態で, オイレさんは少しおどけて見せる. オイレさんの方が背が高いので, 首が締まるようなことにはなっていないものの, ヨハン様から発せられる怒気は凄まじいものがあり, 見ているこちらが気圧されるようだった.

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🛑

“誠実に取り組まれる主の姿を見て, 改めてこの方に付いていこうと決意を新たにしただけじゃないですかぁ.”

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“本当にそうか? 普段のお前は, 俺の前ではそこまでヘラヘラとしていないはずだが. . .”

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“ああ, いえ, それは大変失礼いたしました. 少し驚いて, 取り乱してしまいました.”

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“ほう, 俺はお前が取り乱したところなど見たことがないがな.”

🛑

“それは, 今までたまたまヨハン様の御前ではそのようなことがなかっただけです. せっかく思い出に浸りながらお話をしていたのに, 突然主に胸倉を掴まれたとあっては, 私だって慌てもします. . . 何をしくじったか見当もつきませんでしたし. 私はお仕置きを受けたことはございませんが, そこにいるケーターを含め, お怒りを買った他の者たちがどんなことになったかぐらいは知っておりますので, その逆鱗に触れたくはございません.”

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“随分とよく喋るな. . . 改めて問う. 一体何を考えている?”

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“特に, 何も?”

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ヨハン様はオイレさんの瞳を睨むようにじっと覗き込むが, オイレさんはただニコニコと微笑を浮かべるばかりで答えない. しばらくにらみ合ったのち, ヨハン様は根負けしたようにその手を離した.

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🛑

“本当に, 隠密の中でも, お前は一番厄介な奴だな. その忠誠を疑いはしないが, お前の頭の中だけはろくに読めたためしがない.”

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“ヨハン様が複雑に考えすぎなのです. 私は至極単純な人間でございます.”

🛑

🛑

ヨハン様が何を思ってオイレさんを責められたのか, オイレさんは一体何を考えているのか, 私には全く見当がつかない. 助けを求めるようにケーターさんの方を振り返ってみたが, 彼も首を横に振るだけだった.

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🛑

“それよりも, 写本の続きをいたしましょう.”

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🛑

作業の再開を促すオイレさんを見て, ヨハン様の瞳が再び警戒の色に染まる.

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🛑

“オイレ, この冊子を出すことに, 何かあるのだな?”

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“いえ?”

🛑

“俺を簡単に出し抜けると思うな. 先刻, 俺の医学の道を助けると言ったお前の眼は, 単に真心や優しさを湛えたものではなかった. お前があの眼をする時はそう多くはない. 本当に何事もないとは到底思えんのだ. .”

🛑

“. . . 根拠が私の眼付きですか? いつも論理的なヨハン様が, そんな感覚的に物事を決めるとは珍しいものですね.”

🛑

“ふん, 人の身体を研究する者が, 人の身体に現れる変化を軽く扱ってどうする. 表情とて重要な判断材料だぞ. お前がこの件に関し何も言う気がないのであれば, この冊子を世に出すのはやめよう. 皆, 何日も手伝わせてしまって悪かったな.”

🛑

“い, いえ. . . ヨハン様がそうおっしゃるなら, やめたほうが良いのでしょう.”

🛑

“我々の時間など, ヨハン様がお気にかけられることではございません. 一か八か, ラッテかシュピネでも連れてきて, こいつから本音を聞き出しましょうか?”

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🛑

やめよう, というヨハン様の呼びかけに対して私たちが素直に応じると, オイレさんはがっくりと肩を落とした.

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🛑

“いいえ, ヨハン様. この冊子は必ずや世に出さねばなりません. この国の深刻な医療の遅れは, 間接的に税収や軍備の問題にもつながる重要な問題です. それを一気に推し進めて, 新しい世を築くことができるだけの知識と力を有しているのは, どう考えてもヨハン様だけなのですから.”

🛑

“ではさっさと言え. お前は何を気にして, 何をする気だった?”

🛑

“この冊子の内容は, 普通の人間には衝撃的すぎるものです. 実際に人の腹を切り開いて中身を見たとあっては, どのような悪評が立つかわかりません. ですので私が気にしていたのは, 著者名としてヨハン様のお名前を出すわけにはいかず, かといって出所不詳では誰も相手にしないだろうということです. そのため, 写本が揃ったら, 密かに自分の名を記しておくつもりでした. 私はこの辺りでは一番有名な歯抜き師. 医師ほどの権威はなくとも, 興味をひくことはできるでしょう.”

🛑

“それはそこまでの覚悟をしてやることか?”

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“ええ. 悪評が立った場合のことを考えると, 人気で生計を立てている私には大きなリスクです. 日頃申し上げていますが, 私は歯抜きの仕事を好きでやっていますから.”

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🛑

オイレさんの返答を聞いて, ヨハン様は大きなため息をついた.

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“まったく, その程度のこと, さっさと白状すれば対策を練れるものを. 冊子には架空の名を記す. お前が薬売りの口上で使っている, うってつけの高名な医師がいるだろう. .”

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🛑

こうして, かの高名な医師, ドゥルカマーラ先生初の著作が世に出ることとなった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎𝟑
掛け合い問答

今日の任務は少し特殊だ. 諜報でもなく, 政治工作でもない. ヨハン様のご趣味に少しばかり付き合うだけ. だから, 厳密にいうと任務といっていいのかもわからねぇな.

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相棒も珍しい. 同じ諜報を担当する隠密の中でも, オイレとはほとんど一緒に行動したことがねぇ. まぁ, こいつはそもそも単独任務が多いと聞いたことがある. 隠密の中で唯一, 世間様に堂々と顔と名前を曝け出している奴だから, 何かあった時に他のが巻き添えを食らわないようにって配慮なんだろう. 仕事ぶり自体は信用しているから特に気にしちゃいないが, 壇上でド派手に動く仲間と連携するってのは慣れねぇもんだな.

🛑

そんな訳で, 歯抜きの観客に交じって, レーレハウゼンに広まる情報を操作するのが今日の俺の役目だ.

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🛑

“. . . いやいやそれとももしかして, オイレの歯抜きが上手すぎたぁー♪ .”

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🛑

お決まりの口上で歯抜きのパフォーマンスが終わり, 周囲が喝采に包まれた後, 主に女性客たちが徐々にそわそわとし始める.

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“愛の妙薬は売ってないのかい?”

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“あたしはまだ1度も買えてないんだ, 売るんだったら先に並ばせてちょうだいよ!”

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🛑

そう, あの紫色の塗り薬はいつでも売っているわけじゃない. オイレの大道芸の最後で, 数回に1度程度, 少量を売っている. あくまで副次的なものとして扱わないと修道士や薬屋との住み分けが面倒なことになるし, そもそもあの薬は材料が限られていて大量に売りさばくことができないからな.

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🛑

“あらあら, せっかちなお嬢さんがた♪ 私はあくまで歯抜き師で, 薬を売りに来たわけじゃなし♪ オイレの芸を見に来ておいて, 芸見るだけでは不服かね♪.”

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“いや, そんなことはないけど. . . やっぱりあるんだったら欲しいじゃない!”

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“そうよそうよ!”

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“女だけ相手に売るんじゃねぇ, 俺だって彼女が欲しい!!”

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🛑

改めて現場に来てみると, 薬に対する熱気が伝わってくる. [愛の妙薬]とはよく考えたもんだ. 男女関係なく興味をひき, 尚且ついざというとき言い逃れしやすいように冗談っぽさをきちんと残してある.

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🛑

“まぁまぁ, 皆さまお静かに♪ このオイレ, 困った人を見捨てちゃおけない♪ 芸の稽古の合間をぬって, レシピ通りに作ってきたよ♪ 門外不出の愛の妙薬, ドゥルカマーラ先生の大発明ぃー!!”

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🛑

そう言って, 小さな壺型の容器をさっと取り出し, 例の大先生の名前を出した時が, 俺が出ていく合図だ.

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🛑

“おい, 歯抜き師! 気になってたんだがよ, ドゥルカマーラ先生なんて本当にいるのか?”

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🛑

今日は薬が買えると分かって沸き立つ群衆が, 一瞬静かになった隙を狙って, わざと鋭い言葉を投げつける.

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🛑

“さも有名人みたいに言ってやがるが, 俺はそんな奴聞いたことないぜ?”

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“おやおや, 疑りぶかいお兄さん♪ もしやあなたもお医者様?”

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“いや, ちげぇけど. . . 俺はただの雑貨屋だ.”

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“ほぅほぅ, 賢いお兄さん♪ ならば一体どうしてかしら♪ どうして自分がその名を知らないからと, 存在しないとお思いに?”

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🛑

壇上のオイレは厭味ったらしくニヤニヤ嗤うと, いかにも俺を馬鹿にした調子で歌うように問いかける. 俺の質問で戸惑っていた群衆の気持ちが, オイレの方に少し傾いたのがわかった. 打合せにはなかった流れだが, 確かにこっちのが信憑性が増すなぁ. こいつ, なかなかやりやがる.

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🛑

“だってよ, あんた, 芸人のくせにモノなんか売り出して, 急にずいぶん稼いだって話じゃねぇか. イカサマ疑うくらい当然だろ?”

🛑

“イカサマだなんて心外な♪ このオイレ, かの先生の直弟子なれば, そのお心を裏切るだなんてできません♪.”

🛑

“じゃあ証拠を出しな, 証拠を! 芸人にモノまで売られちゃ, 俺たち商人は商売あがったりだ!”

🛑

“そのご意見はごもっとも♪ ではではどうしたものかしら♪.”

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🛑

オイレはわざとらしく考え込むポーズを決めると, 思いついたようにパチンと指を鳴らし, さっと右手を高々と挙げた.

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“お客様の中に, お医者様はいらっしゃいませんかーぁ?!”

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🛑

広場がしん, と静まり返る. 当たり前だ. 医師なんてご身分の連中は, 大道芸なんか観に来ないからな.

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“いやいや困った, 困りました♪ お医者様がいたならば, 知ってるお方もいたろうに♪.”

🛑

“そうやって煙に巻くんじゃねぇ! やっぱり嘘っぱちなんじゃねぇか?”

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“ではではどうしたものかしら♪ かくなる上はこのオイレ, 秘蔵の品を出さなきゃいけない♪.”

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“また適当なこといいやがって, また妙な薬でも出すつもりかい?”

🛑

“いつものあれは妙薬ですよ♪ 妙な薬じゃございません♪ それはそれとて秘蔵の品は, いつも私が持っている, ドゥルカマーラ先生の著作のひとーつっ!”

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🛑

今度はどこからか冊子を取り出して高々と掲げる. もちろん, ヨハン様の作られた医学の冊子だ.

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“さてさて, 再びお伺い♪ お客様の中に, 文字を読める方はいらっしゃいませんかーぁ?!”

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今度はちらほらと手が上がる.

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“どなたに読んでもらおうか♪ 修道士様に修道女様, 助祭・歯抜き師・床屋さん♪ 医術の心得ある方ならば, もっと, 一層, ありがたし♪.”

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🛑

ここで職業が限定された. 俺は気づかれないようにざっと会場を見渡し, 反応を見せた人間を探す. といっても, やっぱり最初の3つはいるはずもねぇ. 手を挙げてる連中の中には床屋が4人と薬屋っぽいのが2人. 手を挙げないでじっと様子を見ているあいつは歯抜き師だろうな.

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“ではではそちらのお兄さん♪ この冊子, 一体なんて書いてある?”

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“えーっと, 新しい. . . カイボウガク, 概略版, ガエターノ・ドゥルカマーラ著, だそうだ. . . なんだ, ちゃんと著書があるじゃないか!”

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🛑

その床屋の一言で, 広場が笑いに包まれる. 俺はわざと小さな声で[わかった, わかったよ]と言い, 恥ずかしそうに首を振ってから広場から離れた.

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仕切り直しとばかりに薬を売り始めるオイレの声を背中に聞きながら気配を消して, 少しほくそ笑む. たまにはこういう相手と組むのも悪くねぇ. 相手の見極めがずいぶん簡単だったぜ. あとはあいつらの素性を調べりゃ, 今回の俺の任務は終わりだな.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎𝟒
喜ばしきこと

“. . . というわけで, 昨日オイレの歯抜きを見に来ていた観客の中で, 冊子の内容に共感を持ちそうな者には, すでに配布ができたそうだ.”

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“それは良かったです.”

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私は今, ヨハン様の私室で, 肩を並べて夕食をいただいている. 再び塔に戻ってきてから, ベルで呼び出されることがなくなったため, 急ぎでない報告事項などでは, 配膳のあとにそのまま夕食に誘っていただくことが多くなったのだ.

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“どんな人たちが冊子を求めに来たのですか?”

🛑

“内容そのものに興味を示した床屋が2人と薬屋が1人, オイレに対抗心を持っていた歯抜き師が1人. 結局, 自ら求めに来た者はいなかったそうだが, 床屋と薬屋はオイレが渡しに行ったら喜んで受け取ったそうだ. 歯抜き師の方は, ラッテがオイレの忘れ物ということにして渡してやったらしい.”

🛑

“オイレさんに対抗心を持った人って, そんな方に冊子を渡して大丈夫なんでしょうか. . . いちゃもんをつけられるのでは?”

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“いや, ラッテの見立てが外れたことはない. レーレハウゼンの大道芸ではオイレが人気を独占している状態だからな. 事情を知る流れの旅芸人はレーレハウゼンを避けて通るほどだという. それに勝つためとあれば, まず敵を知ろうとするのは当然のことだ.”

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🛑

たしかに, オイレさんから直接渡されたならともかく, オイレさんといざこざを起こしたラッテさんが意趣返しとして持ってきたとなれば, その歯抜き師には渡りに船だっただろう.

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🛑

“何にせよ, 冊子に興味を持つ人たちがいてよかったです. .”

🛑

“ああ. 今回はオイレの歯抜きを見に来ていた観客だけが対象だったから, 来ていた医療従事者の母数を考えれば割合としては上々だ. 後は冊子を渡した者たちから評判が伝わって, 新たに欲しがる者が増えていくだろう. 今回興味を示さなかった床屋たちも, 仲間の腕や評判が上がったとなれば後から興味を示すはずだ. .”

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🛑

ヨハン様の口角が僅かに上がる. 狭い塔の中で, ご領主様のご子息としてのお仕事もこなされながら, 今まで孤独に向き合ってこられた異国の医学が, 初めて実践の場で実を結ぼうとしているのだ.

🛑

🛑

“ヨハン様, 本当におめでとうございます.”

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“うん? 何がだ?”

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“今までの長いご研究の成果が, ようやく世に出たことです. 冊子を読んだ床屋たちは, きっとこの国の医療の向上に貢献してくれるでしょう.”

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“そんなことか. まだようやく始まったばかり. . . というか, 出発点にすら立てていないがな. 床屋たちの技術が上がるのは良いことだが, 連中は医師の指示なくして動くことはできない. まだここから, 長い時間がかかるから, お前も覚悟していろ.”

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“それでも, 私はまずここまで来られたことが, 本当に凄いことだと思います. 10歳の時に, この国の医療を刷新するのだという大きな志を抱かれてから8年以上. . .”

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言いかけて気づいた. 私がこのお城にご奉公に来てから1年以上が経過している.

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“. . . ヨハン様. 失礼ながら, ヨハン様は今おいくつでいらっしゃいますか?”

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“20だ.”

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“あの, ということは, お誕生日は. . .”

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“だいぶ前に過ぎたな.”

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. . . やってしまった. こんなにお傍にお仕えしていながら, ヨハン様のお誕生日すら知らなかった. うろたえる私を, ヨハン様は怪訝な顔で見つめている.

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“何を困っている. 俺の年がどうかしたか?”

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“申し訳ありません. お誕生日が過ぎていたことに気づかず. . .”

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“気づかずというか, 教えていなかっただろう. そもそも別に, 誕生日だからって何があるわけでもないしな.”

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“そんなことおっしゃらないでください. せっかくのおめでたい日ですのに. . .”

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“ふん, なんだ. まさか, 祝いの宴でも開いてくれるつもりだったのか?”

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“宴を開くことはできませんが, 何かお祝いできるならしたかったです.”

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いかにも冗談という感じでくくくと笑うヨハン様に私がそう答えると, ヨハン様は目を丸くした.

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“やはり変な奴だ, お前は.”

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“変わっていらっしゃるのはヨハン様です. お誕生日も, 冊子が初めて世に出たことも, どちらも大変喜ばしいことですよ? なぜそんなに天邪鬼になられるのです.”

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“. . . 言うようになったな. 前は俺と喋るたびにびくびくしていたくせに.”

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ふい, と横を向かれてしまったが, その表情はあくまで柔らかい. 身分が使用人ではなくなったからか, あるいは共に過ごす時間が長くなったからか. . . なんだかんだ何を言っても許してくださるヨハン様に, いつの間にか私もずいぶん図に乗った物言いをするようになってしまったようだ.

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“大変失礼いたしました. その, 要するに, 長年のご研究が形になったことは, まだ最終的な目的からは遠くとも, 素晴らしいことだと言いたかったのです. ヨハン様はいつもご自分に厳しくていらっしゃいますが, こういう時はもっとお喜びになっても良いのではないかと思い. . .”

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“ああ, 言いたいことは理解しているから安心しろ. だが, まだ気を抜くことはできないのさ. 俺はどうも, 冊子を作っている最中にオイレが言っていた[普通の人間には衝撃的すぎる]という言葉が引っかかっている.”

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“たしかに, 冊子の内容に感銘を受けた床屋が, 別の床屋に渡した結果, 周囲から異端視されるようなことはありえそうですね.”

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“そうだ. 床屋や歯抜き師の間で揉め事が起こるならまだしも, せっかく啓蒙された者たちがギルドから締め出されるような事態に発展しては問題だ. 早々に彼らを守るような手を打たねばなるまい.”

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“何か策がおありなのですか?”

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“考えてはいるが, 本来工作に使うはずの隠密の手を, これ以上医学に割くわけにもいかん. 今は様子見の期間だ. 悪い兆候があればすぐ対処できるよう, 準備を整えておかなくてはな.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎𝟓
余話:ある医師の義憤

街が活気づくのは良いことだ. 経済が回り, 税収が増え, 不満を持たなければ民は従順になる. その点で, このレーレハウゼンという街は近年まれにみる良い状態にあるといえるだろう. もともとイェーガー方伯領自体が栄えた邦だが, 現方伯の統治は目覚ましい発展を遂げた先代の統治のさらに上を行くと私は思っている. レーレハウゼンの賑やかさは, その豊かさの象徴だ.

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故に, 昨今庶民の間で”愛の妙薬.”なるものが流行りだしたと聞いた時も, 私は新たな物産が増えたものだと喜ばしく思った. 名前は”薬.”というが要は化粧品だ. これといって健康被害が耳に入ってこないところを見ると質も良いらしい. もちろん, 化粧を悪しきものとみなす教会の見解を考えると表向き賛同することはできないが, 愚か者たちが”愛.”という言葉に踊らされて経済を回すこと自体は悪いことではない. 欲とは抑圧しきれぬもの, 薬という言い訳で発散できるならそれに越したことはないのだから.

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しかし, そんなことを言っていられたのは, 私が薬の話を耳にしてからほんの数か月の話だった. 先日, 同じ医師を生業とする友人が私の家を訪ねてきた折, その[医師]の話を聞いたのだ.

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“なぁ, ドゥルカマーラという医師を知っているか?”

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“いいや, 私は聞いたことがないが. . .”

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“ガエターノ・ドゥルカマーラ. 私も最近耳にしたんだが, 例の[愛の妙薬]を発明した医師だそうだ. そして, 今度はその著書が床屋の間で流行っている.”

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“医師の著書が床屋の間でだと? 床屋がラテン語を読むのか?”

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“それが, どうやらその著書とやらはラテン語ではなく, ドイツ語で書かれているようなんだ.”

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なんとも不思議な話だった. 医師の著書といったら医学書に違いないが, 床屋は医師の指示通りに手を動かすだけで医学書など読まないものだし, 医学書はラテン語で書くのが当たり前だ. わざわざドイツ語で書かれた医学書とは, まるで最初から床屋に読ませるために書いたかのようである.

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“君は一体どこでそんな話を聞いたんだ?”

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“この間の診療で, 施術に当たった床屋が嬉々として患者に話していたのさ. まさか医学書を読む床屋がいるとは思わなかったから, 捕まえて詳細を聞いてみたところ, そういう話だったというわけだ. 今や連中は[ドゥルカマーラ学派]という派閥まで作って, 大学もどきの研究会まで開いているらしい.”

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“なんと, 床屋ごときが学派を名乗るとはな. . . まぁ, 庶民が貴族に憧れるのは世の常だが, 流石に行き過ぎというか. . . 庶民のくせに学問に励むとはなんとも. . .”

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ただ呆れる私を見て, 友人は目つきを鋭くした.

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“おいおい, ずいぶんと悠長な反応だな. これは意外と大変な話だぞ?”

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“なんだと.”

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“大学生ごっこで自尊心を膨れ上がらせ, 医師に従わない者が出てくるようになれば問題だ.”

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“た, たしかに.”

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彼の言うとおりだった. そもそもドイツ語で書かれた医学書という時点で疑わしい. それを読んで[自分も医学書を読んでいる]と胸を張るだけならかわいいものだが, 書いてあったことを根拠に我々の指示に刃向かうようになってもらっては困る.

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“頭が痛いな. . . かといって勝手に集まって本を読んでいるだけなら犯罪でもないし, 連中を取り締まる方法がない. ほとぼりが冷めるまで放っておくしかないか. 面倒だな.”

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ため息をつく私に, 彼はさらに畳みかけた.

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“そこでだよ. 君はドゥルカマーラという姓の者を聞いたことがあるか? 医師や貴族に限らず, だ.”

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“いや, 一切聞いたことのない名だが. . .”

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“そうだろう? 実は, 私は奴が異邦人なのではないかと疑っている.”

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[異邦人]. . . その言葉に私は嫌な予感を覚えた. 隣国であれば別に良いが, 明らかに違う意味を含んでいたからだ.

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“床屋が言うには, その本を最初に配り始めたのは歯抜き師だというんだ. その歯抜き師はドゥルカマーラの直弟子で, 本当は医師になるはずだったところを, その道に進めず家を飛び出して歯抜き師になったらしい. 床屋にはその歯抜き師からもらった著書を借りた友人がいて, それを更に借り受けたという話だった.”

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“医師になるはずが歯抜き師か. . . ずいぶんと胡散臭いな. 医師の道を諦めたとしても, 他にいくらでも職はあるだろうに, わざわざ賤民にまで身を落とすだろうか.”

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“そうだ. つまりその歯抜き師はおそらく, 本当はドゥルカマーラの直弟子ではない. 歯抜き師など所詮は旅芸人, 帝国に流れてくる途中で, ドゥルカマーラに金でもつかまされて著書を配ったんだろう. 旅芸人は裏の商売に手を染めるものも多いからな.”

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“しかし, 何のためにそんなことを. . .”

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“言っただろう? 異邦人なのではないかと. しかも, 隣国の医師ならどの国であれラテン語はできるはず. わざわざ聖書の言葉を避けて書く必要があったということだ.”

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“. . . つまり, ドゥルカマーラは異教徒か!”

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“ああ, 異教徒がこの地に乗り込んで来ようとしているのさ. 床屋に学派を作らせるほどの熱気, それが信仰以外に何がある?”

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“君の言うとおりだ. 医学を床屋の自尊心をくすぐり, そこを起点にしてじわじわと邪教を浸透させる. 恐ろしい. . .”

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“しかも, 床屋の話を信じるならば, その著書の内容は人体の中身についてだという. 今は異教徒との戦乱のさなかだ. キリスト教徒が, 帝国の民が, 異教徒によって殺された結果があの本である可能性すらあるのだぞ.”

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私は”愛の妙薬.”を良いものと思っていたころの自分を恥じた. あれは悪書をばら撒くための呼び水だったのだ.

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“. . . この話は, 他の者にもしているか?”

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“いや, 君が初めてだよ.”

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“早急に医師仲間を集めよう. 教会関係者もだ. この件は都市参事会に訴え出て, なんとしてもドゥルカマーラを捕らえるのだ.”

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. . . そして, 友人の来訪から1週間が過ぎた. 戦慄く手を握りしめ, 今私は都市参事会市庁舎の扉を叩く. そう, この感情は, このどうしようもなく湧き上がってくる私の怒りの名は[義憤]だ. 私はここに揃った同志たちとともに義憤に身を投じ, 異教という悪をこの地から駆逐せねばならない.

第11章 その罪の何たるか
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎𝟔
捕縛

その日, 真昼間に私の部屋の扉が叩かれた.

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“ヘカテーちゃん, 開けて! あたしよ!”

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“シュピネさん?!”

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扉を開けると, 真っ青な顔をしたシュピネさんが立っている. 見れば, 朱い唇を真一文字に結び, 扉を叩いていた拳はわなわなと震えていた.

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“いいからすぐ来て! 大変なことになったの.”

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“え, 一体何があったんですか?”

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“ヨハン様のお部屋で話すから!”

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シュピネさんに手を引かれて階段を上がる. 冷たいその指先から, シュピネさんの動揺が伝わってくるようだった.

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“ヨハン様, シュピネです. 突然申し訳ございません, 急ぎご報告が. . .”

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“構わん, 入れ.”

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許可を受けて入室すると, シュピネさんはさっと跪き, とんでもない一言を放った.

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“ヨハン様, 先ほどオイレが捕縛されました.”

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場の空気が固まる. あのオイレさんが? 信じられない報告に, ヨハン様も私も声が出せない.

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“大道芸の最中に捕吏がやってきて, そのまま連れていかれました. 現在, 勝手ながらラッテが状況を探っております.”

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“いや, 賢明な判断だ. 捕吏がやってきたということは都市参事会の正式な決定だろう. 探れる者はラッテぐらいしかおらん.”

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ヨハン様は眉を吊り上げる.

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“しかし一体何が起こった. 普通なら手配書の発行後, 父上や俺の耳にも入るはずだが, 決定から捕縛までそんなに早かったのか? 手際が良すぎる. . . 罪状は何だ?”

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“捕縛の際に叫ばれていたことを要約すると, 修道士ではないのに薬を売った罪, 悪魔の書物を配布した罪, 民衆を扇動し異教を広げた罪, とのことです.”

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“悪魔の書物だと?!”

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“そんな. . . !”

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私は思わず息を呑んだ. オイレさんが配布した書物, それは先日作った解剖学の冊子の他にない.

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“聖書とぶつからないよう, あの冊子には肋骨のことは書かなかった. 解剖図もあくまでガレノスの医学を紹介するという形にしていたはずだ. わざわざガレノスが豚や羊を解剖に使ったことも記載している. どこに悪魔の要素があるというんだ?!”

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ヨハン様は声を荒げ, テーブルをどん, と殴った. 珍しく取り乱した様子のヨハン様に, シュピネさんは震える声で告げる.

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“私も捕縛の現場にいたわけではないので, 詳しいことはわかりかねますが. . . 書の配布にしても, 他の2つの罪にしても, 言いがかりに近い印象を受けます. 恐れながら, 冊子の内容云々より, オイレを捕縛すること自体が目的なのかもしれません. .”

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たしかにそうだった. 公の場では大道芸の最中に1度見せたのみで, ラッテさんが見極めた数人に手渡したのみのはずだ. 配布といえる規模ではないし, 民衆を扇動などしていない. それに”修道士ではないのに薬を売った罪.”に至っては, なら薬屋はどうなるんだという話である.

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“. . . そうだな. もし捕縛すること自体が目的なら, まだ希望はある.”

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“希望, でございますか?”

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“オイレは賤民だ, 裁判を経ずに死刑になる. だからもしも都市参事会が罪を問うことを目的としているなら, 状況は絶望的だ. それも罪状からして縛り首では済まない. おそらく火炙りか車裂きだろう. .”

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仰る意味が分からず問いかける私に, ヨハン様が答えたのは, あまりにも恐ろしい言葉だった. 火炙りか車裂き. どちらも重罪人に課せられる, 死刑の中でも最悪の罰だ. 楽に死ねず, 遺体は損なわれ, 死によって罪を贖うことも許されず, 未来永劫その名誉が否定される.

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“オイレさんがそんなことになっていいはずがありません! あの人は, 咎められるようなことなど何もしていないのに. . . !”

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“ああ, 当然だ. だから[もし捕縛すること自体が目的なら]希望があると言った. もし目的がオイレを処刑することではなく, 何かを聞き出すことなら, 俺の一筆なりなんなりで救出する余地があるからな. おそらく聞き出そうとしているのは, 薬の件か, 冊子の出どころか. . . どちらにせよ俺のせいだ. 工作ならまだしも自分の趣味の範疇で. . . くそっ!”

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ヨハン様は再びテーブルを殴りつけ, 突っ伏してその髪をかきむしる.

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“あの時もっと問い詰めるべきだった. あの覚悟を決めた目で, 冊子を必ず世に出せといった時点で, あいつは自分がこうなることをわかっていたに違いない. 俺の配下には, 欠けて良い者など一人たりともいないというのに. . . あの馬鹿が!”

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“ヨハン様. . .”

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“いや, わかっている. 馬鹿は俺だ.”

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“そんな, 違います!”

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“違わん. 人の欲というものを見縊っていた. 考えが甘すぎたんだ.”

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ヨハン様と意味のないやり取りをしながら, 私はオイレさんの言葉を思い出していた.

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―― 最後にひとつ. ヨハン様はおそらくこの世界で一番といっていい聡明さの持ち主だけど, まだ18歳だ. しかも12歳からずっと塔の中に閉じ込められている. このことを忘れないで

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そう, ヨハン様の知識はすべて机の上のもの. 塔の中で生きてきたヨハン様にとって, 教会にしろ都市参事会にしろ, 携わる人間の行動は, すべて想像上のものでしかない. 己の欲のために規則や倫理を越えてとる行動までは予測できないこともあって当然だった. むしろ, 塔から一歩も出ずに政治工作などに携わっていらっしゃること自体が異常なことなのだ.

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きっとオイレさんは, 薬を売るという話が出た時点で, このような事態を予見していたからこそ, 私にあの約束をさせたのだろう. にもかかわらず, 私は気づけなかった. この方のいうことなら必ず正解だと疑いもせず, 失敗の重圧をヨハン様ひとりに背負わせてしまった.

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“私も馬鹿です. . .”

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悔恨に打ち震えるヨハン様を前に, 私はそう呟くことしかできなかった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎𝟕
主たるもの

翌日, ラッテさんがヤープを連れて塔へやってきて, 私たちはようやく外で何が起きていたのかを明確に知ることとなった.

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“オイレは正規の捕吏によって捕縛されました. 参事会を名乗る犯罪者に誘拐された可能性も考えましたが, 市庁舎まで連行されるオイレの目撃証言を得ており, 何より並みの相手であればあいつを連れ去ることは不可能です. 本人も本物であることを察知したようで, これといった抵抗もなく堂々と連れ去られ, 観客の多くは途中までそういう見世物が始まったのかと思っていたそうです.”

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“して, 奴は今どこにいる? 刑の執行についての言及はされているか?”

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“おそらく, 市庁舎の地下牢に拘留されているかと思います. [教会の敵]の捕縛に成功したことのみがやたらに喧伝されておりますが, 晒し刑にはなっておらず, 処刑の日程も公開されないままですので.”

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“なるほど. 罪状からして思っていたが, この件には教会が深くかかわっていそうだ.”

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ラッテさんの報告を聞きながら, ヨハン様は苛立ちを募らせているようだった.

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“すでに街中があの罪状を知る状態になっているとなるとはな. . . 連中, 今回は妙に手際が良い. おそらく事前に入念に計画していたのだろう. 昨日の知らせを受けて, 捕縛に当たり領主への連絡がなかったことを咎める質問状を出してはいるが, 先を越された. 教会と事を構えるとなると, 俺の一存では動けんぞ. . .”

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“ご領主様の助力は得られそうでしょうか?”

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“昨日の時点ではそうだったんだがな. . . 父上とてここまで罪の重い罪人を解放するとなると相応の理由が必要だ. しかも, 教会を相手取るには, 今はあまりにも時期が悪い. 半年ほど前から, 聖堂参事会が領邦を越えて同盟を結ぶ動きがある. 皇党派たるイェーガーが[教会の敵]の解放を命じたとあっては, 皇帝と教皇の対立に最後の火種を投ずることにもなりかねんのだ. 今の報告を聞くに, 父上は隠密を切り捨てる方を選ぶだろう.”

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部屋が重い沈黙に包まれる. ヨハン様の神経質にテーブルを叩く音だけがコンコンと鳴り響いていた.

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“. . . 時間的に見て, すでに尋問に入っている可能性もある. ヤープ, ウリから何か聞かされているか?”

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“それが. . . 何も聞いていないんです. 父は, 刑吏の中で最も人気があります. 今回のように大罪人として有名になっている時には, 処刑を担当することはほとんど間違いないと思いますが. . .”

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“そうか. . . 今の時点でお前が何も聞いていないとなると, 尋問を担当しているのは別の者か. ウリの手を借りて逃がすことを考えたが, それができるのは処刑の直前になるな.”

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ヨハン様がそう答えると, 突然ヤープが床に崩れ落ちた.

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“ヤープ. . . ?”

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“うっ. . . ご, ごめんなさい! すみません, すぐ, すぐに止めます. . . う, うああああ.”

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泣いていた. 思わず駆け寄って抱き留めると, 何かが決壊したように, いよいよしゃっくりあげて声を上げ, 泣き喚き始めた.

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“ねーちゃん, 嫌だよ, なんで父ちゃんがオイレさん殺さなきゃなんないんだよ!”

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“ヤープ, そんなこと言わないで. きっと大丈夫. . .”

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“わかんないだろ! ただでさえ人を殺すのって辛いんだよ, 人を壊すのだって辛いんだよ! だから父ちゃんは, いつも誰とも仲良くならないようにしてるのに, あの人無理に近づいてきて! おれ, 父ちゃんが他人と話して笑ってるとこ初めて見たんだよ? なのにどうして, なんでそのオイレさんが捕まってるんだよ!”

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私の腕にしがみつくヤープの手が震える. その手の小ささに, 私はこの子が生まれついた世界の残酷さを知る.

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“きっと大丈夫とか, 無責任なこと言うなよ! 尋問で何するか知ってんのかよ! 尋問の後で解放されても無事じゃないのに, そのあと結局みんな死んじゃうのに, 処刑まで持たせる必要ないって言われることだってあるのに!”

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ヨハン様の御前であることも忘れて泣きじゃくるヤープは, 隠密見習いなどではなく, ただの少年だった. そろそろ, 泣くのをやめて, 冷静になってと言わなくてはいけない. 頭ではわかっていても, 私にはそれができなかった. 普段だったらラッテさんの拳骨が飛んでくるのだろうが, さすがの彼もそれができないでいるようだ.

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. . . すると突然, 頭上から声が降ってきた.

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“ヤープ, 今回の件は, 何から何まで俺の失態だ. .”

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ヨハン様の押し殺したような声が, ヤープの嗚咽に被さって響く.

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“俺の詰めが甘かったばかりに, お前たちには尻拭いをさせてしまって悪いと思っている. だが, オイレは何としてでもこの手に取り返す. 仕事ができなくなっていようが構わん. 父上の助力が望めない以上, 俺たちのみで助け出すしかないのだ.”

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“ヨハン様. . .”

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主が部下に対し, 自らの過ちを認め, 謝罪する. その言葉の重みは腕の中のヤープにも伝わったようだ. 荒い呼吸と震えが, 徐々に収まっていくのがわかった.

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“申し訳ありません. . . 頑張らなきゃいけないときに. . .”

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“ヤープ. お前は子供だし, まだ見習いだ. これしきのことを咎めはしない. だが, ウリにオイレを殺させたくないなら, 泣いていないで仕事をしろ.”

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“はい. . .”

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ヨハン様は優しく, しかし厳しく部下を律する. 本当はご本人が一番泣きたいはずだ. しかし, 上に立つ者として, 決して揺らがず, 絶望的な状況でも希望を示して士気を上げなくてはならない. その振る舞いは正に主たるものだった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎𝟖
教会の敵

“あいつはいつもヘラヘラしているが, 隠密としては一流の部類だ. 俺はまだ希望があると思っている.”

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ヤープが落ち着きを取り戻すと, ヨハン様は話を続けられた. 最後の一言は, ご自分にも言い聞かせていらっしゃるのだろう.

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“ラッテ, 俺はまだ手配書を見ていない. 申立人が誰だったのか, 調べはついているか?”

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“それが, 捕縛までがあまりにも早かったため, 私も手配書は入手出来ておりません. ただ一つ言えることは, 個人ではなく集団による申し立てであったようです. 中心的に動いていたのは2名の医師で, それに他の医師や司祭, 修道士が賛同した形のようでした.”

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“なるほど. . . ということは, 教会先導で動いていたわけではないのだな?”

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“はい. もしも薬の件などで教会に睨まれているのであれば, 突然捕縛するのではなく, まずは教会側から自粛の要請があるはずです. もちろん, 多少疎まれるところはあったようですが, それはオイレに限らず歯抜き師全般に言えること. 私の耳にはこれといって大きな動きは入ってきておりませんでした.”

🛑

“そうか. 教会先導で動いていたのであれば, 薬で儲けすぎた可能性が高かった. 薬は修道士の領域だからな. しかし今回は, その二人の医師の言い分に教会関係者が乗った形だ. まずは医師にとってオイレの何が邪魔だったのかを考える必要がある.”

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その口調は, いつも通りの極めて冷静なものに戻っている.

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“民衆の扇動はおまけのようなものだろう, つまり原因はあの冊子だ. 冊子を医師に配ったのなら, 反発も想定できたのだが, 床屋と歯抜き師に配って, 医師に何か損失があったか?”

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唸るヨハン様に, 声をかけたのはラッテさんだった.

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“ドゥルカマーラの名を出したのが良くなかったかもしれません.”

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“ほう, 何故だ?”

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“ドゥルカマーラは高名な医師ということにしてあります. 医師が書いた著作, それは普通に考えて医学書だと判断されるでしょう. 床屋が知恵をつけ, 自分たちの指示通りに動かなくなることを嫌ったのだと思います. .”

🛑

“たしかにその線はあるな. . . 冊子にオイレの名を出させないことでその身を守るつもりだったが, 裏目に出たか. . . しかし, 床屋が知恵をつけるのを嫌うだけで, ここまでやるものか? 教会関係者を味方につけて悪魔の書物とまで騒ぎ立てる, それはつまり奴らの中でオイレに対し明確な殺意があったということだ.”

🛑

“恐れながら, 医師の多くは怠惰で高慢な者たちです. こういった者たちは, 自分たちに屈辱を与えたものへ徹底した制裁を加えようとするものです. ドゥルカマーラは[愛の妙薬]の考案者としてすでに有名になっています. 最新の薬を作り出した医学書が, 自分たちの手ではなく, 床屋の手に渡る. . . 床屋の扱いが面倒になること以上に, 高名な医師が自分たちよりも下の存在を選んだこと, そして彼らが自分たちよりも高い水準の知恵にありつくことが許せなかったのではないでしょうか.”

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“なるほど. 下種にもほどがあるな.”

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ラッテさんの見解を聞いて, ヨハン様は嫌悪感をあらわにされた.

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“医師らの動機は確かにそれで辻褄が合う. となると, 今度は教会関係者が何故それに加担したのかだな. 流石にそう簡単に言いくるめられるものではない. この話, 教会側にも何かしらのうまみがあったはずだ. しかも, その目的は処刑ではない. もしそうなら, 処刑日程はすでに発表されているはずだ. 処刑を求めたのが医師の側でも, オイレから何かを聞き出そうとしているのは教会の方だ.”

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“そうですね. . . しかし, そこまでのうまみとは一体. . .”

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今度はラッテさんも思い当たることがないようだ. ヨハン様はぶつぶつと独り言をこぼし始めた.

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“冊子についてオイレから聞き出せることは何がある? どこで手に入れたか, この書物は本物か, ドゥルカマーラの直弟子というのは本当か. . .”

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再びテーブルをコンコンと鳴らす音が部屋に響く. 私たちはただ黙って, ヨハン様がその頭の中を整理するのを待った.

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“聖堂参事会の同盟. . . 聖地奪還戦争. . . リッチュル辺境伯の動き. . . そうか, そういうことか!”

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“何かお分かりになったのですか?”

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“いや, 現時点では推測にすぎん. だが教会はおそらく, ドゥルカマーラという存在を邪教の象徴とするつもりだ. ドゥルカマーラを異国から来た異教徒と断じ, 旅芸人によって持ち込まれた邪教の脅威を民衆に知らしめることで, 教会の権威を強めようとしているのだろう.”

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“教会の権威だなんて, 領民は皆信徒ですのに!”

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驚いて思わずそういうと, ヨハン様は悔しそうに顔を歪めた.

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“いや, 権威といっても, 連中は民衆のことは考えておらん. 政治的な権威のことだ. わが帝国は宮廷と教会, 皇帝と教皇という対立構造の上にあるが, 邪教から国を守るという大義名分があれば, その均衡を一気に教会側に傾けることができる.”

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“政治的な権力が欲しいということですか? 神に仕える聖職者たちが, なぜ政治に?”

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“あのな, ヘカテー. 神に仕えるとは言うが, 教会を管理する司教たちは皆貴族の子弟だ. 俺は正直, 清廉潔白な教会などこの国の1割にも満たないと思っているぞ.”

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“そんな. . .”

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“金と権力のことばかり考えている手合いにとっては, 今回の騒動は降って沸いた幸運だろう. あとはドゥルカマーラをどこまでうまく使うかだが, これは実在するかどうかによって動き方が変わってくる. 実在するならば邪教をもたらしたものとして国中に手配をかける. 口から出まかせの存在なら, その悪行を大量にでっち上げて, 異教徒に対する怒りの火種とする. . . 故に, オイレから聞き出そうとしているのは, ドゥルカマーラが実在するかどうかと, 実在するならどこで出会ったどんな奴かだ.”

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“でしたら, 実在しないということをオイレさんが白状すれば, 尋問は終わるのですね?!”

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ようやく救いの道が見えたと思ってした質問はしかし, 一瞬で叩きつぶされた.

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“ああ. 尋問は終わり, すぐさま処刑に移るだろう. 実在していればまだよかったが, これから邪教の象徴として祭り上げようとしている存在の非実在を知る者など, 邪魔以外の何物でもないからな.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟎𝟗
それぞれの献身

どう足掻いても, オイレさんの助かる道が見いだせない. あんなにも優しく頼りになる人が, 初めてお会いした時からずっと私を助けてくれた人が, 無実の罪で処刑にされてしまうというのか. そうなる未来を予見しておきながら, ヨハン様の医学を邪魔しまいとそれを告げず, ひとりで不名誉に命を終えるというのか.

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いつも陽気に笑うオイレさんの顔が脳裏に浮かぶ. 何かに失敗するなんてことが, 想像できない人だ. だからこそ, もしあの人が自分の意志で殺されようとしているのなら, それも成功してしまいそうで恐ろしい. 拷問, 車裂き, 火炙り. . . これからどんな苦難の時が彼を襲うのかと思うと, 恐怖で頭がどうにかなりそうだった.

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絶望に言葉を失う私たちに向かって, ヨハン様が静かに声をかける.

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“安心しろ. つまり, 実在させてしまえば良いのさ. 俺が名乗り出よう. ドゥルカマーラは俺の筆名だと, 一言そういえば良い.”

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“しかし, それでは結局, 教会と事を構えることになってしまうのではないですか? オイレさんが[悪魔の書物]を配布した都の罪状は, 既に街中が知るところなのですよね? ご領主様がそんなこと, お許しになるのでしょうか. . .”

🛑

“そうだな, 父上は許すまいよ.”

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🛑

皆が怪訝な顔で見つめると, ヨハン様はふん, と鼻を鳴らして意地の悪い微笑みを浮かべた.

🛑

🛑

“だが簡単なことだ. 今回のことは父上には伝えず, 俺が勝手に動けばいい. いよいよ俺も[塔の悪魔]の本領発揮だな. 皇党派の柱たるイェーガー方伯が騒ぎを起こした自らの息子を廃嫡し, 修道院に放り込めば, 教会の権威への尊重を公に表明できる. 一石二鳥じゃないか.”

🛑

“そんな, 廃嫡だなんて!”

🛑

“心配するな. どんなに大きな声が上がろうと, 俺は流石に殺せん. イェーガーの力もたかが次男を失った程度で揺らぐものではないさ. まぁ, 修道院に入ったら工作の仕事はできなくなるだろうから, そこはまた父上に自ら頑張ってもらうほかないが. . . なに, それもそろそろ方伯の仕事を兄上に引き継いでいけばよいだけのこと.”

🛑

“医学の道は, どうなさるのですか. . .”

🛑

“そんなもの, 所詮は暇を持て余した貴族の遊びだ. ここまで続けられただけでも十分だろう. もともと隠密の手を借りてまでやるべきことではなかった. 配下の命はイェーガーの家の為にある. 工作に命を賭けさせるなら良いが, 遊びで失うなど言語道断だ.”

🛑

🛑

あっさりと長年の夢を切り捨てるヨハン様に, 私は何も言えない. 今回のことはオイレさんの命がかかっているのだ. 代案を提示できなければ, 命より学問を優先しろと進言するのと同じことになってしまう.

🛑

🛑

“さて, そうと決まれば早く動かなければな. ラッテ, 俺は今から早急に文書を作成する. ビョルンを呼んで来い. 仕上がり次第, 市庁舎に届けさせよう.”

🛑

“. . . 仰せのままに.”

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🛑

ラッテさんは命令を受けるなり, 部屋から去っていった. 市庁舎に公式に出向くとなれば, それなりの身分が必要だが, ラッテさんは表向き只の商人で, イェーガー方伯とは関係がない. ビョルンという聞きなれない名前の方は, おそらく侍従の一人なのだろう.

🛑

これで, オイレさんは助かる. 悪魔の書物によって民衆を扇動したなんて言いがかりは, ドゥルカマーラが異教徒であるという前提の上に成り立っている. その正体が領主の息子というこれ以上ないほど身元を保証された人物であることが判明すれば通用しなくなるはずだ.

🛑

しかし, それでも思わずにはいられない. 他に方法はないのだろうかと.

🛑

冊子を作るとき, オイレさんは言っていたのだ. 初めてヨハン様とお会いした時, 夜通し医学を語ったと. そして, 今もヨハン様の医学に触れられている間だけ, 世界が崩れ去る恐怖から救われているのだと.

🛑

そう, あの人は確実に, ヨハン様の研究を手伝うことを目的に隠密をしている. 街で人気を集める姿を見れば, 生活のために危険を冒す必要性も, 身を隠さなくてはいけないような過去もないことは明らかだ. ただ, 医学の道に触れたい, ヨハン様の研究に役に立ちたいという純粋な気持ちから, この大変なお仕事を選んだのだと思う.

🛑

. . . そして, そんな彼は, 自分の命と引き換えてでも, ヨハン様の研究の成果を世に出すことを望んだ. もし命懸けで世に出そうとしていることがばれれば, その手を止めてしまうだろうと, お得意の演技でヨハン様を煙に巻いてまで.

🛑

ヨハン様がドゥルカマーラであるということを公表すれば, オイレさんが望んだ医学の発展はここで途絶えてしまう. もし尋問がすでに始まっているなら, 完全に怪我し損である.

🛑

私は必死に頭を回転させて, なんとか他の道がないのかを考える. 医学の研究はヨハン様とオイレさん, お二人共の夢だ. オイレさんの命を助けるだけでなく, お二人が医学をあきらめずに済むような方法はないのだろうか.

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🛑

―― それから, ヨハン様の発案であっても, それがヨハン様のためではなく, 誰かほかの人のための命令であれば, やっぱり教えて.

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🛑

そんな約束もしていた. 今, まさしくほかの人のための命令が出されているが, 獄中のオイレさん本人に教えに行くことはできない.

🛑

考えるうちに, ふとわいてきた疑問があった. ヤープは今回の件について, 何も聞いていないといっていた. しかし, 本当に尋問を担当しているのは他の刑吏なのだろうか? 教会の権威を決定づけるための大事件の尋問を, 一番人気がある. . . つまり最も信頼のある刑吏でなくて, 誰にやらせるだろうか.

🛑

その疑問に一筋の光明を見出し, 私は無意識に口を開いていた.

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🛑

“ヨハン様, シュピネさんに連絡をとることは可能でしょうか?”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏𝟎
中途半端な遺言

まだ日の高いレーレハウゼンの街を抜けて, あたしは急いで足を進める. 最短のルートを考えながら, 歩いていると思われるぎりぎりの速度で.

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“よぉ, 早い時間から珍しいな! 今日は休みかい?”

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“そうよ, もしかして今夜きてくれるつもりだった? ごめんなさい.”

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“いや, 俺もそんな頻繁には行けねぇよ. というか, そっちは賤民区域だろ? 何しに行くんだ?”

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🛑

どこを歩いていても, あたしの容姿はどうしても目立つ. 常連客に声を掛けられれば, 演技がなおざりにならないように気を付けながら, できるだけ早く切り上げるように言葉を紡いだ.

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🛑

“娼館のおやじさんとこに直談判に行くのよ. あたし, かなり稼いでるはずだもの. ピンハネしてないでもっと給料よこせってね!”

🛑

“そうか, お前も大変なんだな. . . でも賤民区域は危ないぜ? 送っていこうか?”

🛑

“ありがとう! でも大丈夫よ. 刑吏たちだって馬鹿じゃないわ, あたしに手を出したらあんたに喧嘩売るのと同じってことことくらい, わかるでしょ?”

🛑

“はっはっは, それもそうか. 傍にいなくても守ってやれるたぁ, 男冥利に尽きるな. ま, もうちょっと金貯めたらそのうち迎えに行くから待っててくれや.”

🛑

“きっとよ? あんな狭いベッドの上でしかあんたと会えないなんて悲しいわ.”

🛑

🛑

こんなに急いでいる時でさえ, 歯の浮くようなセリフをペロッと言えるあたしは, 根っからの悪女なんだろう. 今の男があたしにいくらつぎ込もうが, 最終的に自滅して首を吊ろうが, きっとあたしは少し残念に思うだけで, 次の週には新しい男をひっかけられる. でも, それはお互い様. 男たちは, あたしのことを女という名の美しい器だと思っている. 脳も心臓も備わった人間として見る男は, 驚くほど少ないものだから.

🛑

. . . だからこそ, あたしにだって, なんとしてでも守りたい男というのはいるの.

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べつにそれは愛しているからじゃない. 靡かないのが悔しくて, でもそれがなぜか嬉しくて, 隣にいれば安心する. ただそれだけの, あの憎たらしい赤毛のために, 表では娼婦, 裏では隠密という名の人形であるあたしが今, 自分の意志のもとに必死で任務を遂行しようとしている.

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🛑

“ごめんくださぁい. . .”

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🛑

賤民区域の更にはずれ, みすぼらしく悪臭の漂う刑吏の家. 扉を叩くと, 中からやつれた女性が出てきた. 顔立ち自体は美しいけれど, 肌がボロボロで, 実年齢よりかなり上に見えているだろうことがわかる. きっと粗悪な化粧品にやられたのだろう. 刑吏の妻は, たいていがそうした元娼婦だから.

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🛑

“やだ, 本当に来たよ. あの人ったら本当にそういう仕事もしてたんだねぇ.”

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“あの, ウリは?”

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“仕事だよ. 見つからないうちにお入り.”

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家の中に招かれると, 彼女は一巻きの紙を渡してきた.

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“あたしは字が読めないもんでね. どぎつい美人かパッとしない商人が家を訪ねてきたら, これを渡せとしか言われてないんだ. .”

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“開いてもいい?”

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“知らないよ. 勝手にしな.”

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恐る恐る開いた紙には, 覚悟と優しさが身勝手に書き連ねられていた.

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拝啓

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卑しきこの身がヨハン様に手紙をしたためる失礼をお許しください. 当初は誰か他の者に宛てようと思っていたのですが, 今後の状況を想像するに, 結局ヨハン様もお読みになるだろうと思っての判断でございます.

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この手紙がヨハン様のもとに届いている頃には, おそらく私は市庁舎の地下牢にでも拘留されていることでしょう. 突然のことで驚かれたことと存じますが, このことは私が前から練っていた計画の範囲内です.

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そこでお願いがございます. 今はまだ機が熟しておりません. ドゥルカマーラの正体としてご自身が名乗り出るようなことは, 何卒なされませんよう.

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勝手に計画し, 勝手に動き, それを黙秘していたことをここに謝罪いたします. お優しい我が主のことです. 私が処刑される可能性を察知されたら, そのご研究を世に出すことを諦めてしまわれるのではないかと思い, お話しすることができませんでした.

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私はレーレハウゼンに来てから数年に渡り, 民衆の前で己の姿を欺き続けてまいりました. もともとそれは単なる演出の一環だったのですが, 街に知れ渡る[歯抜きのオイレ]の姿を, 今こそ役立てることができそうです.

🛑

ウリは信頼厚く, 優秀な刑吏です. 私の尋問を彼が担当するならば, 私は必ずやヨハン様のもとへ帰還いたします. 勝手に動いたことに対するお咎めは受けますので, 煮るなり焼くなりお好きになさってください. まぁ, 既にされた後かもしれませんが. . .

🛑

この手紙を遺言とするつもりはございません. ですが, もし帰還が叶わなかった場合は, この梟には大した腕がなかったものだと笑ってやってください. 私は, ヨハン様のお傍にお仕えできたこと, そしてそのご研究に携われたことが何よりの幸せでございました. どうか一つの命より千の命をお選びください. 今はまだ撒いたばかりの種ですが, その種は芽吹き, 必ずやこの国を支える柱として結実するだろうことを, 私は信じております.

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あなたの忠実なる梟より

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破り捨てたくなる衝動を抑えて, あたしは手紙を袖口にしまった. あの馬鹿が戻ってきたら, 知りうる限りの罵詈雑言で罵倒してやる.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏𝟏
大衆の娯楽

光の差さない穴倉の中で, 腐った藁に半分埋もれ, 両手両足に鎖がまかれてほとんど動けない. それでも僕は内心ほっとしていた. 今身に着けているのは肌着だけ. . . でも, 完全な裸に剥かれなくてよかった. もしそうだったら初っ端から計画が失敗するところだ.

🛑

表に出るときの僕の姿は, 派手な化粧を施した小太りの変な奴. 大道芸は大衆の娯楽, 大衆っていうのはたいてい貴族が大嫌いだ. だからそれは, 肥え太った貴族を揶揄するためのものだった. まぁ, 実際にこの街に来て貴族にお仕えしてみたら, 全く太ってなかったんだけど, それは単に僕がとびきりの当たりをひいたっていうだけの話だからね.

🛑

それにしても, よくもここまでギッチギチに縛れるものだ. 縄抜けを知っているはずの僕もこの拘束はほどけそうにない. 捕吏というのも熟練の職人なんだなと思い知らされる. ここへ友人が遊びに来るまでの間は, ただぼーっと蠅の音を聞いている以外にできることはなさそうだった.

🛑

さて, ここから僕の運命はどっちに転がるだろう? 今まで生きてきてそれなりに賭け事も楽しんできたけど, 正直これは最大の賭けだ. 尋問に来た刑吏がハズレだったら, ドゥルカマーラなんてただのホラだと早々にゲロって人生終了. いや, 最悪のケースではゲロっても終了しないことがある. 刑吏本人はあくまで仕事だから, 無駄な拷問を楽しむことはあまりないけど, 長引かせるように言われることはあるからね. 死ぬのは構わないけど, 痛いのが続くのは嫌だなぁ.

🛑

. . . そうこうするうちに, 人の気配が近づいてきた. 刑吏がやってきたようだ. 扉に手をかける音がする. さぁ, 丁か, 半か, いざ勝負!

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🛑

“ひゅー, あったりぃー♪.”

🛑

“なんだその反応は.”

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🛑

入ってきた人影は不機嫌そうに応えた. 痩せすぎた体躯に, 暗がりでもわかる真っ白な髪の毛と真っ赤な瞳, 妙に整った無表情な顔. こんな刑吏はひとりしかいない. あまりにも死神然としたその姿は, 処刑場に降り立つ大衆の負のスーパースターだ.

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🛑

“いやぁ, ドキドキしたよぉ. 担当が君じゃなかったらここで人生終了だからね, ウリ!”

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“そうかい.”

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🛑

ウリは近づいてきて, ため息交じりに僕の顔を覗き込んだ.

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“それにしても. . . あんたさん, もっと器用な男と思っていたが?”

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“えぇ? 僕は器用だよぉ?”

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“前々からわざわざ肉だの皮だの用意しろというから, 何かとっておきの策でもあるのかと思っていたら, こんなことかい. 捕まる前に逃げるくらいできたろうに.”

🛑

“だって, 一度ちゃんと捕まらないと, 一生逃げ続けなきゃいけないじゃない.”

🛑

“捕まったら処刑される可能性の方が高いと思うがね. もしその変装が事前にばれてたら, 俺だってお上に言われるまま, あんたさんをバラすほかないんだが.”

🛑

“その場合は, 尋問中にうっかり殺してくれるでしょ?”

🛑

“俺をあんまり万能だと思ってくれるなよ.”

🛑

🛑

面倒くさそうに受け答えをしながらも, ウリはてきぱきと鎖を解き, 肌着を脱がせ, 太った体型を演出するために身体に巻いていた肉を外す. いつもは藁やおがくずを詰め込んでいるが, 冊子を配った時からは, いつ捕吏に掴まれても違和感がないよう, 生肉を巻くようにしていた. 皮剥ぎ人を兼ねるウリに用意してもらった, 本物の獣肉だ.

🛑

最後に頬の内側に仕込んでいたわたを吐き捨て, 顔を拭って化粧を完全に落とすと, 僕はすっかり別人になった.

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🛑

“うへぇ, さすがに丸一日経つと臭いがすごいねぇ.”

🛑

“前の罪人の肉だと思ってもらうには, 腐ってる方が丁度いい. それより, 解いてやったんだから, ちっとは手伝え. 急がねぇと怪しまれるぜ.”

🛑

🛑

身体から外した肉をウリから渡され, 一緒に壁に貼り付けていく. 上向きの棘がたくさん付いた, 拷問用の壁だ.

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🛑

“本当は罪人を吊り下げてぶつけて, 引きずり下ろすんだっけ? 改めて見るとエグいよねぇ. 1回でズタズタになっちゃう.”

🛑

“人間ってのは悪趣味なもんさね. 自分の手は汚したがらないくせに, 血を見るのは大好きだ. 処刑も街中の人間が集まるし, 大罪人の時なんか, わざわざここに見学に来るのもいる. あんたさん, 運が良かったな.”

🛑

“運じゃなくって, ちゃんと考えたよぉ, 今回は教会が相手だもの. 聖職者は尋問を見るなんて悪評が立つ真似はしないよぉ.”

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“そうかい.”

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🛑

肉を壁に貼り付け終えると, ウリは皮袋を取り出し, 入っていた血を適当に壁にぶちまけた. これで血が乾けば, 前にここで尋問された罪人の惨劇の跡に見えるだろう.

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“用意周到だねぇ.”

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“まったく, 言われずとも持ってきてやったことをありがたく思え.”

🛑

“うん, ありがとぉ. よく考えれば僕の血でやんなきゃいけないとこだったねぇ. 危ない, 危ない.”

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“そこまで頭が回るなら最初から考えておけ. まぁ, 捕まる前にその面へ痣を作っておいたのは褒めてやらんでもないが.”

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🛑

そう言ってウリは僕の頬を指さした. 身代わりのふりをするにしても, 素顔はどうしても晒す事になる. 後々面倒なことにならないように, 予め壁に顔をぶつけて大きな痣を作っておいた. 目立って大きな特徴があると, 人はそこしか認識できなくなるもの. これで, 歯抜きのオイレの身代わりになったのは[頬に大きな痣のある男]だ. 痣が消えれば自由になれる.

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🛑

“晴れて僕はオイレじゃなくて, かわいそうな身代わりさんだぁ.”

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“ああ, よく考えたもんだ.”

🛑

“あとは君が役人のところに行って, [聞いている容姿と違う]とか[身代わりをやらされたといっている]とかって言ってきてくれればいいわけだけど. . . 何の準備をしてるの?”

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🛑

ウリは道具箱から何かを取り出して, 部屋の中央に置かれた長椅子のようなものに何か細工をしている. 嫌な予感がする.

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“もちろん後で行くがね, その前に多少いじめてやらねぇと, かえって疑われるからな.”

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“. . . はい?”

🛑

“大丈夫だ, 加減はわかってる. あとで困るようにはしない.”

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“ま, 待って?! 同じ娯楽提供者どうし, 仲良くしよう, ねぇ?!”

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“十分仲良くしている. さ, 力抜いとけ? 筋がいっちまうと治りが悪くなるぜ.”

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そこからの記憶は, ちょっとおぼろげだ. 多分覚えていないほうがいいような内容だったんだろうねぇ. . .

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏𝟐
登場人物紹介②

前回の登場人物紹介はこちらです

https://ncode. syosetu. com/n3631ga/34/

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■フェルトロイムト城の人々

〇イェーガー方伯アルブレヒト

ヨハンの父. 帝国選帝侯のひとつである方伯の地位を持つ現当主. 圧政を敷くこともなく民衆に慕われる良き領主であるが, それは人徳というよりも合理主義ゆえであり, 実態は聡明というより狡猾, 冷徹というより酷薄な人物. ただし, 為政者としての腕は確かで, 宮廷での立ち回りも上手い.

白っぽい金髪に淡い緑の瞳. 40代前半くらい.

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〇ベルンハルト・フォン・イェーガー

ヨハンの兄. 非常に高いコミュニケーション能力と圧倒的なカリスマ性を持ち, 演説で軍の士気を高め戦争を勝利に導いた経歴から[黄金のベルンハルト]の二つ名で民衆にも知られている. 貴族として生きていくに足る教養はあるが, どちらかというと武芸を愛する.

元々ヘカテーはベルンハルトの愛人とする予定で雇われており, クラウスの策略でヨハンの元からヘカテーが戻された際は, ヘカテーをひと目で気に入り, 愛人とした.

ヨハンの[血狂い]に怯えて疲弊していく母や周囲の人々を思い, 塔に刺客を放ってヨハンを殺そうとしたことがある. 今もヨハンのことは良く思ってない.

濃い金髪に空色の瞳, がっしりした体格. 初登場時23歳.

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■隠密/ヨハン配下の人物

〇ラッテ

天才的な”人を見る目.”を持つ元詐欺師. 詐欺で捕まったところを, その才能を買われてイェーガー方伯により隠密として雇用され, その後工作活動がヨハンに引き継がれると共にヨハンの配下となった. 普段は潜入による諜報や情報の操作を担当し, 新しい隠密を雇用する際の人選や審査も任されている.

ライトブラウンの髪にヘーゼルの瞳, 特徴がなく覚えづらい顔だち, 小柄. 30代半ばくらい.

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〇シュピネ

行く先々で話題になるほどの人並外れた美貌を持つ女性. もとは現イェーガー方伯の愛人だった. 現在は娼婦として生活し, 諜報とハニートラップを担当している. 隠密といっても武術の心得がある訳ではなく, 運動神経も一般女性より多少良い程度だが, 巧みな話術によって戦わず勝つことができる.

金髪に深い青の瞳, 痩せの巨乳. 20代半ばくらい.

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〇ウリ

ヤープの父親であり, 職業は刑吏. 隠密ではなく, ヨハンたちへの協力者として解剖や偽装工作に利用する遺体の融通などを行う. 先天性色素欠乏症であり, その見た目とまじめな仕事ぶりから, 刑吏の中では最も人気がある.

白髪に赤い瞳, 極端に痩せた体型. 30歳くらい.

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■そのほか

〇ヤタロウ(トリストラント / 前回の登場人物紹介参照)

ヘカテーの父. ヘカテーが生まれてからトリストラントという名の商人として生きてきたが, 実はもともとティッセン宮中伯に仕える優秀な下級騎士であり, 隠密のケーターの師でもあった.

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〇アーデルハイト・フォン・ティッセン

ヘカテーの母. 人形と表現されるほどの美貌とファッションセンスで知られる社交界の華. ティッセン宮中伯の妻であり, 前ホーネッカー宮中伯の娘.

暗い茶髪に紫の瞳.

※今は名前だけですがそのうち登場します.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏𝟑
飴と鞭

ヨハン様の座るテーブルの前にシュピネさん, ラッテさん, ヤープが跪き, 私はその隣に立って控えている. それ自体はよくある光景だった. . . 私たちとテーブルの間に, 縄でぐるぐる巻きに縛られたオイレさんが転がされている事以外は.

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今, ヨハン様はかつてないほどにご立腹だ. じりじりと放たれる怒りの波動で, 肌が焼け付きそうなほどである. この状況になって四半刻ほど経っているだろうが, ヨハン様は上がる呼吸を抑えるようにして床に転がるオイレさんを見つめているのみ. 私たちは冷や汗をかきながら, その唇から何か言葉が紡がれるのをひたすら待っていた.

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“あ. . . あの. . . この度は本当に申し訳ございませ.”

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“黙れ.”

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沈黙に耐えかねたらしいオイレさんが口を開くが, ヨハン様は謝罪を許すつもりはないようだ.

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“なぁオイレ, お前は俺に仕えているという自覚があるのか? 隠密の持つ時間も命も, 本人ではなく主のものだ. それを勝手に使おうとするとは, 大した度胸だな. いつの間にそんな偉くなっていたんだ? え?”

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ヨハン様はドゴン, とテーブルを蹴り飛ばし, 揺らいだ台座から板が外れてはオイレさんの顔のすぐ横に倒れた. 全員の肩がびくりと震える.

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“確実に助かる道を考えていたならまだ許す. だが, あんな中途半端な遺言を残しおって. . . 確かにお前は隠密の中でも比較的自由に行動させているが, 俺はそこまで勝手な真似を許可した記憶はないんだがな.”

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“はい. . . 反省しております. . .”

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🛑

お二人のやり取りに口を挟める者は誰もいない. 結果としてオイレさんはこうして生きているわけだが, そこまでの経緯を聞く限り, 助かる前提の計画というよりただの奇跡としか思えなかったからだ.

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命に別条がない程度の大怪我をしたオイレさんが, この塔まで戻ってきたのは早朝のこと. もともと公の場では常に小太りに変装しており, 巧みな奇術でも有名だったオイレさんは, わざと変装した状態で捕まって, 市庁舎の穴牢獄の中でその変装を解いた. そして尋問を担当したウリさんが[話に聞いていた容姿とずいぶん違うし, 本人も身代わりをやらされたといっているが, この男は本当に捕まえたオイレなのか]と問い合わせたことで[歯抜きのオイレは眼を離したすきに別人を身代わりにして逃げた]と判断され, 釈放されたということだった.

🛑

. . . つまり, 尋問を担当したのがウリさんでなかったら, オイレさんは死んでいた. 更に言うと, 街で一番人気の歯抜き師だったオイレさんはいまだに手配中であり, ここにいるオイレさんも[オイレの身代わりをやらされた人]として, なんらかの関係があるのではないかという疑いまでは完全に解けていない状態である. ヨハン様が激昂するのも当然だ.

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🛑

“一応聞くが, 何に対しての反省だ?”

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オイレさんの弱弱しい受け答えに, ヨハン様の瞳がギラリと光る.

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“隠密として, 詰めが甘かったなと.”

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“ほう?”

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“確かに中途半端でした. 諜報担当は私のほかにもおりますし, [愛の妙薬]はもう私以外でも売れるだろうと思い楽観視していましたが, 自分が死んだ場合の指示を明確に残しておくべきでし. . .”

🛑

“ついさっき言ったことをもう忘れたのか, この戯けが! お前に自分の命を好き勝手に使う権利があると思うな, 俺が死ねと命じぬ限り死ぬことは許さん!”

🛑

🛑

ドゴン, と倒れたテーブルの板が再び蹴り飛ばされる. 今度はそれがオイレさんの肩あたりに当たり, うぐ, とうめき声が漏れた.

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🛑

“今回は釈放されたから良かったものの, あれだけの大罪, 逃したとあれば教会や参事会の沽券に関わる. 別人でも構わず処刑する可能性もあったのだぞ.”

🛑

“いえ. . . 私は結構有名ですので, これだけ姿が違えば処刑場で観衆が気づきます.”

🛑

“連中の高慢と理不尽さを甘く見るな. 力を持たぬ観衆の疑問など意に介さず, 己が正しいと言い張ることはよくある. 今ここにいることがどれだけの奇跡かわからんか.”

🛑

“は, はひぃ. . .”

🛑

“腑抜け声を出すな気色悪い. おい, シュピネ.”

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🛑

唐突に名前を呼ばれたシュピネさんははじかれたように顔を上げる. ヨハン様は額に青筋を立てたまま, 意地悪そうな笑顔を浮かべている.

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🛑

“はい, 何かご用命でしょうか.”

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“今回の件で一番の働きをしたのはお前だ. こいつの顔の痣が消えるまで, 3週間程度か? それまで, 大っぴらに表に出さなければ, 雑用なり用心棒なり, 好きにこき使っていいぞ. 何なら財布にしても構わん.”

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“なんと, それはありがとうございます!”

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🛑

シュピネさんの顔がぱぁっと明るくなり, オイレさんの顔がさぁっと青くなった. オイレさんは優秀な人だ. 3週間も自由に使えるとなれば, シュピネさんにとってはかなりのご褒美だろう. オイレさんにとっては. . . どうなんだろうか.

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🛑

“まぁ, 経緯はわかった. 事後の処理は考えておく. 隠密は皆下がれ.”

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“は!”

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オイレさんの縄は解かれないまま, シュピネさんに引っ立てられて去っていった. [隠密は]とのことなので, 私はそのまま控えて待つ.

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皆さんが出ていったのを見届けると, ヨハン様は大きくため息をつきながら, 先ほどご自分で蹴り倒したテーブルの板を元に戻された.

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“まったく, 結果良ければ云々と言うが, 今後もこんな奴らを従えていくことを思うと頭が痛い.”

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“オイレさんは隠密になってどのくらい経つのですか?”

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“俺が父上に隠密を移譲されてから比較的すぐに雇ったから, 7~8年といったところか. あいつが問題を起こしたのはこれが初めてだが.”

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“そんなに昔から. . . ヨハン様は凄いですね. 年上の方々をしっかりとまとめ上げていらして.”

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“そんなことはない. 最初の頃は特に, 舐められないようにするだけで精一杯だった. 今も偶に, こうやって大袈裟に鞭を振るうようにしているが, 飴と鞭の配分には苦労している.”

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そういわれて納得がいった. ヨハン様の貴族とは思えないような粗暴な言動や, 時折見せる極端な圧力は, 百戦錬磨の隠密の皆さんの上に立つために身に着けた演技が常習化したものなのだろう.

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“皆様のヨハン様に対する忠誠心の強さは見ていればわかります. オイレさんだって, 命懸けでヨハン様のお役に立とうと思ってしまったが故の行動でしたし.”

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“それはそうなんだが. . . 隠密はあくまでイェーガーのために働くもの. 俺が今まで職権を乱用しすぎていたのも悪いんだが, 動機が良ければ何をしても良いというものではないからな.”

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それでも, 疲れたように笑うヨハン様の表情からは, 何よりもホッとした雰囲気が見て取れた.

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“オイレさんが帰ってこられて良かったです.”

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“ああ, 本当にな.”

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この方は, なんだかんだ言って自分の配下を愛している. わざわざ私をこの部屋に残したのも, 単純にオイレさんの生還を喜ぶ時間が欲しかったのだろう. 立場上できなくても, 本当は[よくぞ帰還した]とお褒めの言葉をかけたかったに違いない.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏𝟒
大罪人と異邦人

“戻ってきたのは良かった. . . しかし, オイレはもう歯抜き師として表に姿を現すことはできない. 奴も隠密活動自体は続けるから, 完全に代わりができる者を求めなくても良いんだが. . . 手痛い穴だなこれは. 白昼堂々, 人前に立って諜報や情報発信ができるというのは稀有なことだった.”

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“そうですね. オイレさんの代わりができる人なんてそうそういないと思います. . .”

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“組織は大きくなるほど運営が難しくなる. あまり隠密を増やしたくはないんだが, これを埋めるには一人の増員では足りなさそうだぞ.”

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ヨハン様はそういって頭を掻きむしる. かなり悩ましい問題のようだ.

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🛑

“やはり隠密の方々は少人数なのですか? 私は, オイレさん, ケーターさん, シュピネさん, ラッテさんの4人しかお見かけしたことがないのですが, それで全員なのでしょうか.”

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“少数精鋭だが, 隠密自体はもっといる. その4人は各役割の代表で, この塔まで報告に来ることが多いだけだ. とはいえ, オイレは少し特殊な枠で, 部下を持っていない. . . つまり, 部下を引き上げることで穴を埋めることができないのさ.”

🛑

“なるほど. . . 確かに, オイレさんの表の職業は, 隠密とは対極にありますものね. これではせっかくのお薬も売れなくなってしまいましたね. . .”

🛑

“いや, 薬の件はまだ手が打てる. 冊子を配った者の中に, ラースという薬屋がいた. 冊子を配る時点でラッテが見極めているから, そいつにやらせるつもりだ. 既に[愛の妙薬]の存在は知れ渡っているからな.”

🛑

“確かに, 売るだけなら隠密になる必要はないですね. ウリさんのような, 協力者という立ち位置になるのでしょうか.”

🛑

“ウリとはまた少し違う. あいつは刑吏の仕事が生活の軸になっているだけで, 隠密のみが触れるような情報も渡している. 反面, ラースはあくまで薬を売るだけで, 薬以外の情報を渡す予定はない.”

🛑

🛑

考えてみれば, 薬屋に薬を卸すだけなら, 詳しい情報を与える必要はない. ただの商品取引だ. とはいえ, それはそれで気がかりなことがある.

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🛑

“ラースさんだけが売る形にするのですか? こんな売れ筋の商品を直接取引で一人が独占したら, ギルドが黙っていそうにありませんけど. . .”

🛑

“安心しろ. もちろんその点も考えている.”

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🛑

ヨハン様はそういって, ニヤリとあくどい笑顔を浮かべると, 文書を手に取った. オイレさんのお手紙が届き, 結局届けずに終わったそれは, ドゥルカマーラがヨハン様の筆名であると表明するものだ.

🛑

シュピネさんによってオイレさんの尋問をウリさんが担当していることが分かったので, オイレさんの[計画]を尊重せざるを得なかったが. . . 実際にオイレさんが帰ってくるまで, 私たちは命が縮む思いで祈りながら待っていた. 先ほどのヨハン様のオイレさんに対する激しい叱責は, 少なくとも半分は本物のお怒りだったことだろう.

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🛑

“今, 罪人として手配されているのは, あくまで[歯抜きのオイレ]だ. ドゥルカマーラに罪状がつく前に, 教会に先回りして手を打とう. 今日中に, 高名な医学者ガエターノ・ドゥルカマーラを城に招聘したことを都市参事会へ報告する.”

🛑

“ええっ?!”

🛑

“オイレがどうやってこの名前を考え付いたかは知らんが, そもそもドゥルカマーラはラテン系の名前だ. 異教徒の名前ではない. イタリアの司教の紹介で俺の教師として呼び寄せた事にすれば, 異教徒呼ばわりすることは到底できなくなる. ついでに薬の件はラースに託すと一筆加えたら, ギルドも文句は言えまい.”

🛑

“しかし. . . それでは結局, 教会と事を構えることになってしまうのではないですか? それは, ご領主様やお家の不利益になってしまうのではないでしょうか. . .”

🛑

“俺自身がドゥルカマーラであるといって大罪人の釈放を求めるのと, 何の罪状もない只の学者を城に招いたと単に報告するのとでは, 表向きの意味が全く異なるぞ. イェーガーの不利益には全くならんさ.”

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🛑

ヨハン様は文書を破り捨て, 新しい紙にペンを走らせ始めた. 何と大胆な案だろう. 表向きは確かに平穏だが, 裏では完全に対立することになる. 教会だけではなく, 都市参事会とも, ギルドとも. ご領主様のご子息がとる行動として, これが正しいことなのか, 私には判断がつかない.

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🛑

“あの, 誰かがドゥルカマーラに会わせろと言ってきたらどうなさるのですか?”

🛑

“そのための役者も用意しなくてはな. 本当は旅芸人であるオイレの伝手で捜すのが一番早かったんだが. . . ラッテをしばらく帝都へ派遣して, イタリア方面から流れてきている者を捕まえる. ラッテの席も長く空席にするのは危険だが, ドゥルカマーラを実在させることは今後の多くの策略に関わってくる大きな問題だ. 多少の無理は仕方がない.”

🛑

“さようでございますか. . .”

🛑

🛑

見つめる私の心配が伝わったのだろうか. ヨハン様はふん, と鼻を鳴らして仰った.

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🛑

“今回のことで, 俺も覚悟を決めたのさ. オイレがここまでやったんだ, 主たる俺が戦わずしてどうする, とな. 革新をもたらすべきは医療だけではなかった. 医療の向上など, 俺のすべきことの起点に過ぎなかったのだ. 俺は方伯の座を受け継ぐつもりは毛頭ないが, その分, 兄上に代わってこの家の影を担い続けるつもりだ.”

🛑

“影を担う. . . この領地と国の未来に光があるために, ヨハン様が影の役を買って出ると, そう仰るのですか.”

🛑

🛑

それはケーターさんから聞いた, 父の昔話にあった言葉だ. 光は常に影がなくては存在しえない. 私の母, ティッセン宮中伯夫人は, 夫とその領地, 帝国のために, わざわざ影の役を担っていたと.

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🛑

“ああ. 宮廷も, 教会も, 清らかそうな顔で正義を気取りながら腐りきっている, この帝国の貴族社会すべてを相手取り, この手でその腐敗を焼き払ってやる. その腐敗に巣食い肥え太った連中にとって, それは罪と映るだろうな. 俺はいよいよ悪魔として名を馳せる.”

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🛑

以前にも増して壮大な夢, 壮絶な覚悟. . . それでも, それを語るヨハン様の瞳には, 闇ではなく光が宿っている. 母もこうして父に自らの道を示したのだろうか. 父も, 母の瞳に同じ光を見たのだろうか.

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🛑

“ヘカテー, お前はただの囚われの客人だ. 今や俺に仕えているわけではないから, 俺に従う必要はない. . . しかし, お前ならきっと, ついてきてくれるのだろう?”

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“はい, もちろんでございます.”

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悩むまでもなく, 私は喜んで肯定した. 役に立てることは少なくても, この方を傍で支えることが, 私にとっての[騎士道]だ.

第12章 異邦の智慧
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏𝟓
貿易商

オイレさんの捕縛騒動がようやく落ち着き, ラッテさんがドゥルカマーラ役を捜しに行ってしばらくたった頃, 忘れていた人物と会える機会がやってきた.

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“ヘカテー, キリロスがやってきたぞ. 今日は居館で父上たちと商談をするそうだが, 明日はここにも寄っていくらしい.”

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“キリロスさんですか! ギリシア商人の方ですね. 私もお会いしたいです.”

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“もちろんだ. お前の祖父の本についても, 何か知っていることがあるかもしれんしな.”

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🛑

キリロスさんは, 年に1~2回, 交易品を届けにフェルトロイムト城を訪れているのだという. ギリシアは帝国の南東に位置する国だ. 故に, 東方貿易の拠点は帝国の南方であり, 北端に位置するイェーガー方伯領では, 交易品は宮廷からの土産物として入ってくるのが主である.

しかし, 他国との交易品を所持すること自体も, それに付随して他国の情勢について話を聞くことも, 高位の貴族にとって政治的に大きな意味のあることなので, それらを直接領地まで届けてくれる貿易商は, イェーガーのお家にとって非常に貴重かつ重要な存在なのだそうだ.

当然キリロスさんの側もそれを自覚しており, 最も良い品を届ける目とあらゆる情報に通じる耳で自分の価値を証明し続けることで, お抱え商人の座を保っている. したがって, 国外の知識について頼るのであれば, キリロスさんほど頼りになる人はいないのだ.

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しかし, 私には祖父の本の知識について訊けること以上に興味をひかれてることがあった. それは”初めてギリシア人と顔を合わせる.”ということである.

🛑

私に流れているというギリシアの血. . . 今まで自分と父の顔立ちや, ギリシア語の勉強の中で想像するしかなかったその国の人. もちろん, 帝国を訪れるギリシア商人はたくさんいるだろうから, キリロスさんが直接祖父や父のことを知っているとは思っていない. それでも, 自分と同じ血を持つ人と会えるということ自体に対して, 私の中にずっと欠けていた, 自己を規定するために必要な何かを埋めてくれるのではないかという期待があった.

🛑

私の記憶は, 物心ついたときからレーレハウゼンで始まっている. ギリシア語を勉強し始めたころ, それに引き出されるようにして, もっと幼いころの記憶の断片らしき夢を頻繁に見ることはあったが, 自分の祖国を問われればこの帝国の名を答えるのが最も自然だと感じる. その土地の空気と文化の中に身を置いたことがない以上, 私のルーツがどこの国にあろうと, 自分はレーレハウゼンの住民であるとの認識しか持てないのだ.

🛑

それでも, ひと目でわかる風貌のせいで, 周囲は私を外国人と認識する. 例えば, 皮剥ぎ人のヤープが会ってすぐ私になついたのは, 私がこの国の社会の枠組みから外れていると考えるからだ. また, ベルンハルト様は私を見て異国の貴族の娘かと訊いてきたし, クラウス様とズザンナ様は, ギリシア語をみてそれが私の母国語なのかと訊いた. 私の母, ティッセン宮中伯夫人は当然ながら純血の帝国民であるから, 流れている血の量で言えば帝国の方が多いのにもかかわらず.

🛑

. . . それ故に気になるのだ. 帝国の人から私がギリシア人に見えるのなら, ギリシア人から見た私はどう映るのか. 同胞として認識してくれるのか, 帝国民とみられるのか. はたまた, 父方に流れる未知の血について, 言い当てたりするのだろうか.

🛑

高揚感と不安が綯い交ぜになった気持ちを抱えながら迎えた翌日, キリロスさんが塔にやってきた.

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🛑

“大変ご無沙汰しております, ヨハン様. 前回お会いしてから1年ほどでしょうか, 今日という日をずっと楽しみにしておりましたよ. お見かけするたびにご立派になられる.”

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🛑

商人らしい明るさを持って挨拶をしてきた壮年の男性は, 流暢なドイツ語を喋り, 私と同じ黒い髪と黒い瞳を持っていた. だが, 細く鋭い鼻梁や濃い眉と髭, よく日に焼けた肌など, どちらかというと雄々しい印象であり, 父が持っていたような優美さはない.

🛑

🛑

“久しいな, キリロス. 世辞は良い. まずは紹介しよう. この娘はある貴族の婚外子で, 実の名は不詳だがここではヘカテーと呼んでいる. 事情があって秘密裏にうちで預かっているのだが. . . この意味が分からんお前ではあるまいな?”

🛑

“これはこれは, お会いできて光栄です, ヘカテー様. このキリロス, イェーガーのお家のお抱えであることが何よりもの誉れです. 無論, あなた様とお会いしたことは, 命に懸けて一切口外いたしません. どうかご安心ください.”

🛑

“様でなくて大丈夫ですよ, キリロスさん. 私は身分のある身ではございませんので. . .”

🛑

“かしこまりました, ヘカテーさん. お気遣いいただきありがとうございます.”

🛑

🛑

そして私は, 少し落胆した. 私は彼と目を合わせ, 言葉を交わしても, 特に何も感じなかったのだ. 会えばどこか通じ合うような感覚を得られるのではないかと期待しすぎたか, やはり四分の一だけ流れる血という共通点では, 只の他人に過ぎないのか.

🛑

🛑

“キリロスさん. 実は, 私に流れる帝国の血は半分のみです. お会いしてばかりなのに変な質問をして恐縮なのですが, 私はあなたから見て, どこの国の人間に見えますか?”

🛑

“はっはっは, それは難題ですな. 流石はヨハン様のお傍にいらっしゃるお方, そんな形で私の知識を試そうとなさるとは.”

🛑

“いえ, 別にそういう訳では. . . 純然たる興味です.”

🛑

🛑

思わず勝手に質問してしまったが, ヨハン様も興味深そうに私たちのやり取りを見ていらっしゃった.

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🛑

“そうですね. . . 艶やかな黒髪に, 黒玉髄のような瞳, しかし肌の色は明るく, 頬の薔薇色がよくわかる. . .”

🛑

🛑

流石は歴戦の商人, 容姿の特徴を並べながら当たり前のように褒めてくるので, 少し居心地が悪い.

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🛑

“そしてご年齢はわからないが, おそらくすこし小柄だ. . . ふむ. カスティーリャのご出身でいらっしゃいますかな? どうでしょう?”

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🛑

しかし, 自信ありげに発せられた見当違いな答えに, 私は彼の目から見ても同胞とは映らなかったことを思い知ったのだった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏𝟔
東方のさらに東

どう応えてよいかわからずにいる私に代わり, ヨハン様が口を開く.

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🛑

“はずれだ. しかし, これは面白い返答だな. 実はヘカテーはお前と同じギリシアの血をひいている. おそらく今の質問は, お前の知識を試したのではなく, ギリシア人の眼から見て自分がギリシア人に見えるかを問いたかったのだろう.”

🛑

“さようでございましたか, これは大変失礼いたしました. 言われてみれば, この黒髪の色の深さは我々と同じ形質. しかし. . . 恐れながら, 貴国と我が国の血だけではないのでは?”

🛑

“おお, よくわかるな. ヘカテーの血は帝国が半分, ギリシアが四分の一, もう四分の一はよくわかっていない. そして, 今日はお前にそのわからない四分の一に纏わる知識について, 見解を聞いてみたかったのさ.”

🛑

🛑

ヨハン様は祖父の本を取り出し, キリロスさんに見せた.

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🛑

“キリロス, この本の文字に見覚えはないか? もしくは, この紙やインクについてでもよいのだが.”

🛑

“その本は. . . 少し手に取って, 直接拝見しても?”

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🛑

目配せをされて私が頷くと, ヨハン様はキリロスさんに本を手渡した. キリロスさんはパラパラと頁をめくりながら, 濃い睫毛に縁取られた眼を鋭く光らせている.

🛑

🛑

“文字は読めませんが, ギリシア語で書き込みがある. . . これは薬の本ですな. この紙はおそらくサラセンの方面のものかと存じます. 麻などの植物から紙を作る技術がございますので.”

🛑

“やはりそうか!”

🛑

“私はアラビア語もペルシア語もできませんが, 眼にしたことはあります. ここに書かれている文字は縦書きで, 言葉が異なることから, 本自体はペルシアよりも更に東から渡ってきたものではないかと. . .”

🛑

“ペルシアよりも更に東, か. さすがはキリロスだ. 実は, 俺たちは今, この本を読み解き, 薬の再現をしようとしてる. 我が国にはない知識で溢れているから, 活用することで医療の発展の手掛かりになると思っていてな.”

🛑

“なるほど, そういうことでしたか. ただ. . . この本の扱いは注意なさったほうがよいでしょうな. 書かれている文字はアラビア語ではございませんが, この紙も, 書かれている知識も, イスラームの者たちが使うものと特徴が一致しています. ペルシアよりもさらに東とは申し上げましたが, 間にイスラームの国を挟んでいる以上, 異教徒の国であることにほぼ間違いはありません. 今は異教徒との戦いのさなかです. 表に出れば要らぬ疑いを掛けられかねませんよ.”

🛑

🛑

キリロスさんは険しい顔だ. その口ぶりからして, 異教徒に対する嫌悪感はさほどなさそうなので, 真剣にヨハン様を心配しているのだろう.

🛑

🛑

“そうだな, さすがにこれを表に出すつもりはない. だが, これから戦争が激化し, 負傷者が増えることを考えると, 特に傷薬の類は作れるようにしておきたいのさ. お前がこの本の知識に思い当たることがあるようだったら, 薬草の輸入を頼もうと思ったのだが.”

🛑

“薬草でございますか. . . 私は薬学には通じておりませんが, イスラームの医学や薬学は, 元を辿るとギリシアの医学を発展させたものといいます. この本に載っているもので, 調達できるものもあるかもしれません. 薬草を扱う商人には伝手がありますので, 見つかれば次回お伺いするときに持ってこられるようにいたしましょう.”

🛑

“それは助かる!”

🛑

“私からも是非お願いしたいです!”

🛑

🛑

願ってもない話に, ヨハン様も私も頬が緩んだ. キリロスさんに薬学の知識がないということは, ヨハン様が気にされていた[なぜ効くのか]という点については保留にせざるを得ないだろうが, 材料が足りずに作れずにいた薬を作れるようになるだけでも大きな進展だ.

🛑

🛑

“ちなみに, ご所望の薬草のリストはございますか? それとも私の方でこの本から傷薬に使うものを選んだほうがよろしいでしょうか.”

🛑

“リストは作ってある. 後で渡そう.”

🛑

“それから. . . もしよろしければ, アフマドに連絡をとってみましょうか?”

🛑

“なんだと?!”

🛑

🛑

その名を聞いてヨハン様が驚愕の声を上げた. アフマドさん, 私には初めて聞く名前だ.

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🛑

“あの. . . アフマドさんとは一体どなたでしょうか?”

🛑

“サラセンの貿易商だ. キリロスの紹介で1度この城へやってきて, その時一緒にジブリールを連れてきていたのさ.”

🛑

“そうだったのですね.”

🛑

🛑

ヨハン様がキリロスさんに会いたがっていたのは, ジブリールさんに連絡を取れるのではないかという希望もあってのことだった. しかし, 今サラセン方面に連絡をとるのは危険が伴う. こちらからそれなりの対価を払ってお願いすべきところを, キリロスさんの方から申し出られたとあっては, 当然の驚きだった.

🛑

🛑

“アフマドは貿易商です. 昔から何度もやり取りをしていますから, やり方を気を付ければ眼をつけられることもないでしょう. 彼ならイスラームの薬学で使うものを扱っているかもしれませんし, もしかするとジブリールとも連絡が取れるかもしれません. 私が最後に聞いた話では, ジブリールは再びアフマドのもとに身を寄せていましたから.”

🛑

“キリロス, それは本当に有難い申し出だが. . . 俺の力では大した褒美は出せんぞ?”

🛑

“いえいえ, そんなことはございません.”

🛑

🛑

その返答は否定形だが, 褒美を望むことを否定するものではない. キリロスさんの顔には, 屈託のない, そしてとても商人らしい笑みが浮かんでいた.

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🛑

“実は, ついに倅が商売を手伝いはじめましてな. 少なくとも次の代まで, 我々をお抱えにすると, ヨハン様の一筆をいただけましたら. . .”

🛑

🛑

少なくとも次の代まで. つまり, アフマドさんの代は完全に安泰ということだ. ヨハン様にその許可を出す権限があるかどうかはわからないが, 例えそうでなかったとしても効果はある. いざという時その一筆を出されてしまえば, よっぽどのことがない限り, イェーガーの家は”約束を違えた.”という噂を流されないために守らざるを得ないからだ. もちろん, それによって損失が出たときは, 勝手に許可を出したヨハン様の責任となる.

🛑

🛑

“ははは, 考えたものだな! わかった. 俺はお前を信頼している. 一筆は用意してやるから, アフマドへの連絡, 頼んだぞ.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏𝟕
商人の望むこと

“そういえば, 前回取り寄せたひまし油が非常に役に立っているぞ. 先ほどの本を参考に肌の薬を作って売り出したんだが, 化粧品の一種として広まってな. 今ではレーレハウゼンの名物といって良いほどになった.”

🛑

“なんと, 既に薬を再現されていらしたのですね. 私の商品がお役に立てたのであれば光栄です.”

🛑

“いや, 再現したわけではない. 載っていた薬草の説明をもとに, 効きそうなものを組み合わせて作っただけだ. ひまし油を買ったときにはまだ薬を作ることになるとは思っていなかったのだが, ギリシアでは肌にも塗るとお前が言っていたのを思い出して, 調合の際の基剤としてみたのさ. どんな情報が後で役に立つか, わからないものだな.”

🛑

“ひまし油とその使い方について教えてくださったのは, キリロスさんだったのですね. 薬についてもご存じだなんて凄いです.”

🛑

“いえいえ, そんなことはございません. 地元の民間療法など, 商人であれば知っていて当然のこと. いずれにしても, ヨハン様にご活用いただけるならこんなに嬉しいことはありませんよ.”

🛑

🛑

キリロスさんは本当に情報通で, 博学多識だった. 流行りの服や雑貨といった商品の話題から, 政治の話, 海運の話, 戦地の状況についての噂など, 話題は多岐にわたり, 私たちは時間を忘れて語り合った.

🛑

そういえば, ケーターさんの話では, 私の祖父ももとは遍歴商人で, その知識をティッセン宮中伯. . . おそらく前の代の. . . に評価されて下級騎士の地位を賜ったのだという. 遍歴商人はその名の通り, 自ら商品を持ってキャラバンを組み, 旅をしながら都市を渡り歩いて商いをする. 定住し拠点を持っているキリロスさんのような貿易商と異なり, 特定の土地の情報に精通しているわけではないが, 代わりにより幅広い知識を持っていたことだろう. また, 危険を冒して各地を旅し続けるという性格から, 父の武芸の基礎もその中で培われたものであったのかもしれない.

🛑

🛑

“ヨハン様, 祖父のことを少しお話してもよろしいでしょうか?”

🛑

“構わんぞ. お前についての情報を多少知ったとして, キリロスにとってそれを外部へ漏らす利益はない.”

🛑

“ありがとうございます. キリロスさん, 実は, 私の祖父はもともと遍歴商人であり, その知識を買われて下級騎士となったのだそうです. キリロスさんも, 驚くほどに博識でいらっしゃいますが, 騎士になろうと思われたことはないのですか?”

🛑

“はっはっは, お会いして半日足らずでそんなに評価していただけるとは, 嬉しい限りですな. しかし, 私は商人をやめようと思ったことは一度もございません. もしもどこぞの貴族様からそのようなお声を掛けていただいたとしても, 丁重にお断りいたしますよ.”

🛑

“それは, どうしてでしょうか.”

🛑

“どうしたもなにも, 興味がございませんので. 安定した生活が性に合わない私にとって, この商売ほど面白いものはありません. 交易品の相場を予想して商品を決めるのはどんな賭け事よりも刺激的ですし, たくさんの情報が入ってきてどんな話題にも事欠かない. また, 船に乗るのもなかなか楽しいものです. 毎日が驚きと喜びで満ち溢れている, 私の天職です.”

🛑

“ああ, キリロスはこういう奴だから父上も俺も気に入っているのさ. やはり商売相手とするならば, 根っからの商売人が最も信用できる. 誇りも野心も, 地位や名誉ではなく商売に向いているからな.”

🛑

🛑

キリロスさんの答えも, ヨハン様の補足も, 非常に納得がいくものだった. 地位は高ければよいというものではない. 例えば私も, 今は厳密に客人という身分になるが, 使用人としての意識は抜け切れていない. もし何か政治的な動きがあって, ティッセン宮中伯夫人の娘として正式に迎え入れられるようなことがあったとしたら, きっと喜ぶよりも困ってしまうだろう. まだ見ぬ母と話してみたいという気持ちはあるが, 自分自身が貴族になりたいとは思えないのだ.

🛑

🛑

“差し出がましいことをお伺いするようですが. . . 今のご質問はもしかして, あなたの祖父上が何故, 騎士になったのか, という疑問ゆえですかな?”

🛑

“え. . . ?! その, よくお分かりになりますね.”

🛑

🛑

キリロスさんは満足げに目を細めて, 驚く私をしばらく眺めると, わたしが口に出さなかった質問に答えてくれた.

🛑

“遍歴商人は刺激を求め, 目的のために危険に身を投じる事を厭わない者たちです. 我々と同じく, あるいは我々以上に. ですが, 場合によっては騎士になることを選ぶこともあるでしょう. 例えばよくあるのは, 称号だけもらえて仕事自体は変わらない, などですね. ただ, おそらくあなたの祖父上はそうではなく, 新しい目的や楽しみを見つけられたのだと思います.”

🛑

“新しい目的, ですか.”

🛑

“例えば, こんな性格の私が, イェーガー方伯の[お抱え]の地位にこだわるのがその理由です. 別に安定を求めているわけではありません. 私はただ, 方伯様とヨハン様に心酔し, お二人のご活躍をこの目で見ていたいからこそ, [お抱え]でありたいと思っているんですよ.”

🛑

🛑

確かに, キリロスさんほどの人であれば, わざわざギリシアから帝国の北端まで移動してこなくとも, 港付近や宮廷周辺でお抱えの地位を獲得できるだろう. イェーガー方伯の力は絶大だが, そのお抱えになろうとするのは, 安定志向というよりも野心家や勝負師の発想だ.

🛑

そこでふと, ヨハン様のお名前が挙がったのにベルンハルト様のお名前は出なかったことに気づく.

🛑

🛑

“おっと. ヘカテーさん, 今, 何に気が付いたのかは言わないでいただけますかな? なに, 他意はありません. 私は表舞台に出る人よりも, 裏で暗躍する人の方にロマンを感じるというだけですから.”

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🛑

キリロスさんはそういって楽しそうに笑うと, 次に宮廷で流行りそうな色へと話題を移した.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏𝟖
野の草のように

キリロスさんの短い来訪は, 私の意識に一つの変革をもたらした.

🛑

彼と出会い, 直接言葉を交わしたことで, ギリシアに対する幻想は消えた. 私に魂の故郷とでもいうべきものは存在しない. 帝国の人だけでなくギリシア人からも外国人に見えるのなら, もう自己を規定するものを土地や国に期待することはできないだろう.

🛑

このことは, 私を一瞬落胆させたが, 絶望させはしなかった. むしろ, 出自というしがらみから自由にさせたともいえる.

🛑

ギリシアに定住し, 帝国との間を船で行き来して, 遠くの地の品々や情報をはるばるイェーガー方伯領まで運んでくる. . . それは純血のギリシア人であり, 生粋の商人である, 私のような自己同一性の揺らぎとは無縁のはずのキリロスさんが, 自分の意志で選んだ生き方だ.

🛑

そんな彼が, サラセンの医学がギリシアの医学をもとに発展したものだということを教えてくれた. ペルシアよりもさらに東から来たという私の祖父の本を見て, 取り寄せられる薬草があるかもしれないとも.

🛑

私は彼の話を聞いて思ったのだ. 特定の地に寄りすがることができないのなら, 自分も国の境を超える方を選んでみたいと.

もちろん, 塔の中で一生を終えるだろう私にとって, 物理的に国を超えることはできない. しかし, 私のすぐ傍には, 6年以上を塔の中で過ごしながら, 世界中を旅したかのような知識を持ち, 誰よりも広く遠く未来を見据える方がいる.

🛑

もしかすると, ティッセン宮中伯が持っていたであろう, 冒険心溢れる遍歴商人だった祖父を定住させ, 騎士となった父に忠誠を誓わせるだけの何かは, こうした類のものだったのかもしれない. たとえ幽閉はされていなくても, 貴族という身分はしがらみが多く, 商人のように物理的に自由に動く事はかなわないが, 優秀な貴族の方にはそれを補って余りある, 頭の中の世界の広さがある. ヨハン様やご領主様, 悪い意味ではクラウス様だってそうだ. 紙の上から情報を拾って, 緻密な計算の上に未来を切り開く方々. . . 私には思いもつかない考え方で, 最も利益をもたらす方法を導き出す姿は, 眩しく, 驚きに満ちている. そんな方に出会えたなら, 近くで見ていたいと願うのは当然だ.

🛑

私も, 紙に書かれた文字を通して, 遥か彼方を旅してみたい. この身は塔の中へ囚われたままでも, 本を通して魂だけ外へ出て, もっとたくさんのことを知りたい. 生える土地の決まっているはずの植物が, 異なる地に住む人々に同じ薬効を示すように.

🛑

. . . そう思ったら, 動かずにはいられなかった. 幸い, 今の私は使用人ではない. 用事があるときは, お互い部屋に出向くという約束になっている. 緊張しつつも, 私は初めて私用でヨハン様のお部屋へ向かった.

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🛑

“失礼いたします, ヘカテーです. 少しご相談したいことがあるのですが, お時間をいただいてもよろしいでしょうか.”

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“構わん, 入れ.”

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🛑

中から響く声を聞いて扉を開けると, ヨハン様はアラビア語らしき本を片手に微笑まれていた.

🛑

🛑

“ヨハン様, その本は. . .”

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“ああ. キリロスと話したら少し読みたくなってな. しかし, やはりアラビア語は難しい.”

🛑

“少しでもお読みになれる時点で物凄いことだと思います.”

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“はは, そうかもしれんな. 普通はこんなものに興味を持つまい. . . それより, 俺に相談があるんじゃなかったのか? いったいどうした?”

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🛑

完全な自己満足の, ご相談というよりお願いでお部屋まで来てしまった私は, 心配そうにこちらを見るヨハン様の視線に少し狼狽える.

🛑

🛑

“実は, 昨日キリロスさんとお話をした中で, 思ったことがありまして. . . ヨハン様は以前, より詳しい知識を得られるまで, しばらく薬からは手を引くつもりだと仰っていましたが, よろしければその間, 私にも少し薬学を学ばせていただきたいのです. 私は解剖学の方は慣れてきたものの, いまだに得意ではありませんし, いつかヨハン様がまた薬について学ばれるとき, 補佐ができる程度の知識をつけておければと. . .”

🛑

“なんだ, そんなことか.”

🛑

🛑

ヨハン様は本を閉じて立ち上がると, 本棚の前へと移動される.

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🛑

“あまり数はないが, このあたりが薬草についての本だ. ドイツ語で書かれているものも多いから手始めにちょうどいいだろう. それから, ここにあるのがアプレイウス・プラトニクスの[本草書]. 完全版ではないが, 薬学を学ぶからには読んでおいたほうが良い.”

🛑

🛑

数はないといいつつも, 丁寧な手つきでたくさんの本が示され, テーブルに並べられていく. ヨハン様は解剖学の方にご執心なので, 薬学には手を出されていらっしゃらないのかと思っていたが, とんでもなかった.

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🛑

“これらの本を時々お借りしてもよろしいのでしょうか.”

🛑

“ああ, この部屋は常にあけてあるから, 好きな時に持っていくといい. 俺が読みたいときになければ声を掛けるから気にするな.”

🛑

“ありがとうございます. では, 少しずつ読ませていただきますね. それにしても, こんなにたくさんの本. . . ジブリールさんと連絡を取れる時期を待つまでもなく, 十分な知識をお持ちでいらっしゃるのではないですか?”

🛑

“残念ながらそうでもない. ここにある本は皆, どちらかというと学術書というより図録に近いのだ. 薬草ごとに書かれた効能をただ記憶するだけというのは, どうも俺の性に合わなくてな, 全ては読んでいないし, 覚えきれてもいない. [本草書]のもとになったというディオスコリデスの[薬物誌]があれば, もっと詳しいことがわかるのかもしれないが.”

🛑

“ヨハン様はご自分に厳しすぎです. . .”

🛑

🛑

私が驚いて固まっていると, ヨハン様はふふ, と小さく笑い声を零し, もう1冊の本を加えた.

🛑

🛑

🛑

“これは, 祖父の. . . !”

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“返す. お前はこれを俺に託すとき, 居館に戻り普通のメイドとなる自分では, もうこの本を生かすことができないからと言ったな? だが, 今のお前には十分すぎるほどの学ぶ時間がある. お前が代わりに薬学を学んでくれていると思えば, 俺も安心して解剖学に打ち込めるというものだ. 二人で学ぶことを分担しよう. たまに突拍子もないことを言い出すお前のことだ, 案外自力で薬の効く理由を見つけてしまうかもしれんぞ.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟏𝟗
花と棘と

お借りした薬学の本の数々は, どれもどちらかというと薬草学というべきものだった. ヨハン様はこれらを学術書よりも図録に近く, 単にその内容を覚えるだけなのは性に合わないとおっしゃったが, 私には逆にその方が適性があるように感じる. 畑はもちろん森も藪も見られない塔の中にあって, 愛らしい草花の図は私の心を潤してくれるし, 知らずに出くわしたなら雑草としか思えないような小さな草に, 人の病や傷を癒す力があることは神秘的な事実だった. 実際, 神秘性を感じるのは人の常なのか, 薬草にはギリシア神話の神々を由来に持っていたり, 纏わる伝説を持っていたりするものが多い. ちなみに, 女神ヘカテーが司るのは猛毒の花, トリカブトだそうだ. ヨハン様は悪い女神ではないといっていたが, やはり世の中では死の女神. ギリシアの神々は役割がはっきりしている.

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修道女や民間の薬屋など, 薬草の知識が豊富な女性はよく”賢い女.”と呼ばれる. 彼女たちは薬草園で草花を育てたり, 時には森に生えるものを採取して, 病気に合わせて人に渡したり, お産の手伝いをしたりする. 当然私もその存在そのものは知っていたが, 商人の娘として生きていたころは, 自分がそれを目指そうとするとは思っていなかった.

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そして, 実際に学んでみようとすると, “賢い.”とされる理由がよく分かった. 何しろ, 薬草というものは似たものが非常に多く, 姿がどんなに似ていても種類が異なれば薬効が異なるのだ. 例えば, ヨモギとニガヨモギは姿がよく似ている. ヨモギはお産を軽くするなどの女性に効く薬になるが, ニガヨモギは吐き気がするときに用いたり, 乾かして防虫剤にしたりする. そして恐ろしいことに, この二つはどちらもトリカブトとも姿が似ているので, くれぐれも間違えないようにしなくてはいけない. つまり, 自分で採取した薬草を他人に薬として渡すには, 自分の知識に対する絶大な自信, そして度胸が必要だ.

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さらに, 薬草は症状に合わせて処方するだけでなく, 量の調整にも気を配らなければいけない. ヨモギはお産を軽くする半面, 処方する時期を間違えれば堕胎薬にもなる. 吐き気に効くニガヨモギは, 量が多いと泡を吹いて倒れてしまう. 同じ症状を持つ者を体質で分けているのは祖父の本のみだったが, 美しい花が棘を持つように, 薬は毒と紙一重なのだ.

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しかし, こうした緊張感は, 本を読み, 絵を観察する際の集中力を否応なく高めてくれる. 私が直接森へ採取に行くことはないだろうが, ヨハン様は学ぶことを分担するとおっしゃった. つまり, ヨハン様が私の知識をもとに, 薬を作ったり, それを世に広めることもありうるということ. 私も世の賢い女たちのように, あらゆる薬草の細かな特徴とその差異を覚えていなくてはいけない.

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おかげで, 私は薬草について学びながら, ギリシア語を学んでいた時とはまた違う楽しみを覚えていた. 今思うと, 以前ギリシア語を学んでいた, つまりガレノスの本を必死で訳していた時は, 縋るような気持ちが強かったのだ. 自分は何者なのか教えてほしい, ヨハン様にその壮大な夢の一端を見せてほしい. . . それはどちらも, 一見前向きなようでいて, 自己の存在に対する不安と, 存在する事に対して資格を求める自罰的な強迫観念を含んでいた. 今は, 学ぶことに対する誇りがある. それがヨハン様の代わりに学ぶという役割故なのか, 薬学が自分で見つけ自分の選んだ学問であるからなのかはわからないが.

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頭に入ったかどうかは別として, 帝国語の本を一通り読み終えた頃, その便りはやってきた.

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“ヘカテー, 面白いものが届いたぞ.”

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私の部屋を訪ねてきたヨハン様は, そういって1通の手紙を渡してきた. ドイツ語の, 整った綺麗な文字で書かれたその差出人は. . .

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“ジブリールさんから, ですか?! ずいぶん早かったですね!”

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“ああ, 読んでみろ. 彼の人となりがすぐわかる.”

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広げてみると, 中身はやはり帝国語. きちんと整った言葉で書かれている.

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親愛なるヨハン=アルブレヒト様

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キリロスさんからアフマドさんを通して, あなたの近況を伺いました. 以前お会いしたのは一度だけ, それも10年近く前になりますね. しかし, 私はあの日に出会った聡明な少年のことを, 一度も忘れたことはありませんでした. もしあなたが君主のご子息という立場でなかったなら, そのまま連れ帰って自分のもとで育て, 世界一の学者にしてみたいと思ったほどです. 私の母国にも, あなたほど深く私の学問に理解を示してくれた方はいませんでした.

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しかし, そんなあなたが地位を持って生まれてきたということは, これも神の采配なのでしょう. このことはあなたがお住まいになる国, いや社会全体にとっては幸運なことなのでしょうが, 本人にとっては不幸でもあると思います. そしてその不幸に心を蝕まれることがあれば, 社会にとっての幸運も不幸に転じるだろう. . . そんなことを思いながら, あなたのことをずっと心配してもいたのです. あなたが闇に沈むことのないように, 周囲の人間には何よりもその心の支えであってほしいと願いますが, 過ぎた聡明さゆえの孤独を埋められる者はなかなかいないのではないでしょうか.

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そこまで読んで, 少し顔が引き攣った. 丁寧な言葉で書かれてはいるが, 社会を不幸にするかもしれないだなんて失礼極まりないことを, 本人に向かって, しかも10年近く会っていなかった相手に, 普通突然言うだろうか.

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“ジブリールさんは, 変わった方ですね. . .”

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思わず私がこぼすと, ヨハン様はくっくっと押し殺すように笑った.

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“そうだな. だが, さらに驚くのはその先だぞ.”

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ですので, アフマドさんから, あなたがまだ私のことを覚えていて, しかも私の影響で医学を学ばれていると伺った際には, 私は喜びに打ち震えました. その溢れる才覚故に幽閉の憂き目にあい, 大変なご苦労をされながらも, あなたは闇に沈むことなく光であり続けた. なんと素晴らしいことでしょう.

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叶うなら, 私にも傍であなたを支えさせてはいただけませんか. 私の智慧は僅かなものであり, あなたの孤独を埋めるに足るものではないかもしれませんが, あなたが医学に興味をお持ちなら, 知識に対する飢えを多少満たす程度の働きはできると思います.

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危険な旅にはなりますが, 私は既に一度亡命した身. 今住む場所も祖国ではない以上, 未練はありません. なんとかしてそちらに向かうつもりです.

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さて, ささやかな贈り物を同封させていただきました. 次にお会いした時には, 是非その本について語り合いましょう.

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あなたに神の御恵みがありますように.

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ジブリールより

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後半を読んで絶句した. 読み終えた私を見て, ヨハン様は今度こそ声をあげて笑っている. 目尻には涙まで浮かんでいた.

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“どうだ, 面白かっただろう? こちらに来るんだと. 異教徒の身が, 異教徒との戦争のさなか!”

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“面白いといいますか. . . 無茶苦茶ではありませんか? ヨハン様の意志を確かめもせず勝手に決断して. . .”

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“無茶苦茶だが合理的だ. ジブリールは自分の価値をよく理解しているのさ. 医学だけでなく, 政局の切り札にすらなるあの頭脳, 俺が断わるわけはない. それに, 交戦中に何度も手紙を出せば要らぬ疑いを掛けられる. 1通の手紙で済ませて動き出したほうがかえって安全だ.”

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どうやら新しく仲間に加わるという稀代の賢者も, 棘を持つ花の類であるようだった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐𝟎
期待

ヨハン様のおっしゃることはごもっともだが, 私はジブリールさんのあまりの自由さと行動力に, 少し頭がくらくらとしていた.

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“ジブリールさんは今, ギリシアではなく, サラセンのどこかにいらっしゃるのですよね? こちらにいらっしゃるまで, どのくらいかかるものなのですか?”

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“何とも言えんな. . . 普通に考えれば, 戦地を避けるために一旦北上して, 偉大なる海を抜け, キエフ経由で来ることになる. 国をほとんど丸ごと2つ横切るような道だ. 下手をすれば年単位の時間がかかるだろう. . . それから, 手紙に書いてある[危険な旅]が戦地を突っ切るという意味ならもっと早いか, 永遠に来ないかの大博打だ.”

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“ヨハン様が影響を受けるほど頭の良い方が, そんな強行突破をするでしょうか.”

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“しかねない性格だし, 何か別の策を考えている可能性もある. . . ただ, 突破する場合は最終的にキリロスの交易船に乗るから, 事前に知らせが来るはずだ. 手掛かりがこの手紙しかない以上, 俺たちにできることは彼が一番早く着く可能性に合わせて準備を進めることぐらいだろうな.”

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“そんなに大変な準備が必要なのですね.”

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異教徒であるジブリールさんを領主の居城で受け入れるためには, やはり何かと複雑な手続きが必要なのだろう.

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“何か勘違いしているな, ヘカテー? この手紙には次に会う時には同封した本について語り合いたいとあった. つまり, ジブリールが来るまでにその本を読破し, 内容を理解して, 語り合える状態になっていなければならんということさ. 当代最高と言って良い知の巨人を迎えるにあたって, それ以上のもてなし方はあるまい.”

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🛑

そういってヨハン様が見せてきた分厚い本は, なんとアラビア語で書かれたものだった. アラビア語を母国語とし, ヨハン様が心酔するほどの聡明さをもったジブリールさんと, その本について語り合う. . . ヨハン様は楽しそうにしていらっしゃるが, 常人の感覚では贈り物という名の嫌がらせにすら思える.

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“安心しろ, この本は俺が訳していくつもりだ. お前は出来上がったものを帝国語で読むだけでいい. .”

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🛑

私もまた語学に打ち込む日々が始まるのかと思ったが, それは否定された. ギリシア語であればケーターさんも学んでいたが, 流石にアラビア語となると周囲にできる人は誰もいないだろう. というか, この国全体でも一体何人が解するというのだろうか. 当のヨハン様さえも, 以前”アラビア語は難しい.”とおっしゃっていたのに.

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しかし, ジブリールさんはきっと, 生涯ヨハン様のお傍に仕えるつもりで国を出るのだ. それも, アフマドさんを通してヨハン様の近況を知っただけで, 即座に命懸けの決断をして. ヨハン様としても, その想いに報いるためには, 言葉の壁など切り崩していかなくてはならないということなのだろう.

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“ありがとうございます. . . それにしても, ヨハン様はどうやってアラビア語を学ばれたのですか? 私には, 異教徒の言葉など, 何が何やら. . .”

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“そんなもの, お前がギリシア語を学んだのと一緒さ. 今のギリシア人は俺たちと同じ神を信ずる者たちだが, お前だってギリシア神話の存在くらい知っているだろう? 何を信じる者が用いるどんな言語であろうと, 所詮は会話する手段に過ぎん. 人間が理解できるようにできているのさ. それに, 教会は異教徒, 異教徒と捲し立てるが, サラセンの者たちが信じているのは俺たちと同じ神だ. ユダヤ人たちもそうだが.”

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“え, そうだったのですか?!”

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“ああ. 知らないからこそ難しいと思うだけで, きちんと知識を得れば何も恐ろしいことはない.”

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衝撃的な事実だけを淡々と伝えて, 廊下へと去っていく背中. 語られる全てが私の知る世界を超越していて, 置いてけぼりにされたような気持ちだった.

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扉を開けたままぼうっと見つめる私の視線に気づいたのか, ヨハン様は階段に足を掛けた所で振り返られた.

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“言っておくが, 俺がこの本を早く読みたいと思っているのは, 別に義務感からではないぞ.”

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少し紅潮した頬が吊り上がる. 白く細長い指先が, 徐に本の表紙を差した.

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“ひとつだけアラビア語を教えてやろう. この文字は[ジブリール]と読むんだ.”

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“なんと, ジブリールさんのご著書ということですか?!”

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“そういうことだ. さて, 俺はしばらくこの本を読み解くことに注力しよう. その間, 薬学の方は任せたぞ. そうこうするうちにもジブリールがやってくるかもしれん.”

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足早に去っていくヨハン様を見送って, 自室の扉を閉めると, 私は自然と薬学の本に手が伸びた. 私にできることなど微々たるものだろうが, ヨハン様は”任せた.”とおっしゃった. ヨハン様がジブリールさんの期待に応えようとされている今, 私はなんとしてもその期待に答えなくてはならない.

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そして, ジブリールさんがここに来たら, 私もそのお話についていけるようになっていたら良い. 義務感だけではなく, 自分の興味と楽しみで学ぼうとしているのは, 私も同じだ. ヨハン様をして, 知の巨人と言わしめるほどの方. 先ほどは圧倒されてしまうばかりだったが, “任せた.”の一言は, ようやく私にその方と会うことを楽しみにさせてくれた. 薬学であれ, 解剖学であれ, その智慧の片鱗に触れられる機会を得られることは, どんな贈り物をもらうよりも贅沢なことに思えたのだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐𝟏
その眼で見ぬ限り

ジブリールさんの手紙が届いてから1週間ほどして, また騒々しい来客があった.

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“久しぶり, ヘカテーちゃん. 元気にしてたぁ?”

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“オイレさん! はい, お陰様で. お怪我はもう大丈夫なんですか?”

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“頬の痣はだいぶ前に治ったけど, 他は全然大丈夫じゃないよぉ! ウリってば本当にひどいんだから.”

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笑顔で答えるオイレさんの肌は艶々としていた. おそらく, 早く治すために紫の薬を使ったのだろう. しかし, 以前お見かけした時よりかなり痩せているのと, 目の下の隈が気になるあたり, 市庁舎で受けた尋問の後遺症で苦しんでいるのかもしれない. オイレさんの尋問はウリさんが担当したという話だったので, できるだけ被害が少ないよう加減されていたはずだが, いつも元気なオイレさんの隠し切れない調子の悪さに, 改めて尋問というものの恐ろしさを思い知る.

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“そんな明るく答えることですか. . . まだお休みになっていたほうがいいのでは. . .”

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“いいのいいの, 仕事ができないほどじゃないからねぇ. そんなことより, 今日は解剖ができると聞いて飛んできたのさぁ.”

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見れば, 背中に大きな袋を担いでいる. オイレさんは軽々と持ってはいるが, 中に何が入っているか, 嫌でも想像がついてしまった.

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“ヘカテーちゃんも参加するよねぇ?”

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“ええ, 多分. . . そこはヨハン様次第かと思いますが.”

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“なるほど, 何か別のことを仰せつかってるんだねぇ. ヨハン様が解剖学なら, ヘカテーちゃんは薬学を勉強中ってところかな?”

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“な, なんでわかるんですか?!”

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“はっはっは, 僕の仕事を忘れてもらっちゃ困るよぉ! とりあえず訊いてみないことにはしょうがないし, 早く4階に行かなくちゃ!”

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そういいながら, 相変わらず凄い速さで階段を駆け上がっていく.”全然大丈夫じゃない.”とのことだったが, 人間ひとり背負ってこの速さということは, 本来はどのくらいの身体能力があるのだろう. やはりオイレさんはどこか底知れぬ人だ.

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息を切らした私が追い付いたことを確認すると, 彼は凛とした表情に切り替わり, 一段低い声で扉に声を掛ける. 上で待っていてくれるなら, 最初から足並みをそろえてくれたっていいのに.

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“ヨハン様, オイレでございます. 本日の材料のお渡しに参上いたしました.”

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“入れ.”

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扉を開けると, ヨハン様はこちらを見る余裕もないといったご様子で, 一心不乱に何かを書きつけていらした. その作業が一区切りつくまで, 私たちは黙して待つ.

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隣を見やれば, オイレさんはじっと跪いて彫像のように動かずにいる. そういえば, 隠密の方々がヨハン様の前で跪くのは, その身分故なのか, それとも騎士のように忠誠を表すためなのか. 私はヨハン様の前で膝を折ったことがない.

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🛑

“待たせた. 頭が整理されているうちに書きつけておかないと, 違うことをしたら忘れそうでな.”

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テーブルの上には, たくさんの紙と一緒に, 先日のジブリールさんの本が置いてあった.

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“どうかお気になさらないでください.”

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“ああ. . . そしてオイレ, 今日のそれはどの位経ったものか?”

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“発見されるまでどのくらいかかったか不明なので, 詳しい時間はわかりかねますが, 今朝持ち込まれたばかりとのことです.”

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“それは良かった. この本をざっと読んだところ, 主に図の部分で少し気になることがあった. 今日の解剖ではそれを確かめたい.”

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ヨハン様はジブリールさんの本を指し示す.

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“俺たちは幸いにも, 人間の解剖を何度も行う機会に恵まれた. ジブリールもそうだと思われる. . . しかし, その割にはガレノスと同じミスを犯しているところが散見されるのだ.”

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ヨハン様の言葉を, 私は不思議に思った. ガレノスと同じミス, それはつまり, 他の動物の共通点から類推し, 人間にない臓器を追加してしまったり, 逆にあるはずの臓器が書かれていなかったりということだ. しかし, 実際に解剖して臓器を見ているはずなのに, そんなミスを犯すとはどういうことだろうか.

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考えていると, オイレさんが口を開いた.

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“なるほど. . . ジブリール氏は, 死後日にちが経った遺体の解剖にしか恵まれていなかった, ということでございますね.”

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“日にちが経った遺体, ですか. . . ? それがどうしてミスにつながるのでしょう?”

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思わず疑問を口に出した私に, オイレさんは向き直って答えてくれた.

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🛑

“遺体は腐敗するからねぇ. たぶん, 腐って形がわからなくなっちゃった部分は, ガレノスの著作からそのまま写したんだよぉ.”

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“ああ, そういうことですか.”

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あまり気分の良くない話だったが, 説明されれば理解が及んだ. ヨハン様は頷き, お話しを続ける.

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🛑

“俺たちは死んだ直後の人間の解剖を2回, 翌日の解剖を1回行っている. まぁ, 最良の状態だった2回は俺の技量が足らず, 図に残したものの信憑性が危ういところはあるんだが. . . 以後, 日にちの経った遺体の解剖を繰り返す中で思ったのは, どうやら腐敗には順序があるらしいということだ.”

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“なるほど, その順序についてお調べになりたいのですね. とはいえ, ヨハン様の志していらっしゃるのは医学ですよね? 亡くなった後の状態の変化を調べても, 関係がないのではありませんか?”

🛑

“そこだ. 俺が知りたいのは, 何故腹の中という同じ環境に置かれていながら, 腐敗に順序が発生するのか, ということだ. 腹部に外傷があるなら, そこから虫が入り込んで順序に違いが出ることもあるだろうが, 今まで見た限り, 原型がわからない状態になっているのはいつも同じ臓器だった. 真っ先に腐敗してしまう理由がわかれば, その臓器の機能も類推できよう.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐𝟐
消失した知

ヨハン様の言葉には, 塔の悪魔という不名誉な綽名で呼ばれてしまった理由が詰まっていた. 先ほどの発言も, 目的をご説明いただけなければ死体に興味があるのかと思ってしまうだろう.

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この方はあまりにも視野が広いだけでなく, 疑問すらわかないほど小さな異常や, 無関係にしか思えない事象をつなげる細い糸の存在を見つける力に長けている. いや, 長けすぎている. 私がそれを理解できたのは, お傍に仕え, ヨハン様の夢のお手伝いをさせていただき, いつでも質問を許されるという幸運な立場にあったからだ. 人は理解の及ばないことを恐れる. ヨハン様を悪魔と呼ぶ者たちは, 私のような幸運に恵まれなかっただけに過ぎない.

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🛑

“さて, 早速解剖に移るぞ. ヘカテーは来るか?”

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“ご判断にお任せいたします.”

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“では来い.”

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“かしこまりました. 本日はヤープは参加しないのですか?”

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“ああ, あいつは今ラッテと共に帝都に向かっている.”

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“さようでございましたか. 見習いと思っておりましたが, もう任務にあたっているのですね.”

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“いや, 流石に成人するまでは正式な隠密として使うつもりはない. こちらにおいておくことも考えたのだが, 子供の頃から隠密を[育てる]というのは初の試みだ. できるだけラッテの仕事に触れさせ続けていたいのさ.”

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🛑

そんな訳で, 解剖は3人で行うこととなった. いつも通り調理場に移動し, 使わせていただく遺体や使用する器具の準備を始める.

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そこで, ヨハン様が見慣れない形のナイフをたくさん揃えていることに気づいた.

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“ヨハン様, そちらのナイフは. . . ? いつもと違うようですが.”

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“よくわかったな. 調理用のナイフでは切るときに形を崩してしまうことが多かったから, 小回りが利くような形のものを作らせたのさ. 今回はこれの使い心地も試したいと思っている.”

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調理台の隅に並べられる大小さまざまのナイフを, オイレさんも覗き見ている. その表情は興味深げで, しかしどこか切なそうに曇っていた.

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“これは凄いですね. この一番小さなものなど, もしいつかまた歯抜きができる日が来たら使ってみたいものです. 歯が駄目になっただけでなく, 歯茎が腫れ上がっている患者が時折来るのですが, そこに溜まっている膿みを取り出すのにちょうどよさそうで. . .”

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🛑

そうか, オイレさんは歯抜き師という職業をとても気に入っていた. 床屋ならまだ何とかなったかもしれないが, 歯抜き師は大道芸人として人々の注目を集める仕事. 体型や名前を変えたところで, 街で一番人気だったオイレさんの声を覚えている人は多いだろう. 教会の敵として手配され, 悪名が轟いてしまった今では, もう今までのように表舞台に立つことはできない.

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🛑

“もちろん, 将来的には解剖ではなく治療にも使うつもりだ. 矢傷や膿んだ傷, あるいは瘤など, 切って治療することはそれなりに多いからな. . . それからオイレ, お前に歯抜きをさせる場のことは既に考えてある.”

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“そ, それは本当でございますか?!”

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“嘘をつく理由がない. もっとも, 芸の方は封印してもらわざるを得んが, その時が来るまで, 歯抜きの腕を鈍らせるなよ.”

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“ああ, なんと有難きお言葉! いつでもお役に立てますよう, 引き続き精進いたします!”

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“よかったですね, オイレさん!”

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先ほどまでの曇った表情から一変, 瞳をキラキラと輝かせてお礼を述べるオイレさんを見て, 私も嬉しくなった. 勝手な行動だったとはいえ, ヨハン様の医学を実らせるために愛する仕事を捨てたのだ. 報われる機会が訪れてほしい.

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そんな様子を見て, ヨハン様の口元にも小さな微笑みが浮かんだ.

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“. . . 準備はできたな. オイレ, 切り開け.”

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慣れた手つきで遺体に刃が入れられていく. 3回目ともなると, この光景も少し見慣れてきた. 前回ヤープのやった切り開き方はもともとオイレさんの考案だっただけあって, ヨハン様の指示がなくても肋骨が外され, あっという間に胸からおなかにかけてが開かれた.

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“やはりまっさきに腐敗するのは胃か.”

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“そういえば, [体部の有用性]では胃についてさほど言及がなさそうでしたね. 私はすべてを読んだわけではありませんが. . .”

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“ああ, ガレノスは肝臓, 心臓, 脳の3つが人間という総体の中心だと考えていたからな. 胃は肝臓系に属し, 血を作るための補助的な役割をする.”

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🛑

その言葉にふと違和感を覚えた.”ガレノスは考えていた.”? 何故主語を限定するのだろう.

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🛑

“もしかして, ヨハン様はそうではないとお考えなのですか?”

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“まだわからない. ガレノスの著作の中で度々引用され, 批判されていた, エラシストラトゥスという医学者がいる. 彼は胃の役割を肝臓の補助ではなく, 別の機能と考えていたようだ. 曰く, 穀物を粉砕するような. . .”

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“そうだったのですね. ガレノスは血が作られる過程を調理に例えていましたが, 穀物を粉砕するというのは, 広義では調理の手順の一つのような気がいたします. 何故批判されているのでしょうか?”

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“ガレノスはヒポクラテスの信奉者だからな. 合わない部分が多かったのだろう. しかし, エラシストラトゥスはヘロフィロスという医学者と共に, 人間の解剖を行っていたのだ. 故に, 俺としてはエラシストラトゥスの方が信憑性が高いように感じる.”

🛑

“さようでございますね, 私もそう感じます. では, ガレノスよりもエラシストラトゥスの著作を学んだほうが早いのではないですか?”

🛑

“それができるなら是非ともそうしたいのだが, エラシストラトゥスの著作は現在見つからなくてな. どうやら消失したようなのだ. 対立していようが, ガレノスの引用を参考にし, 自分で考えてみるしかないのさ.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐𝟑
崩れゆく

オイレさんは引き続き, 胃を取り外す. 以前の調理用ナイフでは, 臓器を覆う膜や脂肪をよけて他の臓器から取り外す作業が一番大変そうだった. その点, 新しいナイフでは作業時間こそあまり変わらなさそうであるものの, 無理なくきれいに取り外すことができているようだ.

🛑

オイレさんは無言のまま, 差し出されたヨハン様の掌の上に取り出した肉塊を乗せる. 柔らかく, 不定形にゆらゆらと揺れるその姿はやはりグロテスクだが, 命を繋ぐために誰もが持っている器官だ. 胃に限らずどの臓器も, その見た目のインパクトのためか, 私はいつも”思っているよりも大きい.”と感じる.

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ヨハン様は眉一つ動かさず, その塊を丹念に調べ始めた. 滲み出る液体でその指先が汚れてしまうのも構うことなく, 表面を撫でまわしたり, 上下につながる穴を押し広げたりされている.

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🛑

“ヘカテー, もう一段小さいナイフを.”

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“はい!”

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お渡しすると, 胃がテーブルの上に置かれ, ゆっくりと, 真っ二つに切り開かれた.

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🛑

“これは. . . やはりか. 不思議なものだな.”

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🛑

今までの解剖でも遠目で恐々眺めるだけだった私には, 何が不思議なのかよくわからない. 困ってオイレさんを見やると, 場所を代わってくれた.

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“これは. . . まるで内側から溶けていっているようですね.”

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“俺にもそう見える. 胃は内側から腐敗していくのだろうか.”

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🛑

ヨハン様の言葉に, オイレさんは置かれた胃に顔を近づけ, 首を横に振った.

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🛑

“この現象は腐敗ではないと思います. 特別腐敗臭が強いということもありませんし, 黴も見当たりません. この持ち主の病でしょうか?”

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“かもしれん. だが, 他の人間を解剖した際も, 胃が崩れたり, 消失したりしているものは多かった. 病にしては頻度が高い.”

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🛑

ヨハン様は両の断面にワインをかけ, 揉むようにして何かを探っていらっしゃるようだ.

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“何をなさっているのですか?”

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“よく見えるよう, 内側を洗っている. もっとも, この者はしばらく食事をしてはいなかったようだが.”

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“胃の中に食べ物が残っていない, ということですね.”

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“ああ. しかし, これを見る限りボロボロとしたごみのようなものが入っているな.”

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🛑

ヨハン様はそのごみのようなものを手に取って私たちに見せてくださった. 私も目を凝らすが, 残念ながらそのごみの意味するところがよくわからない.

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私が話についていけていないことに気づかれたのか, ヨハン様は苦笑して説明してくださった.

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🛑

“床屋たちに配布した冊子で描いた, 胃の形を覚えているか?”

🛑

“はい. 膨らんだ三日月のようなものだったかと. . .”

🛑

“そうだ. だが思い出せ, さっき腹から取り出した胃は, そんな形をしていなかっただろう? 前回, 前々回の解剖でもそうだったはずだ.”

🛑

“はい, おっしゃる通りです. 特に2度目の解剖の時には, ほとんど原型がわからない状態だったと記憶しております.”

🛑

“ああ. お前が参加した解剖で用いた遺体は, 1回目が翌日, 2回目は少なくとも2日経ったものだった. そして俺があの冊子に描いたのは, 殺したばかりの二人の使用人の胃だ.”

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🛑

殺したばかりの使用人とは, ベルンハルト様がヨハン様に放った刺客のことだ. その場で何があったか, 私は詳しいことは知らないものの, 翌日に騎士たちによって発見された遺体は”腹を裂かれ, 皮膚をはがされるという恐ろしい拷問の跡.”があったという噂は聞いている. その状態からして, 返り討ちにしてすぐに解剖にうつられたのだろう.

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🛑

“. . . あの頃はまだ解剖になれていなかったから, 腹を裂くときに少し傷を付けてしまっていたが, もっと張りのあるしっかりとした形をしていたことは確かだ.”

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“つまり, 胃の形が死後日が経つにつれ, 崩れていっているということでしょうか.”

🛑

“しかも, オイレのいう通り, その原因は腐敗ではない可能性が高い. 今日は何故局所的に腐敗が早く進むのかを調べたいと思っていたが. . . これはもっと壮大な話になりそうな気がするぞ. ヘカテー, お前はこれをどう思う?”

🛑

“えっ, 私でございますか?!”

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🛑

突然のご質問に驚いた. 医療従事者であり, 何度も一緒に解剖をされているはずのオイレさんの意見ではなく, なぜ私なのか.

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とはいえ, ご指名いただいたからには答えなければいけない. ヨハン様のお話では, 死後より日が経ったものの方が形の崩れる度合いが大きいということになる. では, 生前と死後の身体の状態の変化とは何か? 私が知っているのは, 呼吸が止まることと, 心臓が止まることのみだ.

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“あまり自信はないのですが. . . 胃の形は崩れていっているのではなく, 形を維持するために必要な条件があるのかもしれません. 例えば呼吸をしていることや, 心臓が動いていることなど. . .”

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“なるほど, それは十分にあり得る仮説だ. さて, どうやってそれを実証したものか. . . 死んだ瞬間から毎日観察すればよいのだろうが, 死んだ直後の遺体などそうそう手に入らん.”

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そこで, オイレさんの目がきらりと輝いた.

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🛑

“ヨハン様. たしかに直接観察する事は難しいでしょう. しかし, 生前, 死んだ直後, 死んで日が経ってからと, 全ての内臓の状態を見たことがある者ならおります. 刑吏は忙しい身ではありますが, 1日予定を開けるくらい問題ないかと.”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐𝟒
冷ややかにして温かな

“そうだな, ウリとは一度ゆっくり話がしてみたい. 向こう2週間くらいでどこか予定を押さえておけ.”

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“かしこまりました.”

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そう, 刑吏の持つ知識と経験の貴重さは, 前回ヤープと解剖を行ったときにも証明されていた. 隠密の皆さんが塔から出られないヨハン様の目や耳, 手足に代わり帝国内外の情報を集めるように, ウリさんにその目でみてきたものについて語ってもらえばよいのだ. もちろん解剖学を目的として観察しているわけではないので, ヨハン様が実際に眼で見るほどの情報は得られないだろうが, 実践している人から聞き出せる言葉であれば, 想像や引用で埋められた本よりも信憑性は高い.

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“では, 今回切り出した臓器は, このまま酒に漬けて保存しておこう. 俺たちの手で好き勝手に切ってしまうより, ウリも説明がしやすいはずだ.”

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ヨハン様のご判断により, 解剖は一旦ここで中断することとなった. 胃は既に切り開いてしまったあとだが, 真っ二つで切り口もわかりやすいので, そこまで支障はきたさないだろう.

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切り出した胃のみをとりわけ, 他は丸ごとお酒の樽に漬けておくことになった. ワインを蒸留器にかけて作る東方のお酒は, 皮膚の治療や解剖に使用した器具の毒消しにも使うので, 明日からはまたたくさん作らなくてはいけない. 私は初めてその作業をして酔っぱらってしまったときのことを思い出して, 少ししょっぱい気持ちになった.

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. . . そして翌週, 再びオイレさんが塔にやってきた. 部屋の位置関係上か, 私も関わる用件の時は必ず先に声を掛けてくれているように思う.

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“おはよぉ.”

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“おはようございま. . . す?”

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オイレさんは今回も背中に大きな袋を背負っているが, その袋はなんだかもぞもぞと動いている.

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“あの. . . その袋はいったい. . . ?”

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“あぁ, ここまで来たら開けても大丈夫だねぇ.”

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床に下ろされた袋は, どさ, といかにも重そうな音を立て, そのまま自立した. 袋の口が開かれると. . . 何か白いものが出てきた. オイレさんは袋の中に手を突っ込んでそれを引っ張りあげる.

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“お疲れ様ぁ.”

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“ああ, お疲れだよ. 誰のせいだ.”

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中から出てきたのは人間だった.

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“だって君, 目立つんだもの. 袋に入れて運ぶのが一番合理的でしょ?”

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“まったく, せめて置くときぐらいは慎重に扱ってくれないもんかね.”

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見たことがないほど白い肌, 同じく真っ白なぼさぼさの髪, そして真っ赤な瞳をした男の人. 不機嫌そうに顔を歪め, 肩や首をまわしてポキポキと骨を鳴らしている.

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“初めまして. . . ?”

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私が声を掛けると, 彼ははっとした顔で跪こうとするので, 慌てて止めた.

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“そのままで大丈夫ですから! もしかしてウリさん, ですか?”

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“大変失礼いたしました, ウリと申します.”

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ウリさんはそういって顔を伏せ, 押し黙ってしまう.

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“やっぱり, ヤープのお父さんですね!”

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“息子がご迷惑をおかけしています.”

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“いえいえ, 迷惑だなんて. 私は友達が少ないので, 彼が仲良くしてくれるのはとても嬉しいんですよ.”

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“お心遣いありがとうございます.”

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困った, 会話が続かない. そういえば, 以前ヤープも”誰とも仲良くならないようにしている.”と言っていた. 刑吏という立場上, あえてそうする癖がついているのだろうか.

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“あ, ウリ? この子とは普通にしゃべって大丈夫だよぉ?”

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“俺はこれが普通なんだが.”

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“あ, そうだった! 要するに, もっと砕けた感じで会話してあげて.”

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“できるか.”

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“なんでぇ? 僕としゃべるときはできてるじゃない.”

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“あんたさんのことはもう諦めただけだ.”

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お二人のやり取りを見ながら, オイレさんはよくウリさんとここまで親しくなれたな, と内心驚嘆した.

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“あの, 私, 何かお気に触ることでも言ってしまいましたか. . . ?”

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さすがにそうではないとわかってはいるが, 一応訊いてみた. 今日は刑吏の知識を話してもらうために塔に呼んでいるので, もしもヨハン様に対しても同じ調子だったら困ってしまう. 砕けた口調とまではいかなくとも, きちんと会話をして欲しいということは伝えておかなくてはいけない.

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“そんな, とんでもねぇです!”

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“でしたら, そんなに距離を作らないでください. 今日はお話しするために来ていただいたんですから.”

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“お嬢さん, 私のことが怖くないので?”

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“えっ, 特には. . . ? お会いしたのは初めてですけど, ヤープのお父さんですし.”

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🛑

確かに刑吏は忌み嫌われる存在だが, 怖いのは刑吏本人ではなく, 刑吏と親しくすることによってたつ悪評や, 巻き添えで自分が賤民に落とされることだ. この塔の中では悪評もなにもないし, 身分に関しては私はすでに社会の枠から外れている.

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ウリさんは少しの間戸惑ったように私の顔色を窺っていたが, やがて, ふっ, と笑みをこぼした.

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“なるほど, 変わったご主人様のもとには, 変わった連中が集まるってことかい. . . お嬢さん, 今日はよろしくお願いしますぜ.”

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“はい, こちらこそ!”

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“じゃあ行くよぉ.”

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私たちは連れだってヨハン様の私室へ向かった. 刑吏, 歯抜き師, 貴族の隠し子. . . たしかにこんな顔ぶれでは, ご領主様のご子息にお目通り叶うことなど, 普通はとても考えられないだろう.

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“ヨハン様, オイレでございます. ウリをお連れいたしました. もちろんヘカテーも.”

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“ああ, 全員入れ.”

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いつも通り, 扉の向こうから響くヨハン様の冷ややかなお声. しかし, わざわざ全員と指定するあたりにそのお心遣いがうかがえる. ずっと塔にいると感覚が麻痺してしまうところがあるが, 私はヨハン様の与えてくださる奇跡のような環境に, もっと感謝しなくてはいけないと思った.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐𝟓
記されえぬ知

“よく来た, 顔を合わせるのは初めてだな. お前がウリか.”

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“は, はい. . . ?!”

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流石にヨハン様から直接声を掛けられるとは思っていなかったのか, ウリさんがどぎまぎと答える. そういえばヤープが初めて塔に来た時もそうだったなと, 私は思い出した.

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“はじめに言っておく. ここは夢見るような城の中だ. この塔の中での出来事は, 全て夢だと思えばよい. 俺は今日, お前に刑吏の知識を教わるつもりでいる. まどろっこしいのは嫌いだから直接質問するが, いちいち身構えるな. 言葉遣いも気にする必要はない. 伝える情報の正確さだけに気を配れ.”

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“. . . 承知です.”

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“それからヘカテー, 書記を頼めるか. ウリが話したことはできるだけ全てを記録しておきたい.”

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“かしこまりました.”

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“さて皆, 移動しよう. 解剖した臓器を2階に保存している. お前も説明するなら見ながらの方が早いだろう.”

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ヨハン様はテーブルの上に置いていたジブリールさんの本を手に取ると, 皆に先導して2階の書庫に向かわれた. 本や薬草と共に, 解剖後の臓器や骨などを保管している部屋. 扉を開けると, 流石のウリさんにも驚きの表情が見て取れる.

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ヨハン様は大きめの陶器を二つ取り出された. どちらもギリシア語で[στόμαχος (胃)], そして解剖を行った日付が書いてある.

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“ウリ, 解剖については聞いているな?”

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“はい. 目的も方法も, 息子から具体的に聞いています.”

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“では説明は省く. 今テーブルに置いた2つは共に[胃]という器官だ. こっちは三月ほど前に行った解剖で取り出した, 死後2~3日のもの. こっちは半分に切ってしまったが, 先週解剖した死の翌日と思われるものだ. 見てみろ.”

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ヨハン様は器に貼られた紙を指し示しながら, 一つずつその蓋を開けられた.

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“ほぅ, 綺麗に保存されているもんですね. . . 漬けているのは酒ですかい.”

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“そうだ. 東方の技術で, 限界まで濃くしたワインを使っている. それよりもお前に訊きたいのは形についてだ. . . 胃というのは, 死ぬと形が崩れていくものなのか? 内側から溶けるようにして, 最終的にはほとんどなくなっている時もあるようなんだが.”

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“さようですね. 胃袋の中には毒液が溜まってるんで, 死ぬとそれが自分を溶かしちまうんですよ.”

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“毒液だと?! 人間も毒を持っているというのか?!”

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ウリさんから帰ってきた驚きの答えに, 全員が息をのむ.

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“ええ. ほら, ちょっとえずいたりした時に, 喉がピリピリ焼けるような感じがありませんか? あれがその正体ですよ.”

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“言われてみればそうだが. . . どうして生きている間は大丈夫なんだ?”

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“さぁ, 毒蛇が自分の毒に当たらねぇようなもんですかね. ただ, 胃袋の毒液に耐えられるのは胃袋だけなんで, 尋問の時は傷つけないように避けるんです. 失敗すると, 漏れ出した毒液が他の臓物を溶かして, 1日もすれば死んじまうんで. . . 私たちが内臓まで刃を入れるのは, 殺していいときだけですね.”

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“その毒液は何のためにあるんだ? 俺たちは口から毒を吐いて獲物を攻撃したりはしないはずだが. . .”

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“そこが蛇とは違うところで, 人間のは攻撃でなく, 食べ物を溶かすためにあるようですね. あとは毒を以て毒を制すというか, 多少悪くなったものを食べても簡単には死なないのは, この毒液があるからだそうで. こういうのは胃袋だけじゃなくて, 他にもありますぜ.”

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“ああ, 脾臓や肝臓などだな. 肝臓系の臓器の一部で発生するということか.”

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🛑

ヨハン様は珍しく, 興奮した様子で捲し立てていらっしゃる. 無理もない. ウリさんがこの部屋に来てからほんのわずかの間に, 知られざる刑吏の知識が次々と明らかになっているのだ. 私は余計な考え事で聞き逃してしまうことがないよう全力で集中し, お二人の会話の控えを取ることに専念することにした.

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“申し訳ありません, 私は学問の方はからきしで, 臓物の正式な名前はわかりかねますが. . . そうだ. あんたさん, ちっと腹出しな.”

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ウリさんはオイレさんを横に立たせて上衣をまくらせると, 指で指し示して説明を始めた.

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“まずこの辺にあるのが胃袋ですね. さっき見せていただいたものは形が崩れた後でしたが, 生きている間は膨らんだ三日月みたいな形をしてます. それからその上にある, 大きなそら豆のような臓物, こいつも溶けます. ただ, 一番溶けやすいのはその下に細長く伸びている黄色っぽい臓物です.”

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“膵臓か! ガレノスは胃を守る緩衝材と書いていたから余り注目していなかったが. . . 溶けるということは, これも中に毒液があるんだな?”

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“ええ, さようで. 処刑で内臓開きをやると, 生きている人間のはこの辺からこの辺まで伸びてるんですが, 埋葬する時にはもうほとんどなくなっていたりしますよ.”

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“なるほど. ということは, 膵臓にはかなり強力な毒液が入っているのだな. 単なる緩衝材などとんでもなくて, もっと大きな働きを担っているはずだ. 肝臓の補助か, あるいは独立した器官なのか. . .”

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“申し訳ありません. その辺は私にはわからねぇんで, お医者様にでも訊いたほうが早いと思いますが. . . ここは, 柔らかい臓物の中でも特にやわな部分です. 毒液の強さでいったら, やっぱり胃袋のが一番強いと思いますね.”

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“ウリ, 実は先週の解剖の内臓はほとんどそのままとってある. 調理場に移動して, 実際に見ながらひとつずつ確認していこう. 生前の姿から変化があるものや, 刑吏の間でその機能が伝わっているものがあれば教えろ.”

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“もちろんです.”

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🛑

オイレさんが, お酒に漬けておいた他の臓器を調理場まで樽ごと運び, 台の上にどさりと置く. 遺体はすでに傷を縫って埋葬済みだ. いつもは体内からひとつずつ切り離していくので, 中身だけが丸ごと置かれている光景はどこか非現実的な感覚があった.

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“さぁ, 上から順に見ていこう. 肝臓系は時間がかかりそうだから, まずは呼吸器から行くか. この管が空気の通り道だが. . .”

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ヨハン様はジブリールさんの本を片手に, 時折ウリさんに絵を見せては形状の確認を取りながら, 矢継ぎ早に質問を繰り返す. 聡明な貴族の方が, 嬉しそうなお顔で刑吏に教えを乞うその姿にも, 私は調理台の上と同じような非現実感と. . . 表現しがたい何かを感じていたのだった.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐𝟔
真紅の輝き

結局, ヨハン様とウリさんの奇妙な質問会は, 夜中まで及んだ. オイレさんと私はずっと同席していたものの, お二人の会話にはほとんど口を挟めなかった. ヨハン様がずっと質問し続けていたというのもあるが, それほど専門的で, 高度な内容だったのだ.

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ウリさんはどちらかというと筋肉や骨格, 一部の血管の方が知識は深いようだった. 殺しても良いとき以外は内臓を傷つけないようにしているとのお話だったので, 加減を把握するためにはそちらの方が研究の対象となるのかもしれない. また, 身体の機能のみならず治療の知識も相応にあり, 特に火傷や骨折の治療方法は, 床屋を上回るものと思われた.

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🛑

“それにしても, 刑吏の知識というのは凄まじいものだな. 合理的で無駄がない. これだけの知識が口伝のみで伝わってきたことを考えると, 本ばかり読んで他人の解釈に頼っていたのが阿呆らしく思えるくらいだ.”

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“いえいえ, 私たちは理屈を考える頭を持っていません. 別に好きでやってるわけじゃなし, 合理的っていうのも, 単に手早く終わらせたいってだけでして. . . もちろん先代から聞いた知識は代を重ねるごとに蓄積していきますが, 街の職人みたいなもんで, 嫌でも経験で覚えこむんですよ.”

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“だからこそだ. どんな素晴らしい理論があろうと, 実地で証明されなければそれは虚しい. お前たちは持っている知識の全てに裏付けがある. これは学問において稀有なことだぞ.”

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“あまり褒めんでください, 慣れてねぇですから. . .”

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“いや, 正当な評価だ. 褒美を取らせよう. 何がいい?”

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ヨハン様が微笑んで問うと, ウリさんは肩をびくりと震わせた. その様子を見て, 何を考えているか察したヨハン様は手を振って否定する.

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🛑

“ああ, 口を封じるつもりではないし, 試そうとしたわけでもない. これだけの知識の対価だ, 何も聞かずにただ金を渡すのは無礼な気がしてな. もちろん俺にできることは限られるが.”

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🛑

オリーブの瞳はただまっすぐ穏やかに, 戸惑いに揺れる真紅の瞳を見つめていた. ウリさんがもたらした刑吏の知識は, ガレノスも, ジブリールさんですらも手に入れられなかった知識. ヨハン様にはよほど嬉しかったのだろう.

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🛑

“もし, 刑吏をやめたいというなら, お前を正式に隠密とし, 仮の身分を用意してやることぐらいはできるぞ. 一番人気の刑吏を失うのはこの領地にとって痛手ではあるが, お前はその仕事が嫌なのだろう? どうやら息子に継がせる気もなさそうだ.”

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“そ, そんな. . . ことは. . .”

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言葉に詰まっている. どうやら図星らしい. 刑吏の子供は基本的に刑吏にしかなれないはずなので, どこかへ逃がすか, 身分を偽る算段でもしていたのだろうか.

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🛑

“やはりか. ヤープは将来刑吏になるにしては, 年の割に教わっていることが少なかった. 隠密見習いとして引き受けるときも, やけにすんなりといったしな.”

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“話には聞いていましたが, 本当に何でもお見通しってわけですかい. . .”

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呆然としているウリさんを見つめながら, ヨハン様は淡々とお話を続けられた.

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“隠密も汚れ仕事に変わりはないが, 表舞台に立たない分忌み嫌われることはない. そして, 殺しにしろ拷問にしろ, 仕事の正当性は俺が保証してやる.”

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🛑

ウリさんはしばらくの逡巡ののち, 跪いて深々と礼をした.

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🛑

“本当にありがとうございます. 正式な配下ではなくても, 私の忠誠は既にあなた様のものです. ただ, ご褒美については辞退させてください. 人の澱みそのものとしか思っていなかった私の知識が, そのお手元に渡ることで命を救うことがあるかもしれない. . . そのことだけで, 私には十分ですんで.”

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“わかった. とはいえ, 一度口にしたことを取り下げる気にはなれん. 後日で良いから, 何か考えておけ.”

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“ありがとうございます.”

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“それから, また予定を開けられる日はここへ教えに来い.”

🛑

“もちろん, お呼びいただければいつでも伺います. といっても今日, 知ってる限りのことはすべてお話しちまいましたが. . .”

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“いや, 人は他人の知識の当たり前を知らない. お前は全てを俺に教えたと思っていても, 自分にとって当たり前すぎることが, 何かしら抜け漏れているものだ. 俺も訊きたいことをまとめておく.”

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“承知です. 何もかも絞り出すつもりでお話ししましょう.”

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🛑

そうして, 空が白み始めた頃になると, さすがにウリさんも帰宅せざるを得なくなった. ヨハン様は先にお部屋へと去っていき, ウリさんはオイレさんによって, 再び袋に詰め込まれる. 乱暴な扱いに対して抗議の声を上げるウリさんだったが. . . 階段を上がっていく背中を見つめる瞳の奥には, 塔に来た時にはなかった, 恍惚とした輝きがあった.

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“お嬢さん, 感謝しますよ. 親子ともども, あのお方に会わせていただいて.”

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“いえ, 私は何も. ヨハン様も大変お喜びでしたので, 是非またいらしてくださいね.”

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“もちろんです. あのお方はきっと将来, なにかとんでもないことをなさるんでしょう. お家ではなくあの方個人に忠誠を誓うものが多いってのも納得だ.”

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🛑

ヨハン様のカリスマは, 何故か弱者や疎外された者にほど強く働く. 私もその光にあてられ, 人生が変わったひとりだ.

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しかしそれは双方にとって, ひどく危ういことでもある. 多幸感に酔いしれたようなウリさんの瞳の真紅の輝きに, 私は共感を覚えるだけでなく. . . その裏に潜む, 底知れぬ闇の存在を見, どこか恐ろしく感じもしたのである.

第13章 帝国の汚濁
𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐𝟕
遅すぎた選択

その日のヨハン様は, あからさまに浮かない顔をしていた. 夕食に私を呼んだからには, きっと何かお話したいことがあるのだろうと思い, その言葉が発せられるのをお待ちしていたが, 何度も唇を開きかけては閉ざしてしまう.

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🛑

“ヨハン様, 何かお困りのことでもおありでしょうか? もし私でお役に立てることがあれば, 喜んでお手伝いいたしますが.”

🛑

“うん? そうだな. . .”

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🛑

テーブルの上には, 食事と共に, 大量の書類が積まれている. 時折それらから数枚を拾い上げてお読みになり, 溜息をついて書類の山に戻される.

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🛑

“なぁ, ヘカテー. お前は直感というものを信じるか?”

🛑

“直感でございますか? 常に信じるとまでいかなくとも, 無視しないようにしております.”

🛑

“それはなぜだ?”

🛑

“あくまで私の考え方ですが. . . 人には無意識に捉えている情報というものがあると思うのです. 例えば, 母親が赤子の様子を見て, 今日はなんだか調子が悪そうだと感じる. そう思った理由が説明できないので, 家族に相談しても気にしすぎだと言われるが, 夜になったらその子が高熱を出す. . . なんていうお話は, 街に住んでいたころに何度か耳にいたしました.”

🛑

“なるほど. その場合は, 口で説明できるほど明確化できてはいないが, 何かしらの変化を感じ取っていたのであろうな. . . となると, やはり俺も覚悟をもって決断を下したほうがよさそうだ.”

🛑

“恐れながら. . . 今のお話が, ヨハン様のご覚悟に何か関係があるのでしょうか?”

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🛑

ヨハン様がお悩みのこと, それはいつも私にはうかがい知れぬような大きな問題だ. しかも覚悟が必要となるようなそのご決断に, なんてことはない私の話が影響してしまうのかと思うと, 少し怖くなってしまう.

🛑

🛑

“以前, リッチュル辺境伯周りの動きが怪しいという話をしていたのを覚えているか?”

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“ええ, ティッセン宮中伯の陣営を取り込み, 党派を超えた別の派閥を創ろうとしているとのことでしたよね.”

🛑

“ああ. あれ以降も, その件で調査を続けていたのだが. . . 集まってきた情報から導き出された, とるべき対応策が2つ考えられてな. その片方はあまりにも荒唐無稽で, 普通に考えれば, どちらが最適解かは明白なのだが. . . 俺の直感が, 有り得ない方を選べと叫んでいるのさ.”

🛑

🛑

ヨハン様はテーブルの上の書類の中から, 書きかけの手紙を取り出される.

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🛑

“リッチュル辺境伯がティッセン宮中伯にちょっかいを出し始めたのがだいたい1年半~2年前. 聖堂参事会同盟が発足したのが1年ほど前だ. 同盟に参加している参事会教会の分布を調べ上げたところ, 教会派の領主, ないしはリッチュル辺境伯の影響下にある領主を頂く都市と一致する. 更に, 唯一参加している大聖堂の司教, エアハルト大司教は辺境伯の血縁だ. したがって, 聖堂参事会同盟の発足の裏にも辺境伯の存在があるとみて良い.”

🛑

“リッチュル辺境伯は教会を主軸とすることで, 横のつながりを作ろうとしているのですね. すると, 先日のオイレさんの一件も, その結束を強めようとする動きの一環ということでしょうか.”

🛑

“ああ. 教会の権威を盾にする以上, その権威が強大なものでなくては意味がないからな. それに, 人を結束させるには, 共通の敵を持つことが一番手っ取り早い.”

🛑

“おっしゃる通りと思います. . . それで, どのような対応策を考えられたのでしょうか.”

🛑

“ああ, まず一つ目だ. これらのことを踏まえると, リッチュル辺境伯による独擅場を防ぐためには, 聖堂参事会同盟を切り崩し, 宮廷での発言力を削る必要がある. 同盟にうちの影響下にある参事会教会をねじ込んで, 内側からバランスを傾けるのが論理的な最適解だ.”

🛑

“. . . なるほど, 同盟に政治的な偏りがなくなれば, そこを軸にして影響力を持つのは難しくなりますものね. ですが, ヨハン様の直感ではそうではないと?”

🛑

“ああ, 俺の直感が正しければ, 同盟などどうでもよい. 一番重要なのは辺境伯をなんとか領地内に押しとどめ, 教皇庁との接触を完全に断つことだ.”

🛑

“えっ, そんなことができるのですか?!”

🛑

“そう簡単にできるわけがないから困っている.”

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“しかし, なぜそんな必要が. . . ? まるで罪人に対する処遇ではないですか.”

🛑

🛑

私がそういうと, ヨハン様は薄暗い笑みを浮かべた. 久しぶりに背筋に冷たいものが走る.

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🛑

“現在の皇帝陛下, ディートリヒ3世は, 選帝侯会議で選出されたのみで, 教皇からの戴冠を受けてはいない. つまり, 諸外国から見た我が帝国の皇帝は仮初の王, 今は空位時代にあるのさ.”

🛑

“まさか. . .”

🛑

“そう, 先ほど挙げた荒唐無稽な選択肢は, 辺境伯の狙いが宮廷での影響力増大ではなく, 皇位の簒奪にあると仮定したものだ.”

🛑

🛑

歪んだ微笑みを浮かべたまま語られるヨハン様の両肩に, 私は巨大な黒い霧が覆いかぶさっているのを見たような気がした. もしリッチュル辺境伯が本当にそんなことを考えているならば阻止しなくてはいけないが, 辺境伯という高位の貴族を領地内に押し留めるには納得できるだけの理由が必要で, しかも長期間は持たせられない.

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🛑

“二の足を踏んでいたが, お前と話していて決心がついた. こちらの案を推す形で父上に報告する. 俺に任されているのは情報収集から作戦立案までであって, 最終的な判断を行うのは父上だからな. さて, すぐにでも報告書を. . .”

🛑

🛑

突然, 慌ただしい足音が聞こえ, すぐさま扉の前に予想外の声が響いた.

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🛑

“ヨハン様, ヤープでございます! 至急のご連絡です!”

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“ヤープだと?! 入れ.”

🛑

🛑

そして, 入ってきたヤープは, 息を切らしながらたった一言, こういったのだった.

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🛑

“ラッテより伝言です. リッチュル辺境伯が秘密裏にローマへ向かっているとのことです!”

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐𝟖
守られぬ人

“何っ?! それはどこで得た情報だ?!”

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“わたしには, 詳しいことはわからないのですが, こちらがラッテから預かった報告書です.”

🛑

🛑

ヨハン様はヤープから受け取った報告書を一瞥すると, 悔し気に眉を顰められた.

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🛑

“人探しにしては時間がかかると思っていたが, そういうことだったか.”

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“何と書かれているのですか?”

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“ラッテは帝都でドゥルカマーラ役を探していたが, 聖堂参事会同盟についての噂を聞きつけていっそのことローマに向かうことにした. その件についての伝言は部下に持たせ送っていたらしいが, 届いていないということは殺されたのだろうな.”

🛑

“そんな. . . !”

🛑

🛑

私が慌てて黙祷をすると, ヨハン様とヤープもそれに倣う.

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🛑

“惜しい犠牲だが, ラッテの部下のうち[少年]という最も大きな特徴のあるヤープが無事ここに辿り着いたということは, そいつはこちらの隠密の特徴を相手方に漏らしていないということだ. 責務を全うしたことに敬意を払おう.”

🛑

“では, なぜその方は捕まってしまったのでしょう. . .”

🛑

“さぁな. 帝都に長くいすぎて元々から監視されていたか, どこかの関門でひっかかったか. . . いずれにしても, ラッテなら手紙が奪われる可能性を考慮して手紙を書くはずだ. 最初の伝令役を襲ったのが辺境伯の隠密だったとしても, 漏れている俺たちの情報は[作戦を変更してローマに赴く]ということのみだ.”

🛑

“ラッテさんはなぜ危険を犯してまで, 命じられていない仕事に手を出されたのです?”

🛑

“別に俺が命じなくては動けないわけではない. 情報戦では時間がものをいうからな, それなりの裁量は与えているのさ. 昨年初めの, 辺境伯とティッセン宮中伯を引きはがす工作の際に, ラッテには全体のまとめ役を任せていた. 奴は潜入が専門で, 市井の噂に対しても鼻が利く. 参事会教会に寄った時にでも, きな臭さを感じたんだろう. ローマを目指すなら, ドゥルカマーラ役探しも同時にできる.”

🛑

“ラッテさんを帝都に派遣していてちょうどよかったですね.”

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“そうだな. 俺がもっと早く皇位簒奪の可能性に気づいていれば, 隠密を一人失うこともなかったんだが. . .”

🛑

“そんなことはないと思います! そんな突拍子もないこと, 十二分な情報がそろわないことには確信を得られません.”

🛑

🛑

少し空気が重くなってしまったので, 私はヤープにも問いかけてみた.

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🛑

“ヤープもローマまで行ったの?”

🛑

“うん. 帝都にはラッテさんの部下がいつも何人かいるんだけど, ローマにはいないから, おれが伝令役を任されたんだ. ラッテさんはもうちょっと潜るって言ってた.”

🛑

“ああ, 妥当な判断だ. 辺境伯を足止めするにしろ, そうでないにしろ, 現地での情報収集は直前まで続けてほしい.”

🛑

🛑

ヨハン様のお言葉は冷静沈着そのものだが, その表情には怒りと後悔が浮かんでいる. 辺境伯は今どのあたりにいるのだろう. 足止めをするにも正当な理由が必要だし, 諸々の手続きを経たとしても, 帝国の北方にあるイェーガー方伯領から南方のイタリアを目指すには相当な時間がかかる. 辺境伯の方が先に教皇庁へたどり着いてしまう可能性が高そうだ.

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“とりあえず, 優先順位の高い案件を拵えて宮廷へ早馬を飛ばし, 会議の名目で辺境伯に至急の呼び出しを掛ける. ローマに向かったのなら領地に使いをやっても不在のはず. そこで証拠を発見できれば万々歳なのだが. . . まぁそのくらいの言い訳を用意せずに動く手合いではないな, 辺境伯は.”

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そうおっしゃるなり, ヨハン様は凄まじい速さで報告書を書き始められた. ペンの走るカリカリという音だけが暗い部屋に響く. まるで何倍にも引き延ばされたかのような, 重苦しい時間だった.

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しばらくしてその手が止まると, ヨハン様は以前私を呼ぶときに使っていらしたベルを大きく3回鳴らされた.

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“そのベルは, 今も何かの通信に使われているのですか?”

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“いや. だが, こんな夜更けにこの塔でベルが鳴れば, なにか用事があるということくらいは伝わるだろう? ヤープ, お前は2階の書庫に隠れろ. ヘカテーはあの隅に置いてある空樽の中に.”

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“かしこまりました. しかしなぜ私は樽なのですか?”

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“ビョルンならよいが, この時間の俺からの信号となれば, おそらくクラウス本人が来る. あいつは異変を感じて勝手に部屋に入るくらいはやりかねん. ヤープは見つかっても顔を知られるだけだが, お前は違うからな. 好き勝手開けられない, 俺の目の届く範囲の方がかえって安全だ.”

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久しぶりに聞いた名前に, 私は南の塔での恐怖を思い出し. . . ヨハン様のお立場の大変さを実感した. この方は, この塔から一歩も出ることなく, 帝国の行く末を左右する決定に携わられている. 恐ろしいほどの重責を担い, その手の中に守るべき配下の命を預かり, 最適解を求めて必死に足掻きながら. . . 周囲はヨハン様の頭脳を一方的に使うばかりで, 手を差し伸べる者はどこにもいないのだ.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟐𝟗
暗い春

真っ暗な樽の中で, 私はじっと息を潜めてお部屋の様子をうかがう. ヨハン様は何か必要なものがあるのか, ヤープと一緒に一旦お部屋を出られたようだ. 扉が閉まると, 部屋がしんと静まり返り, 自分の呼吸や心音がやけに大きく感じる. 次, クラウス様が入ってこられたなら, ここにいることは決して気づかれてはいけない. 何かの拍子に声が漏れないだろうか, 緊張で歯をがちがち鳴らしてしまわないだろうか. . . そんなことを考えて, 私は自然と自分の手の甲を噛んでいた.

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しばらくして戻ってくる足音. この音はヨハン様だ. 安心するとともに, 足音を覚えている自分に少し驚いた. 普段は聞き分けなくてはいけない場面がないので足音など気にしていなかったが, 無意識に覚えていたらしい. 何か作業をされているのか, 部屋の中を歩き回るヨハン様の足音で, 自分の出す音は少し緩和された.

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再び, 別の足音が聞こえてくる. 樽ごと転んでしまわないよう, 自分の身体を抱きしめて震えを抑えた.

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“失礼いたします. クラウスでございます. ベルの音がいたしましたが, 何かご用命でしょうか.”

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“入れ.”

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いらしたのはやはりクラウス様ご本人だった. よく通る涼やかなお声. 客観的に聞いて美声なのはわかるが, 私にとってはトラウマでしかない. 地階の天井を閉めたときに見せたあの笑顔が思い出され, 一層身体の震えが大きくなる.

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“ヨハン様, そちらに寝ているのは. . .”

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“ん? ああ, 引き取った.”

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“それは. . . あの時はお二人を引きはがすようなご提案をしてしまい, 申し訳ございませんでした.”

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“気にするな, 結局今こうして一緒にいる. それより, 先ほどベルを鳴らしたのは緊急の用件だ. 父上にこれを持っていけ. 寝ていれば叩き起こしてでも必ず渡せ. 良いな?”

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“かしこまりました.”

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“悪いが, 念のため隠密を2人付けた. 万一お前が父上に渡す前にこの中身を見たり, 渡さずに握りつぶすようなことがあれば, その場で喉笛を掻き切るよう命じてある.”

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“なるほど, 言われてみれば人の気配があるような. . . ? しかし, 私はイェーガーのお家にこの身を捧げております. 握りつぶすなど滅相もございません. ご領主様はまだお休みになられてはいないはずですので, 必ず持ち帰り次第お渡しいたします. 何卒ご安心召されますよう.”

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“ふん, では下がってよい.”

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クラウス様の礼をする気配がし, 扉の開閉音. . . そして足音が遠のいていき, 消えた. 緊張が一気に解けた私は樽の中でへたり込む. 力が入りすぎていたのか, 手も足も痺れてしまって立てそうにない.

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“ヘカテー, もう出てきて良いぞ.”

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“申し訳ありません, 身体に力が入らず. . .”

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“そういえばクラウスはお前の天敵だったな. 無理もないか.”

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ヨハン様は近づいてきて樽のふたを開けると, 手を貸して引っ張り上げてくださった. 先ほどクラウス様にしていた隠密の話も, 半分は私の気配を隠すためだろう. ヨハン様の重圧を理解し, 気にかけているくせに, この期に及んでまだヨハン様に助けられてばかりの自分が情けない.

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“ありがとうございます. . .”

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ふと横を見ると, ベッドの上に私の服を着た骸骨が横たわっていた.

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“お前の服をもらっておいて正解だった. クラウスにあれを直接見せられた以上, 奴がお前の死を疑うことはもうあるまい.”

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“流石ですね, この緊急時にそんなことにまで気が付かれるなんて.”

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“ただのついでだ. . . さて, 俺にできるのはいったんここまでだな. あとは父上がどこまで動けるかにかかっている. 本当は, 辺境伯が戴冠してしまう前に, 宮廷へ呼び戻せればよいのだが. . .”

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ヨハン様のお顔は一層翳りを濃くしている.

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“辺境伯は, 皇帝になるつもりなのでしょうか. . .”

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“もちろん, 別件で何かを企てている可能性はあるし, そうであると思いたい. しかし, これだけの状況証拠が揃った状態で, 秘密裏にローマに向かったとあれば, 最悪の可能性を考えざるを得んからな.”

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“辺境伯が戴冠してしまうと, どんな問題が起こるのですか?”

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“問題はたくさんある. まぁ, 考えられる一番大きなものは, 現皇帝を擁する者と辺境伯を擁する者の間での争いが, 都市を舞台とした内紛に発展することだ. 内紛は国の体力を奪うばかりで利がない. ただでさえ帝国は領邦の集合体であり, 国家としてのまとまりは弱いものだから, 領邦ごとに分断され, 帝国という概念が崩壊する可能性もある.”

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“内紛ですか. . .”

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都市が戦場となることで最も恐ろしいのは, 兵士同士の殺傷行為で人命が失われること以上に, その後に訪れる大規模な略奪で街が壊滅させられることである. 奪われ, 破壊され, 焼き払われる. それは剣や槍による一瞬の死ではなく, 飢えと絶望にあえいだのちにもたらされる緩慢な死だ.

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今は10月. 冬は戦争の季節ではないが, 暗い春が迫りくることを思いながら越す冬はどれほど厳しいものだろう.

𝐂𝐡𝐚𝐩𝐭𝐞𝐫 𝟏𝟑𝟎
簒奪者の思惑

書庫に隠れていたヤープを呼んでお部屋に戻ると, ヨハン様は窓に向かって松明を掲げていらした. その炎に何かをかざすごとに, 炎は紫, 緑, 赤と色を変じる.

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“その炎の色は一体. . . ?!”

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“ま, 魔術までおできになるんですか?!”

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驚く私たちを笑って眺めて, ヨハン様はたいまつを壁に戻された.

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“ああ, 異端の知識も, 理屈を紐解けば意外に役立つこともある. もちろんこれは神秘的なものではなく, 条件がそろえば必ず発生する, ただの現象だ. 儀式の手順を踏まずに何度か試してみたが, ある特定の種の石や金属を使うと, 炎に色が付けられるというだけのことさ.”</